2009-09-27

"対称性から見た物質・素粒子・宇宙" 広瀬立成 著

ブルーバックス信者を返上したはずなのに、いつのまにか買っている。もはや泥酔した精神は、衝動には勝てないのか?本書を眺めていると、なんとなく「対称性」を語りたくなる。酔っ払いにとって、自我の対称性を映し出す小道具といえば鏡である。その証拠に、鏡の向こうの赤い顔をした住人が、延々と話しかけてくる。ちょっとうるさいが、その付き合いの良さには感服する。なにしろ、いつも一緒に酒を酌み交わし、いつも一緒に酔い潰れるのだから。

人間の住む宇宙には、実に多くの対称性を見出すことができる。天体の姿には球形といった点対称があり、人類の住む地球も丸い。自転しているのでわずかに遠心力によって外側に膨れてはいるが、軸対称性を保っている。地球にも太陽系にも銀河系にも中心がある。そうなると、宇宙にも中心がありそうな予感がする。量子論者は、物質の誕生には無理やり反物質を登場させてエネルギー保存則になんら矛盾することなく宇宙の起源を説明してしまう。ここにも、物質に対する反物質という対称性が現れる。古代、惑星の運動が円軌道を描くと想像したのも、そこに自然法則の美しさがあると信じたからであろう。
生物に目を向ければ、人体にも左右対称性がある。DNAの二重螺旋構造の美しさには神秘を感じざるを得ない。生と死という対称性を感じるのも、永遠に避けられない現実である。対称性とは、生命の進化の過程で安定性を保つために現れた性質なのだろうか?ポーは、著書「ユリイカ」で、物体の本質は引力と斥力の二つの対称性のみで成り立つと直観的に語った。
数式に現れる左辺と右辺の対称性にも、数学者を虜にする何かがある。実数と虚数、実空間と仮想空間、有限と無限など、対称性を語る用語には限りがない。
科学現象に対称性が現れると、普遍的原理が内包されている可能性を想像する。電荷にはプラスとマイナスがあり、電磁波は電場と磁場が直交する。あらゆる自然現象には、波動や振動が現れ、分解と統合を繰り返す。しかも、波には永遠に直進する性質がある。こうした対称性の美しさに人間の精神が反応するのは、そこに真理があるからかもしれない。
また、人工物の中にも建造物や芸術作品に局部対称性が現れる。芸術家の精神には、対称性の美を求める衝動があるのだろう。合理性と非合理性の葛藤、欲望と抑制の葛藤、感情と理性の葛藤などなど。人間の精神は、主観性には客観性で均衡を保とうとする衝動が働く。あらゆる論争やイデオロギーにも対称性が現れる。政治屋は自らの意見をそれらしく見せるために対抗意見を無理やりでっちあげ、報道屋はあらゆる関係を対立構図で煽る。人間の集団によって引き起こされる社会現象にも、振動を続ける対称性が現れる。保守性と革新性の対立や、自由と平等の綱引きは永遠に続く。哲学的論争も、実存するかしないか、意味があるかないか、いまだに答えが見つからない。
人間の精神は対称性に調和を求め、そこに精神の安住を求めているかのようだ。幸福と不幸の相殺、夫と妻、やはり対になると精神は安らぐということか?ちなみに、アル中ハイマーの精神は、一夫多妻、いやハーレムの方がはるかに安らぐ。

宇宙原理が、創造と破壊を永遠に繰り返すことだとすれば、対称性は安定する力と解釈できる。だとすると、安定を破壊する力も、これまた対称性で説明できるはず。そして、自己言及の罠に嵌り、矛盾の概念を避けることができなくなる。まさしく不完全性定理だ。
人間の住む宇宙には、これまた多くの非対称性を見出すことができる。人体が左右対称とはいえ内臓に目を向ければ、その配置は、機能を無理やり押し込んだようにも見える。心臓は真ん中にはない。右脳と左脳でも働きが違い、左利きや右利きといった現象がある。右脳と左脳の大きさにも違いがあると言われるが、他の動物に比べれば論理的思考が強いのだろう。あらゆる機能が生存競争の過程で合理的に形成される。生物の自己複製能力は、まさしく驚異である。だが、遺伝子システムは、ごく僅かな確率で遺伝子コピーに失敗して障害者を誕生させる。
宇宙は、もともと対称性の高い単純な姿をしていたに違いない。それが対称性を破りながら複雑系へと変化してきた。これがエントロピー増大の法則なのか?宇宙の真理の背後には、ランダム性が潜んでいるように映る。素粒子のように物質の基本をなすものが球形をしているのに、様々な物体はごつごつした岩のような複雑な形状をしている。だが、トポロジーの世界では、これらを同相で抽象化してしまう。もしかしたら、単に人間の目が複雑に見えているだけのことかもしれない。いや!人間の認識が複雑化しているだけで、実はすべての現象は単純のままなのかもしれない。
だが、人間は複雑系を確率論に持ち込んで説明しようとする。量子論では、エネルギー準位によって粒子の存在確率を議論する。コンピュータには、周辺の磁気装置や記憶素子の性質に合わせて誤り訂正機構が組み込まれる。コンピュータは完璧な装置ではなく、確率論に持ち込んで実用レベルに押し上げているに過ぎない。インターネットの検索でも、完璧な検索結果を時間をかけて得られるよりも、だいたい正しいだろうとする結果を高速で得られた方が有用性が高い。
人間社会も複雑系に支配され、その分析は人間の手に負えなくなった。社会で発生する犯罪や事故も確率で議論され、意思決定にも多数決原理が働く。ネット社会を「大衆の叡智」と崇めるウィキペディア崇拝者も少なくない。人間は、真理よりも多数決に身を委ねる方が、幸せなのかもしれない。宗教的精神とは、思考することを放棄して、信じることに身を委ねる。知らぬが仏というわけだ。だが、知った時の反動は、憎悪となって倍増するからおもしろい。
ところで、人間社会は本当に自然法則に従っているのだろうか?対称性が宇宙原理だとすれば、神の存在に対して悪魔を登場させなければならない。となると、人間が悪魔である可能性はないのか?自然法則に従って創造される生命体は、その進化が絶頂となった時に怪物になる可能性はないのか?それが集団化すれば、リヴァイアサンになっても不思議ではない。そして、創造と破滅を繰り返しながら悪魔へと進化した時、仕方なく神が姿を現すのかもしれない。

