2020-02-23

"英語で手帳をつけてみました" 有子山博美 著

何を学ぶにせよ、手段は人それぞれ。慣れ親しむことこそ肝要。楽しめれば、尚いい...
言語は手ごわい。なにしろ精神を相手取る代物だ。母国語として、精神空間で絶対的な地位を確立している日本語ですら、うまく操れないというのに。同じ単語でも、会話の相手と同じイメージを描きながら喋っているのだろうか?と思うこともしばしば。客観性の強い専門用語ですら、専門家の間でニュアンスが違うと見える。
しかし、それでコミュニケーションが成り立っているのだから、人間社会は摩訶不思議!いや、成り立っていると思い込んでいるだけのことやもしれん...

言語は手ごわい。外国語ともなれば、文化の違いを思い知らされる。著者の体験談によると、TOEIC 960点でも、いざ外国人を前にすると、英語のフレーズが口からなかなか出てこないらしい。人生は短い。点数競争に興味はない。興味のないことに手を出している余裕はない。外国語そのものに興味を持たねば...
媒体は、映画でも、海外ドラマでも、洋書でも、音楽でも、はたまたゲームでも、なんでもあり。学生時代と違って、大人の勉強は自由でいい。ちなみに、始めておいらを虜にしたセリフがこいつだ...

"Go ahead, make my day."

コンピュータ業界では、プログラミング言語を習得するには、とりあえず書いてみる!理屈は後からついてくる... といった考えがある。自然言語とて同じ、まずは喋りまくること。しかし、ダーティハリーがおしゃべりじゃ、さまにならねぇ...

そういえば、二十年も前になろうか、駅前留学をしたこともあった。セミナーを受講するより、サロンで雑談している方がはるかに勉強になったっけ。おいらに欠けている機能は、英語耳!英語の技術論文や規格書などに触れる機会はあっても、音声に触れる機会が極端に少ない。ようやく周波数に慣れ、それなりに会話ができるようになり、少しは自信もついたが、継続しなければやはり衰える。
先日、産学連携センターのサロンでお茶をしていると、和服を着ていたせいか、数人の外国人に話しかけられた。すると、手を必死に動かしながらも、口はなかなか動いてくれない。一人はドイツ人で英語があまり得意ではないらしく、ハンドサイン・ジェスチャーを駆使していたので、彼とは意気投合した。なるほど、会話では相槌も重要!外国版の相槌の仕方を知っているだけでも、なんとなく会話が成り立った気になれる。ドイツ語と日本語の狭間で、英語が漂っているような奇妙な会話空間は、多様な文化圏に身を置くようで、なかなかエキサイティング!一つの言語圏に支配されない非言語コミュニケーションってやつを体験しているような...
日本では英語にこだわる傾向にあるが、グローバル社会を謳うなら、様々な言語が飛び交うような会話空間こそ自然なのであろう。地球を一周すれば、英語だけでも多様な方言で溢れている。コミュニケーションなんてやつは、それが成り立っていると思い込むことができれば幸せになれる...

何を学ぶにせよ、子供の素朴な学び方が一番参考になる。つまりは、真似ることに始まる。脂ぎった動機は余計だ。
本書は、英語に慣れ親しむための手段を提案してくれる。まずは、生活習慣として、手帳、ToDo リスト、予定帳、日記などを手短な英語にしてみる。そして、「出来事 + 感想」をセットで書く習慣を... と。
人の行動は意外とパターン化されていて、口癖もあるもので、英語のフレーズもこれに乗せるとよさそうだ。英語で手帳をつける時のスマートな書き方を紹介してくれるサイトも多い。
さらに、英単語を分解して語源を辿ったり、反対語、同義語、類似語を拾って、芋づる式に語彙を広げていく。関連付けを意識すると覚えやすい。
また、接頭語や接尾語の意味、動詞や形容詞の名詞化、あるいは、日本語では馴染まない無生物主語といった構文解説は、知っているつもりではいたが、再認識させてくれる。そして、なによりも口に出してみること。音読やシャドーイングの癖を。
要するに、ネイティブな英語に触れる機会を増やし、英語を楽しもうというわけである。人間の精神空間は、ある種の信号処理装置として捉えることができよう。インプットが少なければ、アウトプットも少ない。脳内記憶素子は、様々なインプット情報の関連付けによって活性化される。いや、人体そのものが熱機関としての存在。喰って、排泄するだけの。ただそれだけのことやもしれん...

