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2020-12-27

"記憶を書きかえる - 多重人格と心のメカニズム" Ian Hacking 著

記憶が人格をつくる... ん~、なかなか興味深い視点である。「記憶」という言葉が多角的な関心を寄せるのは、それが生きる上で不可避だからであろう。様々な事象が、様々な形で、記憶と結び付けられる。本能的に...
尚、北沢格訳版(早川書房)を手に取る。
「魂は、個人のアイデンティティの不変の核を示すものではない。一人の個人、また一つの魂は、多くの面を持ち、多くの異なる話し方をするのだ。魂を考えることは、あらゆる発言の源となる一つの本質、一つの霊的地点が存在することを認めるのとは違う。私は、魂はそれよりももっと控えめな概念であると考えいてる。」

哲学者であり、物理学者でもあるイアン・ハッキングは、多重人格という現象を切り口に、人間のアイデンティティや存在意識の根底をなす記憶をめぐる旅へいざなう。
まず、多重人格の治療では、記憶を取り戻すことに始まるという。特に、幼児体験が問題になるケースが多いとか。幼児虐待やトラウマとの因果関係など、オーラルセックスの強要が口からの挿入物に抵抗感を持たせるといった話まで飛び出す。根底にあるのは束縛の原理。行き過ぎる社会的強制や私的強制が、人の心を歪める。病的な被害妄想を駆り立てて...
また、小説の中の人物にも注目する。あの有名なロバート・ルイス・スティーヴンソンの「ジギル博士とハイド氏」に、芸術的創造と絶賛するドストエフスキーの「二重人格」に、著者が最も恐ろしいというジェイムズ・ホッグの「赦免された罪人の回想と告白」に、精神医学の豊富な症例集を見る。
人間社会では、記憶力の競争が強いられ、知識の豊富さや語彙の豊富さなどは尊敬される技術の一つとして一目置かれる。受験戦争は、まさに記憶量の競い合い。その影に、記憶への恐怖が忍び寄る。
アルツハイマーのような病を恐れるのは、それが記憶の病と見なされるからであろう。人の目を気にせず、過去の記憶をあっさりと消し去ることができれば、自由になれるだろうか。自分探しの旅がもてはやされる昨今、旅の途中で自分を見失っては世話がない。人生の旅では、何を記憶に刻んでゆくかが問われる...
「多重人格の話は、非常に複雑なように見えても、実は、人間をつくりあげる話なのである。」

ところで、記憶とはなんであろう。それは、経験であり、知識であり、生きてきた証。中には、人間形成を担う重要な情報も含まれ、潜在意識や自律神経にも関与する。
しかも、記憶は時間とともに変化する。刻まれていく記憶もあれば、徐々に薄れ、失われていく記憶もあり、あるいは歪められる記憶もある。歳を重ねれば人も変わり、困難を抱えた人は変化にも富む。多重人格者ともなれば、その変化の度合いは時の流れ以上のものがあると見える。もはや、十年前の自分は自分ではない。したがって、むかーし、こしらえた借金の取り立てにあえば、今の俺は昔の俺とは別人なんだ!帰ってくれ!と追い返すこともできるわけだ。破産法とはこの別人論に則ったもので、法の裁きが求める自省にはチャラの原理が内包される。
とはいえ、自らチャラの原理を実践するには、よほどの修行がいる。引きずっていく過去を選択できれば、幸せになれそうなものだが、忌み嫌う過去ほど記憶領域にへばりついてやがる。しかも、無意識の領域に、深く、深く...
ただ、記憶を消せなくても感じ方を変えることはできる。苦い経験を懐かしむような。いや、無関心の方が楽か...
その点、オートマトンなら、手っ取り早くデータをダウンロード。コンピュータってやつは、人格形成においては先を行ってやがる。記憶領域を書き換えれば、まったく違う振る舞いをするのだから。人間はそうはいかんよ。いや、脳にチップを埋め込めばどうであろう。高度な管理社会ともなれば、生まれたばかりの子供にマイクロチップを埋め込むことが義務づけられるかもしれん...
人間の能力では、時間の流れは制御できそうにない。どう転んでも、エントロピーには逆らえんよ。ならば、記憶を制御することはできるだろうか。都合よく解釈することが、記憶を制御するということかは知らんが...
「記憶は、理解を助け、正義を達成し、知識を探求するための強力な道具である。記憶は意識の働きを高める。またそれは、心の傷を癒し、人の尊厳を回復させる。時には暴動を引き起こすことすらある。"Je me souviens (私は忘れない)" という言葉以上に、ケベック州で、車に貼るステッカーの台詞としてふさわしいものがあろうか?ホロコーストと奴隷制度の記憶は、新しい世代に引き継がなければならない。」

1. 多重人格は病か
まず、精神病の診断の難しさは、それが本当に病気のレベルにあるのか、という問題がある。多重人格という現象そのものは、病であろうか。生きていく上で障害となるなら治療も必要だが、大なり小なり誰もが持っている性質のような気がする。普段から自分ではない自分を演じているではないか。建て前ってやつを。誰もが虚飾を張って生きているではないか。平然と。キレるという現象も、スィッチが入るという現象も、別の人格が顔を出しているのでは...
多重とは、二つより多いからそう呼ぶ。分裂とも違うようである。分裂病患者は、論理と現実に関する感覚が歪んでいるのに加え、態度、感情、行動の調和がとれない。一方、多重人格者は、論理や現実の感覚については問題はないが、断片化していくという。
多重人格ってやつが、二重人格から進化した新たな種類の狂気かは知らん。だとしても、精神の持ち主ならば、精神病と診断されずとも、そうした傾向があるのでは。そして、多重人格を完全に克服できれば、やりたくないことを交代人格によって処理するような、要領のいい使い分けもできるかも。様々な場面に順応できる多様な人格を備え、それを自由自在に操る。
人の心は、誰かに受動的に動かされていると苦痛や強迫めいたものを感じるが、自分自身で能動的に動く分には心地よくも感じる。そうなると、すごい能力だ!多重人格とは、ある種の精神修行であろうか...
「虚偽意識のかけらももっていないという読者がいたら、その人こそ、もっとも重大な虚偽に陥っているのだ。」

2. 多重人格とジェンダー
多重人格と診断されるケースを男女比で見ると、奇妙な偏りがあるという。なんと、90% が女性だとか。あまりに偏った数字で、鵜呑みにする気にはなれない。本書でも、様々な見方を挙げている。多重人格者の男性は暴力事件で捕まることが多い、あるいは、酒やドラッグに救いを求め、依存症と診断されるケースが多い、さらに、幼児体験の影響が大きいという観点から、男児よりも女児の方が近親姦などの犠牲になりやすい、といった見方である。著者の経験でも、女性患者の方が圧倒的に多いという。
そこで、心理学で重要な鍵とされるヒステリーの考察がある。ヒステリーといえば、昔から女性のものとされる。古代ギリシア語の「子宮」が語源となるほどに。しかし、DV の加害者と被害者の比となると、数字は逆転する。男の場合、ヒステリーを通り過ぎて腕力にまかせて暴力沙汰を起こすのかは知らんが、DV の社会的認知度はいまだ低い。
ちなみに、自閉症でも男女差があると言われ、男児は女児の数倍に上るといった統計データも見かける。知的障害者では、男性の方がやや多いぐらいで、そこまでの偏りは見せないようだけど。
先天性の場合、障害者を生む確率は天才を生む確率に比例しそうな、あるいは、遺伝子コピーのリスクの裏返しのような。つまり、生物学的確率である。
ただ、多重人格は、後天性の問題であろうか。後天性の場合、自覚症状があれば、医者にかかるだろうし、自覚できなければ、医者にかかることもなく、診断もされない。そして、医者の世話になる前に警察の世話になるってか。
また、男女には、物理的に避けられない能力の違いがある。子供を産む能力が、それだ。へその緒を通して、物理的につながっていた事実は変えられない。その分、性的暴行に対するトラウマは、女性の方が強いのかもしれない。概して、男親は女児に甘すぎるほどに甘い。おいらも、嫁はいらんが娘がほしい。こんな感覚も、心の歪の兆しであろうか...
こうした精神診断を男女比で考察すると、フェミニストに猛攻撃を喰らいそうだが、現場で治療に当たる医師がイデオロギーなんぞにかまっている暇はあるまい...

「口づけとかみつき...
何と二つは似ていることか、そして心からまっすぐ愛するとき
貪欲な口は、たやすく二つを取り違える」

2020-12-20

"確率の出現" Ian Hacking 著

確率論という学問は、数学の一分野に位置づけられるものの、ちと異質感がつきまとう。数学ってやつは、他のどの学問よりも客観性を重んじ、数学の定理は何よりも明瞭な確実性を備える。なのに確率論となると、主観確率なるものを持ち出し、確からしさという曖昧な物理量を堂々と算出して見せる。偶然までも手玉に取ろうってか...
生か!死か!と存在の可能性までも論じ、まるでシュレディンガーの猫。存在の薄いチェシャ猫も、運命論に招き入れようと、ほくそ笑む。考えうる事象をすべて抽出し、各々の度合を考察する点では、組合せ論や集合論に通ずるものがあるが、明らかにピュアでない。応用数学とも違う。むしろ社会学に近く、統計学と瓜二つ。数学の限界を試すかのような...

とはいえ、人間社会で生きてゆくには、確率と無縁ではいられない。社会保障に年金、企業経営に市場メカニズム、災害リスクに疾病リスク、デジタルシステムの誤り訂正率に製造品質の歩留まり、そして、生命体の避けられない遺伝子の変異率など、あらゆる意思決定プロセスで幅を利かせている。
あのパスカルだって、賭けに出た。宗教を信じるのが楽か、神の存在を信じるのが合理的か、と。いまや確率は、運命の指導原理として君臨してやがる...

主観のようで主観でない、客観のようで客観でない、ベンベン!
数学は告げる。コイン投げで表か裏の出る確率は 1/2、サンプルが多いほどこの値に収束する... と。ならば、表が何度か続けばそろそろ裏が出そうな、あるいは、これだけ表が続けばこのコインは表が出やすいよう変形している、なんてことも考えてしまう。現実社会を生きてゆくのに、理想モデルだけでは心許ない。コルモゴロフの公理モデルだけでは...
ほとんどのケースでデータ量は不十分、知識も不十分、それでも前に進まなければならない。となれば、直観ってやつが役に立つ。実際、ギャンブルで勝つには、サイコロの目、カードの流れ、牌の気配といったものを読み、確率を超えた嗅覚が求められる。
確率では、独立性が重要な鍵となる。それは、客観的な視点を与えてくれるからだ。しかしながら、確率事象が、けして過去に影響されないものだとしても、人間ってやつは過去を引きずって生きている。今まで生きてきた時間を無駄と考えることほど虚しいものはなく、過去の経験を未来への期待値に転化せずにはいられない。精神空間で、この時間軸を見失えば、たちまち精神病を患うって寸法よ。

おそらく、人間の認識能力で完全な「純粋客観」なるものを扱うのは、手に余るであろう。だから、「客観性」なのである。そして、客観性そのものが確からしさの天秤にかけられる。
そもそも人間が思考するのに、完全に主観を排除することは可能であろうか。直観はきわめて主観の領域に近い。が、主観確率となると、限りなく客観の領域に入り込もうとする。限りなく近づくということは、けして到達できないことを意味する。それが、微分学の美学ってやつよ。
ベイズ主義が主観主義の代弁者かは知らん。頻度主義が客観主義の代弁者かも知らん。確率論とは、中庸を模索する学問か、いや、妥協を模索する学問か。まさに、人生は妥協の連続!これほど、人生戦略に適合した連続関数はあるまい...
尚、広田すみれ、森元良太訳版(慶應義塾大学出版会)を手に取る。

「p を支持する理由を把握することは、その原因を理解することであり、なぜ p であるかを理解することである。」

1. 確率論という思考の幕開け
1865年、アイザック・トドハンターは「確率の数学論史 - パスカルからラプラスまで」という本を出版したという。確率の歴史は、パスカル以前に記すべきものがほとんどなく、ラプラスでほぼ語り尽くされたというわけである。
とはいえ、人類の歴史で、賭博の存在しない時代は見当たらない。人間の認識能力ってやつは、あいも変わらず時間の矢に幽閉されたままで、未来志向から抜けられないでいる。未来を占う呪術や占星術の類いは古代から健在であり続け、近代科学の時代になっても大勢の人がハマる。神の意志をサイコロの目と同等に扱うのは、不謹慎極まりない!ってか。かの大科学者は「神はサイコロを振らない!」と豪語した。代わりに人間が振ってりゃ世話ない。
パスカル以前に欠落していた思考は、証拠や検証の概念ということか。数学で言えば証明の手続き。あらゆるシステム構築で欠かせない概念ではあるが、完全である必要はないし、完全を求めすぎても前に進めない。現在では、ランダム生成器なしにアルゴリズムの検証も難しいが、未来予測のためのランダムモデルの導入が、確率から確率論へ進化させた、と言えそうか。
それにしても、不思議な現象がある。生起する事象の曖昧さを数学が明るみにすればするほど、ギャンブルに走る人が増えようとは。ギャンブル依存症は古代の記述にも見られるし、人生そのものがギャンブルなのだから仕方あるまい...
「先人たちはランダム生成器を作り出し、また、サイコロで安定した頻度の生成もおこなった。そして帰納的推論という、(前提が正しくても)結論は確からしいものにしかならない推論法も引き出した。」

2. さすらいの確率論、二元性の狭間で...
確率は、二元論的だという。一方で、合理的な信念の度合い、もう一方で、長期試行における安定した頻度の傾向であると。認識論と統計学の共存というわけか。この二面性を克服しようと、信頼性、傾向性、性向など様々なパラメータが試されてきた。
統計的安定性という観点は、極限定理や大数の法則を示唆するが、今この瞬間の状態は、曖昧さを残したまま。正規分布が、独立した事象の集合体にせよ、その集合体の誤差にせよ、やはり状況は変わらない。
この瞬間の曖昧さまでも完全に明瞭化することができるとすれば、それはいったいどんな世界なのだろう。いや、曖昧さってやつは、曖昧であってこそ価値があるというもの。人間の存在価値とは、解釈の余地を残すことであろうか...