対称性の美は、非対称性の存在によって意義を持つ。全てが対称性に支配されれば、対称性そのものの議論はなくなるだろう。対称性と非対称性の存在を意識できるのは、その上位から眺めていることになる。すると、これまた上位の対称性に支配され、対称性の階層構造が永遠に見てとれそうだ。対称性を振動と捉えれば、その階層構造も永遠に続いても不思議ではない。対称性を保った美しい状態は対称性を破る方向へと向い、対称性が破れた複雑系の状態は対称性を取り戻そうとする。バネを引っ張れば、もとに戻ろうとするかのように。
ところで、対称性の美しさを本当に理解できるのは、その真中で冷静に眺められる立場にある人たちであろう。量子の世界では、プラスとマイナスを介在しない中性子の存在がある。実は反中性子なんてのもあるらしいが。人間社会には、男女の性の間に挟まった中性が存在する。中性が最も美的感覚に優れているのかもしれない。なるほど、偉大な芸術家にホモセクシュアルと噂される人が多いわけか。

1. 鏡
レオナルド・ダ・ビンチは「絵画論」で、「鏡を君の指導者となすべきである」と語ったという。ダ・ビンチには、鏡を使った光の反射という科学的な視点で絵画を観察する力があったようだ。鏡に映される姿は、真実であるのは間違いないだろう。だから、人は自らの姿を鏡で熱心に観察する。女性は自らの体型を誤魔化すことなく眺めることができる。ただし、平面鏡に限る。なるほど、デパートの試着コーナーに凹レンズを設置すれば、売れ行きも違うわけか。鏡の中にはナルシシズムが現れる。ギリシャ神話に、水鏡に映った自分の美しい姿に見入って水仙の花になったという話がある。自己陶酔に陥るナルキッソスの話だ。これがナルシシズム(自己愛)の語源だという。なるほど、水仙をナルシスと言うなぁ。白雪姫にも「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだーれ?」というのがある。鏡はおもしろいもので、三次元空間を二次元空間に投射しながら、その姿を眺めることができる。つまり、次元の投射である。その性質では、左右が逆になるのに、なぜ上下は逆にならないのか?と、よく話題にされる。本書は、心理学者のおもしろい解釈を紹介してくれる。人間の目は左右の運動に慣れていて、上下運動に慣れていないとか、人体が左右対称となっているだけで、上下対称になっていないからとか、そこには重力的な要素が絡む心理的錯覚がある。いずれにせよ、科学的に説明するのは簡単である。光の進み方は、あらゆる方向に平等というだけのこと。

2. 量子世界の対称性
波は減衰することなく、いつまでも運動を続ける。電磁波の直進性は永続的である。この定常性を失うと永続的な運動はありえない。電子のようなフェルミ粒子は永遠にスピンする。ただ、量子の世界では、粒子性と同時に回折のような波動性も示す。一つの電子を観察するのに、光を当てるという行為では、電子の運動状態が変わるので正確な観測ができない。量子の世界では、もはや素粒子の運動状態において、位置と速度を精度よく決定することができない。複雑系の世界では、エネルギーの総和として観察できても、内部エネルギーは確率論でしか観察できない。ここに不確定性原理の登場を見る。となれば、人間社会のような複雑系では、個々の物体が人間であっても、集団になれば波動性を示して、波動関数が適応されても不思議ではない。マクスウェル方程式は、磁荷が単独では存在しないという前提から構成されるという。となると、モノポールは存在しないのだろうか?量子論では、プラスとマイナスに介在しない第三者の立場が登場する。電子のような粒子が存在すれば、陽電子のような反粒子が存在し、そして、中性子が存在する。ただ、反中性子も存在するようだが、電荷がゼロなのでその区別はつかないという。

3. 重力力学の限界とプランクスケールへの挑戦
電子の電荷は、真の電荷ではないという。1個の電子を真空中に置くと、そのまわりでは光子の放出と吸収が繰り返され、光子から電子と陽電子が対になって発生する。陽電子は中心の電子に引き寄せられ、逆に電子は反発する。中心の電子を囲む真空では、一様な分布からずれた仮想的な電子と陽電子が存在し、その結果、真空の分極が起こるらしい。実験で観測する電荷とは、真の電荷と真空分極の効果が重なったものだという。ここで注意することは、不確定性原理によれば、ある現象の時間が極端に短くなるとエネルギーが増加するということだ。電子と陽電子の生成や消滅は、極めて短い時間に繰り返されると、それらはエネルギー保存則に制約されることなく、非常に大きなエネルギーを持つことができるという。つまり、無限に多くの仮想電子と陽電子の対が存在し、真空分極の効果が無限大になってしまうというのだ。これは、量子力学で必然的に現れる場のゆらぎであって、「紫外発散」というものらしい。「くり込み理論」とは、こうした無限大の手におえない量を互いに引き算して、意味のある有効な量を導き出すという発想から生まれたという。一見無責任な演算にも見えるが。重力を量子論に適応すると、極端に短いプランク距離では、不確定性原理からゆらぎが生じる。二つの電子の間で生じるエネルギーも、逆エネルギーが生じてゆらぎ、エネルギーや質量を確定することができない。エネルギーのゆらぎは、常に同一方向で無限大となり、紫外発散を引き起こす。これは、時空が連続であるかぎり、局所的対称性の理論では避けられない障害だという。統一理論から大統一理論へと邁進した物理学は、くり込み理論とゲージ理論によって邁進してきたが、ここで壁にぶつかる。そこで、素粒子理論に「超ひも」が登場し、プランクスケールへの挑戦が始まる。

4. 超ひも理論の10次元
超ひもが持つ驚くべき性質は、高い次元を持つことである。時間1次元と空間9次元の10次元で構成される。本書では言葉が登場しないが、これがDブレーンというやつか。人類の住む3次元空間は、宇宙原理の限られた次元であることは、なんとなく理解できる。生命体が感じられない次元は、生きる上で認識の必要がないとも言える。いずれ、地球は消滅するだろう。生命が更に長生きを望むならば、突然変異によって、いままで感じられなかった次元を認識する能力を身に付けるかもしれない。科学の発展とは、生命体が生存し続けるための欲望なのかもしれない。あらゆる説明のできない複雑系の現象は、別の次元を加えることによって、エネルギー保存則、運動量保存則といった「不変」あるいは「対称性」の原理に帰着するという。とすると、あらゆる次元が解明された時、結局、ニュートンやユークリッドに帰着する可能性はないのだろうか?偉大な数学者が、若き日に哲学を蔑み、結局哲学へ帰依するかのように。ところで、対称性の概念からすると、存在するということは、存在しないことを意味しないのか?自由意志とは、コントロールできそうで手に負えない。神は人間を自由意志の存在を認識させながら、気まぐれによって支配している。いや!別の次元を登場させることによって、反自由意志なるものが存在するのかもしれない。人間が感じることができるのは重力である。しかし、時折、霊感的なものを感じる。これも別次元から発せられる重力波なのかもしれない。

