2008-07-27

"ヴァレリー・セレクション(下)" Paul Valéry 著

上巻に続いて、何度も読み返しながら進んでいると、読破するのに一ヶ月もかかってしまった。歳をとると、こういう世界を欲するようになるのだろうか?いや、まだ若いからこそ癒しの空間が必要なのだ。アル中ハイマーは哲学の意義をごくたまーに考える。この一見高度に見える思考は、生きる上であまり役には立たない。哲学は、苦悩する具体的な問題に何一つ答えてくれない。定義できない抽象的な問題を考察したところで、解決にはならない。そして、答えの見つからない宇宙へと放り出される。論理的な解明を深めると鬱病にさえなる。だからといって、それ以外に何ができるだろうか?だからといって、諦めるにはもったいない。哲学は、探求するプロセスを楽しむ世界である。素朴でなければ、その境地に達することはできない。そこが、暇人の学問と言えるところである。多忙に追われていては、触れることのできない領域に踏み込む。そして、そこに詩的なものが加われば、癒されることこの上ない。ヴァレリーの世界とは、そうした世界である。

本書を眺めていると、評論であっても芸術の域に達した独創的な文章に出会える。こうした文章を見せつけられると独創へ憧れてしまう。ところで、独創性とはなんだろうか?独創性とは、どうやって磨くのだろうか?上巻では意外なことが語られていた。それは、ほかの作品を養分にすること以上に、独創的なものはないというのだ。もちろん、そこには自らの精神を曝け出すのが鉄則である。偉大な芸術は、模倣されることを自然に受け入れる。優れた作品は、模倣しても、模倣されても、ゆるぎない芸術性を保つ。それに耐えうる、それに値するものにこそ、真の芸術があるということだろう。批評にしても、作品を語っているようで、実は自己を語っている。それは、気分や趣味にしたがって意見を述べているに過ぎない。日本の小説家で誰だったかは思い出せないが、似たようなことを語っていたような気がする。それは、独創性を磨くには、いかに多くの気に入ったフレーズに出会えるかにかかっているといったことである。個性を磨くにしても、いかに個性的な人間に出会えるかにかかっているのかもしれない。独創性とは、先人たちの苦悩と積み重ねによる賜物と言えるだろう。著者は、小説や詩というものは、純度の低い無意識的な応用に過ぎないと語る。そして、詩の創作とは、言語という材料によって模倣しようとする行為であるという。著者が文学に腹を立てているのは、科学と違って観念を扱う際に厳密さや一貫性や必然性を欠いていることだという。そして、文学の対象はたいていとるにたらないと語る。とはいっても、単に文法的な形式に従って言葉を並べても、そこに詩的な文章は現れない。たいていの人々は、生活の中に潜む幸運の産物に気がつかないでいる。文章の見事さや韻律の美しさは主観の領域にある。主観とは、精神の自由を探求するものであり、いわば本能との葛藤である。この葛藤の中から、形として表せるものを見つけ出すところに、芸術家の凄さがあるように思える。

芸術の一手段に絵画がある。これは人間の視覚に直接訴えるため、それだけで説得力がある。にも関わらず、絵画を文学という手段で評論し、更に芸術性を高めるところにおもしろさを感じる。特に、芸術感覚のないアル中ハイマーには、文章による解説は必須だ。しかし、芸術家は職人気質があるため、文学的な評論を拒む印象がある。お前なんかに俺の芸術が分かるもんかと嘲笑っているような気さえする。しかし、著者は、あらゆる芸術作品は人が答えてくれることを求めているという。そして、絵から談話の機会を奪い取ったら、その意味と目的を失ってしまうと語る。芸術作品には、作者の生き様が要約される。そして、自らの作品をより高度な複雑な領域に定義したがる。芸術家が自らの定義を文章に訴えた例は多い。レオナルドは事柄の様子を細かく叙述し、ドラクロアは様々な秘訣や方法を書き留めた。こうした過程で、芸術家は信念を高め、自らの五感へ働きかける。本書を読んでいると、芸術作品の評論とは、作品そのものよりも、芸術家の生き様を評するもののように思えてくる。美術館は独り言の好きな人間には最高の場所である。

本書には見事過ぎるほどの幻想的な光景が広がるので、記事にすることは難しい。また、酔っ払いが安易に記事にすると、作品そのものを壊してしまう気がする。だが、せっかく読んだのだから、要点だけでもメモることにした。

1. 海への眼差し
海辺で眺めていると、様々な考えの粗描、詩の断片、行動の幻、希望の脅威を精神の中に見出すと語る。そして、感情を持たないものの中で、海以上に自然に擬人化されたものはないという。その文章からは、地球、月、太陽、空気などの影響下にある巨大な液体に、素朴な精神は生命を吹き込もうとする。透明と光沢、休息と動き、静けさと嵐、法則と偶然、無秩序と周期、知的で幼稚、時には地質学的に、時には生物学的に、時のは物理学的に...人間の精神に照らし合わせた水への幻想的な表現が続く。そして、誰もが素朴な詩人になれると語ってくれる。そこには、音楽を聴いているような癒しの世界がある。

2. 「パンセ」の一句をめぐる変奏
パスカルの断片集「パンセ」の中の一句。「この無限の空間の永遠の沈黙がわたしを怖れさせる」これを題材にしてパスカルの人間像を評している。そして、悲劇の主人公説を否定する。これは詩であり思想というものではないという。「無限の空間」と「永遠の沈黙」を対称的に配置し、均整のとれた構成は見事で、一つの宇宙が創出される。そして、「この詩は完璧だ!」と語る。この句には、パスカル自身が世界から打ち捨てられ、絶望の境地が表れる。しかし、本当に全てが虚しいと感じるならば、そう書くことを自ら禁じるものだという。確かに、うまく書こうとするところに下心がある。自らを分析できる冷めた心が無ければ芸術は生まれない。芸術家は観察したものを誇張せずにはいられない。著者は、本当に宗教的な人間や、本当に思慮深い人間は、宇宙に空虚なものを見たりはしないという。そして、認識と救済との対立を大げさに誇張するのは、同じ時代にパスカルに劣らず優秀な科学者がいたからであると分析している。デカルトへの嫉妬心か?あらゆるライバルへの対抗心か?といった批評が展開される。

3. コローをめぐって
コローの絵の評論。コローは「大地」の姿を最もよく観察した画家の一人である。著者は、偉大な芸術家とは、知的で、理屈っぽく、美学に夢中になった連中であるという。偉大な芸術家は、偉大な理論家でもあり、人々に抵抗不能な効果しか望まず、服従しようと試みる。その一方で、コローは自分の感じるものへと誘惑し、自然に忠実に服従するのを願うという。著者は、芸術家が最終的に行き着くところは自然さだと主張する。コローは巨匠たちを尊敬してはいるが、他人の手段は邪魔だと考えているという。彼の作品は、波うってどこまでも続く「大地」に光をあて、音楽のような魅惑を引き出す。それは、生涯かけて学問の深さを追及した者にのみ得られる自然であり、ある日突然不意打ちのように現れるという。ライプニッツは0と1で全ての数が書けることを示した。芸術の巨匠にかかれば白と黒で同様のことができるということか。明と暗だけで、視覚的な表現には十分なのかもしれない。著者は、色彩画家は本質的に詩人であると語る。