3. 帰納論理という道具
古来、数学の証明には、二つの道筋がある。演繹法と帰納法が、それだ。おそらく王道は、演繹法であろう。あらゆる物理現象を論理形式で演繹的に説明できれば、それに越したことはない。だが、そうはいかないのが現実世界。むしろ、帰納法の方が有用な場合が多い。ルネサンス時代には、前者を高級科学、後者を低級科学という見方があったらしい。現在でも、その余韻を感じないわけではないが...
"probable(蓋然的)" と呼ばれるものは「臆見」に属し、論証で導かれる知識と対照をなしていたという。証拠立てには、権威や尊敬される裁定者の証言が是認された時代である。臆見は、科学者には受け入れがたいであろう。
とはいえ、帰納法はユークリッド原論にも記述を見つけることができる。その代表が互除法ってやつで、これを低級科学とするのはいかがなものか。確率の思考がまだ信仰心に毒されていた時代、神の命題を弁証法的に論じたパスカルによって思考が解放された、という見方はできそうか。あるいは、それも賭けだったのか...
何に賭けようが、完全に証明できれば問題はないが、帰納的な証明は脆さがある。「全てのカラスは黒い」という命題ではないが、一つの反証例が示されればそれでおしまい。そこで、「黒でなければ、カラスではない」とすればどうだろう。カラスでなければ、別の名前を与えればいい。それで証明は成り立っているだろうか。帰納的な思考には、常に詭弁がつきまとう。自己矛盾という詭弁が...
現代社会でも、完全に正しいというより、だいたい正しいとする方が有用なケースが多い。デジタルシステムにも多くの事例を見つけることができる。例えば、検索アルゴリズムでは、じっくりと時間をかけて 100 % の正解率を得るより、スピード感をもって 90% ぐらいの正解率を得る方がありがたい。データ領域のゴミ掃除をしてくれるガベージコレクションのアルゴリズムにしても、完全なゴミ判定を試みるより、明らかにゴミと判定できるものをさっさと処分してくれた方がありがたい。リソースの贅沢な時代では、少しぐらいゴミが残っても、システムに影響を与えない程度なら充分に使える。たまーに、再起動に迫られるけど...
リスクとのトレードオフでは、「確からしさ」という思考は有用である。現代人は忙しいのだ。寿命が伸びたからといって、のんびりとはしてられない。期待値は、結果ではなく、過程の情報を与えるだけだが、行動指針の材料にできる。大数の法則を会得したからといって、有意義な人生を送れるかは別の問題。数学が道具なら、確率論も道具。道具ってやつは、いかに用いるか、それも使う人次第ってことに変わりはない...

2020-12-13

"死父" Donald Barthelme 著

原題 "The Dead Father"...
これに「死父」という怪しげなタイトルを与えたセンスはなかなか。直訳するだけでは芸がない。外国語と母国語の狭間でもがき、日本語にない日本語まで編みだす。翻訳家という仕事は、創造的な仕事のようである。
そして、原作者ドナルド・バーセルミとの対談を仕掛ける。
「あのう... ええと... 思い切っておききいたします。死父とは、いったい、何なのですか?尋ねられたアメリカ人の驚愕。尋ねた日本人の顔をまじまじと見つめる。もじもじする尋ねたほうの日本人。死父とは死んだ父親です。死父とは死んでいるのに生きている父親です。死父とは生きている父親です。死父とは... まだつづけますか?」
しかも、架空の対談というオチ!仕掛けが大きすぎると、そのギャップを読者が埋める羽目に...
尚、柳瀬尚紀訳版(現代の世界文学:集英社)を手に取る。

こいつぁ、父親の存在感というものを、世に知らしめる物語か。いや、居場所を求める父親諸君を慰める物語か。その支離滅裂ぶりときたら...
まず、巨大な存在感を示すために、でかい図体。全長 3200 キュービット、半分は地下に埋没し、四六時中、生きている者どもに目を光らせている。キュービットは、古代文明から伝わる長さの単位で肘の長さに由来し、1 キュービットは 50 センチ弱。つまり、全長 1600 メートル弱の恐るべき巨人で、左足の義足には懺悔室がすっぽり入る。
大きな人間というのは、幅を利かせたり、社会を支配したりすることかは知らんが、畏怖の的でありながら愚かしく滑稽。その狂気ぶりはパスカル以上に病的で、身体がでかい上に態度もでかい... とくれば、ぼくらは死父に死んでもらいたいのです。
そして、息子と大勢の従者に牽かれて埋葬の地へ。このバカでかい穴はなんだ?わしを生き埋めにする気か!巨大な骸(むくろ)にブルドーザーが押し寄せる...

死んだ人間に死んでもらいたいとは、どういうことか...
故人を偲び心の中に生き続けるということもあろうし、その思いを断ち切るということもあろう。だが、そんな感覚からは程遠い。そもそも、生きていることと死んでいることの違いとはなんであろう。肉体の有無か。魂は永遠... というが、死人に口無し... ともいう。沈黙する限りでは神にも似たり。
死後の世界を知らないことは、人間にとって幸せであろう。天国も地獄も都合よくこしらえることができるのだから。生きている人間を黙らせるには、神に大いに語っていただかなければ。ただ、神ってやつは、よほどの面倒くさがり屋と見える。代理人と称する輩に思いっきり語らせているのだから...
では、死んだ人間に喋らせれば、言葉に重みが与えられるだろうか。いずれにせよ、生きている間は生きている者同士で語り合い、死んでいる者に口を挟んでもらいたくないし、死んだら死んだ者同士で静かに心を交わし、生きている者に眠りを邪魔されたくないものである...

ところで、父親の威厳ってやつは、どこの家庭でも影が薄いと見える。居場所を確保するだけでも大変と聞く。書斎のような籠もれる場所があればいいが、たいていはベランダで雨風に晒され、寒さに凍える。
存在感ってやつは、それが威厳や風格に結びつくとは限らない。威厳は威圧と紙一重、風格も風刺と紙一重。妻は子供とグルになり、まるでゴミ溜め扱い。休日に寝坊でもしようものなら掃除機に追い回され、洗濯物だって別々にされ洗濯槽を二つ備える洗濯機がバカ売れ。「父親」という語は、もはや家庭内差別用語か...
生きている間はお邪魔虫、ならば、死んでみるのはどうであろう。威厳が取り戻せるだろうか。そもそも威厳ってなんだ?肩書や年功序列の類いか。寿命ってやつは、移動平均で年功序列ということになってはいるけど。
超高齢化社会ともなれば、子供が先に逝くケースも珍しくない。天国の受付窓口で年功序列などと言い張っていれば、すぐに地獄の窓口へ回される。
おまけに、たいていの男は年下の女房を娶り、平均寿命では女の方が長いときた。たいていの父親は、死に顔を曝け出し、女房に愚痴を言われながら死んでいくのよ。子供はいらんが、孫がほしい... 嫁はいらんが、娘がほしい... そんな愚痴が死に顔から聞こえてきそうな。
父親の人生は、はかない!そりゃ、ノーパンでぶらりぶらりしたくもなろう...

2020-12-06

"辞書を読む愉楽" 柳瀬尚紀 著

いつも脇役を演じ、存在感も薄く、それでいて、すこぶる頼りになるヤツらがいる。百科事典に広辞苑、英和辞典に漢和辞典、科学用語事典に IT 用語辞典... 義務教育時代から書棚にのさばる国語辞典ときたら、いまだ現役だ。
そして媒体は、リアルな紙からバーチャルな電子機器へ。パピルスが発明された時代も、一大革命であったことだろう。紙面の活字にしても光と呼ばれる電磁波を介して見ているわけで、電子を媒介することに変わりはないのだけど、ネット媒体におけるサービスの可能性には目を見張るものがある。いまやグルグル翻訳の多言語ぶりは百を超え、ウィキウィキ百科のボランティア記事は勢いを増すばかり。
ボキャブラリー貧困層の酔いどれときたら、類語や対義語を集めたシソーラスは必要不可欠だし、OED に病みつきだし、古典を読む時には、手書き入力の漢字認識や新旧漢字の対照表にもお世話になりっぱなし... たまには、彼らに感謝の意を込め、辞書で愉楽に浸ってみるのも悪くない。
ところで、「愉楽」という文字をちょいと観察してみると、「愉」は、りっしんべんの「心」と旧字体の「兪」に分解できる。旧字体の方が心が踊っているようで、まさに愉快!そこが象形文字のいいところだけど、合理化の波には勝てないと見える。
「愉」を「楽しむ」ついでに、「湯楽」には純米酒がつきもの。毎年改版される名酒辞典にも粗相があってはなるまい...

辞書といっても、堅苦しいものばかりではない。本書は、マニアックなものも持ち出して言葉遊びを仕掛けてくる。日本方言大辞典に日本民俗大辞典、将棋戦法大事典に... 競馬ファンなら当たり前の種牡馬辞典ってのもあるらしい。そこには、辞書にまつわる 81 篇ものエッセイが掲載、いや、駄洒落挿話が満載...
辞書を編むとは、言葉を編みだすことであろうか。言葉を新たに知ると、すぐに使ってみたくなる。そして、文章のバランスを欠き、ついには壊してしまう。それは、プログラムを書くのでも同じ。新たな技を覚えると、無理やりにでも使ってみたくなるもので、まさに子供心に看取られた証。
こうしたささやかな失敗の積み重ねが、言語センスを磨いていくのであろう。どうせやっても同じ!と考えるようになったら、脂ぎった大人心に見切られた証。
試行しなくなったら、思考もしなくなる。せめて言葉と戯れていたい。そして、言葉遊びは、語呂合わせとなり、駄洒落に走る。それも老害心に蝕まれた証。
だとしても、言葉には救われるよ...

様々な方面で編み出される専門用語は、夜の社交場でも教えられる。ちなみに、恋愛の達人と称すお嬢には、「愛」と「恋」では心の在り方が違うと教えられた。「愛」は心が真ん中にあるから真心がこもり、「恋」は心が下にあるから下心が見え見えなんだそうな。言葉遊びで、心変わりも見て取れるというわけである。そういえば、ある男性が向こう隣のボックスでチェンジ!チェンジ!と叫んでいたが、この専門用語の意味は未だに分からん...

1. ナナカンオウ vs. シチカンオウ
著者には棋士羽生善治氏との共著もあって、史上初の七冠王が誕生した時のエピソードを紹介してくれる。そこで、「七冠王」の読み方は?という話題になる。なにしろ、この世に初お目見えの用語だ。「三冠王」なら、野球のみならず見かけるけど。
おいらは「ナナカンオウ」と読むのが普通だと思っていたが、国語の専門家の間では「シチカンオウ」とする意見が圧倒的に多いようだ。近年、永世七冠に、囲碁界にも七冠が誕生したが、相変わらず「ナナカン」と読まれる。新語というものは、最初に編み出した時のインパクトで、そのまま定着してしまうところがある。某国営放送が発表すれば尚更。
学術用語や専門用語にも、最初に翻訳した偉い学者の用語が定着しているケースは多い。中には違和感のあるものもあり、無理やり日本語にする必要があるのか、と思うことも。言葉には民主主義的な性質があり、意味にせよ、読み方にせよ、圧倒的多数が支持すれば、そのように変化してしまう。要するに、言葉は文法や規則に縛られるものではなく、言い方であり、使い方なのであろう...

2. ポチ vs. pooch
犬の愛称でお馴染みの「ポチ」。英語にも "pooch" という語があるらしい。グルグル翻訳機にかけると、「犬」とでる。そこで、ポチと pooch の語源は同じか?という話題になって、辞書めぐりを始める。
pooch は、特に雑種をいい、血統書付きではなく、駄犬を指すらしい。"butch" なら、そんなイメージも湧くけど、トムとジェリーの見すぎか。どちらも、小さいという意味が含まれ、チビのニュアンスを与えるらしい。pooch からポチを連想する話題は、なかなか!
しかし、語源となると、pooch から ポチが生まれたとは考えにくい。そして、二葉亭四迷の小説「平凡」を紹介してくれる。どうやら、愛犬ポチのことを綴ったものらしい。とりあえず、ToDo リストにエントリしておこう。酔いどれは暗示にかかりやすいのだ...

3. キツネ vs. タヌキ
うどんや蕎麦にキツネとタヌキがあるが、女の顔もキツネ顔とタヌキ顔で分類されるという。著者は、真夜中に奥方を起こして、キツネ蕎麦が喰いたいと言うと、油揚げがないからできません!と、タヌキ顔の奥方に素っ気ない応対を喰らったとさ。
うどんでは、キツネの方はネタがはっきりしているが、タヌキの方は地方によって様々なようである。
そういえば、男の顔もソース顔としょうゆ顔で分類される。いや、ケチャップ顔やマヨネーズ顔、塩顔なんてのも。女はキツネとタヌキの化かし合い、その脇で男は調味料を演じているわけか。人間社会の主役は、やはり女の方らしい。せめて男は、辞書の役を演じたいものである。影が薄くても...