2009-09-20

"高校数学でわかるボルツマンの原理" 竹内淳 著

ブルーバックスの「高校数学でわかる...」シリーズは、なんとなく買ってしまう。大学時代に数学で挫折した人間は、このフレーズにいちころだ。おまけに、ボルツマンというと、電子工学を専攻して、物性や半導体工学の単位を取るのに苦労した記憶が蘇る。当時は、意味も分からず丸暗記で誤魔化したものだ。というより、教授のお情けで卒業できたのであった。その教授が作成する試験問題は10問ぐらいあって、1問目の答えを利用して2問目、2問目の答えを利用して3問目...という具合にカスケード構成となっていた。つまり、1問目を間違うと全滅する仕掛けだ。前期の試験で失敗すると後期で挽回することが難しい。うちの学部では、卒業までの最大関門とされていた。この教授は、おいらの名前が珍しいものだから講義中にいつも指しやがる。おかげで、ますます性格が捻くれるのであった。本書は、学生時代のいやーな記憶を思い出させてくれる。

ところで、電子回路では、昔から持ちつづけている素朴な疑問がある。半導体ってなんだ?半分だけ導体?これは導体でもなければ絶縁体でもない。外部から熱や光あるいは磁場や電圧といった刺激を与えることによって、電気特性が得られる物質であるが、バンドギャップが狭いからキャリア効果も現れる。しかも、p型とn型をうまいこと接合することによって、この現象も起こりやすくなる。電源など駆動するための仕掛けが必要であるにせよ、電流が金属物質の組み合わせによって増幅できるとはどういうわけか?電流が増幅されるということは、電子の流れを活性化できるということである。バンドギャップ内はフェルミ準位近辺になるというから、電子が移動できるかどうかも確率論に持ち込まれることになる。
また、LSIの歩留まりに目を向ければ、90%でも通常の製造ラインの感覚からすると信じられないほど低い数字である。最新プロセスともなると50%なんてざらで、最高周波数ともなると目も当てられない。ほとんどの生活用品が電子制御される中、こんな不安定な物質が電子回路の素子として主流になっているのも不思議でならない。こうした疑問を抱えながら電子回路の仕事を続けているのも奇妙な話である。人生をいかに誤魔化しながら生きているかという象徴でもあろう。プロでありながら理解度となると、まるで素人並なのだ。そして、工学とは試行錯誤でなんとなく結果が得られればOKという世界である、と言い訳する。この程度の意識しか持たないアル中ハイマーな技術者は、とっとと引退するのが業界のためなのだろう。おまけに、酔っ払いは自由電子の存在を自由意志と重ねつつ、自我の存在を疑う。自我の存在確率は、スコッチのアルコール度数近辺で40%ってところか。

本書のテーマは熱力学と統計力学である。そして、熱力学の延長上に統計力学を位置付けている。熱力学は、熱伝導で代表されるように人間の感覚で捉えやすい世界である。熱力学の第一法則をエネルギー保存則と重ねれば理解もしやすい。熱力学の第二法則では、熱は高い方から低い方へ移動して、やがて平衡状態になると考えれば、なんとなく感覚で理解できる。ただ、本書は、熱力学の第二法則は、様々な表現があって二十面相だという。ここに、エントロピーという言葉の解釈を混乱させる要因があるのだろう。熱力学の段階では、一つ一つの分子の衝突は、まだニュートン力学で説明できる範疇にある。しかし、統計力学の段階になると、人間の感覚では手に負えない世界に踏み込む。量子の世界では、それが粒子でありながら、想像もできない現象を見せやがる。電子で代表されるフェルミ粒子や光子で代表されるボース粒子などは、不確定性に支配された行動をする。あらゆる物体は、固体性と波動性の二重性を持っているのかもしれない。人間が個々で活動する分にはまだ手に負えるが、集団社会となると、波が押し寄せるかのように個人の意志ではどうにもならない。どんなに規制しようが、隙間から干渉現象のようにうまいこと回り込む犯罪者や、都合のよい解釈によって法律の障壁すら摺り抜ける政治家が蔓延る。もはや、人間の理性観念ですら確率論で語るしかできないのか?粒子性と波動性は、複雑系の持つ本質なのかもしれない。これが、エントロピー増大の法則の本性なのか?熱力学にせよ統計力学にせよ、扱う現象は、ほぼエントロピー増大の法則に従う。もし、エネルギー効率100%の理想の熱機関が存在するならば、発生する熱量を全てフィードバックさせて、エントロピーの変化をもたらさないであろう。だが、エントロピーは、断熱系において不可逆変化が起こるところでは必ず増大する。
ところで、サイクリック宇宙論において、宇宙構造は限りなく理想の熱機関に近いという可能性はないのだろうか?だとすると、宇宙は断熱系なのだろうか?宇宙の境界線はどんな空間と接しているのだろうか?という疑問がわく。高温であった宇宙の誕生から膨張を続け、だんだん冷えて、やがて絶対零度に達すると収縮を始め、これを永遠に繰り返す熱機関にも見えてくる。しかし、サイクリック宇宙論は、エントロピーの蓄積から現在の宇宙の平坦性を説明する。となると、宇宙は断熱系で、不可逆変化ということになりそうだ。いや!実は断熱系ではなく、宇宙の外にあるなんらかの次元空間とエネルギーのやりとりをしている可能性はないのだろうか?

1. 動力の発明
人類が初めて人工的な動力を手に入れたのがワットの蒸気機関と言われる。蒸気機関の原型は1712年にイギリスのニューコメンが開発したもので、炭鉱の排水用として使われたという。炭鉱内の事故といえば、落盤やガスによる酸欠、あるいは炭塵による爆発などがあるが、中でも地下水による浸水が大きな問題であったという。ただ、ニューコメンの蒸気機関は、掘り出した石炭の3分の1を動力として消費したので非常に効率が悪い。これを改良したのがワットである。蒸気機関は、石炭を燃やした時に発生する熱エネルギーを水蒸気の分子の運動エネルギーに変換し、これをピストン運動に使う。ワットの蒸気機関の効率は、わずか3%ぐらいだったと言われるらしい。ちなみに、ニューコメンにいたってはわずか1%だったという。当時、熱によって分子運動が生じることが知られていなかった時代である。熱量とエネルギーの関係に取り組んだのがジュールである。ジュールは醸造業の家に生まれたという。なるほど、美味い酒でカーッ!となるところから、熱エネルギーという発想が生まれたわけか。電線に電気を流すと熱が発生する。これがジュール熱である。ジュールはエネルギーと熱量を同等なものと考えた。こうした発想がエネルギー保存則へ導くことになる。