4. マネの勝利
もし!「マネの勝利」という絵画を描くとしたら、この偉大な芸術家の周りを仲間たちで囲むような構想になるだろうと語る。そのまわりには、ドガ、モネ、バジル、ルノワールといった巨匠が並ぶが、誰一人として、テクニックも個性も違っている。彼らの共通は、ただ一つ、マネへの信仰だけである。マネには、それだけ不協和音を結束させるだけの力を持っているということだろう。マネの偉大さは、彼の意義を知っていた人の多さではなく、その心酔者たちの質の高さと互いに異種な人々だったことであると語る。

5. 地中海のもたらすもの
著者は、地中海の港の見える丘で育った。その精神が地中海から宿ったことを語ってくれる。人生の最初の印象を、地中海とその周りの人間から得られたことを幸運に思っているという。そこには、自然という恒久的な宇宙が存在するのと同時に、人工的に光景が変化する破壊との共存がある。神格的な地位にある海、空、太陽へ崇拝した時間が、著者の自己を形成していく。プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という言葉は、まさしく地中海的であるという。つまり、自然の多様さには、人間の専門化した能力を結集しなければ対抗できない。そして、精神が持てるということは、光と空間、余暇とリズム、透明さと深さといった自然の諸条件を感知することだという。歴史的には、地中海の物理的特質が、ヨーロッパの形成に大きな役割を果たしてきた。地中海の自然が提供したものが、ヨーロッパの精神の根元にある。今日の基礎となる政治体制や思想、哲学が、古代ギリシャをはじめとする地中海文明がもたらしたのは、こうした自然環境を抜きには語れないのかもしれない。そう言えば、ガウディも地中海に魅了された様を語っていたのを思い出す。

6. 舞踏の哲学
舞踏は、生そのものから引き出された芸術であり、決してつまらない娯楽ではないと語る。そして、人体には、生きる上で必要もない過剰な能力があることを知ることができるという。著者は、舞踏の動きの中に、陶酔するまでの快楽が得られると絶賛している。しかし、実は著者自身がステップを踏めないので、なんらかの哲学に救いを求めているだけだと言っている。哲学者はイメージの大好きな人種である。そして問いかける。舞踏とは何か?時間とは何か?宇宙とは何か?酔っ払いとは何か?と。人間は奇妙な動物で、生きるために全然重要でない行為に意義を認め価値を与える。人間の好奇心は、生存の要求以上に激しくなり、ついには芸術や科学や普遍的問題を創造する。舞踏は、大地、地面、固い場所といった対象物の中で行われる。しかし、女性舞踏家は、そんな対象物を無視して軽々としたステップで、楽しく踊りまくる。舞踏の終わりには、見せ物として都合上定められた限界があるに過ぎない。つまり、音楽という別の要素が終われば自然と舞踏も終わる。この終わり方は、夢の終わり方に似ているという。また、芸術の行為は舞踏と同じであるとも言っている。そして、詩の朗読を、言葉による舞踏状態と重ねる。音楽家も同様。芸術家にとって作品は決して完成しない。舞踏と同じで終わる手段は、何かが枯渇した時に得られる。酔っ払いの行為も、全てが夢心地であり、決して覚めない舞踏状態にある。

7. 人と貝殻
貝殻には、一方は管の概念、他方にはねじれの概念がある。原則は単純だが見事なまでに多様さがある。ここでは、螺旋、渦巻き、空間内での角と角、これらの関係と観察といった幾何学的考察が続く。そして、いったい誰がこれを作ったのか?という素朴な疑問との葛藤が始まる。精神の最初の動きは「作る」ということに思いをめぐらすことだという。これは最も人間的な概念なのかもしれない。「なぜ?」とか「どのように?」とは、「作る」という概念が要求することで、形而上学や科学はひたすらこれを求めてきた。本書は、更に素朴な疑問を人間が作ったものか?自然がつくったものか?と追い込む。音楽や詩の見事な作品は偶発的なものか?天才たちの突発的なひらめきは本当に人間によるものなのか?人間の行動は、瞬間的な、局所的な行為の連続から成り立つ。その瞬間を思考が意識できるものではない。人工的な産物は、思考が働いた結果によって作られたと言えるのか?貝殻の有用性とは何か?それを言うなら芸術作品に有用性があるのか?少なくとも貝殻は生物学上、有用かもしれない。哲学は滑稽で、全ての存在を疑ってかかるのに、宇宙の存在を真面目に語ろうとする。著者は、貝殻の問題はささやかなものであるが、人間の限界を照らし合わせるのには十分であると語る。

8. パリの存在
著者は「パリ」を思考する。二千年に及ぶ作品であるパリ。偉大な民族の資本と政治によって生み出されたパリ。甘美と労苦の集まり。多くの征服者により欲望の対象とされたパリ。そして、パリはあらゆる事柄にもまして最高位の精神的人格として存在するという。この大都市の絶え間ない活動が、善と悪、真実と虚偽、美と醜といったものが相矛盾し、いかにも人間らしいと語る。世界には、これに匹敵する都市は多く存在する。しかし、ニューヨーク、ロンドン、北京など、数百万の人口をもつ怪物たちと明らかに一線を画すという。多様で個性に溢れた都市だからこそ、芸術の都と言われるのだろう。当時のパリは、あらゆる分野のエリートたちが結集した時代である。パリは、比較の試練を受け、批判や嫉妬、競争、揶揄、軽蔑にもさらされてきた。著者曰く。「傑出したフランス人はすべて、この強制収容所に入る運命にあるのだ。」

9. デカルト
著者は、デカルトを注意深く考察すればするほど遠ざかっていくが、その解釈の分裂が心地良いと語る。精神を追求し、思考をめぐらせ、やがて疲れる。その疲れが、心地よい酔いをもたらし快感を与える。あらゆる思考を抽象化し、ますます深みに嵌る。無駄な努力と分かっていても、その衝動には勝てない。理性、知性、理解、直感が、互いに手段とも目的ともなり、問題とも解答ともなり、物とも観念ともなる。こうした思考は、哲学者を詩人へと導く。詩人の方はというと、逆の手順を踏んでも、なかなかうまくいかないようだ。著者は、科学の世界をデカルトの亡霊に勝手にしゃべらせる。宇宙が数学的に体系化できるとは考えていない時代に、万有引力の法則が世界を解放した。といっても、デカルト以来、不変なものをあれこれ変えてきただけではないかと問いかける。デカルトは自己意識を探求した。もし、自己の存在が証明できるならば、神が存在することも証明できるだろうと。そもそも自己意識の存在など証明できるのか?自然の威厳に比べれば、実存論や無意味論といった論争も無力化してしまう。デカルトがやろうとしたことは、自分の内にある一般化できるものを、最高点に高めようとしたと語る。

10. 対東洋
「自然」という語だけでも、癒される。「哲学」という語は魔法のように感じる。それがどういう意味かわからなくても。西洋人にとって「東洋」という語は、宝石のように思えるようだ。この言葉の効果は、その地方に行ったことがないことが必須である。その知識はせいぜい図像や物語で読んだ程度で、なるべく不正確に混乱した状態が好ましい。これが「精神の東洋」である。著者は、数々の豊かさや創造物の中から、論理性と明晰さが際立つ二つの系を発見したという。それは、ギリシャ芸術とアラビア芸術である。アラビア人は、ギリシャ幾何学から透明な妄想を過剰にまでに高め、その演繹的想像力は、宗教でタブー視されている厳格さを追求したという。それは、イスラムの教えに数学的な厳格さを適合させたアラベスクである。著者は、この禁止を気に入っていると語る。そして、偶像崇拝、まやかし、逸話、軽信、自然と生の見せかけといった純粋でないものを芸術から排除するという。