4. 名言 vs. 豪語
辞書にまつわる名言を見かける。いや、豪語か!
ナポレオンの名言に「余の辞書に不可能という文字はない。」というのがあるが、そんな辞書は役に立ちそうな気がしない。ナポレオンの豪語も強烈だが、ヘミングウェイの豪語もなかなか...
「もし作家が辞書を必要とするなら、書くべきではないのです。その辞書を少なくとも三度は読破して、とっくに誰かに貸してあって当然でしょう。」
そういうヘミングウェイ自身は、よく綴りを間違えたらしい。実行するかどうかは別にしても、作家なら辞書を丸ごと記憶するぐらいの意気込みがいるというわけか。小説を書くということは、そのぐらいの凄みが必要なのであろう。酔いどれには、ささやかにつぶやくのが関の山よ...

2020-11-29

"翻訳困りっ話" 柳瀬尚紀 著

小雨降りしきる中、虚ろな気分で古本屋を散歩していると、ちょいと気の利いた題目に出逢った。ん~... 翻訳家の方々には、いつもお世話になっております!

海外の小説や詩を味わおうとすれば、語学力の乏しいおいらには翻訳家の存在が欠かせない。期待するのは、語の翻訳もそうだけど、むしろ、文化の翻訳、心の翻訳である。芸術作品ともなると意訳はつきものだが、その案配が難しい。作者がさりげなく演出した行間までも読ませるように翻訳するのは至難の業。言葉で補足するのでは芸がない。原文から離れてダラダラ文章になるのでは、作品を壊してしまう。美しい文調に、語学的な説明は無用だ。
センスのいい翻訳家に出逢えるのは、読者のみならず、原作者にとっても幸せであろう。シェイクスピアの作品ともなると翻訳家が群がり、腕を競い合う。異なる翻訳家で味わうのも一献!原作者と翻訳家が同時代を生きていれば、うまい翻訳文を原本の改訂版に盛り込むといったケースもある。そうなると、共同制作者。原酒に酔い痴れれば、モルトもブレンデッドも自在に味わえるという寸法よ。
時には、日本語にない日本語を編み出し、日本語の在り方までも問い掛けてくる。翻訳語に酔い痴れれば、日本語が翻訳語に毒されていくは必定。おいらは、純粋な日本語なんぞ知らんよ。

やはり、言語は手ごわい。なにしろ精神の投影なのだから。言語システムを、方程式のように置き換えることは不可能。なにしろ精神ほど得体の知れない存在はないのだから。母国語ですら語彙の解釈を巡っては、人それぞれ。客観性を帯びた専門用語ですら、微妙にニュアンスが違ったり、時代とともに変化したりする。それで会話やコミュニケーションが成り立つのだから、人間社会は摩訶不思議。いや、成り立っていると信じ込んでいるだけのことかもしれん。翻訳家は、人間の多様性を相手取る厄介な仕事の一つ。文学というより、心理学や精神医学の領域に近い。まさに、困りっぱなし!の世界というわけか。
しかし、困ったものである。人の困っているのを見ると愉快になるのだから...

著者は「翻訳恥書きっ話」というタイトルも提案している。ん~... こいつも捨てがたい。
翻訳文は、厳しい評論や批判に晒される。それも当然だろう。下手な翻訳は作品を壊す。くだらん作品なら見捨てればいいが、名作を壊されてはかなわん。
翻訳家は、対象の外国語はもちろん、母国語のセンスが大いに問われる。言語システムを超越した普遍的な、メタ言語的な感覚も必要であろう。ゲーテやタゴールのような美しい旋律を奏でる文体には、翻訳語にも乗り移る何かかがあると見える。
ところで、言葉センスを曝け出して生きてゆく仕事とは、いかなるものであろう。口は災いの元というが、一旦言葉にすれば恥がつきまとう。太宰小説ではないが... 恥の多い生涯を送って来ました... となりそうな。まさに、恥かきっぱなし!の世界というわけか。よほどの言葉好きでもないと、やってられんだろう。実際、本書は言葉遊びのオンパレード。言葉遊びの基本は、語呂合わせであり、なんといっても駄洒落だ。笑いネタに困れば、駄洒落をかます。西洋語の語呂合わせを日本語に翻訳するとなると、よほどの駄洒落センスが問われる。アリス物語ともなると、語呂合わせも芸術の域!翻訳者の仕掛けに、おいらはイチコロよ...

おびただしい活字の氾濫する昨今、言葉との戯れ方にも凝ってみたい。こういう試みを「文字遊びの四重奏」というそうな。「も」じあそびに「じ」たばたと「あ」がいたり、「そ」そられたり、「び」っくりしたり...
しかし、だ。これが困りっぱなしの文章か!翻訳家が駄洒落にご執心とくれば、やはり困ったちゃん。読み物だから面白いけど、会話で使えばドン引き!トートロジックな駄洒落じゃ、言い訳もできん。
「正気の沙汰か」に「将棋の沙汰か」を当てれば、「啓蒙的な」に「軽妄的な」翻訳談義を当てつける。
「翻訳は駒落ちで指してもらわなければ歯が立たないような相手なら、対局を断るのが礼儀というものだ。大駒は近づけて受けよ、大作は近づいて受けよ、大作でないにしろ厄介な作品ならば、自分がその作品にどの程度近づくことができるかを見極めてから、注文を受けるべきだ。そうしないから、桂馬の高飛び歩のえじきというようなみじめなことになる。本人はいいつもりでも、作品がみじめだ。」

ドナルド・バーセルミの小説 "The Dead Father" に、「死父」という日本語にない用語を当てたことには自画自賛。翻訳とは、辞書では足りない言葉を探す仕事といわけか。暗示にかかりやすいおいらは、即、ToDo リストに追加しちまう。
「翻訳困立破無氏」の草稿もなかなか。
「翻訳」という性と、「困立破無(こまりっぱなし)」という名を持つ人物は、劇団「翻訳の世界」所属の道化厄者で、十二ヶ月で逝っちまったとさ...
「氏は生活がプロである人間を尊敬し、生活がプロであるべき人間がプロらしからなぬ仕業をすることに腹を立て、プロでない人間がプロであるがごとき顔をすることに唾さえひっかけなかった。」

猫とじゃれながら洒落た筆を走らせ、私生活までも見えてきそうな書きっぷり。困りっぱなしも、一皮むけると自己陶酔というわけか。しかし、読者の方は、自己に酔うだけでは足りない。君に酔ってんだよ、とピロートークでもかますか。そして、自己陶酔に浸る。
ん... 実にくだらん!でも、おもしろい!だから言葉遊びなのだ。くだらないことに目くじらを立てていては、遊びは成立しない。脇をくすぐる領域で、くだらん人生、くだらん笑いで、愉快にゆきたいもんだ...
ちなみに、あるバーテンダーが能書きを垂れていた... 「酒に落ちる」と書いて「お洒落」... と。棒が一本足らんよ。

「卒業証書は社会には保証の幻を、証書所有者には権利の幻を与えます。証書所有者は公式に知識があると見なされます。そして、いっときの、全く便宜にすぎない学識を証明するこの書類を一生大事に持ちつづけます。他方、法に基づいて卒業証書所有者なるこの人間は、世間は自分に負い目があると信じるようにしむけられます。例えば、原著者のものを読む代わりに、要約、便覧、奇妙奇天烈な学識の錠剤の使用、すっかり出来上がった問題と解答の集成、抜萃その他かずかずの嫌悪すべきものが持って来られるのが見られるようになったのは、卒業証書を考えればこそです。その結果、こういう贋造された教養に属するものは、もう一つも、発達してゆく精神の生命に援助を与えることも、適合することもできないのです。」
... ヴァレリー「知力の決算書」(寺田透訳)より

2020-11-22

WUuu... の呪い、WMP 蜂に刺され、ご愁傷様です!

やっと縁が切れた... とホットできるヤツがいる...
ソフトウェアってやつは、愛着があって使い続ける分にはいいが、仕方なく惰性的に使っているものもある。ある種の依存症だ。しかも、標準という地位にあぐらをかき、デスクトップ内で奇妙な権威を持ち続ける。
例えば、Edge は最初から眼中にないにしても、IE は未だ縁が切れないでいる。金融系サイトでは、IE + Java でないと、まともに閲覧できないページもあるし... おいらのデスクトップは、亡霊どもの安住の地か!
そんな腐れ縁も、WUuu... の呪いが、断ち切るきっかけになってくれるとは... 恨まれっ子も捨てたもんじゃない。
ちなみに、WUuu... とは、Windows Update の略で、重低音でうなるように発声する。うぅぅ~...

1. 今回、縁が切れたのは、WMP(Windows Media Player)...
SM 教の大型アップデートってやつは、なにかしら不具合に遭遇するものだが、それが当たり前の感覚になりつつあるのも怖い。
言い出したら切りがないが、音楽関連の設定がチャラにされる程度のことは毎度のこと。なにかとトラブルの元になる "高速スタートアップ" を無効にしていると、最近、シャットダウン後の起動で、特定のアプリケーションが一度目のネットワーク接続で失敗するといった現象も見かける。だからといって、このオプションを有効にすれば、それはそれで... はぁ~、この業界で推奨やオススメの類いは当てにならん。
そして先日、Version 20H2 を適用。いわゆる、Windows10 October 2020 Update ってヤツを...
すると、WMP の視覚エフェクトが、2曲目以降動作しなくなった。
環境は、WMP12 + XTHREE(スキン) + FRUITY(プラグイン)。
スキンも、プラグインも、外部から持ってきているので、これらが悪さをしているかと思いきや、標準装備されるヤツもことごとくアウト!WMP 本体を再インストールしても、やはりアウト!
XTHREE + FRUITY の組み合わせがお気に入りで使い続けてきたが、そろそろ潮時か。ダークモードにもなりきれず、おいてけぼり感は拭えないし...
だからといって、新手の "Groove ミュージック" に乗り換える気にはなれん。

2. 前々から目をつけていた MusicBee を試すと、これがなかなか!
音質も良くなり、我が家の非力なスピーカでも、それなりに聴ける。
初対面では、設定項目が多くて圧倒されてしまうが、すぐに、このぐらいのカスタマイズ性は欲しいと思えるようになる。噛めば噛むほど味がでてきそうな... おいらは惚れっぽい自己陶酔者なのだ。
ざっと、外観すると...

  • タブの状態がしばしば変わるのが、どうもなぁ... と思いきや、タブ毎にナビゲーションロックができて安心。
  • パネル構成は、なかなかの充実ぶり。但し、グラフィカルな要素が、ちと寂しい。FRUITY 並みの VU メータを求めるのは酷か。
  • 再生装置に対して、"ハードウェアの同期のために起動時に無音を再生する" という設定があり、なかなかの気の配りよう。
  • デバイス I/F は、DirectSound, WASAPI(Shared/Exclusive), ASIO, Winamp がエントリ。
  • コーデックは、MP3, AAC, Ogg(Vorbis), Opus, Musepack, FLAC, ALAC, WavPack, TAK, WMA がエントリ。
  • スキンは、xml, xmlc(Javaベースコンパイラ)形式。

そして、ちょいとヴィンテージ風にアレンジしてみた。
ちなみに、最前面でスピーカをパコパコさせて音波を踊らせているが、それはデスクトップツール "Rainmeter" とのコラボ...




3. ついでに、楽曲ファイルの階層構造を見直す...
まず、おいらは、実空間が仮想空間と掛け離れていると不安でしょうがないネアンデルタール人なのだ。
タグが物理構造とあまりに一致していないと、音楽ソフトを乗り換える時に苦労する。リッピング時に念頭には置いていたが、WMP に頼ってずぼらになり、グチャグチャ気味。MusicBee ではあまり問題にならないが、自動車の音楽システムが古いこともあり、階層構造は整理しておいた方がいいだろう。SD カードで持ち歩いたり、愛ある電話にも移植性を高めておきたいし...
だからといって、物理イメージとタグの柔軟性をガチガチに一致させるのは手間もかかるし、現実的ではない。
そこで、物理的な階層構造はジャンル別にアルバムを割り当て、この二つにタグを一致させる、という方針で。他のタグはプレイリストか再生中トラックで閲覧できればいい。
例えば、モーツァルトの楽曲はアルバム毎に "..\Music\Classic\Mozart Works" というディレクトリ下に格納し、気分に応じて曲ごとにプレイリストへエントリする、といった具合。
おいらの場合、ジャンルとアルバムが整理されていれば十分だし、この程度の編集なら大して手間もかからない。MusicBee は、タグ編集もやりやすいし...
ところで、ディレクトリという名は死語になりつつあるのだろうか。dir コマンドはまだ生きているけど。フォルダという名で抽象化するのもいいが、ネアンデルタール人はファイルとディレクトリで種別する方が落ち着く。Unix ライクな土壌では、カレントディレクトリの名は未だ健在だし...

2020-11-15

"迷い鳥たち" Rabindranath Tagore 著

ひと月ほど前、「ギーターンジャリ」(渡辺照宏訳版, 岩波文庫)には、見事にしてやられた。今宵、翻訳者を変えての挑戦に、これまたイチコロよ。
尚、内山眞理子訳版(未知谷)を手に取る。

恥ずかしながら、おいらが詩を読めるようになったのは、半世紀も生きてからのこと。詩ってやつは、理解するというより、感じるものなのだろう。何事も素直に感じとるには、子供心に看取られた純真さがいる。脂ぎった大人には酷だ。中原中也ではないが、まったく、汚れちまった悲しみに... といった心境である。
素直に味わうには、感覚を研ぎ澄まさなければ。感覚のままに受け取るには、感情を解き放たなければ。それは、受動的でありながら能動的という矛盾の覚醒か。自由精神とは、矛盾を謳歌することか。いや、M の覚醒よ...