2. カルノーサイクル
カルノーサイクルは可逆過程であって理想の熱機関である。このサイクルでは等温過程と断熱過程がある。等温過程とは、気体の温度を変えない熱過程である。温度が変わらないということは、内部エネルギーを消費しないことを意味する。したがって、等温過程で膨張した場合、気体は外部から熱を吸収することになる。断熱過程とは、外部との熱のやりとりを遮断することである。したがって、断熱膨張では気体の持つ内部エネルギーを消費することになる。カルノーサイクルでは、二つの等温過程と二つの断熱過程を利用して1サイクルを形成する。
(1) 等温過程で、外部から高熱を吸収して膨張する
(2) 断熱過程で、気体の温度が上昇し内部エネルギーによって膨張する
(3) 等温過程で、外部から冷却して収縮する
(4) 断熱過程で、気体の温度が下降し内部エネルギーによって収縮する
カルノーサイクルの特徴は、サイクルを逆回転することができることである。つまり、可逆過程。熱機関で可逆であるかどうかを判断するポイントの一つに摩擦がある。摩擦は運動エネルギーを熱エネルギーへと変える。本書は「摩擦が不可逆過程である」というのが熱力学の第二法則だという。ちなみに、F1では、ブレーキング中に失われるエネルギーを保存して、オーバーテイクなどの必要時に馬力に変換するKERSが話題になっている。
エネルギー効率を高めることが工学の役割であるが、ガソリンエンジンでも効率は20%ぐらいだという。つまり、動力よりも暖房機として優れていると言えよう。ディーゼルエンジンは少し効率がよく40%に達するものもあるという。本書は、最も効率の良い熱機関でも50%に達するものを知らないと語る。ちなみに、動物の生命活動の効率は25%ぐらいなのだそうな。少し運動して汗が出るのも、捨てられる熱エネルギーが大きいということである。そういえば、肥満な人ほど汗をかいているような、汗かきほどエネルギー効率が悪いというわけか。

3. エントロピー
クラウジウスは、カルノーサイクルの(1)と(3)の等温過程で、熱量を絶対温度で割った量(Q/T)は、得るものと失うものとで打ち消し合うことに気づいたという。(2)と(4)の断熱過程で外部との熱量のやりとりはない。したがって、カルノーサイクルの熱量の総和はゼロということになる。これは可逆過程のみで成り立つ。ここでdQ/Tがエントロピーである。理想の熱機関では必ずしもエントロピーが増大するわけではない。クラウジウスは、エントロピー増大の法則が成り立つ条件として、断熱系と不可逆過程が同時に成り立つ場合としている。これは、熱が不可逆性に支配されることへの帰結ということだろうか。となれば、熱機関では必然的にエントロピーが増大することになる。

4. 気体分子運動
気体を分子の集まりと考えて分子運動に力学を適応し、気体の圧力を最初に導いたのがベルヌーイである。その後、気体分子運動を発展させたのが、マクスウェルとボルツマンである。とはいっても、個々の分子の振る舞いを語ることは不可能である。よって、気体のエネルギーは分子運動の総和として計算される。ただ、固体となると、分子運動が完全に自由というわけにはいかないので事情が異なる。気体と違って原子の回転運動も起らない。それでも、固体の中の原子は微小な振動をする。温度が高いほど、その振動も激しくなる。気体分子運動を唱えたところで、まだ分子の存在が証明されていない時代である。その論争に、マッハは攻撃し、ボルツマンは防戦するといった構図があったという。電子の存在を明らかにしたのは、トムソンやミリカンの実験である。更に、ラザフォードによって原子核が発見される。アインシュタインは、ブラウン運動を分子のランダム運動による衝突によって起こる現象だと考えたという。アインシュタインの論文には、「光電効果の理論」と「特殊相対性理論」の陰に隠れがちな「ブラウン運動の理論」があるという。

5. 統計力学
気体の分子が持つエネルギーは、全てが同じではない。個々の分子にはそれぞれ大小のエネルギーがある。よって、高いエネルギーを持った分子の集まる部分とか、低いエネルギーを持った分子が集まる部分といった現象がある。このエネルギー分布は統計力学によって求められる。気体分子のエネルギーを表すのが、マクスウェル・ボルツマン分布で、ニュートン力学から導かれる粒子を元に計算される。そして、その総和(ベクトル和)が統計力学として求められるわけだ。とはいっても、全てのベクトル方向を予測できるものではない。どうしても確率論に持ち込まざるを得ない。よって、最も起りやすいエネルギー分布として議論することになる。そこで、登場するのが、「ラグランジュの未定乗数法」である。
しかし、電子の運動は、マクスウェル・ボルツマン分布ではなく、フェルミ・ディラック分布に従う。他にもマクスウェル・ボルツマン分布に従わない粒子が存在する。ニュートン力学では扱えない粒子である。電子などフェルミ・ディラック統計に従うのがフェルミ粒子。光子などボース・アインシュタイン統計に従うのがボース粒子。電子の特徴は電荷を持っていることであり、外部からの電磁場でかなり自由に操れる。一方、光子は電磁場による直接的な影響を受けないので遠くへ飛ばしやすい。したがって、現在の通信手段で最も大きな容量をささえているのが、光ファイバーということになる。通常の粒子は二つあれば、その区別がつく。しかし、フェルミ粒子やボース粒子は、その区別がつかないという奇妙な性質がある。おまけに、フェルミ粒子は「パウリの排他原理」の制約に従う。

6. フェルミ・ディラック分布とボース・アインシュタイン分布
フェルミ粒子は、絶対零度でフェルミ・エネルギーの大小関係で存在確率が0%か100%のどちらかになるという。だが、室温では、フェルミ・エネルギーで存在確率が1/2になるという。その中間的な位置は、お湯を沸かした例で説明がなされるのは分かりやすい。分子が水として存在するものと、水蒸気として存在するものに分かれ、水面がフェルミ・エネルギーというわけだ。あらゆる原子は、原子核と電子でできているので、電子の分布が観測できれば、物質自体の分布を観察することができる。フェルミ・ディラック分布は、電子の分布を論じたものであり、固体物理学や半導体工学で重要な役割を果たしている。
では、ボース粒子はどうなるのか?アインシュタインは、分子間に相互作用のない理想気体を冷却すると、ある温度以下では最もエネルギーの低い状態に多数の粒子が集まることを理論的に導いたという。例えば、液体ヘリウムの超流動現象である。液体には水のように粘性があるが、ボース粒子は冷却していくとその粘性がなくなるという。そして、超流動状態になると、分子1個しか通れないほどの隙間を抜けたり、容器の壁をよじ登って外にあふれたりといった面白い現象が起こるという。まさしく量子の世界は何が起っても不思議ではない。量子の世界では、エネルギー障壁を越えるトンネル効果という現象もある。