11. 身体に関する素朴な考察
生物の有機的組織といった全ての機能を人工的に作るとしたら、どれだけの機能を削減できるだろうか?と問いかける。血液など必要な成分が、機械によって確実に維持されるとしたら、生命を人工的にも維持できるだろう。生物の有機的組織がしている仕事といえば、血液の再生だけである。血液は身体を作り、身体は血液を作る。血液は循環路を通り、肉体内部の世界一周をしている。これこそが生命であり、実に単調な組織であり、精神が宿るなど思いもつかない。もし、血液が人工的に再生されるとしたら、生は無くなるのだろうか?精神が生命にとって不可欠な仕事をしているとすれば、それは状況の不確かさを予見する能力であろうか?無意識の操作や反射のような反応で事足りるならば、精神の出る幕はない。精神は、むしろ有機的組織にとって、かき乱し、台無しにしてしまうのが関の山である。人体のあらゆる機能を人工的手段で別の代用品で置き換えられるならば、もはや生は存在しないのかもしれない。その帰結として、感覚や感情や思考といったものは、生にとって本質ではないということになる。精神は、生命の保存にとって絶対不可欠なのだろうか?人類は、あらゆる定義を試みてきた。そして、最終的には、自らの可能性を思い通りにできる状態、「自由」とでも呼べる状態に置き換えてしまう。精神とは非存在という存在なのか?その存在を具象化しようと試みたのが本作品である。

12. ヴォルテール
フランス人の多様性は、ヴォルテールの中に生き生きとした形で現れると語る。ヴォルテールはフランス人特有のほとんどの欠点を持っていて、長所も最高レベルに達した典型的なフランス人だという。フランスという国は、理想どうしの不和、感情の対立無しではやっていけない国だという。ヨーロッパの精神として君臨したルイ14世は、ヨーロッパで指導的観念や精神で主導的立場に据えた。ところが、ヴォルテールは、この時代を死にいたらしめたと風評される。彼は全生涯を通して、偉大な時代の遺物や伝統や信仰や豪華さを焼き尽くすよう努めた。洗練された短気であり続け、敵対者を糧に生きた。彼の描いたコントや毒舌は、宗教に対してあらゆるゲリラ戦をしかける。その一方で、シェークスピアを流行らせ、ニュートンを研究し、神のために教会を建てた。そして、嫌悪、憎悪、礼拝、称賛される。ジョゼフ・ド・メーストル曰く。「彼の銅像を建てさせたい。死刑執行人の手で。」この悪魔のような奇妙な人間は、哲学者ではないと評された。こうした批判は、彼が才気にあふれていたことに向けられたと語る。世間は、彼を冷淡で上辺だけの人間と評する。そこで著者は問いかける。それもよしとしよう。では、奥深く情け深いと言われる人間が、どれだけのことをしたというのか?と。ヴォルテールは60歳頃、訴訟を中心とした政治活動を行う。それまで刑法は、社会秩序や国家や宗教に対する違反や侮辱のみを罰してきた。しかし、彼は人類に対する犯罪、思想に対する犯罪があることを叫んだ。さらに、裁きそのものが犯罪になることを訴えた。そして、公権力が感情的になることを阻止しようとした。著者は、支配的権力を窮地に陥れたヴォルテールの功績を賛る。

2008-07-20

"ヴァレリー・セレクション(上)" Paul Valéry 著

久しぶりに素晴らしい文学作品に出会った。おそらく、ここ数年で最も感動した本である。これは、本を読んでいるというよりは、草原でオーケストラの生演奏を味わっているかのようである。芸術の域にある文章とはこういうものを言うのだろう。何度も読み返しているうちに、読破するのに一ヶ月以上かかってしまった。おっと!まだ下巻が残っている。

作家ポール・ヴァレリーを知ったのは、三島由紀夫氏の著書「文章読本」の中で一瞬触れられているのを見かけたからである。そこには、評論の中にも、高度な芸術の域に達したものがあると紹介されていた。アル中ハイマーには全く文学センスがない。文学の意義など考えたこともない。そもそも言語で人間の感情が完璧に表現できるとは信じていない。とは思っても、巧みな文章で魅了する作家がいる。時々疑問に思うことは、文学作品を作るのに体系化した黄金手法などあるのだろうか?ということである。著者は、若い頃、そうした究極の奥義があることを信じていたという。しかし、結局のところ作家の精神の中にしか見つからないらしい。どんなに巧みな比喩を乱用しようとも、作者の意図に関わらず読者の個性によって調律される。読者の微妙な感覚の違いを文学が統一することもないように思える。しかし、ここまでは素人の感覚のようだ。著者は、言語と感情の不変的な関係の探求を諦めることは、文学者として怠慢であると主張する。そして、文学の歴史でこうした難問に立ち向かったケースがあまりに少な過ぎると嘆いている。確かに、諦めることと解読できないということは違う。著者は、文学の意義を正面から向かい合った結果、倦怠感が募り、書いたり読んだりすることを止めていた時期もあったと語る。多くの哲学者や数学者がそうであるように、天才とは鬱病と闘う運命にあるのかもしれない。本書には、文学の意義となりそうな部分がちりばめられている。もちろん結論などあろうはずがない。それはどんな学問でも同じである。そもそも人間の存在意義すら答えが見つからないのだから。意義が明確にできるならば、問題ははるかに簡単である。説明がつかないから芸術の域にある。本書は、限りなく抽象的な感覚を与えながら、冷静に観察すると単語一つ一つには具体的な言葉が踊る。詩的な要素も多く、なんとなく崇高な精神を呼び起こす。宗教的かと言うとそうでもない。扱っている対象が、社会、政治、哲学への批判もあるので現実感もある。

本書は、訳者が評論集「ヴァリエテ」を中心に選んだ傑作集である。著者が日記のように思考を書きとめた「カイエ」の一部「一詩人の手帖」や「言わないでおいたこと」も収録されている。ちなみに「カイエ」は3万ページという膨大な量にのぼるという。特に「言わないでおいたこと」の中で登場する「ロンドン橋」の一節は感動ものだ。ほんの数ページほどの短編であるが、ここだけでも何度読み返したか分からない。しかも、その日の気分によっていろいろな精神が呼び起こされる。そこには、ロンドン橋から眺めた生活にさまよう盲目たちの群れが描かれる。著者はその光景を見て孤独感に襲われる。そして、「私は、ロンドン橋の上で、詩の罪を感じていた。」と語る。確かに、扱う対象としては不謹慎かもしれない。しかし、あまりの見事な文章に癒されるという衝動には勝てない。

本書には見事過ぎる幻想的な光景が広がるので、記事にすることは難しい。また、酔っ払いが安易に記事にすると、作品そのものを壊してしまう気がする。だが、せっかく読んだのだから、要点だけでもメモることにした。

1. 建築家に関する逆説
三百年にも渡って不当に建設されてきた建築物を嘆いては、その救済を待ち受けるかのごとく語られる。オルフェウスの時代、大理石に精神を刻み込んだ。別の時代には、大聖堂の神秘が、諸民族の敬虔な魂を永遠のものにした。その後、建築物には沈黙と衰退がやってきた。壮麗な芸術も枯渇した。といったことを幻想的に表現している。また、ベートーヴェンやワーグナーといった偉大な交響曲を引き合いに出す。それでも19世紀末期には、もう一度芸術性を取り戻そうという動きがある。著者は、芸術家の思考や精神が再び宮殿や神殿に宿り、観賞する者に癒しや悲しみや笑みが見られることを願っていると語る。