詩を本当に味わいたければ原語で読むべし!とは、よく耳にする。しかし、タゴールをベンガル語で触れるのは、生涯叶わぬであろう。語学力の乏しい酔いどれごときには。
それにしても原文には、オーラのようなものが放たれているのだろうか。翻訳語にも乗り移る何かがありそうな。これが、普遍性というものか。詩にうんざり、愛にはもっとうんざり、そんな天の邪鬼な心をねじ伏せてきやがる。

原題 "Stray Birds"... ん~、迷える子羊より響きがいい...
まったく人間ってやつは、迷える存在でしかない。善を知るために、悪をも知らねばならぬとは。相対的な認識能力しか持ち合わせなければ、対極を知覚して中庸を模索するしかあるまい。生と死、永劫と刹那、光と闇、暁と黄昏、大いなる存在とちっぽけな存在... こうしたコントラストを甘美な調べに乗せて。言葉遊びの相対性理論とでも言おうか。
澄んだ目で見つめる森羅万象は、愛にも悲しみにも溢れ、あるときは、大自然の神秘な讃歌を奏で、またあるときは、宇宙と静かに会話し、またまたあるときは、人間社会を痛烈に皮肉って魅せる。ささやかな箴言の凝縮、自己表現を極限まで簡素化する芸。これが、詩というものか。迷える存在だからこそ、対称性に看取られた小宇宙に魅せられるのやもしれん...
「歌は無限を大空に感じとり、絵画は無限を大地に感じとり、詩は無限を大空と大地に感じとる。なぜなら詩の言葉は歩みゆく意味をもち、空翔る音楽をもつのだから...」

騒々しく活字が飛びかう昨今、沈黙の奏でる調べに癒やされようとは。そして、言葉拾いに翻弄される。脂ぎった魂はどうしても皮肉の利いた言葉を拾ってしまう。詩とは、読者の心を映し出すものなのか。
その日の気分によっても、拾えるものが違う。マールをやりながら読めば、心の中にわずかに残った粕を搾って、箴言らしきものが拾えるやもしれん...

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海よ、あなたの言葉はどのような言葉ですか... 永遠の問い、という言葉です
空よ、あなたの答えはどのような言葉ですか... 永遠の沈黙、という言葉です

水のなかの魚は沈黙し、地上の動物は騒がしい、空を飛ぶ鳥はうたっている、そして人間は、海の沈黙と、地上の騒がしさと、空の音楽をそのうちにもっている。

生はあたえられたものであるがゆえに、あたえることによって、それを得るにあたいする。

謙虚さにおいて偉大であるとき、偉大者にもっとも近づく。

完全者は、不完全者への愛のために、美でもって自身を装う。

悪は敗北する余裕をもつことができないが、正しきことはそれができる。

子どもは、どの子も、神はまだ人間に失望していないというメッセージをたずさえて生まれてくる。

草はその仲間を地中にさがしもとめる。木はその孤独を大空にさがしもとめる。

死において多は一になる。生において一は多になる。神が死ぬときに宗教は一つになるだろう。

芸術家は大自然の愛人である、それゆえにその奴隷であり、その主人である。

闇のなかで唯一者は一様にあらわれるが、光のなかでは多様にあらわれる。

花をつんでおこうと集めてまわらずに、ただ歩いてゆきなさい、そうすれば花は、行くさきざきで咲いていることでしょう。

真理はその装いのなかで、さまざまな事実をとても窮屈だと知る。いっぽう物語において、真理はゆったりとふるまう...

器のなかの水は光るが、海の水は暗い。ちいさな真理は明瞭な言葉をもつが、大いなる真理は大いなる沈黙をもつ。

ペット犬は、世界がまるごと、じぶんのその地位をねらう陰謀ではないかと疑っている。

賞賛はわたしを恥ずかしく思わせる、なぜならひそかにそれをほしがるわたしがいるから...

人びとは残酷だ。しかし、人は優しい。

真理の流れは幾多の誤謬の水路を通りぬけてすすむ。

人間は動物であるとき動物よりも悪い。

神は限りあるものに、人間は限りなきものに、愛の口づけをする。

神の沈黙は人間の想念を成熟させて言葉にみのらせる。

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2020-11-08

"ガンディーとタゴール" 森本達雄 著

タゴールの詩集「ギーターンジャリ」に魅せられ、ガンディーの告白「獄中からの手紙」を突きつけれると、今度は、翻訳者の視点から描いたものに触れてみたい。この惚れっぽい衝動ときたら...

暗い受難の時代というのは、偉大な人物を輩出するものらしい。英国帝国主義の植民地支配に抵抗したセポイの反乱が鎮圧されてから、インドとパキスタンの分離独立に至る激動の時代に、二つの巨星が舞い降りた。片や仏陀の再来と言われ、片や古代サンスクリット語の大詩人カーリダーサに比肩するとされ、それぞれに国民大衆から「マハートマ(偉大な魂)」と敬われ、「グルデブ(尊師、先生)」と慕われた。
ただ、この二人の人物像は、国民的英雄といった印象とは大分違う。二つの卓越した人格が、肉体から離脱したような存在とでも言おうか。偉大なのは人物ではなく、人格と言うべきか。まさに人間離れした。普遍的な人間とは、こういう人物を言うのかもしれん...

しかしながら、どうしても腑に落ちないことがある。これほどの人格者が二人揃って、なにゆえ政治運動なんぞに執心したのか?彼らの使命感や義務感は、いったいどこからくるのか?時代がそうさせたといえば、そうだろうが、それだけだろうか。
同胞が過酷な迫害を受けた時代、二人は真理の探求に生きた。受難の時代に哲学をやると、政治へと向かわせるのか。思考は疑問を持つことに始まる。時代の在り方に疑問を持てば、社会の在り方を問い、政治の在り方を問うことに。プラトンは、哲学者による統治という国家の理想像を描いて魅せたが、これに通ずるものがある。
とはいえ、真理を探求する世界と政治の脂ぎった世界とでは、あまりにも真逆。政治は妥協の世界で、理想主義がしばしば混乱を招いてきた。真理ってやつは、よほど手ごわいと見える。俗世間から距離を置き、精神空間を遠近法で眺めないと、なかなか姿が見えてこない。はっきりと見えなければ、凡人は都合よく解釈するし、この凡人未満の天の邪鬼ときたら、そんなものが本当に存在するのかと疑いもする。
真理の探求者が、普遍原理に反する事に関わることは苦痛でしかあるまい。それでも、優れた才能の持ち主ゆえに、逃れられないことがある。両者とも、意に反してまで政治運動にかかわったようには見えないけど。有能な人材ほど苦難を背負うものなのかもしれん...

馬の耳に念仏というが、聞く耳を持たぬ者を説いても、人の心は動かない。それは、ガンディーも言っていること。考え方や生き方を強制することも暴力であると。良心に訴えるというが、個々は善人でも、集団化すると悪魔に変貌するのが人間社会。そんな性質とどう向き合うか。
残念ながら、ガンディーの唱える非暴力不服従運動は、凡人には高尚すぎる。現実的な解は、毒をもって毒を制すの原理に縋るしかなさそうだ。まともな政治哲学を持つには、人類はまだまだ若すぎると見える。なにも直接、国民大衆に接することはあるまい。諷刺の効いた芸術作品を通して、訴えるのも一つの手。多少なりと聞く耳を持つから作品を手に取るのだろうし、ましてや、まったく興味のないものに触れようとはしないだろう。
そこで、タゴールの方はまだ馴染める。やがて政治の世界から身を引き、文学の世界で生きるのだから。文学部門でアジア人初のノーベル賞に輝いたことも、国民に勇気と誇りを与えたことだろう。アインシュタインのような自然科学者とも親交を深め、まさに自然哲学に没頭したと見える。
生き方は違っていても、思想哲学ではガンディーとタゴールはよく似ている。タゴールが言葉の奏でる美を通して真理を探求した人なら、ガンディーは行動を通して真理を探求した人。ともに、狭い了見での国家主義に警鐘を鳴らし、帝国主義を批判した。
二人は親交もあり、「マハートマ」の称号を与えたのがタゴールだったとされる。自己を高めるライバル意識のようなものが、互いに引きつけ合ったのであろうか。ルネサンス時代に多くの万能者を輩出したように。類は友を呼ぶというが、天才が集まると偉大さを纏い、凡人が集まると魔性を帯びるのかは知らんが...

1. 行動の人... ガンディー
「あなたのメッセージは?」と報道陣に聞かれると、「マイ・ライフ、わたしの全生涯がメッセージです。」と答えたそうな。ガンディーにとって、行動そのものが言葉というわけか。彼が起こした非暴力不服従運動は、思想的には真新しいものではないが、集団行動となると、人類史上、未曾有の試みかもしれない。
ただ、尊敬はできても、生き方が合わないという人はいる。理想が高すぎて、受け入れる側の度量を超えると、抑圧的にも感じる。ガンディーには、そうしたところがあまりない。彼は、完全な菜食主義者だったというが、それを強要したりもしない。
「他人に魚を食うなと強要する人は、魚を食する者よりいっそう大きな暴力を犯しているのです。漁師も、魚の行商人も、それを買って食する者も、おそらく彼らの行為に含まれている暴力に気づいていないのです。たとえ気づいていても、彼らはそれを不可避とみなしているかもしれません。けれども、他を強要する者は、故意に暴力をふるうという罪を犯しているのです。強制こそ非人間的です。」
行動の人という意味では、まさに政治家らしい政治家。押し付けがましいところがないという意味では、実に政治家らしくない政治家。
しかし、だ。凡人が崇高な思想を慕って集団化すると、しばしば抑圧的な思想に変貌してしまう。一人の偉人の目よりも、集団の目の方がずっと力強い。ましてや寛容さには、凡人はその上にあぐらをかく。
したがって、こうした思想を慕う人には、自立が求められる。ガンディーも、必然的に自立を要請している。ガンディーが唱えた「サティヤーグラハ」という思想は、南アフリカ共和国で試験的に実践し、インド独立運動で展開された。だがそれは、単なる非暴力を要請しているわけではなく、自立が前提されている。
「スワデーシー」という国産品愛用の呼びかけも、民族の職業的自立を唱えてのこと。しかし、凡人がこれを実践すると、海外製品ボイコットという形でナショナリズムを煽ることに。敵愾心を持つのは、自立心のなさゆえか...
「無所有」という積極的な欲望の浄化を唱えているのも、自然との共存の中での自立を説いている。衣食住のすべては、なんらかの形で自然の恩恵を受けている。もし、必要以上の広大な土地を所有しているとしたら、住む家のない人の土地を奪っていることに。もし、必要以上のご馳走にありつき、食べ残して捨てているとしたら、飢えている人の食べ物を奪っていることに。そう考えると、必要以上の所有は悪となる。人の幸せは、何かの犠牲の上に成り立っていると考えれば、これ以上の幸せを求めなくなる。
しかし、必要以上とは、どの程度をいうのであろう。ここが凡人の解釈と違うところ。そして、自己満足に終わる。幸せすぎても、不幸すぎても、人間は残酷になるらしい。
ん~... やはり、ガンディーの生き方は高尚すぎる。少なくとも、21世紀の人類には...
だからといって、理想主義で片付ける気にはなれない。遠く紀元前五世紀にブッダガヤの菩提樹の下で大悟成道した行動も、二千年前にゴルゴダの丘で沈黙のままに十字架刑を受け入れた行動も、今尚、時空を超えて語りかけてくれるのだから...