7. ボルツマンの原理
ボルツマンの原理は、エントロピーの統計力学的な表現であるという。
「ある系が、場合の数の多い状態に向かって変化していく。」
エントロピーというと、一般的には「乱雑さ」と表現される。なるほど、乱雑さを「系の場合の数」と考えればいいようだ。「系の場合の数」は、「存在確率の最も高い分布の場合の数」へと近似される。そして、安定な分布の場合の数となり、この数が増える方向へ分布するという。より安定状態に変化するというのが、エントロピー増大の法則というわけか。

2009-09-13

"Beautiful Code" Brian Kernighan, Jon Bentley, まつもとゆきひろ 他著

冒頭には、竹内郁雄氏の「推薦のことば」が記される。
「...プログラムコードには、およそ人が「書く」もののエッセンスのほとんどが詰まっている。よい問題解決に始まり、設計、製造、検査、保守改良に至るソフトウェアのライフサイクルをきちんと制御する能力の大半は、実は文章の力であり、文章の力はよいコードを書く力とほぼ等価である。つまり、「美しいコード」を書けるということは、たとえ、コードを書くチャンスがなくても「美しいソフトウェア」を開発できるということなのだ。...」
アル中ハイマーは、このフレーズにいちころなのだ。本書には、33ものプログラマによるエッセンスが熱く語られる。そこには、一流と言われる技術者たちの哲学や美学が現れる。そして、プログラムを書くということは、単に記号を打ち込むというものを超越した世界があることを教えてくれる。
ところで、プログラムを書くことと文章を書くことが等価であるならば、ごちゃごちゃな文章を書くアル中ハイマーは、いつもスパゲティコードを書いていることになる。ちょっと落ち込むなぁ!それにもめげず、今宵も酔っ払った文章を綴るとしよう。ちなみに、おいらはソフト屋ではない。電子回路に実装するためのアルゴリズムやアーキテクチャを設計するハード屋である。それでも、検証モデルを構築するためにプログラムを書く。また、回路設計ではハードウェア記述言語を用いるので、本書がまるっきし別世界というわけではない。むかーし、組込み系のソフトを作っていた時代もある。リアルタイムOSとまではいかないが、リアルタイムモニタ程度の規模でOSもどきを作っていた。はたしてその実体はハード屋か?ソフト屋か?いや、雑用係だ!したがって、アル中ハイマーは、ハードボイルドをモットーに、ソフトなピロートークを持ち味に生きるのであった。

コンピュータの分野が客観の領域にあるのに対して、「美しさ」という感性は主観の領域にある。プログラムは正確に動作しないと全く意味をなさない。正しいか間違っているかは客観の領域にある。ここに、ソフトウェアの本質は主観と客観の双方の領域をまたぐことになる。ポール・グレアム氏の著書「ハッカーと画家」では、プログラマの芸術的感覚に迫っていた。客観に固執したところで所詮は人間のやることであり、主観を無視することもできまい。いや、むしろ主観の領域にこそ、技術者の哲学や美学が顕になる。こうした感覚は経験則から培われるところが大きい。自らの失敗を振り返り、より効率性を求めた結果、技術者の細かいこだわりが現れ、それが「美しさ」への探求へと進化する。こうした過程は、技術者の生き方を物語っていると言ってもいいだろう。
プログラムに求める美しさには、外観の美しさ、インターフェースの美しさ、構造上の美しさ、数学的単純さ、アルゴリズムのエレガントさなどがあり、その視点は多様である。ただ、共通して言えることは、ある機能をソフトウェアで実現するということである。つまり、実現性を前提とした芸術性の探求である。
プログラムに現れる効率性や移植性や柔軟性といったものには、芸術家を思わせるものがある。すべての要素が調和した時にのみ、信頼性と美が融合した時にのみ、コード作成者に対して芸術家に対するのと同様の敬意が表される。それがシンプルで長期間に渡って恩恵を与えているものであれば尚更。しばしば、入門書に登場する決まり文句も、発案者への敬意として使われる。単純な数学的考察であっても、ユークリッドは永遠に崇められるであろう。
美しいプログラムを書きたければ、美しいプログラムを見ることだとは、よく言われる。確かに、優れたプログラマのコードを眺めるだけでも勉強になる。優雅さと経済性を見せ付けられれば、そこには美しいコードとなる要素があるはず。科学の美的感覚は単純さを求めるが、プログラムにも同様の感覚がある。ただ、コンパクト過ぎると逆に読み辛い場合もあれば、難しいテクニックで記述を短縮して理解し辛い場合もある。コードが処理速度に制約を受けることもあり、自由に書けるとは限らない。プログラマの腕の見せ所は、コンパクト性とメンテナンス性のバランスの按配であろう。

データ構造の抽象化によって一般化する様式は、美的感覚を共有することができる。非連続性のデータ構造に対して強力なイテレータが登場すれば、一般化したコードが書きやすくなる。これも外見の美しさである。美しさを感じないが、どうしても避けられない機構もある。例えば、正規表現は文字列操作には欠かせない。これは非常に便利な機構であるが、方言があるのも事実だ。正規表現でしばしばイライラさせられるのは、そこに暗号めいた記法があるからである。それでも、酔っ払いには決まったいくつかの正規表現だけで、ほとんど事足りる。
また、美しさというよりも、むしろ一貫性と捉えるべきものがある。unix的な慣習で見られるようなドライバモデルには、その外見に一貫性が見られる。システムコールが提供するopen/read/write/closeパラダイムは、入出力装置の性能を最適化してバッファリング効果を助ける。そして、アプリケーション側でタイミングを制御するflush操作が実装される。
プログラミング言語の選択も、作業効率を求める手段となろう。連想記憶といった機構を使いたければ、それを実装した言語を使いたい。RubyやPythonのような動的な言語には、連想記憶を定義する構文が用意されている。テキストの行に、正規表現を当てはめたり構文を当てはめたりする思想は、awkのような言語から受け継がれる。ネットワークのプログラムでは、CレベルのAPIを使うところに鬱陶しさがある。また、しばしばOS間での互換性の問題も発生する。それでも、フレームワークや言語仕様などで、低レベルのAPIをカプセル化し、使いやすくはなっているのだろう。最近のことはよく知らんが。
こうしたものをすべて「美しい」という言葉で括れるのかどうかは、判断の難しいところである。ただ、技術者に思想や哲学の方向性を示してくれるのは、共通認識を与える効果がある。