近年、Online サービスも充実し、その場で翻訳や発音を知ることができるのはありがたい。G さん翻訳も、そこそこ使えるようになってきたし、機械学習やディープラーニングもなかなか侮れない。
いくら辞書を引いても、文章を組み立てる上でコロケーションってやつに悩まされる。単語の結合の仕方には文化的な性質が含まれ、気に入ったフレーズを丸ごと真似て、カスタマイズしていくのが手っ取り早い。それは、日本語の文章を組み立てる時でもやっていることだ。
本書は、そのための良い方法として、名言集を薦めている。ここで紹介してくれるのはこれだ...

"The greater danger for most of us lies not in setting our aim too high and falling short; but in setting our aim too low, and achieving our mark."
... Michelangelo

“The man who thinks he can and the man who thinks he can't are both right. Which one are you ?”
... Henry Ford

名言は洗練されているだけに、デスクトップ上で泳がせておくと、ええ感じ。
そして最近、気に入っているフレーズがこいつだ...

"Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever."
... Mahatma Gandhi

"The highest happiness of man is to have probed what is knowable and quietly to revere what is unknowable."
... Johann Wolfgang von Goethe

なんといっても、音調とリズムがええ...
慣習とは、すなわち、リズム。興味を持ち続けるためには、心地よい周期が欲しい。生活のリズムってやつに。何かを会得したと実感したり、なんらかの達成感を味わえれば、それが、ささやかな恩賞となる。そして、自己にステータスのようなものが感じられる。ゲームをやり続ける動機として、アイテムを集めたり、ポイントを貯めたりといったことがある。キャラクタの成長を自己のステータスに投影するのである。名誉や財産に執着するのも、ある種のステータスを求めてのこと。知識のコレクションやスキルアップにも、同じ心理学が働く。こうなると、自己啓発もリズムに支配されたかっぱえびせん状態!
そして今、嵌っているリズムがこいつだ...

Dressed in black, With slanted hat.
  黒を着こなし、帽子を斜めに構え
No one knows, What you see.
  誰も知らねぇ、奴の目がとらえているものを
  ...
Stylish looks, With shaggy beard.
  粋なルックスに、もじゃもじゃの顎髭
And chicks and scotch, Relieve your pain.
  そして、いかす娘(こ)とスコッチが、奴の苦痛を和らげる
Revolver fires, Let it go!
  リボルバーが火を噴く、もう、手がつけられねぇ!
Trailing notes, And smoking barrel.
  余韻に浸る、煙る銃身に

Like a wolf in bush of ghosts.
  亡霊どもに看取られた狼のように
You never care, Who's gonna get close behind you back.
  奴は気にしない、背後から誰が忍び寄ろうと
Never feel sorry for being all alone.
  孤独でも嘆くことはない
Every minutes, every seconds, every little moments.
  いつ、どんな時でも...

Never be harsh, You're so sweet.
  けして、むごい奴じゃねぇ、あまい奴さ
Gently move, With bitter jokes.
  紳士に振る舞い、きついジョークも飛ばす
Don't look back, The deed is done.
  振り返るな、これで終わりさ
The sun shows up, Just as bright.
  太陽が昇り、辺りが明るくなる
  ...
A man in black.
  黒の似合う奴

... "Revolver Fires" by Lupin the 3rd "Jigen's Gravestone"

こんな臭いフレーズ、どこで使おうか知ったこっちゃないが、俺に言わせりゃ、ロマンに欠けるなぁ...

2020-02-16

"特別料理" Stanley Ellin 著

前戯(前記事)で、伝説と謳われた「最後の一壜」を浴びせかければ、メインディッシュに、隠れ家レストランで幻とされる「特別料理」を喰らわす、この小説家ときたら...
飲酒家には、無二のヴィンテージを目の前でお釈迦にし、美食家には、肉汁たっぷりの魔性の血腸詰を頬張らせ、こいつは神への冒涜か!スタンリイ・エリンは、人間に潜む数々の悪意を、非情なまでに皮肉たっぷりに暴いて魅せる。幻想や妄想ってやつは唱え続けると、それが現実になるって本当だろうか。そもそも精神の実体が幻想のようなもの。推理小説がある種の心理学の書というのは本当らしい...