2. 美を奏でた人... タゴール
ガンディーが政治家としての使命感に目覚めた人とするなら、タゴールは教育家としての使命感に目覚めた人と言えよう。国家教育から距離を置き、自ら学校を設立。後に、タゴール国際大学と呼ばれることに。ガンディーもアーシュラム(修道場)を建設し、出身階級のいかんを問わず、学問する人を広く受け入れた。二人とも不可触民制の排除を誓う。カーストのような過酷な階級制度の下では、まず学問の下での平等が唱えられる。
それは世界各地でも見られる光景で、自己啓発を促すことが主眼となっている。機会平等とはそういうことであろう。つまり、学問するということは、自立を要請しているわけである。
インドの場合、農村を疲弊させた要因に、東インド会社が導入した「ザミーンダーリー制度」という地租徴収制度が挙げられる。地主が徴税者となり、徴税権は富裕な商人の間で売買され、伝統的な農村の社会秩序が破壊された。地主の没落とともに、農民は小作人に。そこに高利貸しや悪徳商人たちが禿鷹のように群がる。農民はまったく労働意欲を失い、卑屈な自己蔑視を募らせる。
タゴールは、自立心を取り戻すために、文字の読めない農民にも口ずさむことのできる言葉を編み出した。彼の詩は、無名の時代から、政治集会や祭りで愛唱され、田畑を耕す仕事歌として歌われたという。無知では依存症を増殖させる。学問の道は、民族自立の道というわけか...
それにしても、詩集「ギーターンジャリ」には救われる。邦訳版に触れたけど、それでも救われる。詩は原語で味わうものと言われるけど、やはり救われる。原文が自然な美しさをまとうと、翻訳文にも乗り移るのだろうか。タゴール自身が、わざわざベンガル語の詩集を英語訳版で刊行したのも、西洋人にはタゴール・ソングが理解できないと見たのか。しかも、定形詩を散文詩に変えて。それで、ノーベル文学賞をとっちまうんだから。誰だかは知らんが、ある詩人はこんなことを言ったという...
「子供はみんな詩人になる素質をもっている。ただ、大人になってもそれを失わない人が詩人と呼ばれる。」
真の芸術家とは、子供心を失わないものらしい。大人になると、言葉の意味や理解が先行して、言葉の奏でる美しさ、言葉の抑揚や響きといったものを、耳を通して味わおうとしない。
おいらの場合、詩を読む機会がほとんどなかった。中原中也のような人を知ったのも、半世紀も生きてからのこと。この歳になって、ようやく耳から言葉の調べが聞こえるようになろうとは... まったく、汚れちまった悲しみ... といった心境である。
「言葉を教えることの主な目的は、意味を説明することではなく、心の扉をたたくことだ。そのように戸をたたく音で、心のなかに何が呼び覚まされたかを説明するよう求められても、子供はたぶん、なにかとてもばかげた返事をするだろう。なぜなら、心のなかで起こっていることは、言葉で表現できるものなどより、はるかに大きいからである...」

3. ともに見た死生観
俗世間では、手段が目的化することがよくある。苦行の世界にも苦行主義が蔓延り、苦行そのものが目的となって極端な難行へとエスカレートさせていく。こうなると、苦行も滑稽芸!精神を解放するための苦行が束縛へと向かえば、それは自立心の喪失にほかなるまい。
ガンディーとタゴールの哲学には、自立、自己啓発、自己省察といった言葉が目に留まる。その先に二人が見たものは、そこに共通の死生観が伺える。
インド伝統の哲学に、人間の魂にはアートマン、すなわち、宇宙的な真理であるブラフマン(梵)が宿るとする宇宙観がある。真理の下では、民族の肌色、言語、習慣の違いも単なる表現の違いに過ぎない、と考えるのも道理。
さらに、道理を求めれば、死を思わずにはいられない。宇宙論の下では、死は終焉ではなくなり、死すらも生の延長として受け入れられる。死が訪れなかったら、人生はいつまでたっても未完のまま...

「おお、死よ、わたしの死よ、生を最後に完成させるものよ、来ておくれ、わたしに囁きかけておくれ!
来る日も、来る日も、わたしは おまえを待ちうけてきた...
おまえのため 人生の喜びにも痛みにも わたしは じっと耐えてきた。
わたしの存在 所有 望み 愛... すべてが、秘かな深みで たえずおまえに向かって流れていた。
最後にひとたびおまえが目くばせすれば、わたしの生命は 永遠におまえのもになるだろう...」

... 「ギタンジャリ」より

2020-11-01

初体験!国勢調査員... デジタル後進国のお祭りか!

なんであれ、初体験ってやつはワクワクさせるものがある。が、こいつは例外中のド例外!不合理、非効率、理不尽、ピント外れ... このバカバカしさは、まったく形容しきれない。
そして先週、ようやく集計作業が片付き、今、前高市総務大臣の任命辞令書を燃やしたところ...

春の終わり頃、やる人がいないから、どうしてもやってくれ!と頼まれた。おいらは個人事業主で職場も自宅ということもあり、あのおじさんはいつも家にいるから暇!と思われているようだ。町内会の役員もやらされているし。巷には、仕事といえば通勤するものだと杓子定規でしか考えられない連中が、あまりに多い。
最初の説明会では、 質疑応答の段になると苦情や経験談で荒れ狂う。なんだ!この殺気立った会合は?お国の権威主義で地方に揉め事をつくるのは、ご勘弁願いたい!
とにかく、国際調査員ってやつは、仕事を持っている人にはできない。おかげで、一ヶ月間、仕事を中断する羽目に。まったく、コロナ禍ならぬ、国勢調査禍よ!

1. 縦割り行政の産物か...
国税庁が、還付申請では面倒くささを強要しながら漏れなく徴収とくれば、地方自治体も負けじと住民税を漏れなく徴収ときた。彼らは、所得や資産の個人情報、住民票などでしっかりとしたデータベースをお持ちのようだ。なのに、総務省ときたら...
「個人情報は保護されます!」って何を根拠に?調査員が全国で 60 万人もいれば、中には... 実際、国勢調査バッグがネットオークションに出品され、高値がついた。何に使うかは知らんが...
少子化問題などの政策決定に使う情報と銘打つなら、他の省庁や地方自治体から、世帯構成などの数字を拾うだけで済むはず。なにゆえ個人名まで知りたがるのか?仕事状況なら、所属する企業や勤務先から拾い上げればいいし、アパートなら、どんな人が住んでいるか大家さんが知っている。大家さんも知らないような状況なら、一般人が訪問したぐらいで実態が分かるはずもない。
封筒の表紙には、「国勢調査には回答の義務があります!」とある。義務ってなんだ?統計法を盾にした強迫観念か?見事な国家への不信感を増殖させるイベント!おまけに、こんなものを野放しにする大手メディアの大本営ぶり...
行政改革で何をやるかより、やめるべきことをきちんとやめるだけでも、かなりの改革ができるであろうに。調査員たちは口を揃えて言う。税金の無駄遣い!と...
そういえば、つい最近、NHK の受信料制度で総務省の有識者会議が、「テレビ設置の届け出を義務化する」やら、「未契約者の居住情報の照会を可能にする」やらと提言したことが報じられた。個人情報に対する意識は、かなりズレてそう...

2. この国にデータベース化という戦略はないのか...
まず、データ収集のやり方からして問題!
インターネット回答がオススメ!って大々的に宣伝しているが、調査員は、コンピュータが振った地域番号と世帯番号を各世帯毎に手作業で割り振っている。グルグルマップ風の担当区地図に世帯番号を書き込み、その番号を世帯一覧表に書き写し、世帯代表者と男女構成を聞き取って書き加え、回答結果と擦り合わせて修正する。なんだこの手間は?こういう作業こそ、電子化するべきでは...
そして、本部から回答状況が報告され、未回答世帯の催促に奔走する。
総務省には、根本的なデータベース化という戦略がないのか。住基ネットはすでに形骸化し、マイナンバーカードも同じ道を辿るのかは知らんが、脱ハンコ!などと言っている場合か。上っ面のデジタル化で「やってます感」を演出するのは、いい加減にしてもらいたい。
我が国は、モノ作りに対する姿勢では、繊細なこだわりや美学を見せるのに、情報に対する体質となると、太平洋戦争時代からあまり変わっていないと見える。
情報活用の仕方を知らない連中が、無闇に情報を集めることほど滑稽で危険なことはない。スパイ天国と揶揄されても仕方あるまい...

3. 調査員が怒られ役なのは仕方がないにしても...
みなさんボランティア精神でやっているのに、この仕打ちはなんだ!
少しばかり手当が出るとはいえ、逆に、お金を払ってでも代わってもらいたい。一般人に「国家公務員として自覚して行動して下さい!」などと臨時で身分を与えて責任を押し付ける。国家公務員の身分証を見せるのは、むしろ逆効果。つまり、国が信用されていないってことだ。
防犯グッズまでも支給される。痴漢防止用の爆音ブザーがなるヤツ。こんなものが必要な作業なのか?
市営住宅などを担当している方とも親しく情報交換させてもらっているが、こちらからは声もかけられない状況。オートロックのマンションも対応が大変そう。管理会社に相談しても、所詮、所有者の雇われ人。勝手に入れないから、一軒一軒チャイムを鳴らして手渡している。
おいらの担当区でも、十回ぐらい訪問してやっと会えた人が何人かいる。結構、いい人だったりするのだけど...
夕方に訪問しても留守だから夜に訪問すると、「こんな遅い時間に来やがって!」と怒鳴られる程度のことは当たり前。
特に、女性調査員はなめられるようだ。夜な夜な涙を浮かべて国勢調査バッグをもって歩いているおばさんに声をかけると、こちらは頷くだけで何も言えなかった。お互いに愚痴を言い合うだけでも救われるのだけど。仮に、ガッチリした体格で、ヤクザ風の国勢調査員が訪問したら、同じ態度でいられるのか?防犯グッズには、そうした用心棒グッズを配布した方がよかろう...
世間体では良い人でも、誰も見ていなければ豹変する人は少なくない。日本社会は、まったく村社会だということを改めて認識させられた。知ってたけど。いや、村八分社会か。知ってたけど...
配布も大変だが、回収はもっと、ずっと、はるかに大変!
あからさまに居留守を使っている人も珍しくない。高年の調査員ともなると、インターネット回答の仕組みなんて分かるわけがないと思われ、却っていい口実にされる。実は、インターネットで回答すれば、リアルタイムで丸見えなんだけど...
おいらの担当地区は一戸建てが多く、行儀のいい人ばかりで、比較的苦労は少なかったが、それでも回答意志のまったくない人は、どの地区にもいる。調査項目には、「回答意志の有無」というのも加えてもらいたい。意志のない人を動かそうとは思わないし、堂々と意志がないことを表明させればいい。そういう人ほど、回答意思はあるようなことを匂わせて言い訳めいたことを言うのだろうけど...
何回訪問してダメなら通知のビラを配り、さらに、至急通知と調査票の再配布などと、手順作りをやってる場合ではない。ボランティアだって、そんなことに付き合っている暇はない!中には、やったことにしている調査員もいるのでは?実際、そんな誘惑にも駆られる。真面目にやる人ほど馬鹿を見るのが人間社会というものか。知ってたけど...

4. インターネット回答でもトラブルあり...
インターネットで回答したという方でも結果に反映されていないケースがあった。最後の送信まで到達していなくても、完了したと思っているかもしれない。実際、送信ボタンで画面が固まったというユーザ報告もある。
せめて、ログインした時間ぐらいの履歴情報は欲しい。でないと、説得できない。いい人だったので再ログインをお願いし、それで完了してくれた。
そもそも、行政機関のサイトを信用していない人が多い現状がある。どんなに使いやすくても完璧なシステムなんてありえないし、回答完結の情報だけではあまりにショボい。せっかくの電子化、システムに有用な履歴情報を組み込むことぐらいは、そう難しくはあるまい...

5. 回答期限延長で、さらに荒れ狂う...
当初、回答期限は 10/7 であったが、回答率が低いということで、10/20 まで延長された。それで、期限延長の知らせが調査員にまったくないとは、どういうわけか?テレビや新聞で宣伝されているとはいえ。おいらはネットで知ったが、他の調査員に教えてもオオカミ少年扱い。いくらなんでも本部から連絡があるだろう、って。そりゃそうだろう。おいらも、総務省のサイトを疑ったぐらいだ。回答期限も正確に知らないのは、国勢調査員を名乗る詐欺か!と罵倒もされる。前から鉄砲で撃たれ、後ろからも撃たれている気分。回答意志のある人は、たいてい期限を守るか、少し遅れるぐらいなもの。むしろ、回答意志のない人に口実を与えている。
さらに、10/7 時点の回答状況確認表が 10/9 の金曜日に郵送されてきたが、郵送回答があまりに少ない。しかも、まさか!この人が回答してない?という名が、ずらりと挙がってきていない。インターネット回答は即反映されていて、ほとんどの人がインターネットで回答したことになっている。
回答率の最初の速報が、50%台。8日の時点で約 68%。よそは大変だなぁ... と眺めていたが、他人事ではなかった。
調査員は土日が勝負!
さっそく翌日から訪問して当たりをつけてみたところ、感触ではポスト投函から 5日ぐらいのディレイがありそうだった。最初の締切 10/7 から 5日ほど遡ると、10/2 になるが、それが本当だとすれば、まったく使い物にならないレベル。いや、むしろ混乱させる情報だ。おかげで、調査員たちは怒られまくり。
さっそく月曜日に本部へ赴き最新情報を要求したら、各担当区の指導員がネットからアクセスできる QR コードを持っていることを知り、これに救われた。本部の方々は地方公務員で、総務省からの命令でやっているだけであろうから、文句を言うのも気の毒。せめて現場の状況報告を上げるよう文書でお願いして、おしまい...

6. そして、帰結...
人生は短い!興味のないことに付き合っている暇はない。
そもそも、おいらは人間嫌い!調査資料の整理も終わったことだし、人間関係の整理でもやるかぁ...

2020-10-25

"獄中からの手紙" Mohandas Karamchand Gandhi 著

実際主義の流れを汲む中に、ガンディーを嫌う人は思いのほか多い。歴史を振り返れば、理想主義が現実社会を破壊した事例はわんさとあるし、平和主義者の理念が国家主義者の横暴を許し、戦争を招き入れた事例も少なくない。
「マハートマ(偉大なる魂)」の称号を持つこの人物はというと、確かに理想高すぎ感はある。が、夢想家と呼ぶ気にはなれない。「塩の行進」や「糸車で紡ぐ」などの日常生活に根ざした民衆運動は、近年の市民運動にも通ずるものがある。宗派や人種を超えた象徴として...
ただ、非暴力運動の実践となると、人類はまだまだ若すぎると見える。おいらは、この人物が好きでも嫌いでもない。ただ、尊敬はできても、生き方が合わないという人はいる。それも、まったく敵わないと、心の中で白旗を上げている。そして、ガンディーのものとされる、この言葉が好きなだけだ。

"Live as if you were to die tomorrow.
 Learn as if you were to live forever."
「明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。」

実は、この言葉を拾うために本書を手に取ったのだが、合致するものに巡り合うことはできなかった。邦訳版だからなんとも言えないけど。それでも、この言葉の哲学は充分に味わえる。
ちなみに、おいらは言葉を追い求める夢想家だ。その証拠に、未だハーレムという言葉に救いを求めている。未練は男の甲斐性よ...