経験上、一度やった仕事は、もう一度やればもっとスマートにやれると、必ず反省する。だが、同じような仕事を繰り返すことは滅多にない。反省も再利用と移植性に富んだものにしたいものだ。おいらの場合、仕事の美しさを上流工程に求めるところがある。上流工程の重要性は、かつて所属した企業で伝統的に先輩から叩き込まれたような気がする。おかげで、早い段階から仕様の疑問に飛びつく癖がある。システム構成の変更は、後の日程に大きな影響を与えるからである。事前検討がしっかりなされた仕様は、なによりも日程を正確に見積もれる。日程で一番厳しい状況にあるのは検証期間であろう。検証効率を上げるためにも上流工程は重要である。
また、プロジェクトには、哲学的意識をメンバーで共有するのも重要であろう。哲学的意識はプログラムの書き方にも影響を与える。手段であるプログラミング言語の選択も難しい問題である。より効果的な言語が存在するはずだが、スキルによって制限される。ちなみに、最近遊びで書くコードはRubyばかり。酔っ払いには、動的な記憶領域の管理などランタイム機構に任せるのが身のためである。そこで、スクリプト言語を多用することになる。とはいっても、だんだん保守的になって手段もワンパターン化してきた。新しいことも遊びでしか試さない。そんな時、「もう歳だねぇ!」と声をかけられると過剰に反応するので、周りはおもしろがる。もともとはデータの型が明確でない言語を嫌う傾向にあったが、だんがん面倒になってきた。Ruby開発者のまつもとゆきひろ氏によると、型も大切だが言語の本質ではないと語ってくれるのは心強い。

本書は、いろいろな専門分野における主観的観点が覗けるのがおもしろい。それほど美しいと感じないものもあり、感覚の違いが体感できる。また、プログラムに対する謙虚さの大切さを教えてくれる。クヌース先生は、2分探索が公表されてからバグのないコードが公表されるのに12年以上経っていると指摘したという。もっと驚くべきは、何千回も実装され作り変えられてきたベントリーの公式の証明済みアルゴリズムでさえ、配列が大きくアルゴリズムが固定小数点演算を使用した言語で実装されているときに出現する問題があるという。ちょっとおもしろいエピソードでは、スティーブン・レビーの歴史古典「ハッカーズ」にビル・ゴスパーの「データはバカバカしい種類のプログラムである」というのがあるらしい。逆に言うと、「コードはスマートな種類のデータである。」というのが導かれるわけだが、このことから、チャールズ・ペゾルド氏は、次のように語る。
「プログラムとは、CPUが何か役立ったり面白いことをする引き金となるようなデータというわけです。」

さて、あまりにも多くの中から、ちょっと興味を持ったものを摘んでおこう。

1. クィックソート
「私が書いたことのある、一番美しいコード」として紹介されるのがクィックソートである。ソート処理で重要なのは、いかに比較の回数を減らすかであろう。そこで注目すべきは、選択される比較の対象をランダムで選ぶところである。ネット検索など、ランダム性を利用したアルゴリズムで処理の効率化を図るシステムは多い。完璧な検索結果を時間をかけて得るよりも、だいたい正しいだろうとする結果を高速で得られる方が有用な場面では、確率論に持ち込むアルゴリズムが有効となる。
本書は、その実行時間の分析を、ソートプログラムを使って計測しているのは分かりやすい。ゲーテの言葉「建築は凍りついた音楽だ」をもじって、ジョン・ベントリー氏は、「データ構造は凍りついたアルゴリズムだ」と語っている。そして、クィックソートのアルゴリズムが凍りついたら、そのデータ構造は2分木になると。なるほど、クィックソートのデータは、2分探索木のような構造になる。クヌース先生も、2分木構造の処理時間はクィックソートと類似した漸化式になると言ったという。

2. BioPerl
BioPerlは、生物情報学向けのラピッド開発ツールキットだという。これはDNAとタンパク質の解析、系統木の建築と解析、遺伝子データの解釈、ゲノム配列の解析などのモジュールを提供するのだそうな。本書は、Bio::Graphicsの例を使って、そこで使われるオブジェクトクラスを紹介している。ただ、これがPerlで書かれていることに驚いた。暗号っぽい言語は、遺伝子暗号を解読できる道具となっているというわけか。簡単にカスタマイズや拡張される様子を眺めていると、つい読みいってしまう。Perlは、あまり好きな言語ではないのだが、時々要求されるので仕方なく使う。

3. 遺伝子ソータ
遺伝子ソータはCGIスクリプトで、web上でユーザとの対話管理で使われるという。CGIスクリプトは提供する側のマシンで動く言語ならなんでもいいわけだが、これはC言語で書かれているらしい。少々大きめのプログラムで構造上の美しさを語っているが、要するにオブジェクト指向設計になっている。

4. ガウス消去法(LU分解)
コンピュータの技術革新で、アーキテクチャの変化に応じて、アルゴリズムも変化する場合がある。その例として、連立一次方程式を解くためのガウス消去法を紹介している。これは線形代数では欠かせない行列に対する操作アルゴリズムである。LU分解は、数値演算言語で実装されている関数なので、おいらは無条件に利用している。線形代数のカーネルであるBLASやLAPACKは、気まぐれで中身を覗くこともあるが、何も知らずに使う方が幸せである。
ベクトルマシンが登場すれば、行列アルゴリズムをベクトル化することに、一層の意味があるだろう。マルチコア化が進めば、並列アルゴリズムが有効となる。マルチスレッドによってブロック分割アルゴリズムを、ベクトルや行列レベルの演算で高度にチューニングすることもできる。

5. MapReduce
MapReduceは自動的に並列実行されるもので、gさんが開発した。実行時にシステムが入力データの分割を担い、一群のプログラム実行をスケジュールし、マシン間の通信を管理する。つまり、並列分散システムの経験がない技術者でも、大規模な分散システムの資源を容易に利用できるというわけだ。これは、並列処理の抽象化とでも言おうか。MapとReduceに分離して並列処理する仕掛けは、Mapでレコード毎の処理を定義し、Reduceで繰り返し処理を定義し、それぞれMapとReduceのドライバが管理するといった具合。この分離というか抽象化をうまいことやれば、かなり精度のよい並列処理が実行できるようだ。これはなんとなく凄い!

6. Schemeのsyntax-case
コードとデータは、通常はっきりと区別される。ただ、コンパイラから見れば、コードも単なるデータである。合理的に眺めれば、コードとデータはバイト列に過ぎない。こうした感覚は、lispの哲学が内包されているように思える。プログラムとデータが同じ形式というか、プログラムにはそもそも構文らしきものがないというか。lispには、そうしたなんとなく謎めいたものを感じるからである。構文の抽象化という意味で、Lispには昔から興味を持っているのだが、いまだに手を出せないでいる。

7. Emacspeak
emacsがただのエディタではないことは分かる。メールを読んだり、webを閲覧したり、シェルコマンドを実行したり、多様な用途のプラットフォームもどきになっている。周りには、マウスに頼った操作が嫌いな人で、emacsを愛用する人も多い。emacs-lispを実行できるところに、即テストできるという馴染みもある。
本書は、音声デスクトップ環境としての、Emacspeakを紹介している。完全な音声のみのデスクトップ環境というところに、emacsの可能性を垣間見る思いである。そこには、障害者向けの環境構築といった可能性がある。