2. 方法的制覇
時代は20世紀前半、戦争気運が高まる中、ドイツを軍事的な驚異だけでなく、経済力の驚異が迫りつつある様を描いている。そこで描かれる有効なメカニズムは、一方法の成功と見ることができる。政治構造や軍事体質が、経済発展の基本構造までを席巻する。生産や交通の方式は粗野にして確実、あらゆる困難を分割し断片化する。そして、個人には凡庸さを求める。著者は、このシステムが、無差別で困難を分散する仕組みであることを見抜いている。今日でも、方法論を持たない製造者が「良い製品は必ず売れるはずだ!」と発言するのを見かける。だが、抜け目の無い製造者は、製品の定義を曖昧にせず偶然任せにはしない。まさしくドイツは、論理と幸運とを両立させる努力をしていると評している。また、規律の元に着実に前進したドイツは、いずれ世界の富を手中にするだろうと予測している。地上のあらゆる凡庸さが、いずれ世界で勝利するのかもしれない。しかし、この方法論が好ましいとするならば、人類にとって奇妙な結果であると皮肉も混ぜている。

3. ブレアルの「意味論」について
言語はどのような変化を受けても、いくつかの特質は不変であると語る。その不変性には、精神との基本的な関係が含まれるという。しかし、心理学者たちはこの難問に触れてこなかったと嘆く。純粋論理学者も、表面的な論理体系は扱っても、言語の本質までは掘り下げてこなかったと指摘する。こうした怠慢が、言語を他のどの現象よりも手に負えない地位へ押し上げたという。そして、ミシェル・ブレアルの「意味論」で、言語の科学的分析を紹介している。著者は、「意味論」が思考のガイドラインとなっていることを認めつつも、残念ながらブレアルは自分の都合の良い心理学を採用していると評している。言語が生き物のように進化すると考えるのは、言語を神からの授かり物と見なすぐらい飛躍し過ぎているという。にも関わらず、言語の起源という不確定な問題には触れていないと皮肉る。どんな分野であれ起源を追求するのは幻想かもしれない。だからといって、物理学者は宇宙論を諦めているわけではない。

4. 精神の危機
歴史は、あらゆる文明が個人の生命と同じくらい脆弱であることを教えてくれる。統制の優れたものが偶然に死滅した例もある。常識と思われたものが、突然、逆説になることもある。ヨーロッパが古代ギリシャを含め、世界で長い間、優位に立てたのは精神と知識の豊かさであるという。しかし、こうした不均衡は、自らの反作用によって、逆方向へと変化すると指摘している。それは、精神や知識によって不均衡に格付けされていた分布が、いずれ、人口、面積、資源の分布に従うようになるという。ギリシャ人によって進化した知識は、政治や生産の基礎構造を作り地球上に富を生んだ。その結果、技術、科学、戦争あるいは平和の手段が世界に広まった。こうした拡散は、エントロピー増大の法則に従っていると言えるだろう。しかし、局所的に周辺に染まることのない物理現象もある。人間は、部分的に知的優位を持つ現象を、天才という言葉で拡散と対抗させる。ただ、ヨーロッパ精神のみが世界全体に拡散する地位にあるのかどうかは疑問が残る。本書は、第一次大戦時、ヨーロッパの無秩序にも触れている。ドイツ民族の偉大な美徳が、逆に悪徳を生んだ。道徳的な美徳とか正義といった思い込みがなければ、これだけ短期間で多くの残虐を許すことはない。著者は、人類にとって最も驚異なのは、精神的危機、知的危機だという。これは、その性質上最も人間を欺く様相で忍び寄ると語る。

5. ラ・フォンテーヌの「アドニス」について
当時、ラ・フォンテーヌは怠惰で夢想好きであったと風評されたという。だが、著者はこれに反論する。「ラ・フォンテーヌ」とは、普通名詞では「泉」という意味があるらしい。この人物のイメージを、泉の持つ魅力と結び付けてしまう。そして、いつも夢想し、天真爛漫に流れ去る人という印象となる。語呂合わせによって、人物像が勝手に作られた例と言えるだろう。見る目のある人は、作品で描かれた様々な光景にも関わらず、その魅力を見透かし、自らの精神の中で再構築して感嘆の度を深めるという。自らの夢を書きたいと願う人間は、限りなく目覚めていなければならない。冷静に観察する精神が必要である。そこには、極度の注意力があるからこそ、傑作は生まれる。決して暇人のなせる技ではない。本書は、霧の中に隠れる自らの思考と向かい合うには、それだけ苦労と時間を必要とすると語る。

6. ポーの「ユリイカ」について
エドガー・アラン・ポーの「ユリイカ」は、自然科学について情熱的に書かれたものだと絶賛している。そして、真理に達するためには、一貫性という考えを持ち出す。求める真理を獲得するためには、もっぱら直感に従うべきだと語る。ポーの概念の重要なのは、宇宙の探求には目的があるということである。宇宙の中にある相互関係、その深いところにあるシンメトリーは、人間の精神の内部構造に見える。つまり、詩的な直感が、人間を知らないうちに真理へ導くというのだ。こうした感覚は科学者の中にも見つけることができる。本書では、「ユリイカ」で述べられる結論が正確に証明されているわけでもない。にも関わらず、十分に説明されないまま著者の自説が登場する。この作品の中には、一人の神様がいるように思える。そして、シンメトリーという言葉を強調する。これは、アインシュタインによる宇宙表現の本質であると語る。現代の物理法則は世界を支配できなくなり、精神の弱点と似たものになりつつある。割り切れない少数がいつも残っていて、人間は不安と不徹底感に苛む。宇宙のような、直観で捉えられない起源には、神話の世界へ放り込まれるようだ。

7. 一詩人の手帖
詩を作ろうとして思想から始めたら、それは散文から始めることになると語る。あるイメージは、人物や風景などの外観であり、それ以外は形の定まらない音や調子があり、語は貼り紙に過ぎないという。例えば、隠喩は一つの思考を複数の表現の間で漂う。思考を厳密に表現できたら、隠喩は消滅するだろう。隠喩はあらゆる試行錯誤の中にある。詩は、語の有限な機能だけでは表せないものを表そうと試みる。詩を生み出す行為は、独自の領域を所有する人間を生む。詩人は、一種の言語的唯物論者なのかもしれない。文学は、完全な思考の道具にはなれない。詩とは、純粋に観念に近づくための努力である。しかも、作品は絶対に完成しない。それは完成した人間がいないからである。本書のおもしろい分析に、詩は、言説の素材の中にはめこまれた純粋詩(詩の元素のようなもの)の断片で構成されるというものがある。それは、元素のような純粋な感情が、あらゆる精神を構成する要素となることを意味しているのだろうか?言語は、自らの都合に合わせて扱われ、人柄に合わせて変形させる。よって、必然的に粗雑なものになるという。そして、共通言語は、共同生活の無秩序の賜物であると言っても言い過ぎではないと語る。詩人は、無秩序によって提供された要素と格闘して、人為的な秩序を創造しようとする。純粋詩とは、欲望、努力、能力といった極限的な概念であって、決して到達できるものではないと語る。