特別料理の食材は、アミルスタン羊!
アミルスタン種ってなんざんしょ?御存じない?まさに絶品でしてね。まさにスペシャル!そちらの恰幅のいい旦那にだけこっそりお教えしましょう。ささ、どうぞ厨房へ...
ちなみに、amir(アミール)はアラビア語で支配者や王族の称号を意味し、アミルスタンとは、どうやら裕福で贅沢に肥え太った種のことらしい。太った羊が美味いかどうかは知らんが、羊は宗教との結びつきの強い由緒ある動物。子羊は、イスラム世界では生贄の動物とされ、キリスト世界では磔刑にあったキリストの象徴とされる。迷える子羊とは、神という牧人に導かれる大衆のことだ。文化人類学によると、かつて人肉嗜食という文化があったと聞く。カニバリズムってやつだ。人間という種は人肉を餌食する本能から抜けられないと見える。実際、人間社会には人間を貪って太ろうとする輩がわんさといる...

それはさておき、ここは美食家の集うレストラン。高級志向で選ばれし客しか入れない。この店では選り好みができない。出されたものを黙って食すだけ。美味いものをひたすら食べさせられ、ブクブク太らされるという寸法よ。店主は、「不思議の国のアリス」に出てくるチェシャ猫のように、ニヤニヤ笑みを浮かべておもてなし。
そして今宵、滅多に出されないスペシャル料理が用意されたとさ。古今に絶した料理の傑作中の傑作が。しかし、十年間ずっと見かけてきた、いつもの席に座る太った常連客がいない。この日に限って、その存在がスペシャルときた...

尚、本書には、「特別料理」、「お先棒かつぎ」、「クリスマス・イヴの凶事」、「アプルビー氏の乱れなき世界」、「好敵手」、「君にそっくり」、「壁をへだてた目撃者」、「パーティーの夜」、「専用列車」、「決断の時」の十作品が収録される。

[お先棒かつぎ]
真面目すぎるがゆえに雇い主にいいように操られ、殺人までも。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど都合のよいものはない。もはや誰の意志か?
「わたしと同類の人間という動物の大多数にとって、大事なのは自分に与えられた役割というものであって、動機でも結果でもないということだ。」

[クリスマス・イヴの凶事]
二十年前のクリスマス・イブ。妻を亡くした旦那は、以来、部屋に籠もって壁とにらめっこ。そして二十年後のクリスマス・イブ、弁護士が訪れ、義妹殺しで姉に疑惑を抱く。姉も弟も時間は止まったまま。ただ、姉はすっかり老婦人に、なんとも黄昏感を帯びたミステリー...

[アプルビー氏の乱れなき世界]
法医学書ってやつは、狂気と欲望の結果の恐るべき研究か。おぞましい事例集は、まるで殺人マニュアル。この権威ある書によると、小型絨毯は酔っ払い運転よりも多くの人命を奪っているという。マニュアルどおりに、金持ちの妻を娶っては絨毯を引っ張って事故に見せかけて殺し、それが六人も続けば、七人目が本当に事故だとしても...

[好敵手]
チェス好きの夫と、まったく趣味の合わない妻。妻はチェスの相手を招くことを嫌う。もてなしが面倒なのだ。仕方なく一人チェスをやり、盤面をグルグル回しているうちに、自我もグルグルになり、ついに分裂。
ちなみに、仏教用語に「トゥルパ」という語があると聞く。化身や幽体離脱といった類いで、仮想実体のような存在を言うらしい。精神分裂病も、自我の二面性に幽閉されるという意味では同じこと。そして、本当の自分はどちらの側に?夫にとって白は好敵手。白にとって妻は邪魔な存在。一人二役を演じていると、もう一つの人格が独り歩きをはじめ、ついにやっちまったってか。警察官の尋問に... 私の名はホワイトです!
「それじゃ一つ教えてもらいたいが、およそ自分は欠点だらけの愚かな女のくせに、自分より限りもなく立派な男と結婚して、それからその男を自分と同じレベルに引き下げ、それでもって自分の弱みと愚かさを隠しおおすことを生涯の執念としている女よりも残酷な存在があるかね?」