2009-09-06

"ユリイカ" Edgar Allan Poe 著

本書を知ったのは、ポール・ヴァレリーの短編「ポーのユリイカについて」を読んだからである。そこには、自然科学を情熱的に語ったものだと絶賛していた。ヴァレリーの論評した作品は是非読んでみたい。
ところで、エドガー・アラン・ポーというと、推理小説のイメージしかない。だから、江戸川乱歩も名前をもじったのだろう。本書は、科学書という意外性が余計に興味をそそる。訳者八木敏雄氏によると、ポーは旅先でこんな手紙を残したという。
「...私は死なねばならないのです。ユリイカをなしおえてしまったので、もう生きていく意欲がありません。...」
そして、ボルチモアで客死する。享年40歳、路上で倒れているところを病院に運ばれ、そのまま死んだという。なんとなくガウディの死を思わせる。その死因は酒の飲み過ぎかどうかは分からない。この残された言葉には、「ユリイカ」に自らの生き様を託した情熱が伝わる。

ポーは、宇宙論を徹底して直観のみで語ろうとする。ここで注目すべき概念は「一貫性」である。彼は、真理を発見する唯一の方法は一貫性に頼るのみと主張する。科学の世界には、プラトン時代から継承される哲学がある。それは、どんな複雑な現象も、背後には単純な自然法則が潜んでいるに違いないと信じる執念である。エンジニアの世界にも「Simple is the best.」を信仰している人は多い。しかし、現在、人間は複雑系と対峙する。もはや、人間の手に負える知的領域に留まっているのは、ユークリッド幾何学のみに思える。現代の物理法則は、世界を支配できなくなり、精神の弱点と似たものになりつつある。数学では、いつも割り切れない少数が残り、人間は不安と不徹底感に苛む。こうした光景を眺めていると、ポーの愚痴が聞こえてきそうだ。
ポーは言う。数学者たちがいかに主張しようとも、公理の証明などありえないと。それは、単に真理が存在するだけで、それを証明できるのは神だけだと言っているかのように。おまけに、宇宙を包括的に概観した論考の存在を知らないと、科学者を挑発する。
「論点の多様性は、必然的に細部の累積と概念の錯綜をもたらし、印象の全体性の把握をさまたげる。」
ポーは、科学が精神的な気質の持ち主による考察がなされないことを嘆いている。そして、宇宙を不可分な全体として如実に実感できるような宇宙の観察法を提示する。山頂で荘厳なパノラマを旋回しながら全体を眺望するような、そうした宇宙の眺め方とでも言おうか。あらゆる真理が自明であれば、公理から論理的結論が容易に導かれ、悩みも単純になるはず。真理が自明ではないから、哲学的あるいは精神的考察が繰り返され、悩みの根源も見えない。人類は永遠の試行錯誤の中を生きるように運命づけられるようだ。
更に、ポーは続ける。ただ直観に従うことによってのみ真理へ近づくことができると。ガウディも似たようなことを語っていた。自然法則を見つけるためには絶対に直観に忠実であるべきだと。
ところで、直観は限りなく主観の領域にある。芸術は主観性の領域にあり、科学は客観性の領域にあるというのが一般的な見解であろう。古くから哲学的な論争に、理性と芸術の衝突がある。科学者の中には、芸術的主観や直観的方法を蔑む人も少なくない。彼らはもっぱら客観的論考のみを推奨し、主観的思考を排除しようとする。だが、科学は天才たちの直観によって発展してきた歴史がある。客観性を主張する科学者ですら、人間のご都合主義に嵌ってしまった例は多い。説明ができないからといって、真理から遠ざかった他の方法で仮説を匂わせ、エーテルの存在をも示唆してしまった。主観と客観は人間の持つ本質であって、真理を探究するにはどちらからも逃れられない。
アル中ハイマー曰く、「主観と客観の双方を凌駕してこそ、人間の持つ合理性に近づくことができると信じている。」

なんといっても、本書の迫力は、科学を徹底的に直観で言い尽くすところにある。直観的憶測法とでも言おうか。まるで科学的思考を否定しているかのように。これは科学への挑戦か?そして、アリストテレス的な演繹的方法論と、フランシス・ベーコン的な帰納法的方法論の双方を皮肉る。だが、直観で語るとは、どんな方法論を用いたところで、人間が認識できる閉じられた領域で議論されているに過ぎない。人間の認識できる宇宙は、特異点という限られた世界でもがき続ける。はたして、限定宇宙の中で、哲学的論考だけで真理に近づくことができるのだろうか?アリストテレスにしてもベーコンにしても、彼らが自負しているほど深遠な論考ではないのかもしれない。
本書に展開される宇宙論は厳密な科学論文などではない。既に確立された真理への方法論に対する揶揄に過ぎない。そこには、科学への愚痴っぽい話を詩的な表現で綴られる。だからと言って、本書が科学の領域から飛び出しているとも考えにくい。物質的宇宙論に対する詩的宇宙論とでも言おうか。詩的思考が真理を導く可能性がないとも言えないだろう。本書はむしろ芸術の領域に近いが、それでも科学の領域に違和感なく存在し続けるような不思議な世界がある。もちろん、神学の世界でもない。なぜか?こうした科学の精神的な考察には癒されるものがある。それだけ歳をとったということか?いや!それはありえない。アル中ハイマーの年齢はモジュロ計算とともに常に生まれ変わるのだから。サイクリック宇宙論のように。そして、周りの人々はどんどん追い越していく。あれ?宇宙は、膨張と収縮を繰り返しながらエントロピーを蓄積してるんじゃなかったけか?なるほど、歳を重ねるとは、エントロピーの蓄積を意味するようだ。
本書は、物質の基本要素を「引力」と「斥力」の二つのみと断定し、宇宙構造をこの二つの要素のみで語る。そして、二つの基本要素を「神の心臓の鼓動」と表している。
ところで、物事の本質を探求することは、よりプリミティブな方向へと向かうのだろうか?科学は宇宙を解明するために原始粒子を探求する。芸術は美を解明するために自然を探求する。哲学は人間精神を解明するために実存と対峙する。そして、人間は最高位の価値観である幸福のために「笑い」の感情を求める。プリミティブな「笑い」には、箸が転がるだけで笑える感覚にこそ本質がある。したがって、アル中ハイマーは女子高生に弟子入りしようと、逆援助交際を目論むのであった。