8. 言わないでおいたこと
絵画とはなんだろう?ラファエロの肖像画の前では「聖なるなめらかさ」などと呟く。厚塗りや盛り上げもなく、思わせぶりなハイライトも、過度なコントラストもない。明と暗の按配、美しい細部と至福の場との集合体、こうした種々の具体的な出会いから女神が現出する。一度にこれだけ多くのものが出会わなければ詩は生まれない。こうした多くの要素が融合したところに芸術の本質があるように思える。本書は、絵画が、おそらく芸術の中で、人間の無力さを一番簡単に感じさせる形式であると語る。独創性とはなんだろう?ここではやや意外なことが語られる。それは、ほかの作品を養分にすること以上に、独創的なものはないという。偉大な芸術とは、模倣されることが認められ、それに値し、それに耐えられるものであると語る。模倣によって壊されることがなく、価値が下がることもなく、また逆に模倣したものが壊されることも、価値が下がることもないという。一冊の本とは、著者のモノローグの抜粋に過ぎないのかもしれない。そこで語られる精神は、自らの姿を曝け出すのが鉄則である。批評というものは、気分や趣味にしたがって意見を述べているに過ぎない。作品を語っているようで、実は自分自身を語っている。つまり、詩人は、自己の批評家として存在することになる。詩人の偉大さは、精神がかすかに垣間見たものを、自分の言葉でしっかり捕まえることだと語る。

2008-07-13

"タオは笑っている" Raymond M. Smullyan 著

前記事で「天才スマリヤンのパラドックス人生」を題材にしていると、なんとなく本書を読み返したくなった。本書を題材にした記事は、ずっーと前にも書いたが、あまりにもいい加減なので書き直すことにした。

本書は中国哲学の解説書ではない。著者スマリヤンの独特な解釈によるものである。しかし、その哲学振りは十分に的を得ている。たとえ、禅やタオの本質が本書と違うものであっても、この哲学を支持したい。哲学や宗教には、良い面と悪い面と、そのどちらでもない面を具える。それを個別に解釈して優れた部分を合成できれば、それでいい。あらゆる思想は、ある部分では素晴らしいことを主張する。だから、信者が少なからずいる。明らかに間違っている思想には、人々は見向きもしない。その理論がたとえ間違っていても、心地よい部分があれば、人々は狂信することがある。ほんの一瞬にせよ、失業問題を解決したヒトラーのような狂人者でも民衆は群がる。
おいらが時々疑問に思うのは、一般的に語られる古代思想は正確に伝えられているのだろうか?ということである。思想を真に受けるのと、好むのとでは違う。本書を読んでいると、思想についてどちらが優れているかを論争することは、どうでもよくなる。ここで問題にしているのは、ただ好きか嫌いかである。狂信者のおもしろいところは、宗教が人間のニーズに答えてくれると信じていることである。神様が存在すると信じる。ここまではいい。しかし、どうして神様が自分の味方だと信じられるのか?神様は、とても照れ屋さんで、信じられるとすぐにどこかへ行ってしまうかもしれない。哲学や論理学の探求は精神病になる危険が潜む。それでも、真理をほんの少しだけ覗かせてくれるところがいい。タオは、アル中ハイマーに安らぎを与えてくれる。

西洋の哲学や宗教には、論争と闘いの歴史がある。その中で、神の存在を巡ってどれだけ血が流されたであろう。宗教家は、異教徒と無神論者を救うために、神を信じさせようとする。だが、そもそも救う必要があるのか?こうした論争を尻目に、タオな人は、のんびりと酒を飲んで芸術に浸る。西洋哲学で議論の的となるのが、「実存するか」や「意味があるか」である。タオな人は、実存論争や、無意味論争など、気にもかけない。タオな人は、論理実証主義者の「無意味だ」という似た反応を示すが、それも微妙に違う。スマリヤン流に言えば、無意味だけど議論しても愉快ならば、それでも「ええんでないかい!」といったところだろう。苦悩することもなく、関心のないことに夢中にもならずに、ただ笑って愉快になるだけ。これぞタオの真髄である。ある禅師の話。仏陀を拝むのは悟りを得るためではない。「ただ拝みたいから拝むのだ」そこには、理由などない、なんと自然だろう。「そこに純米酒があるから飲むのだ」アル中ハイマーの哲学も捨てたもんじゃない!

哲学には大雑把に言うと二つに大別できるという。それは「分別ある哲学」と「風狂の哲学」である。前者は、正当で理性的で分別的である。一方後者は、どこか狂っている。そして、自然発生的でユーモアがあり、従来の思想の枠にとらわれない。著者は後者が好きだという。道徳的でなく、自己規制がなく、詩的で、矛盾とパラドックスに満ちている。そして、なんとなくこの世を超越していて真理にずっと近いと語る。どちらのタイプに属すかは、職業分野によっても傾向があるだろうが、一般的に、心理学者、精神分析医、経済学者、政治家などは分別あるタイプで、科学者、数学者、芸術家は風狂の傾向にあるという。どおりで、おいらは政治家や経済学者が好きになれないわけだ。
東洋の思想には、「悟り」という考えがある。キリスト教では、「救済」に相当するのだろうか?「救済」の概念は極めて明解であるが、「悟り」の概念は実に曖昧だ。いや!真の「悟り」を得た者にしてみれば、明解なのかもしれない。「神への服従」と言えば明解だが、「タオとの調和」と言うとわけがわからない。そもそも、「悟り」とは言葉で表せるものなのだろうか?真理が神の創造物であるならば、人間の作った言葉で、表せる方が矛盾してはいないか?
西洋的思想では「精神」について激しく論争する。そして、言葉が定義できても、その実体は不明である。では、「タオ」ってなんだ?その言葉すら定義できない。これは概念か?それとも宗教か?実に曖昧で、哲学のようで芸術の領域にある。これがタオの美学だ。こうした思想は、極めて東洋的であって、西洋からは受け入れられないだろう。ところが、著者がアメリカ人というところにおもしろさがある。しかも、どんな哲学書よりもおもしろい。

本書は、罪と自由意志の関係についても論じる。罪という意識は、人間が自由意志を持っている証拠なのか?自由意志のともなわない罪は、罪ではないのか?人間以外の動物に自由意志はないだろう。動物たちは、罪を犯しているという意識はない。すると、自由意志があるために、罪を犯すのか?決定論者は、すべての事象は自然法則に従うと言う。人間の行動が、すべて自然法則によって決定づけられるならば、人間の存在も自然法則の一部である限り、自由意志でどんなに反抗しようとも、それも自然法則ということになる。自由意志と決定論を対立させたところで、所詮自然法則の中で、もがいているだけのことかもしれない。ところで、精巧に造られたロボットには霊的なものを感じる。ここにも自由意志が生成されるのだろうか?昔ソニーの犬型ロボットAIBOが登場した時は感動したものだ。ロボットの足を付け替えたりすると、子供は虐待しているかのように白い眼で見る。しかし、これはロボットだ。映画「ターミネーター」では、シュワルツェネッガーが腕を切るシーンがある。これもロボットだ。いや!シュワちゃんの腕だから気持ち悪い。AIやロボットの研究には、人間の本質を明るみにする可能性がある。どうせなら酔っ払いと同じように千鳥足で歩くロボットを造れば、魂や自由意志が解明できるに違いない。ところで、女性ロボットとの関係に不倫は成立するのだろうか?