[君にそっくり]
その連中ときたら、どいつもこいつも同じ型紙をあてて切り抜いたような奴ら。いい家の出、有名校出身、おまけに、やる気充分であることを上品に見せる能力とくれば、面接官もコロリ。そんな連中に憧れて、服装や立ち居振る舞いを真似れば、同類項になれるだろうか。そこに、かつて上流社会に身を置いていた人物と出会う。彼は自分の失態のために、富豪の父親に追い出されたのだとか。彼の真似をして生きていくうちに、そっくりさんに。真似られた元の実体は、そっくりさんに抹殺され。そして、ある富豪の娘と結婚を企てるも、その富豪の息子は行方不明で、そっくりさんにそっくりだったとさ...

[壁をへだてた目撃者]
壁を隔てた隣の部屋の女性の声に恋をして。彼女には暴力狂の夫がいて、悲鳴が絶えない。ある日、凄い物音とともに女性が殺された?彼女を助けるために警察を呼び、事細かく事情を説明するが、あれ?死んだのは男!その証言のために殺人動機は十分ときた。幻想が幻想を呼び、妄想が妄想を掻き立て...

[パーティーの夜]
舞台俳優の妻はホームパーティーがお好き。夫は、こんな連中との付き合いがもううんざり!愛人の女優と逃げようとすると、妻に拳銃で撃たれ、その場に倒れる。そんな女優との共演が何度繰り返されてきたことやら。自己に毒づく自己愛が現実逃避に求めた場所は、舞台か?現実か?そんなことは知らんよ。本人でさえ...

[専用列車]
株屋の専用列車は、会社の重役やその道のプロといったスペシャルな連中が帰宅に利用する。列車を降りると、自動車の中で熱烈なキスを交わす妻と知らぬ男。怒った夫は、自動車事故で正義の裁きをくらわせる。アスピリンを飲んで居眠り運転を装い、浮気相手をやっちまった。その仕返しに、妻は夫を自動車に乗せて共に専用列車へ向かって突進!

[決断の時]
あまりに徹底的な自信家は、人から好かれないもの。ある高名な館を賭けて自信家同士が対決する。相手は手品師で、脱出奇術のし掛けを自信満々に語ってみせる。応用できる道具はなんでも。一筋の針金、一欠片の金属、一片の紙切れさえも。しかしながら、案じて生命を託す気になれる道具は、ただ一つだという。それは目にも見えず、手に取ることもできないもので、一度として裏切ったことがないそうな。どうやら人間の性質に関わるものらしい。錯誤誘導の類いか。手品師は、予め自分は心臓病を患っていることを告げる。
そして、密室のドアを閉め、そこから一時間以内に脱出できるかどうかの賭けが始まった。手品師は、息が苦しいと叫ぶ!ドアを開けるか、開けないかの決断の行方は?
「完全なジレンマに直面した時はじめて啓示を読み取るだろうという真の意味をさとった。それは人間が否応なしに自己の深みに目を向けさせられる時、おのれについてあるいは学ぶかもしれないことの啓示だった...」

2020-02-09

"最後の一壜" Stanley Ellin 著

寒い冬空に小雨がちらつき、モヤモヤ感の残る中、お決まりの古本屋を散歩していると、ちょいと風変わりな推理小説に出会った。ヘミングウェイが推理小説を書くと、こんな風になりそうな... いや、悪趣味な風刺小説といったところか...
主人公たちは滑稽な生き様を痛快なほどに曝け出し、ニヒルな笑いをさそう。しかもここには、十五もの短篇が群れてやがる。短篇はええ。仕事の合間のオアシス。忙しいからこそ病みつきになる。おまけに、おいらの読書人生の基本ジャンルが推理モノときた。無論、この衝動を抑えられるはずもなく...