1. 無限の概念
人間の認識は、無限の概念をあっさりと受け入れる。人間はなぜ?このやっかいな概念を受け入れられるのだろうか?微分という数学の道具を使って「無限」に近づこうとする。だが、永遠に近づこうとするということは、永遠に到達できないことを意味する。逆に、「有限」の概念を考察すれば、それだけでは語れる世界が狭いことに気づかされる。「無限」の概念は、単に「有限」との対比として存在するだけなのかもしれない。単に、「無限」の概念を受け入れながら、精神の安住を求めているだけのことかもしれない。
ところで、本当に限界に達してしまうから有限なのか?有限と無限の境界には、いったい何があるのか?「俺は酔ってないぜ!」と永遠に酔っ払っていることを否定し、どこまで飲めるか限界を試す。だが、記憶を辿れないから永遠に飲める量が解明できない。つまり、有限も無限もその境界線は永遠に解明できないというわけだ。そこで、アル中ハイマーはある結論に達する。表面的には酔い潰れてその場に寝込んでいる状態が有限の概念であり、精神だけが「ああ気持ちええ!」と幽体離脱した状態が無限の概念であると。人間は、無限という実体があるのかも分からない言葉に惹かれる。人間の精神には、幻影を追いかけ続ける性質があるのだろうか?得体の知れない観念を熱烈に求めるのは、人間の持つ本質なのかもしれない。だから、実りもしない愛を求めるのだろう。愛は実を結んだ途端に興ざめするものである。

2. 引力と斥力
すべての物体は原子粒子から構成される。宇宙も原始粒子から成り立つ。では、原始粒子はどこまで極小なのだろうか?引力によって、原子相互作用の中で物質の構成が維持されるが、双方の原子が無限に接近しても接合することはない。そこに斥力が存在するからである。斥力は絶対に極小粒子の融合を許さない。引力はニュートンの重力法則によって説明される。では、斥力の正体は?時には熱、時には磁力、時には電気であって、二つの物体の異質性の原理に基づく。これは、二人の男女がどんなに愛し合って合体しようが、決して心が一つになることはありえないことを教えてくれる。人を強制しようとすると必ず反発力が発生する。
本書は、引力と斥力の基本原理を、物質的なものと精神的なものを融合しながら語る。引力を肉体とするならば、斥力は魂という形で表現しながら、前者は物質の本質を暴こうとし、後者は精神の宇宙原理について考察する。そして、宇宙は引力と斥力によってのみに支配され、物質の正体は引力と斥力の要素のみで説明できると主張している。これは、人間の死で、肉体が亡びると魂も亡びると言っているのか?これは、どこぞの宗教を否定しているのか?酔っ払いの解釈はますます拡がる。

3. 拡散宇宙
本書は、拡散の均等性から真理へ迫ろうとする。そこにはビッグバン説とも言える世界がある。ポーが生きた時代からするとビッグバン説はずっと後に登場するが、観測的な知識があったのだろう。それとも、宇宙創造説という宗教的思想からの派生か?ここでは想像するしかない。星が宇宙空間に無限に拡散している状態を説明するには、放射の観念を必要とする。その出発点を絶対的な点とするならば、現存する宇宙はこの点からの放射の結果ということになる。本書は、これを光の現象で説明する。つまり、光は発光地点を中心に放射される。放射が距離の二乗に比例して拡散すると仮定するならば、逆に物理現象である集中は距離の二乗に反比例して収縮することになる。そして、放射された物質が復帰する仮定には、重力の増大という直観的結論に達する。まるで拡散宇宙にブラックホールを対比するかのように。
ところで、拡散の均等性には真理があるのだろうか?天文学では、ビッグバン説を補完するためにインフレーション理論が登場した。つまり、宇宙の平坦性を説明するために、瞬間的な膨張期間があるという仮説である。だが、本書の思想からすると、こうした特異期間を持ち出す発想そのものを嘲笑している。現在ではサイクリック宇宙論の登場で、拡散と収縮を繰り返しながら徐々に宇宙が巨大化したという説が有力である。そうした時代の流れを、本書は先取りして直観的に示唆していたのだろうか?
「反作用とは現状の、そして不当な状態から、原初的既往の、それゆえに正当な状態に復帰せんとする傾向のことである。... そして、その反作用の絶対的強度は、もしその原初の事態の実体、真実性、絶対性、を測定しうるとするならば、それらと常に正比例するにちがいないのである。」
この言葉は、拡散宇宙が、いずれ収縮に向かうことを示唆しているかのかもしれない。
ところで、爆発的な人口増加や、複雑化する人間社会は、エントロピー増大の法則に従っているのだろうか?いずれ反作用によって、人口増加は減少に転じるのかもしれない。ただ、宇宙の規模に比べれば、人口増加など些細な現象である。人類が一瞬のうちに滅亡しても、些細な特異点として片付けられるだろう。人間の存在は、宇宙法則の中に紛れた気まぐれな特異現象の一つに過ぎないのかもしれない。

4. 生命の進化
「地球の生命力の進化の度合いは地球の収縮の度合いと一致するという命題に到達する。」
動物の系譜をたどると、地球の収縮が進行するにつれて、より優れた種類の動物が出現したという。地球上の変革が起こるたびに、それにともなった生命体の進化があったと。ここでは、地球に及ぼす太陽の影響力が変化するたびに、生命体に影響がもたらされるという仮説を立てている。
そういえば、子供の頃、太陽系を眺めた時、直観的に太陽を原子核、惑星を電子と重ねたものだ。そして、どんな小さな空間にも、極小の宇宙が無数に存在するのではないかと想像したものだ。自然法則が引力と斥力のみで支配されるならば、太陽系はすばらしい原子モデルである。それも、学校帰りのラーメン屋でいつも考えていた。スープの中にも宇宙があって、極小の生命体が存在するかもしれないと。麺を浸すと、スープの波が発生して突然の宇宙変革が起こるなどと。また、生命体の大きさは、そこに住む天体の質量によって相対的に最適化されるに違いないと考えたりもした。時間の概念も、生命体の住む天体の質量に応じて、長さの感覚が得られるのではないかと。同じレベルで考えるならば、人類の住む宇宙はグラスの中に注がれたアルコールの中に存在するのかもしれない。そして、太陽系はアルコール原子だと考えれば、俗世間に酔っ払いが溢れるのも説明ができる。酔っ払いは同じ言葉を同じ調子で口走る。これがステレオタイプというわけだ。時代が経てば、アルコールの熟成度も上がって、強烈な酒へと変貌していく。そして、人間社会の泥酔度も増していくのだろう。
ところで、科学の進歩に限界があるのだろうか?と考えることがある。科学の進歩は、宇宙の誕生から消滅までの仮定に同期しているのではないかと。つまり、現在は宇宙の青年期で、科学の進歩には無限に広がる可能性を感じる。いずれ膨張が停止すると、科学の進化も壮年期に入り、過去の知識に立ち返り、立ち止まる運命を背負う。そして、宇宙が収縮し始めると、科学は結末の覚悟を決める。この時に、人間は絶対的な価値観を会得できるかもしれない。ただし、宇宙消滅まで人類が存続できればの話だが。