1930年、ガンディーはヤラヴァーダー中央刑務所に収監された。彼は、アーシュラム(修道場)の弟子たちに宛てて一週間ごとに手紙を送ったという。厳粛なる道徳的観点からの戒律を。牢獄の時間は、哲学原理を沈黙思考するには貴重な時間だったと見える。
おいらは、戒律ってやつが大の苦手ときた。抑圧的で説教じみていて、なにより息苦しい。だがここに、そんな感覚はない。それは、真理を第一のものと位置づけているからであろう。真理は実在に由来するという。神は真理なり、というよりは、真理こそが神。真理を探求し続けることこそ、修行の道というわけである。
しかしながら、真理ってやつが本当に存在するのかも、よう分からん。この酔いどれ天の邪鬼には、単なる認識の産物ではないかとさえ思える。それでも、宗教が唱える神の存在を信じるよりは、真理の存在を信じる方がはるかにましか...
尚、森本達雄訳版(岩波文庫)を手に取る。
「最高の真理は、それ自体で存在するのです。真理は目的であり、愛はそこに至る手段(みち)です。わたしたちは、愛の法(のり)に従うのは容易ではないことを承知していますが、愛すなわち非暴力とは何か、については知っています。しかし真理については、その断片を知るのみです。完全に真理について知ることは、完全に非暴力を実践するのと同様、人間には成しがたい業です。」

1. 宗教家か、政治家か...
ガンディーは、宗教家であったのか、政治家であったのか。真理の探求者が、なにゆえ政治なんぞに深く関わったのか。彼の生きた時代は、イギリス帝国主義からの独立を経て、インドとパキスタンが分離独立に至った激動期。時代が使命感を駆り立て、政治へと向かわせたのか。プラトンは、哲学者による統治という理想国家像を描いて魅せたが、これに通ずるものを感じる。
力なき者が巨大な国家を相手取るには、ゲリラ戦の様相を呈する。民衆運動という集団戦術によって。ガンディーは、弱者の非暴力ではなく勇者の非暴力を唱え、不服従運動を人間の誇りの運動に位置づける。そのために、真理の哲学を用いたというわけか。
しかしながら、真理ってやつは意外と脆い。なにしろ、真理めいたものはすぐに見えても、本当の真理はなかなか姿を見せてくれないのだから。
なるほど、真理は神に似ている。ただ人間ってやつは、神の存在を強烈に意識し、それを恐れても、真理の存在はあまり意識せず、恐れることもあまりない。
古来、宗教と政治は両立しうるかという問題がある。今日、政教分離の原則が声高に唱えられるが、ガンディーは、宗教なくして政治はありえないという立場で、道徳性や精神性の欠いた政治は避けるべきだとしている。
彼の言う宗教とは、互いにいがみ合うような盲目的な信仰ではなく、寛容の精神に基づくような普遍宗教のこと。その意味で、真理の探求者もまた宗教家ということになろうか。いや、信念を持ち続けることができれば、誰もが宗教家なのやもしれん。ガンディーは、世界宗教なるものを夢見ていたのだろうか...
「すべての宗教は、聖なる霊に触発されて生まれたものですが、それらは人間の精神の所産であり、人間によって説かれたものですから、不完全です。一なる完全な宗教は、いっさいの言語を超えたものです。ところが不完全な人間が、それを自分に駆使できる言語で語り、その言葉がまた、同じ不完全な他の人びとによって解釈されるのです。いずれの人の解釈が正当だと主張できましょうか...」

2. インド的な戒律
身分制度の歴史は、どこの地域にも見られるが、現在でも色濃く残るものとしては、カースト制度が挙げられる。法律でいくら規定しても、慣習の力は強すぎるほどに強い。ガンディーは、不可触民制の撤廃を強く唱える。特定の身分や家柄の生まれというだけで、その人々に触れると穢れるなどと考えることは理不尽きわまる、このような制度は、社会の癌!宗教を装いながら宗教を堕落させている!と...
また、スワデシーという国産品愛用の呼びかけも、インド的。暑いインドでは、塩は特に重要。海岸線や山中からも採取できる自然の贈り物に対して、外国政府が管理し、課税するとはどういうわけか。
さらに、伝統的な紡績産業に目を向け、国産品に愛着を持つという運動で「塩」や「糸」がシンボルとなる。
但し、こうした運動は、外国人に悪意を抱くことでも、憎悪崇拝でもないとしている。
しかしながら、凡人は、こうしたことで愛国主義を旺盛にしていくもので、海外製品のボイコット運動を引き金に、外国人排斥運動を激化させていく。製造品が、そのまま人種や民族と結びついて...
それは、21世紀の現在とて同じ。ただ現在は、まだ救われているかもしれない。自国製品や自国企業が、もはや自国のものではないことを多くの人が知っている。外国製品をボイコットすれば、自分の首を絞めてしまうことを。
とはいえ、グローバリズムを旺盛にすれば、同時にナショナリズムを旺盛にさせ、社会はますます二極化していく。人間社会で中庸を生きることは、よほどの修行がいると見える...

3. 人間は生まれつき盗っ人か...
不服従運動に執心するガンディーの姿は、みすぼらしい。彼は、不盗の戒律を唱えているが、それは、人の持ち物を盗んではならないという社会常識を説いているような、ちっぽけな話ではない。まず、地上で生存するためには、衣食住のすべてが何らかの形で自然の恩恵を受けている、と考える。
そして、生活に必要以上の広大な土地を所有しているとしたら、その日の糧を得なければならない人から自然の恵みを略奪していることに... 食べきれないほどのご馳走をテーブルに並べ、食べ残して捨てているとしたら、飢えている人から食べ物を横領していることに... といった論理を働かせて、不盗の戒律を無所有の精神と結びつける。必要以上を求めない、パンのための労働を、と。必要以上に所有しない、自己放擲と犠牲の精神を、と。
しかしながら、必要以上とは、どの程度をいうのであろう。ここが凡人の解釈と分かれるところ。自己放擲や犠牲にしても、凡人は自己満足で終わる。事業で大成功し大金持ちになった人が、私的な慈善団体を設立するのも、必要以上に儲けてきたことへの償いであろうか。いや、貧乏人にだって、憐れみの情念はある。
人間はみな幸福を願って生きている。しかし、幸福が誰かの犠牲の上に成り立っているとしたら、豊かさが誰かの犠牲の上に成り立っているとしたら、そんなことを素直に願うことができようか... これが、ガンディーの問い掛けである。
さて、自分の欲望とどう向き合うか。主犯格は嗜欲か。死を運命づけられた人間にとって、人間目的がはっきりしないのは実にありがたい。謙虚な人ほど自らの謙虚さを意識せず、大層な目的を知らないことも素直に認め、自然に振る舞えるものなのかもしれん...

2020-10-18

"タゴール詩集 ギーターンジャリ" Rabindranath Tagore 著

こいつには、救われる...
BGM のように流れ去っていく文学作品とは、こういうものを言うのであろうか。フレーズそのものは頭に残らなくても、心地よさだけは確実に残る。読書に BGM は絶対に欠かせないが、だとしても、これほど BGM を引き立て、自らバックグラウンドを演じきる書があろうか。この控えめな汎神論的自然観には、悲愴感が漂う。ここは、チャイコの六番に乗せて。いや、ショパンの調べも捨てがたい...
尚、渡辺照宏訳版(岩波文庫)を手に取る。

ラビンドラナート・タゴール...
このインドの詩人は、1913年、詩集「ギーターンジャリ(歌の捧げもの)」でノーベル文学賞を受賞し、アジア人初のノーベル賞受賞者となった。ガンディーとも親交があり、マハートマの称号を贈ったのもタゴールだったという。ガンディーといえば、彼のものとされるこの言葉を思い浮かべる。

"Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever."
「明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。」

本書には、ガンディー哲学が乗り移ったような感がある...

ギーターンジャリ...
この大作には、本家本元のベンガル語版と、タゴール自ら翻訳した英語版の二つがあるそうな。本書は、あえて「ベンガル語本による韻文訳」と「英語本による散文訳」の両方を掲載しくれる。というのも、各々まったく違う形式をとっているのである。
ベンガル語版は、定形詩 157 篇を収め、すべて吟誦に適しているという。
一方、英語版は、散文詩 103 篇を収め、うちベンガル語版からの採用は 53 篇のみで、他は別の詩集から持ってきたものだとか。定型詩と散文詩というだけでも違った印象を与えるが、内容もまったく別物。ノーベル文学賞の対象となったのは、英語版の方らしい。
タゴールは、ロンドン大学で英文学を学び、西洋思想や西洋哲学を熟知していたと見える。採用に漏れた詩群は、西洋人の感覚に合わないと見たかは知らんが、なんと惜しいことを...
ここには、邦訳ではあるが、ベンガル語版の方が壮大な景観が見て取れる。とはいえ、英語版の散文形式もええ、まるでシェイクスピア劇場を見ているような...

詩を味わうには原語で読むべきだ!と、よく言われるが、タゴールの詩は特にそうらしい。思想や哲学、あるいは内容だけでは味わえない領域が確かにある。やはり、詩で最も重要なのはリズムであろう。それは形式ばった調子ではなく、自然に奏でる調べ...
日々の習慣もまたリズム。
道を歩けば何気なく歩幅にテンポが生じ、思考に耽れば自然に頭が揺れ、日常の繰り返しが精神に秩序をもたらす。
仕事にもリズムは欠かせない。検討から成果が出るまでの周期、あるいは達成感を得るタイミング、こうしたものが気持ちに減り張りをつけ、意欲を持続させる。
これら日常のリズムが詩の奏でるリズムと同期した時、耳障りで調子外れのものは量子エネルギーの対消滅のように消え去り、心地よい韻律だけが残る。やはり、人生で最も重要なのはリズムであろう...

さて、ここでは、詩篇を拾うことは難しい。が、言葉の欠けらを拾うことは容易い。それでお茶を濁すとするか。引用しやすいのが散文の方というのも奇妙。芸術ってやつは、壮大なほど鑑賞者を沈黙させるらしい。自我を支配する無力感!無力感て、こんなに心地よいものなのかぁ。もう、どうにでもして!おいら、M だし...

1. ベンガル語本による韻文訳より...
天界の光が、眩しすぎて見えないのは幸せかもしれない。光の正体は、一種の電磁波。そのうち人間の眼に見える波長を、物理学で可視光線と呼ばれ、巷では光と呼ばれる。この宇宙空間に電磁波の存在しない領域はない。おそらく精神空間にも。すべての電磁波が眼に見えるとしたら、この世は眩しすぎる。むしろ盲目の方が楽であろうに...
さて、言葉の欠けらを拾ってみよう...

わが頭(こうべ)、垂れさせたまえ... わが高慢は、残りなく、沈めよ、涙に...
遍く満つる天界地界(あめつち)に... 生命逞し、神酒なみなみと...
後方(しりへ)に騒ぐ波の音、高鳴る大空、面(おも)にさし来る朝日影、雲の絶え間より... 物思ひ、心絶えなむ...
門毎(かどごと)に森の女神の、法螺、響(とよ)みて聞こゆ、天の琴の調べに合わせ...
闇の夜の時の間を、何の調べに、今、過ごすべき、何過ちてか今みな忘れ、思ひ煩ふ、絶間なく雨濯ぎ、降りしき止まず...
蒼天の声なき語り、露けき悩ましさ...
この虚空に遍く... 語るを許せ、許しませ...
黄昏の勤行(つとめ)、徒ならざれ、... ひれ伏さしめよ... 足許に...
夢に奏でぬ、相聞の深き調べを...
天地(あめつち)の沈黙(しじま)を、汝が家に来させよ...
黄昏ときに君とわれ、そこに打解けばやと、暗闇にただ一人...
高慢の及ばぬところ... 誇りの満つところにて...
佯りて戯れに戯る、この戯れをわれ好む...
われは旅人、生命(いのち)の限り、道行き歌ふ... われは旅人、荷はみなすべて、捨てて行かむ... われは旅人、瞬きせず、ただ目凝らして、暗闇に覚醒めてありき...
恐怖(おそれ)おこさせ、懶惰(ものぐさ)ほろぼし、睡眠(ねむり)やぶりて、恐怖をやぶる...


汝、嬰児(おさなご)の如く、力なきとき、内重(うちのへ)の奥、深く留まれ、時至るまで
 いささかの痛みによろめき
 いささかの火に焦がれ
 いささかの塵身につかば
 汚れなむ
 内重(うちのへ)の奥、深く留まれ、時至るまで...


君、わが生命を満たしたまへば、悔残るまじ、今死して
 夜昼、苦楽あまたに
 胸に響きし調べあまた..
.

2. 英語本による散文訳より...
この世の存在は、みな囚人か。自らの財で縛り、自らの権力で縛り... 自己を縛るは欲望。精神空間に自由の王国を築くには、よほどの修行がいる。荒れ狂うこの世で心を静めるには、我が死を思うこと。自我を救う道は、それしか残されていないのか...
さて、言葉を拾ってみよう...