分かりやすいということが、世の中をいかにつまらないものにしていることか。いかに騒々しくしていることか。分かりやすさに群がる社会では、ちょいと分かりにくいものに癒やされる。説得力ある言葉より、オブラートに包まれた言葉に救われる。単純明快な振る舞いにでなく、モヤモヤ感の満ちたチラリズムに色気を感じる。小説の世界には、いつまでも読者自身が読み解く余地を残してもらいたい。歯切れの悪い描写で想像を掻き立ててもらいたい。でなければ、すぐに退屈病に襲われる。滑稽な人間社会は、皮肉屋にとっての理想郷。苦難をも皮肉まじりに生きられれば... スタンリイ・エリンは、自作短篇をこう評したとそうな。
「人間の性質に含まれる邪悪の条痕を扱うもので、それはまた人間性をかなり嘆かわしいほど魅力的にしている。」

そこには...
無実の罪で処刑された歴史事件の重々しさに、これを追求して明るみになった真実の軽薄さを投射したり、賭博熱で破滅した息子に現金に執着する母親を重ねたり、真冬の暖房器をめぐるアパートの家主と住人の揉め事という平凡な光景に、おそらく醜怪極まりないであろう殺人行為を埋もれさせたり... といった二元投影論に。
恋敵の肖像画を切り裂こうとした嫉妬女を自ら振りかざしたナイフで返り討ちにし、リアリティを追求した映画プロデューサを等身大の石像にし、ワイン狂を殺す最上の方法に最高級ワインを床に注ぐ... といった意地悪ぶり。
おまけに、贋金が贋の人間をつくるのか、誠実さの裏の顔にころりとくれば、現実逃避に明け暮れる五十過ぎの男は夢の中の小娘に御執心ときた。貧乏画家を喰い物にしてきた画商マダムが喰い物にされ、たった10ドルで人殺しができるかの賭けにそれが優秀な兵士の証明ってか。
はたまた、大都会というジャングルに住む息苦しさや、世間で讃美される正義という観念に嫌みを効かせ、世代間の価値観の違いを浮き彫りにし、孤独死を恐れて面倒な人間関係も惰性的に、貧乏人はますます貧乏に... といった現代社会が慢性的に抱える問題を嘲笑って魅せる。
こいつは、本当に推理小説なのか?クライマックスのオチでどっと疲れが... 思考回路がクタクタになると、モヤモヤ感もクタクタになるらしい...

尚、本書には、「エゼキエレ・コーエンの犯罪」、「拳銃よりも強い武器」、「127番地の雪どけ」、「古風な女の死」、「12番目の彫像」、「最後の一壜」、「贋金づくり」、「画商の女」、「清算」、「壁のむこう側」、「警官アヴァカディアンの不正」、「天国の片隅で」、「世代の断絶」、「内輪」、「不可解な理由」の十五作品が収録される。

2020-02-02

"経済学の名著30" 松原隆一郎 著

人間には縄張り意識という性癖がある。それは、客観性を謳う学問の世界とて同じこと。どんな学問分野においても、学派に分かれては互いに批判しあう風潮が見てとれる。ただ、正しく理解しなければ、正しく批判することもできまい。こと経済学においては、学派の群れは流行り廃りが激しく、やれケインズは死んだ!だの、もはやスミスは遺物!だのと吹聴する輩をよく見かける。確かに、どの処方箋も不十分。
しかし、だ。偉大な警鐘を抹殺してきたのは経済学者たち自身ではないのか。ある経済学者は経済学を学ぶと利己的になりやすいと指摘したが、カネの研究に走ると目先の現象に囚われやすいのか、現在の多くの経済モデルが何らかの形でマネタリズムを包含しているかに見える。生き甲斐までも金儲けの道具としてしまえば、やはりそういう目で見てしまう。
小さな政府と大きな政府、自由競争と価値分配、計量化アプローチと非計量化アプローチ... 等々の対立構図を煽っては、自由と平等の対立にまで及ぶ。経済学の枠組みでは、自由という価値観を「自由放任主義」という用語でひと括りにしてしまうが、自由ってやつは実に掴みどころのない多様な概念で、いかようにも解釈できる。悪行をやるのも、自由といえば自由なのだ。「道徳感情論」を著したアダム・スミスは、確かに「見えざる手」について言及した。彼はあの世で愚痴っているだろう。経済学の父と呼ばれることに違和感を抱きつつ...
「古典が古典であるゆえんは、異なる時と所での観察や思索をもとに、現在を支配する考え方に対しまったく別の地平から異論をつきつけてくるところにある。議論が乗っている地平そのものが異なるのだから、まずはそれを理解しないと反論もできないだろう。しかし独占志向が強すぎるせいか、経済学には誤解したままでの反論があまりにも多い。『経済学の進歩』と言われるものの大半は、誤解によって異説を排除し、自派の説を体系化することにすぎない。」