論理原理主義者は、定義できないものの存在にすぐに目くじらを立てる。自らの論理性に自信を持った者は、完全に論理で支配できると信じている。だが、論理にはパラドックスが存在する。なんにでも懐疑的になり徹底的に客観性に固執するからこそ、主観性の貴重なことにも気づく。おいらは、客観的な論理思考は優れていると思うし、大好きだ。だが、現実には主観性の罠に嵌り、客観性を保つことは難しい。著者は、ルイス・キャロルを論理学の天才であると同時に、ナンセンスの天才だったと評している。両者は紙一重なのかもしれない。著者は、禅について次のように語る。
「禅とは、中国のタオとインドの仏教を混ぜ合わせ、日本人がこしょうと塩で味付けしたようなものだ。」
禅を宗教と呼ぶには少々抵抗を感じる。禅は、教えというよりは「生き方」であろう。無宗教を批判する輩をよく見かけるが、重要なのは「生き方」である。著者はタオを音楽に喩える。音楽に敏感な人は美しいメロディーを感知できるが、その美しさを理解できない人もいる。そこには音波は確実に存在するが、メロディーが実在すると証明することはできない。そもそも、音楽センスを持った人は、メロディーが存在するという信念を必要としないと語る。聖書を理解できる人は、その権威を示す必要はないのと同じである。感じることができる人には、それだけでいいのだ。タオの存在も、それを感じることができる人とできない人がいるということだろうか。本書は、客観性と主観性の双方のバランスを問うているような気がする。

1. タオは寡黙
老子曰く。「善人は議論しない、議論する者は善人でない。」
タオと賢人は議論嫌いだという。これはキリスト教の神とは正反対である。旧約聖書には、いろいろな人々と議論する場面がやたら多い。議論の中で、あげ足をとる者は、論理的に語っていると主張する。そして屁理屈へと発展する。いや、屁理屈なら論理的な証拠かもしれない。ちなみに、著者自身は議論が大好きだという。老子の言う賢人には、なんとなく憧れてしまう。しかし、アル中ハイマーが寡黙になることは難しい。酔っ払いは口元の神経をコントロールすることはできない。では素面ならできるのかというと、それも難しい。酔わないと自我を認識できないからだ。タオは、口答えしたり反論したりしない。独り言が好きな人間には最高のお喋り相手である。もちろん、アル中ハイマーの独り言にもうなずく。グラスの氷に向かって、「君って冷たいね!」と話かければ、照れてカランと音を鳴らす。鏡に向かって、「なに赤くなってんだよ!」と話かければ、「君に酔ってんだよ!」と心の中で騒ぐ。

2. タオと調和
ユダヤ・キリスト教は、神への服従を求める。「自らの意志を神に委ねよ」と。しかし、タオは決して威圧しない。その代わり「タオと調和せよ」と説く。「調和」という言葉は、心の安らぎをイメージすることができる。「タオに意志を委ねよ」と言ってもピンとこない。そもそも、タオに意志があるのかも分からない。だが、タオが自由意志を否定しているわけでもない。ゲーテ曰く。「自然に対抗しようとする行動自体が自然法則に従っているのだ。」自由意志で、自然を征服しようとしても、結局は自然に逆らうことができず、人間と自然は一体であることに気づく。「自らの意志を神に委ねよ」という教えも、結局は同じ精神に帰着するのかもしれない。しかし、間違った解釈をした連中は多いようだ。「服従」とか「委ねる」といった言葉よりも、「調和」と言った方が酒のつまみにもいい。単なる言葉のニュアンスの違いであるが、そこには主観の美しさがある。

3. 性善説と性悪説
タオイストも儒学者も人間の本性は、元来善であるという立場をとる。もっとも、儒教は道徳を説くことによって、かえって人間を腐敗させるという批判もある。孔子曰く。「人間の本性は善であるが、老年まで善を保ち続ける人は少ない。」この性善説と対照的なのが、中国の法家思想家である。現実主義者とも言えなくはないが、人間の本性は元来悪であるので、現実に人々を治めるときは腐敗した人間の本性を十分に考慮しなければならないと説く。しかし、法家思想家たちによって、全体主義政権を打ち立て、多くの儒学者を拷問し処刑し、古典書物も焼かれた歴史がある。その時代、民衆は互いに行動を監視するような緊張の中で、政権は成り立っていた。これは、思想が正しいとか間違っているとかのレベルではない。思想を押し付けた結果である。道徳家にしても、押し付けがましいものである。ちなみに、老子も荘子も孔子も猛子も、人間が自然に善であった良き時代がかつてあったことを度々書いているという。当時、中国の病んだ社会へと向かう中で、嘆き悲しみ、思想の分かれが生じたのかもしれない。どこの国でも、思想の分かれが生じるのは、病んだ政治背景があるものだ。

4. 道徳家とタオイスト
道徳家は、「正と不正」を強調するが、タオイストは、自然の尊さを尊重する。著者は、道徳的であると同時に思いやりのある人間に出会ったことがないという。両者は、むしろ反比例の関係にあるというのだ。思いやりのある人は、親切で情け深い。これは、「こうあるべき」と思うからではなく自然にそうなのだという。そこには、正しいという感情がない。思いやりのある人間は道徳など不要というわけだ。道徳家は、「思いやりを持ちなさい」と説教しながら、思いやりのない人間にしてしまっていることに気づいていないと語る。そこには、共通して無理やり思想を押し付ける傲慢な態度がある。女性に愛を求めても愛は得られない。物品の方が手っ取り早い。
「美徳と隣人愛を宣伝しなくなれば、隣人愛は回復する。」
人間的な情け深さを重んじる点では、両者とも同じである。ただ、その手段が違う。義務的あるいは抑制的な道徳は、反抗的な自己意志を挑発する。政治家が政治を悪くしているように、経済学者が経済問題を引き起こしているとも言える。ノイローゼの元凶は心理学者という意見にも一理ある。本書が強調しているのは、「道徳的である」ことと「思いやりのある」こととは違うということである。まず、道徳家はこれを認めることだという。タオが道徳を否定しているのではない。道徳的な規範に縛られない自立した自由意志を理想としていると語る。

5. タオ的な服従
荘子は、人間の本性を害した儒家たちを、馬を台無しにする調教師に喩えている。ここでは、かなり長文が掲載されるが、気に入ったので、要点だけまとめてみよう。
「馬の扱いに長けていると自負する調教師は、馬の毛をそろえ、蹄を削り取り、焼印を押す。首には手綱をかえ、足かせをつけ、訓練するが、馬は本当にそれを望んでいるだろうか?陶芸家も粘土の扱いに長けていると自慢し、大工も木材を自由に加工できると自慢する。だが、粘土や木が加工されることを望んでいるだろうか?どんな時代も、その技術のおかげで、もてはやされるが、そこには人間のエゴが潜む。国の統治も、統制する技術を評価されるが、これは間違いである。国の治め方に長けている人は、治めるべきではない。なぜなら治める必要がないからだ。人間は、本能的に生きるために働く。これは自然と調和しているだけのことである。」
賢い支配者は、人々が自主的に自分たちのためになることをするように仕向けるという。そして、支配者が誇るのではなく、それぞれの人が自分自身の行動を誇る。これがタオ的な服従である。タオは目的によって作用しない。自然発生的に作用する。タオは決して命令しない。この対照的な立場がユダヤ・キリスト教である。だから、命令に従わない者が多いと語る。

6. 利己主義と利他主義
利他主義者は、利己主義者を批判し説教する。道徳家とはそうしたものだ。利己主義者を説教したところで、効果があるわけがない。だが、どんな人間でも、利己的な部分と利他的な部分がある。少なくとも、そう思うから説教する。利己的な部分が現れすぎているから、心の奥深くにある高尚な部分へと働きかける。解釈の難しいのは、自己をどの範囲に置くかである。人間は自己からは逃れられない。自己を全宇宙にまで広げれば、個性はなくなり、理想的な境地に達するだろう。その時、自己中心的という言葉は消え去る。