「愚か者よ、自分を自分で担いで歩こうというのか。乞食よ、自分のうちの門口(かどぐち)に立って物乞いをするのか。その荷物をみな、何でも背負うことのできるあの方の手に、委ねるがよい。そして、未練がましく振り向くな。おまえの欲望の息が触れると、燈火の光はたちまち消えてしまう。汚らわしい...」

「光は、おお、光はどこだ。欲望の燃える火で光を点そう。燈火はあっても、焔ひとつ燃え上がらない。これがおまえの運命なのか、私の心よ。おお、おまえには死の方がずっとましだ...」

「私をしばる束縛はきつい。しかし断ち切ろうとすると、私の心は痛む。自由さえあればよい。だが、それを望むのは恥ずかしい... その暗い蔭の中に、自分の真の存在を見失う...
囚人よ、いったい誰がおまえを縛ったのか...
富と権力で誰にも負けないつもりだった... 世界を奴隷にし、自分だけが勝手気儘でいられるつもりだった...
囚人よ、この頑丈な鎖をいったい誰がこしらえたのか。
私がこしらえた...」


「わが神よ、この私の生命の溢れる盃から、どのような神酒をお飲みになるのか。わが詩人よ、私の眼を通してご自分の創造物を見、私の耳の戸口に立ってご自分の永遠の調和にじっと耳を傾ける、それがあなたの歓喜であるのか。あなたの世界は私の心の中で言葉を織りなし、あなたの喜びはその言葉に旋律を添える...」

「世界中に広がって、無限の空に無数の形相を生み出すのは孤独の苦悩である。夜もすがら星から星を見つめて沈黙し、雨降る七月の闇の中でざわめく木の葉のうちに詩を喚びおこすのは孤独のこの悲しみである...」

2020-10-11

"現象学的心理学の系譜 人間科学としての心理学" Amedeo Giorgi 著

心理学は、科学であろうか。アメディオ・ジオルジは明言する。科学であると...
原題 "Psychology as a Human Science" は、1970年刊行とある。ジオルジの生きた時代は、科学といえば自然科学を意味し、人間性と科学は矛盾するという立場が優勢だったようである。彼は、「人間科学」という用語を持ち出す。これは自然科学という意味では、科学ではない。が、科学の定義の仕方によっては科学になりうる。それは、現象学に基づくアプローチによって... これが、ジオルジの主張である。
尚、早坂泰次郎訳版(勁草書房)を手に取る。
「心理学は科学である。なぜならば、科学の目的に関与するから、すなわち、関心のある現象に対して批判的態度をとったり、方法論的、系統的なしかたでそうした現象を研究しようとするからである。しかしながら、その主題には人格としての人間が含まれているので、自然科学がその目的を求めていくのとはちがったやり方で、目的を達成しなければならない。」

ところで、科学とはなんであろう。科学たるには、どうあるべきであろう。
まず、「客観性」という観点がある。この用語ほど、基準が曖昧でありながら権威ある言葉もあるまい。あらゆる学問が理論武装のために、この言葉にあやかって科学する。
但し、この用語には水準や度合いといったものがある。客観性のレベルでは、数学の定理は他を寄せ付けない。この方面では、古来、もてはやされてきた方法論に演繹法ってやつがある。
だが、現実世界を記述するのに演繹的な視点だけでは心許なく、帰納的な視点も必要である。人間を相手取れば、尚更。研究対象が人間自身に向けられると、自然科学から乖離していき、人文科学や社会科学などの学問分野が編み出されてきた。それで人間が自然的な存在かどうかは知らんが、少なくとも学問は自然的な存在であってほしい。
デカルト風に言えば、人間は思惟する存在である。つまり、人間が意識する過程では、主観が介在するってことだ。意識なくして学問は成立するだろうか。客観とは、主観に支配された人間の憧れか。
ちなみに、政治屋や有識者たちが客観的に主張すると宣言して、そうだったためしがない。それで、自らの語り口に権威を持たせられるかは知らんが...

一方で、芸術家たちが体現する精神に、無我の境地なるものがある。無我とは、意識を放棄したわけではなく、むしろ自意識を存分に解き放った末に達しうる何か。彼らは、なにかに取り憑かれたように自我に籠もって熱狂できる資質を持っている。無我とは、自己否定の過程で生じるのであろうか。あるいは、高みにのぼるために、主観と客観を対立させるのではなく、調和させるということであろうか。いや、客観性というより普遍性といった方がいい...

ジオルジは、現象学を心理学に応用する立場である。現象といえば、まず観ること。科学には、その精神を根本から支える信条に、古代から受け継がれる観察哲学がある。それは、先入観や形而上学的な判断を排除する態度であり、21世紀の科学者とて、その境地に達したとは言えまい。正しく観察できなければ、適格な判断ができない。正しいとは、何を基準に正しいとするか。この態度には、誤りを適格に観ることも含まれるが、健全な懐疑心が持ち続けるのは至難の業。現象を正しく観ることの難しさは、客観性の水準の高い学問ほどよく理解していると見える。ましてや、人間現象を相手取るのに主観は避けられない。主観を客観的に観察しようにも、観察者の側にも主観がある。
となれば、観察サンプルを増やし、統計学的に、確率論的に分析するのが現実的であろう。心理学が、臨床医学と結びついて発達してきたのも分かる気がする。但し、医学は病を相手取る。いわば、精神状態の例外処理であるが、心理学では例外処理とはなるまい。

こうして眺めていると、心理学が量子論に見えてくる。量子力学が唱える不確定性原理は、位置と運動量を同時に正確に観測することは不可能だと告げている。それは、観測対象である物理系に観測系が加わっては、もはや純粋な物理現象ではなくなるということである。量子ほどの純粋な存在を観測するには、ほんの少しでも不純物が交じると正確性を欠く。となると、主観を観察するには、若干なりとも主観を含んだ客観性の眼では、やはり正確性を欠くのだろうか。いや、精神ってやつが、それほど純粋な存在とも思えん。自由精神は、物理的には純粋な自由電子の集合体なんだろうけど。
いずれにせよ、純粋客観なる精神状態を人間が会得するには、よほどの修行がいる。それには、人類がまだ若すぎるのやもしれん...

そこで、手っ取り早く分析する方法に、条件を限定するやり方がある。条件を絞りながら因果関係を紐解き、徐々に条件を広げていく、といった考え方は、解析学でもよく用いるし、経済学や社会学でもよく見かける。
例えば、金銭欲や物欲、あるいは、名声欲や権力欲といったものに限定すれば、行動パターンがある程度読める。市場原理は、様々な価値観を持った人間が集まれば、欲望が相殺しあって適格な価値判断ができるのだろうが、あまりにも欲望が偏っているために、しばしば市場価値を歪ませる。政治屋や報道屋が仕掛ける扇動は、大衆心理を巧みに利用した者の勝ち。文学作品ともなれば、心理学以上に心理学的だ。リア王やマクベスの狂乱に触れれば、それだけで精神分析学が成り立つ。
心理学の学術的な地位がいまいちなのは、こうした背景もあろうか...

問題解決のためのプロセスでは、現象を整理、分析し、本質的な内容や意味を探り当て、その方法や手段を編み出す。本書は、心理学が内容や手段に目を奪われ、方法論に特権的地位を置こうとする、と苦言を呈す。
ただ、あらゆる学問がそうした傾向にある。方法論が編み出せるということは、それが条件付きとはいえ、ある種の結論に達していることを意味している。
しかし、心理現象を結論づけることは至難の業。多義的な上に、これといった答えが見つからない分野である心理学では特に、整理や分析といった前工程、すなわちアプローチが重要だというわけである。メタ心理学は、精神をメタ的な地位に押し上げたために、現実世界でメタメタになるのかは知らんが...
ジオルジは、アプローチを一つのカテゴリとして確立することを提案している。方法論と一線を画する視点として。人間のタイプは、知力、武力、政治力、カリスマ性、徳性など、能力の数値化によってある程度の種別はできる。シミュレーションゲームのように。実際、企業の人事部などでも数値データが人材評価に用いられる。そうした数値化は、ゲームに勝つため、企業戦略を機能させるため、といった目的が明確な場合では有効となろう。
では、もっと普遍的なレベルでの人間性となるとどうであろう。人間目的なんてものをまともに答えられる人が、この世にどれほどいるのだろう。精神の正体も、人間の正体も分からずにいるというのに。人間精神の多様性は、果てしない宇宙に見えてくる。無理やり結論を出すぐらいなら、分析過程を大切にする方がよさそうである...

2020-10-04

"小説神髄" 坪内逍遙 著

 そういえば、おいらは「小説」という言葉に疑問を持ったことがない。今日、novel の訳語として定着している、この言葉に...
小説家たちは、ノベルで何を述べようというのか。小さな説と書くからには、大きな説というものがあるのだろう。元は中国に発し、取るに足らないつまらない議論、あるいは民間の俗話の記録などを意味したという。国家の思惑を物語るのに対して、大衆の本音を物語る。どちらが取るに足らないのやら。上っ面の教説や良識めいた美談を綴るのに対して、悪徳や愚行に看取られた人間の本性を暴く。どちらが大きな説なのやら。
小説家に、人類を救え!などとふっかけても詮無きこと。人間の本性に迫るからには、精神を自由に解き放たなければ...

かつて小説を書くためには、まず小説とは何かを知らねばならぬ時代があったとさ。小説ごときを、けしからん!などと、有識者たちが憤慨した時代である。江戸戯作に親しみ、西洋文学を渉猟した若き文学士が、明治の世に物申す...
「我が小説の改良進歩を今より次第に企図(くわだ)てつつ、竟には欧土のノベルを凌駕し、絵画、音楽、詩歌と共に美術の壇頭に煥然たる我が物語を見まくほりす。」

何事も、文化として居座る仮定では低俗扱いされるもの。ざっと時間軸を追うと、近くに漫画やアニメ、遠くに能や歌舞伎を見つける。芸能文化は、人間社会への批判を間接的に皮肉る形で根付いてきた。つまりは、諷刺や滑稽の類いである。世阿弥らが編んだ「花伝書」は、滑稽演芸を理論化し、芸術の域にまで高めた。何事も本質を観るには、遊び心がいる。憤慨していては、見えるものも見えてこない。哲学するには、自ら滑稽を演じてみることだ...

「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情慾にて、所謂百八煩悩是れなり。」

人間は情欲の動物であり、いかなる賢人も、いかなる善人も、これを避けるのは至難の業。百八を数える煩悩を避けるには、よほどの修行がいる。自分の煩悩を克服できなければ、他人の煩悩を目の敵にし、他人の欠点を攻撃する。人情の解放と煩悩の克服は、まさに表裏一体。自己を克服するには、もはや自分の煩悩を味方につけるしかあるまい。なるほど、まず情ありて、人の心を動かさぬものは小説にあらず... というわけか。
しかしながら、心を動かす者もいれば、動かさぬ者もいる。芸術とはそうしたもの。分かりやすいものは重みを欠く。寓意ってやつは、チラリズムとすこぶる相性がいいときた。心が動かされなければ、作者はいったい何がいいたいのか?などと最低な感想をもらす。芸術ってやつは、芸術家のみならず、鑑賞者をも高みに登ってこい、と要請してくる。暗示にかかった鑑賞者は、刺激がますます貪欲になり、もっと深い、もっと凄い表現を求めるようになる。情欲を相手取ると、まったく底なしよ。ここに、小説の無限の可能性を見る。

ところで、小説の意義とはなんであろう...
それは、単なる勧懲の道具ではないという。人情に共感したり、反面教師にしたりして、人間性を磨く。となれば、人情の描写こそが小説の意義というのは、尤もらしい。
そして、ノベルを凌駕し、絵画、音楽、詩歌と共に... 小説は美術なり!というわけである。逍遙は、小説の四大裨益を挙げている。

第一に、人の気格(きぐらい)を高尚になす事。
第二に、人を勧奨懲戒なす事。
第三に、正史の補遺となる事。
第四に、文学の師表となる事。

拙筆なおいらにとっては、第四の裨益が一番大きい。優雅な文章を魅せつけられると、惚れ惚れする。言葉に惚れ、フレーズに惚れ、しかも、皮肉たっぷりに。それが、生きる指針になり、座右の銘となる。道徳家や教育家の安っぽい教説よりも心に響くのは、そこにチラリズムがあるから...
寓意や教訓の類いは、ここに発する。それは自省へと導く。他人の行いをも自省と解するよう。相対的な認識能力しか持ち合わせない精神の持ち主が、悪を知らずして善を知ることはできまい。他人の欠点が目につくのは、自分自身にもあるってこと。自分自身に欠点がなければ、そんなものが目についても、さほど興味を持つこともあるまい。
それゆえ、偉大な哲学者たちは、自省論なるものを様々な形で遺してきた。小説の主脳は人情なり... とするなら、小説はまさに自省の語り草となろう...