本書は、反目を繰り返す経済理論史のゴタゴタ劇にあって、30冊を好意的に紹介してくれる。なるほど、中立の目で眺めるには、好意的に書き下ろすのが合理的というわけか。歴史やその背景を紐解きながら、短所を踏まえて長所を拾い上げ、なにゆえそのような考察に及んだかを想像してみる。
重商主義は、封建的束縛から民衆が解放されつつある時代に、貿易という手段をもって自由精神を体現しようとした。貿易による差額に目をつければ、サヤ取りの原理を旺盛にさせていくのだけど。
市場メカニズムは、価値の尺度を統計的に解決する方法論として、欲望の群れを相殺する形で機能させようとした。世間で非難される投機行為だって、政府や企業の思惑を排除した形でお金が流れるという意味では、より客観的な行為という見方もできなくはない。そこで、市場参加者の価値観が多種多様であることが鍵となるが、群がる価値観は偏りすぎるほどに偏っており、欲望が相殺するどころか、一方向に暴走を始める。
その暴走の処方箋として登場したケインズ理論は、世間に政府介入の必要性を知らしめたが、今度は一部の業界との癒着を助長し、ピラミッドでもなんでも造ってしまえと、無駄な公共投資を呼び込む。
こうして眺めていると、それぞれの時代背景の下で、過去の経済学者たちの考えはそれなりに納得できる。要するに、万能な経済理論がいまだ発見されていないというだけのこと。経済理論は常に移ろいやすく、しかも極端に触れ、おまけに過去の理論はゾンビのように蘇る。この学問分野は中庸という概念がすこぶる苦手と見える。呪文のように唱えられてきた、見えざる手、自由放任主義、労働価値説、マルクス主義、ケインズ改革... いずれも自足を満たせずにいる。
そして本書で展開される、ロックの「統治論」やスミスの「道徳感情論」に始まる名著めぐりも、マネタリズムへ傾倒していく様を概観しながら、仕舞にはアマルティア・センの「不平等の再検討」に引き戻される。いま自由の砦を死守せねば... 市場の奴隷にならず、貨幣の奴隷にならず...
「自派のとはまったく異なる発想がありうることを知ることこそが、古典を読むという行為の醍醐味である。ケインズの『一般理論』を通読しても第十二章は読み飛ばすとか、スミスの『国富論』に目を通しても『自然な資本投下の順序』という概念は無視するといった読み方では、古典を読んだことにならない。たとえ理解できなくとも、また自説にとって不都合であっても、違和感を否定せず記憶に留めるような謙虚さを持ち続けることが、古典を読むことの意義なのである。」