7. 「静の哲学」と「動の哲学」
本書では、「なるがまま」と表現しているが、アル中ハイマーの哲学に「なすがまま」というのがある。事業を成功させようと力んでいると、気楽に人生を謳歌するという欲求の方が、性に合っていることがわかってきた。これは無能な人間の諦めである。よって、興味のない本を読むこともないし、興味のない分野の知識など求めない。これが「静の哲学」といったところだろうか。これは行動派の人間からは批判される。無気力な人間の隠蓑となるからである。行動派は、なりゆきに任せれば悪に立ち向かうことはできないと主張する。これが「動の哲学」といったところだろう。「静の哲学」も反論する。無理やりの行動が、むしろ事態を悪化させてきたではないかと。だた、こうした議論は無意味である。あくまでも好みの問題である。タオは「静の哲学」に近い。タオの主要な考えに「無為をもって為す」というのがあるらしい。無為ってなんだ?またまた、曖昧な言葉が登場する。なんとなく自然に揺られながら、いつのまにか到達する境地のような感じだろうか?この曖昧さがいい。人には、努力と意識しない努力がある。つまり、好きなことをやる能力だ。

2008-07-06

"天才スマリヤンのパラドックス人生" Raymond M. Smullyan 著

本書は、冒頭から次のように始まる。
「私自身の人生がそうであったように、秩序立った方法ではなく、まるで散歩をしているような感覚で書き進めるつもりである。大好きな中国の叙情的な哲学者と同じように、私は大通りを進むことよりも、無数のわき道を歩き回ることに惹かれる人間だから...」
アル中ハイマーは、このフレーズにいちころである。

多くの数学者や哲学者に絶賛されるレイモンド・メリル・スマリヤンとはどんな人物か?ある証言によると、音楽と数学とマジックの天才。あるいはコメディの達人。また、ある者は現代のルイス・キャロルと評す。幼少の頃から、絶対音感を持ちピアノの天才と言われたが、右手首の腱鞘炎でピアニストになることを諦めたという。ナイトクラブでは、「五枚エースのメリル」と称してマジシャンで出演する。その一方で、数理論理学の博士号を持っていて、自由に大学を転々とする。プリンストン大学の教授は、ナイトクラブから彼を引き抜いて教授職に就かせたという。彼の著書「タオは笑っている」は、ずーっと前に記事にもしたが傑作である。ちなみに、彼はノーベル賞物理学者ファインマン氏と小学校の同級生なんだそうだ。どおりで、ユーモアのセンスに通ずるものを感じる。

本書は、おそらく著者スマリヤンの自叙伝である。ここで「おそらく」と書いたのは、あまりにも愉快なジョークやパラドックスが満載で、そちらにばかり熱中して読んでしまうほど灰汁が強いということである。そして、論理的、あるいは一見論理的、あるいは、自ら堂々と非論理的と語る文章で綴られる。そこには、数学や哲学や宗教、そして不完全性定理まで登場し、愉快な論理パズルで紹介される。中でも、答えの見つからない論理パズルがお気に入りのようだ。論理実証主義と絡めて「無意味」について考察する哲学ぶりには、論理と感性のバランスがうかがえて、なかなかのピート香を醸し出す。愉快な文章の合間には、数学に失望した瞬間や、著者の生き様もさらけ出す。著者は、今日の数学における教育危機の原因は、教師ではなく教科書にあると指摘している。現代の数学の教科書は、彼の時代の5倍の厚さがあるという。そして、代数と幾何学が混同され、幾何学の演繹的な推論は完全に省略されていることを嘆いている。また、宗教については、次のように語る。
「私は子供の頃、まったく宗教的な教育を受けなかった。そのことを神に感謝したい!」
しかも、宗教への固執性は、幼児期の教化に起因すると言っている。自然が神のようなものを創造したのは、なんとなく理解できても、自然が聖書を書くような神を創造したとは考え難いと語る。これには全く同感である。幼児期に宗教的な信念を叩き込むのは、催眠術によって暗示をかけるようなものだ。宗教にせよ、本にせよ、どんなものでも、受け入れる身構えがなけらば、吸収することはできない。

著者が尊重しているのは、謙虚さや慢心さではなく、ただ客観性であろうとすることだと語る。「あろうとする」と表現しているあたりに、客観性になりきることの難しさが伝わる。おいらも心掛けてはいるが、なかなか実行できないでいる。ただ、友人との関係を熱く語っているあたりは、人間味にも溢れた感性があり、照れ隠しで論理性を強調しているかのようにも見える。話題の中で、十歳ぐらいの子供の発想をもとにしたものが、ちりばめられているところもおもしろい。著者は、これが数学に最も重要な感覚であるという。数学の問題を解くことは、しばしば機械的であると誤解される。しかし、そこにはエレガントな発想が潜む。論理性の難しいところは、それが完全ではないことである。完璧だと思っている論理思考にも、実は微妙な落とし穴が潜む。著者は、その理解が深いからこそ、逆に論理のおもしろさや美しさが語れるのだろう。論理的な思考は優れている。しかし、論理主義に偏り過ぎると利己主義になる危険性も覗かせる。いくら論理で組み立てても、条件が一つ抜けたり間違えたりすれば、藻屑となる脆さもある。十人が一冊の本を読むと、そこには十通りの解釈があっても不思議ではない。一つの言葉でさえ、微妙に捉え方に違いが現れる。「赤い色」といっても、薔薇色の人生を思い描く人もいれば、血なまぐささを連想する人もいる。アル中ハイマーはブラッディ・マリーが飲みたくなる。ちなみに、鏡の向こうには「ああ気持ちええ!」と呟いている赤い顔をした住人がいる。

リチャード・バックの書いたものに「宇宙的意識」というものがあるらしい。人類全体が、更に高度な意識を持つ新人類に進化するには、長い時間がかかる。それは進化論のように、環境や思想に順応した新人類が少しずつ発生し、徐々に増加して地球上に広がるというものだ。宇宙的意識で注目すべきは、非権威的に語られていて、教条や権威から独立しているという。こうした意識は、音楽センスやユーモアセンスのように、人間の潜在意識の中に自然にあるのかもしれない。その中には、特質した才能を持つスーパースターのように、最先端の宇宙的意識を持つ人々がいるだろう。かつての著名な哲学者とは、そういった先人たちなのかもしれない。そして、著者スマリヤンもその一人のように思えるのである。

さて、思わず吹きだす話題の中から、なんとなく気に入ったものを摘んでみよう。なぜかって?煙臭いウィスキーには、スパイシーの効いた「おつまみ」があうから。

1. 地獄という制度
著者が出会った人類愛に満ちた地獄の描写は、スウェーデンボルグ宗教のものであるという。その教義によると、死後全ての人間は天国へ行き、いかなる審判も下されないらしい。ところが、邪悪な人間は、天国の居心地が悪く自ら天国を去る。そして、彼らは憎しみ合うので、地獄でも互いに苦しめ合う。しかし、神は彼らの苦しみさえ救済しようと天使を送る。この地獄のモデルは、刑罰というよりは、むしろ狂気の世界を象徴しているようだと語る。ここで、著者は、おもしろい提案をしている。題して「集団的救済」。
「最後の審判の日、神は人類全体の善悪を計算して平均値を出す。もし平均値が十分に高ければ、人類は全員合格して天国へ行くことができる。そうでなければ、人類は全員落第して地獄へ行かなければならない。」
あるカトリック教徒は、これは危険な宗教だと言った。あるプロテスタント教徒は、そんなことは絶対に望まない!。なぜなら、自分が天国へ行く可能性が大幅に減少するからだと言った。

2. 飛行機に乗らない統計学者。
「なぜ飛行機に乗らないのか?」
「それは爆弾で爆発する確率は低いが、安心するには不十分だから。」
ある日、統計学者が飛行機に乗っているのを見て驚いた。
「どうして考えを変えたのか?」
「変えていない。二つの爆弾が同時に爆発する確率を計算したら、安心できるほど十分に低いことが分かった。だから、爆弾を一つ持って乗ることにしたんだ。」
このように、確率論でよく間違える落とし穴をジョークにしている例が紹介される。確率論と言えば、必ず出てくるのが、同じクラスに二人の誕生日が同じである確率を求めよというのがある。直感では、その確率は低いと思うが、計算すると意外と高い。それは、クラス員24人が50%の基準になるという。
1 - 365 × 364 × 363 × ... × 342 / 365 ^ 24 = 0.53834 (約54%)
もちろん、一卵性双生児が居ないことを祈る。

3. プロタゴラス
プラトンの対話篇にこんな話がある。おいらも学生時代に読んだので懐かしい。
「ソクラテスは、弁論家のプロタゴラスが知恵を教えることによって生徒から金を取っていることを批難する。プロタゴラスは、生徒が学んだことに満足しなければ金を返すと反論する。」
この話から、著者は次の場面を思い浮かべたという。
学んだことに満足できない生徒が金を返せと、実際に要求したらろどうなるだろうか?プロタゴラスは理由を問う。そして、生徒は理路整然と理由を述べる。するとプロタゴラスは言う。
「その素晴らしい弁論こそ、君に教えた成果じゃないか!」
もう一つの場面がある。同じように金を返せと要求した生徒がいる。プロタゴラスは理由を問う。しばらくして、生徒はうまく説明できないと言う。するとプロタゴラスは言う。
「よくわかったよ。君にお金を返すしかなさそうだ。」

4. 論理実証主義者
論理実証主義では、実証あるいは反証できない命題を無意味と見なす。そこでは、「有意味」について厳密な定義をし、形而上学的な問題を無意味とする考えがある。論理実証主義者は、ライプニッツが哲学の根本とした「なぜ無ではなく、何かが存在するのか?」といった問題は、無意味であると排除する。これに対して、本書は、論理実証主義に反感をもっているかのように攻撃する。
「難点は彼らの有意味の定義が、常識的に言葉の意味とされるものと合致していないことにある。」
著者は、論理実証学者を次のように定義している。
「自分が理解できないものを無意味として拒絶する人」
そこで、登場するジョークがある。ある女性は、離婚の原因は、夫が論理実証主義者だからだと主張した。その理由は、「私がどんなことを言おうとも、彼は無意味だとしか言わなかったんですもの!」
アル中ハイマーに言わせれば、人間社会そのものが、無意味なもので成り立っている。ただ、酔っ払いには、無意味か有意味かを区別する意味も理解できない。

5. 恐るべしガキ!恐るべし直観!
「あなたは、この文を信じる理由がない」
さて、この文章を信じるか?信じないか?パラドックスはこうした自己言及の罠に嵌る。そこで、ある少年に尋ねた。「君は、あの文を信じるかね?」少年は答えた。「うん!信じる。」その理由は?と尋ねると、「理由は何もない」と答えた。更に「では、なぜ信じるのかね?」と尋ねると、少年は一言「直観!」と答えた。少年は、見事にパラドックスを回避したのであった。

6. 哲学者と神学者の違い
おいらは次の表現で酒のピッチが上がる。
「さて、読者は哲学者と神学者の違いをご存知だろうか?哲学者とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗く人。神学者とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗き、さらにそれを見つける人である。」
著者が常々思う疑問は、神を信じる人が、神は味方だと当然のように信じていることだという。「実は、神は科学的で、証拠にもなく信仰に基づいて何かを信じる人々に対して、我慢ならないお方である。」という可能性はないのだろうか?と問うている。

7. 唯我論と数学者
これぞ、スマリヤン流の論理というものを紹介しよう。
唯我論者は言う。「君は存在しない。私だけが存在する。」著者は答える。「そのとおり、私だけしか存在しない。」唯我論者は興奮して叫ぶ。「違う!違う!存在するのは君じゃなくて、私が存在するのだ。」著者は言う。「まったくその通り、存在するのは君じゃくなくて私が存在する。完璧に意見が合いますね!」
もう一発!!!
二人の数学者がレストランで食事をとった。食事を終えるとウェイターが尋ねた。「お会計は別々になさいますか?ご一緒になさいますか?」数学者の一人は、「別々に頼む。」と答えた。ウェイーターはもう一人の数学者にも尋ねた。「あなた様の分も別々でよろしいでしょうか?」

8. 悪魔の辞典
作家アンブローズ・ビアスの著書「悪魔の辞典」でおもしろい定義をしているという。
「論理学とは、人間の誤解の限界と無能力性について、厳密に推論および思考する学問。論理学の基礎は、大前提、小前提、結論から構成される三段論法である。一例を挙げよう。
大前提: 60人の人間は、1人の人間の60倍の速度で仕事ができる。
小前提: 1人の人間は、60秒で1個の穴を掘ることができる。
結論: 60人の人間は、1秒で1個の穴を掘ることができる。」

この本は買わずにはいられない!!!

9. 不完全性定理
クルト・ゲーデルが発見したのは、真であるにも関わらず証明できない命題が存在するということである。これが第一不完全性定理。ゲーデルが次に発見したのは、もしシステムが無矛盾であれば、そのシステムは自己の無矛盾を証明できないことである。つまり、システムが自己の無矛盾性を証明できたら、その証明過程に矛盾が含まれるということである。これが第ニ不完全性定理。
「この文は間違っているか、サンタクロースが存在するか、そのどちらかである。」
もしこの文が偽であるならば、「この文は間違っているか」あるいは、「サンタクロースが存在するか」の二つの選択肢は両方とも偽でなければならない。すると、前半部は、「この文は正しい」ことになり、「サンタクロースは存在する」ことになる。このパラドックスは自己言及の罠に嵌っている。ゲーデルの定理は、「この文は証明できない」という文章を証明しようとしているようなものだという。数学でよく「証明」という言葉を使う。ただ、よく考えると、「証明」の概念が明確に定義されたところを見かけたことがない。数理論理学では、「証明」の概念について正確に定義されているらしい。それでも、絶対的な意味での定義ではなく、形式的なシステムに対して相対的に定義されるものだという。例えば、こんな感じである。
形式的システムSがあるとする。そして、前提では「システムSにおいて、いかなる偽の文も証明されない」という意味でシステムSは正しいとする。つまり、システムSにおいて、証明可能な文は真である。この状況下で「この文は証明できない」という文章を次のように変形すると、パラドックスが消滅し、おもしろいことが起きるという。「この文は、システムSにおいて、証明できない」この文が偽であれば、その反対が成り立たなければならない。そして「この文は、システムSにおいて、証明できる」となる。これはまともそうに見える。しかし、「システムSにおいて、いかなる偽の文も証明されない」という前提に矛盾する。これは、システムSにおいて、証明できない真の命題が存在することを暗示しているという。んー!なんとなく詐欺にあった気分だ。今日は、睡眠薬がないと眠れそうもない。