本書は、マルクス派のマルクス知らず、ハイエク読みのハイエク知らず、ケインジアンのケインズ知らず... といった皮肉を交えて物語ってくれる。この酔いどれ天の邪鬼ときたら、この皮肉な面ばかりに目が行ってしまうから困ったものである...
市場への介入を論じた者はすべて重商主義者とみなされた時代、彼ら経済思想家たちは本当にスミスの敵だったのだろうか。「国富論」については、まだまともに読まれていない!と言い放ち、道徳論を無視した形で経済学が専門分野として邁進していく様を物語る。
リカードの「比較優位説」には感服したものだが、既にこの時代に、フリードリッヒ・リストは「資本主義には文化に応じた型がある」と論じていたとか。現代の画一化へと向かうグローバリズムへの警鐘ともとれる理論を。
生産と分配の図式に則った J. S. ミルの社会改革ヴィジョンは、自分が幸福になろうとするのは人間の基本行動だが、なにも直接自分の幸福を目的とせずとも、幸福感を味わえる方法があることを告げている。人助けや社会に役立つなどの動機で。物質的幸福と精神的幸福の両面から論じたミルは、功利主義が一枚岩ではなかったことを示している。
ワルラスの一般均衡理論は、自由競争のもとで市場が自動的に需給の均衡をもたらすことを論証しようとした。だが、ワルラス自身はちょっと風変わりな社会主義者だったようで、思想的にも土地の固有を訴えた父を引き継いでおり、結果的に資本主義擁護論を唱えてしまったことが不本意であったとか。
バーリとミーンズが著した「近代株式会社と私有財産」は、既に所有と経営の分離について論じられている。株式会社の登場は、17世紀のオランダやイギリスの植民会社に見て取れるが、現在でも会社は誰のものか?などと論争を繰り返す。スミスは、個人会社こそが利潤の追求と経営の合理性を両立させ、ひいては国富の増進に寄与すると述べたという。経営者が自分で資本を保有し、労働者を直接雇い、土地を自分の名義で借りるため、責任をもって利潤に励むからと。マーシャルも経営者が所有者でもある古典的な中小企業の形態が望ましいと考えたとか。このように、経営者が企業の非所有者でありうる株式会社の形態は、放漫経営に陥ると指摘した経済学者は少なくない。そして21世紀、M&A が横行し、企業ガバナンスの問題を露呈する。
ケインズの「一般理論」には、所有と経営の分離の観点から株主が企業の利潤や配当を当てにするよりも投機に走りがちになり、過剰に悲観して貨幣を使わなくなって流動性の罠に陥り、そのために不況を招き入れるという主張も含まれていたようである。そして本書は、「一般理論」をこう評している。
「ワルラス以降の新古典派が工学化を推し進めていた経済学を、人間社会の学 = モラル・サイエンスの圏内に復帰させようとした記念碑的作品である。」

サムエルソン経済学は、教科書としての地位を獲得した。その特徴は、ミクロとマクロという二つの視点。ミクロ理論では新古典派的に、企業や消費者、労働者や資本家など個別の経済主体の行動を最適化し、それらの集計した需要と供給の価格の調整作用により市場の均衡を分析する。マクロ理論ではケインズ理論的に、雇用量や一般物価、利子率や生産量、国民所得、消費や投資額などの変数の関係を、消費関数や投資関数、生産関数、需要関数や供給関数などによって定式化し、これらを用いて財市場、資産市場、労働市場などを均衡状態として描き出す。両者はミクロとマクロの相違はあれど、市場を均衡において捉える点で共通している。
しかしながら、本書はサムエルソン教科書の罪も指摘している。以降の経済学は、フリードマンやルーカスらの数式志向へ急速に傾倒していき、ノーベル経済学賞の方向づけともなった。マネタリズム時代の幕開けである。だからといって、数式志向が悪いとも言えまい。客観的な価値判断を数量化することの意義は大きい。問題は思想哲学を見失ってしまったことだ。経済学は哲学を持つにはまだ早すぎるってか...

本書は、マネタリズムへ流されそうな経済学の名著めぐりにあって、物質的経済学から精神的経済学へ引き戻そうとする意図をどころどころに見せる。ちょいと異質なところでは、豊かさを論じたガルプレイス、正義の側面から論じたロールズ、さらには、マネジメントとイノベーションの側面からドラッカーも登場する。そして最後に、アマルティア・センの貧困についての言及で締めくくられ、ホッとする...
ところで、マルクスの「資本論」だが... 二十年もの間、こいつが ToDo リストの読書欄にずっとのさばっていやがる。お茶を濁そうと、「資本論」の序説に当たる「経済学批判」に触れた時はなかなかのものだと感じ入ったものだが、「共産党宣言」に触れた途端に距離を置きたくなる。万国のプロレタリア団結せよ!などと叫ばれた日にゃ...
そして、本書のこのフレーズで、やっぱり読んでみようかなぁ... という気にさせてくれるが、どうなることやら...

「使用価値はけっして資本家の直接の目的として扱われるべきではない。それどころか個々の利潤ですらその目的とはいえず、目的はただひとつ、利潤の休みなき運動である。より多くの富をめざすこの絶対的な衝動、この情熱的な価値の追跡は、資本家にも貨幣退蔵者にも共通している。しかし貨幣退蔵者は愚かしい資本家でしかないのに対して、資本家は合理的な貨幣退蔵者である。貨幣退蔵者は流通から貨幣を救い出すことによって価値の絶えざる増殖をめざすが、もっと利口な資本家は貨幣をたえず新たに流通へとゆだねることによって同じことを実現する。」
... 「資本論」第一巻第二篇第二章より