2020-09-27

"奇跡の脳 - 脳科学者の脳が壊れたとき" Jill Bolte Taylor 著

 ショパンの調べに乗せて、お決まりの TED.com を散歩していると、パワフルな脳科学者の Talk に出逢った。
表題 "My stroke of insight..."
stroke は脳卒中、stroke of ~ で、一撃で生じる、といった意味になる。なるほど、「脳卒中」という言葉に「衝撃による洞察やひらめき」といった言葉を掛けているわけか...
これに触発されて、竹内薫訳版(新潮文庫)を手に取る。

話し手の名は、ジル・ボルト・テイラー。脳神経科学の第一線で活躍していた彼女は、37歳のある日、脳卒中に襲われたそうな。幸い一命は取り留めたものの左脳が著しく損傷し、言語中枢や運動機能をはじめ、人格の制御回路までも機能しなくなったという。脳科学者が脳卒中になるとは、なんとも皮肉な運命。だがそれが、科学者として一段と覚醒させることに...
左脳マインドから解き放たれた右脳マインドは、自由奔放に振る舞う。言語中枢が機能しないために口うるさい人格から解放され、まるで大脳宇宙の右半球を謳歌するような。8年に及ぶリハビリを経て回復を遂げた彼女は、現在の心境を「ニルヴァーナ」と呼び、穏やかに語ってくれる。ニルヴァーナとは、インド哲学に由来する言葉で、輪廻からの解放といった意味が含まれる。
アーサー・C・クラークは、こんな言葉を残した... 十分に発達した科学技術は魔術と見分けがつかない... と。まったくである。
「波打ち際を散歩するように、あるいは、ただ美しい自然のなかをぶらついているように、左の脳の『やる』意識から右の脳の『いる』意識へと変わっていったのです。小さく孤立した感じから、大きく拡がる感じのものへとわたしの意識は変身しました。言葉で考えるのをやめ、この瞬間に起きていることを映像として写し撮るのです。過去や未来に想像を巡らすことはできません。なぜならば、それに必要な細胞は能力を失っていたから。わたしが知覚できる全てのものは、今、ここにあるもの。それは、とっても美しい...」

ジルの言う脳の回復とは、どういう状態であろうか。「古い脳内プログラムへのアクセス権の再取得」といった定義をすれば、一部しか回復できていないという。脳の補完機能ってやつは、まさに驚異的!
左脳で損傷を受けた細胞を再生することはほぼ不可能でも、これを右脳でリカバリする可能性がある。意思の力がそうさせるのか。彼女は、脳内のニューロンの伝達経路を再構築したおかげで、左脳マインドに蔓延る嫌な人格とおさらばし、新たな人格を獲得したというのか。右脳マインドによって、悟りの境地を開いたとでもいうのか...
左脳マインドと右脳マインドは、まるでジギルとハイド。柔らかく言えば、建前と本音。本物語に、本音の解放という潜在願望を見る。
二重人格といった性質は、多かれ少なかれ、どんな人間にもあるのだろう。少なくとも、右脳と左脳で機能を分け合っているからには。その間にある脳梁ってやつのおかげで、絶え間なく情報交換することができ、互いに協調し合うことができる。それが、一つの人格の上で制御されているうちは可愛いもの。
しかし、自分の脳が発する言葉に耳を傾けることは難しい。自分自身の力で自我を覗くことは難しい。だからこそ、言葉を必要とする。とはいえ、言葉の力は、しばしば強すぎる。集団社会では尚更。自我を鎮めるには、少しばかり弱めておきたい。そして今、彼女は左脳が損傷したおかげで、言語機能が完全に沈黙してしまった。これを絶好のチャンスと受け入れるには、よほどの修行がいる...
「自己中心的な性格、度を過ぎた理屈っぽさ、なんでも正しくないと我慢できない性格、別れや死に対する恐れなどに関係する細胞は回復させずに、固体のようで、宇宙全体とは切り離された『自己』を取り戻すことは可能なの?あるいは、欠乏感、貪欲さ、身勝手さなどの神経回路につなぐことなしに、お金が大切だと思うことができるでしょうか?この世界のなかで、自分の力を取り戻し、地位をめぐる競争に参加し、それでも全人類への同情や平等な思いやりを失わずにいられる?」

ジルは、脳科学者らしく状況を観察し、事細かく自己分析を試みる。分析をするからには、それを記述する道具が必要だ。人間は、固体として存在している。少なくとも、そう意識しながら生きている。それを確かめるために言葉を欲する。
しかしながら、ジルは、自分の存在を流体のようだと語る。自然の中を流れ、春の風にでも揺られているような。彼女は、春風駘蕩の奥義を会得したのだろうか...
実は、人間精神を束縛しているものは、言葉かもしれない。言葉で組み立てられる論理的思考かもしれない。神が沈黙しているのは、自由を謳歌している証かもしれない。
そもそも、精神とはなんであろう。単なる原子の集合体ぐらいなものか。少なくとも脳の構造はそうなっている。ならば、原子の流れに身を委ねて生きるほかはあるまい。そして童心にかえり、脳の構築をやり直せるほどの流動性を会得したいものである...
「そもそも意識とは、機能している細胞による集合的な意識にほかならないとわたしは考えています。そして大脳半球の両方が補い合い、継ぎ目のないひとつの世界という知覚を生じさせるのだと、確信しています。」

DNA という分子は、地上で最も成功した遺伝プログラムかもしれない。人体を形成する細胞は、細胞核にある DNA の指令によって形成される。すべての型の細胞は遺伝子の組がほぼ同じ。遺伝子、RNA、タンパク質による複雑なメカニズムが、活性化部分のスイッチをオン/オフしながら多様な細胞をこしらえる。まるでプログラマブル・デバイス!
汎用的な論理セルが多数集積され、一つのセル内で必要に応じて配線をつないだり切ったりしてカスタマイズし、それぞれの機能の集合体として全体回路を構成するデバイスモデルに似ている。
となれば、左脳の死んだ機能を、右脳に復元させることも可能かもしれない。そもそも、人体の成長過程において、どの機能が右にあり、どの機能が左にあるといった基本的な配置が決まっているとしても、ニューロンの伝達経路まで同じとは言えまい。右利きの人もいれば、左利きの人もいる。そのネットワークの微妙な違いが、個性ってやつか。
右脳と左脳が持っているそれぞれの機能は、けしてバランスのよいものではない。大まかに、直観的にイメージする右脳と、言語的に考える左脳といった役割があるにせよ、概念や全体像を理解することに長けている人もいれば、記憶力や計算力に優れている人もいるし、たまには、左右で逆の役割を担っているかもしれない。人間らしさは、やはり気まぐれに求めたい...
「回復するまでに、頑固で傲慢で皮肉屋で、嫉妬深い性格が、傷ついた左脳の自我の中枢に存在することを知りました。エゴの心の部分には、わたしが痛手を負った負け犬になり、恨みがましくなり、嘘をつき、復讐さえしようとする力が残っていました。こんな人格がまた目覚めたら、新しく発見した右脳マインドの純粋さを台無しにしてしまいます。だから、努力して、意識的にそういう古い回路の一部を蘇らせずに、左脳マインドの自我の中枢を回復させる道を選んだのです。」

2020-09-20

"素数の音楽" Marcus du Sautoy 著

数学は、音楽とすこぶる相性がいい...
耳で感じる音律の概念は、オクターブの整数比で構成される。一つのオクターブを均等に十二分割したものは「十二平均律」と呼ばれ、「ドレミ」も、これに看取られている。
十二音の組み合わせは、ざっと数えて 12! = 479,001,600 通り。
音楽家たちは、この組み合わせの中から、魂をくすぐるパターンを見い出そうとする。いわば音楽は、音響組織の数学的合理化なのである。その合理化運動の歴史は、紀元前540年頃のピュタゴラスに遡る。そう、「万物は数である」という信仰だ。弦の長さを半分にすると、1オクターブ高い音が生じて元の音と調和する。この性質に気づくと、一弦琴で和音を奏でることができ、整数比からちょいと外れると、たちまち不協和音となる。
どうやら音楽は、数学に看取られているようだ。空を見上げれば、太陽も、月も、惑星も、多くの天体運動が数学に看取られ、天空の音楽を奏でている。音響工学で馴染みのあるデジタル信号処理にしても、フーリエ変換ってやつが正弦波成分と余弦波成分の和で幅を利かせ、周波数スペクトルという概念を与えている。音響組織は、このスペクトルに看取られている。
では、数学の素とされる存在は、どんな音楽を奏でているだろうか。それは、人間の耳で聴きとることのできる音楽であろうか。数学者マーカス・デュ・ソートイは、そんな問い掛けをしてくる...
尚、冨永星訳版(新潮文庫)を手に取る。

ところで、素数の意義とはなんであろう。それより小さな数の積では表せない存在。つまり、あらゆる数は素数の積で表せるってことだ。それは、物理学でいうところの原子のような存在か。あらゆる分子構造は原子の組み合わせでできている。素数の配列は、いわば、原子の周期表のようなものか。素因数分解は多くの物理現象の解析で重要な役割を担い、インターネットの暗号システムも素数なしでは存在し得ない。
ここで、ざっと素なる数を三つ拾ってみよう。

  {3, 5, 7} = 357 マグナム = コルト・パイソン

本書は、素数のプログラムを Python で書きたいという気分にさせやがる。おかげで、無矛盾コードの証明で翻弄される羽目に。それは、1オクターブ低い声に酔いしれ、自らのピロートークに翻弄されるに等しい... Q.E.D.

1900年、ダフィット・ヒルベルトは、新たな世紀の始まりを記念してドラマチックな公演を行った。聴衆に向かって、23 にも及ぶ未解決問題を突きつけたのである。まるで、20世紀という時代は、数学ですべての問題が解決できる世紀だ!と宣言したような...
確かに、問題の多くは解決された。しかし、21世紀の今でも取り残された問題がある。例えば、第8問題。それは素数に関するもの。素数が無限に存在することは、ユークリッドの「原論」にエレガントな証明が記される。
しかしながら、どんな風に出現するのか?どんな風に分布しているのか?そこに法則性は?と問うと、まるで見当がつかない。もし、素数の在り方がデタラメな配列だとすれば、単なる雑音ということか。あるいは、最も美しいホワイトノイズということか。素数が美しくも、単純でもないとしたら。いや、最も素である存在がノイズであってはならない。いや、そう信じたい。ただそれだけのことかもしれん。プラトンが、精神の原型であるイデアに完全美を見ようとしたように...

「数学が無矛盾なのだから、神は存在する。それを証明できないのだから、悪魔も存在する。」
... アンドレ・ヴェイユ


1. 篩にかけられた素数
最初に素数を篩にかけたのは、エラトステネスと伝えられる。彼は、指定した数より小さい素数を見つけるための単純なアルゴリズムを編み出した。そう、プログラミング学習の教材でも見かける「エラトステネスの篩」ってやつだ。
では、大きな数の方向に対しての素数の見つけ方はどうであろう。そもそも無限に存在することが分かっているのに、見つける意味があるのか。自然数の最大値は何か?と問うているようなもの。
とはいえ、そこに法則性が発見できなければ、せめて、より大きな素数は何か?と追いかけてみたい。それが、人情というもの。現時点で、人類が編み出した合理的な方法は、GIMPS というプロジェクトに垣間見る。それは、分散型コンピューティングによって、より大きなメルセンヌ素数を探すという試みである。
ちなみに、メルセンヌ数は、こんな形をしている。

  2n - 1

この形が素数になる場合があって、その計算のためにインターネットを介して世界中のリソースを総動員するわけである。素数を直接追いかければ、このような人海戦術的な発想にもなろう。
今のところ、51番目のメルセンヌ素数が発見されている模様(2018年時点)。

  282,589,933 − 1

一方、素数に新たな風景を見た数学者がいた。ベルンハルト・リーマンは、ゼータ関数を通してその風景を見たとさ。なにかとエイプリルフールの話題とされる数学の難問たち、「リーマン予想」とて例外ではない。
しかし、こいつの証明も叶わないとなれば、人海戦術的な発想に引き戻される。現代数学では、証明においてもコンピュータが大きな役割を果たしている。四色問題しかり、ケプラー予想しかり。人間が苦手とする、しらみつぶし的な方法論によって...
しかしながら、リーマン予想が、そういった類いの問題とは到底思えない。なにしろ、無限に存在するものを相手取るのだから。チューリングマシンにだって苦手な分野がある。それでも、今巷を賑わしている AI(人工知能)ならどうであろう。機械学習より賢そうなディープラーニングならどうであろう。リーマン予想の証明には、人間の能力を超えた証明アルゴリズムが必要なのやもしれん...

2. 素数の風景とゼータ関数の風景
リーマンは、ゼータ関数をこう定義した。

  ζ(s) = 

n=1
 1 
 ns 

こんなやつが、素数とどう関係するというのか。無限級数といえば、巨匠オイラーによる収束や発散の考察を思い浮かべる。オイラーは、調和級数の発散と素数が無限に存在する現象との間に、なんらかの因果関係がありそうな予感を匂わせた。指数関数に虚数を混ぜると三角関数になるというあの有名な公式も見逃せない。
さらに、リーマンは、ゼータ関数に虚数を何の気なしに混ぜてみたところ、素数の新たな展望が開けたという。そして、こんな予想を立てる...

「ζ(s) の自明でないゼロ点 s は、直線 1/2 上に存在する。」

ちなみに、s が負の偶数であれば、ζ(s) = 0 となり、自明なゼロ点は、s = -2, -4, -6, ... となる。
リーマンが注目したのは非自明な方で、その点在ぶりが素数の点在ぶりに重なるというのである。オイラーが調和級数の中におぼろげに見た素数の風景を、リーマンは解を複素数で抽象化することによって、より明確な素数の風景をあぶり出したというわけか。
ここで重要なのは、ゼロ点の存在位置を直線 1/2 上に決定づけていることである。つまり、これを証明するためには、位置を決定づける法則や公式が必要だってことだ。
ハイゼンベルクの不確定性原理によると、量子の位置と運動は同時に決定づけることができないことになっている。
では、ゼロ点の場合はどうであろう。振る舞いは決定づけることができなくても、位置だけでも決定づけることができれば展望が開けそうである。リーマン予想を証明するということは、ゼロ点の存在位置を決定づけることであり、素数の存在位置も決定づけられるかもしれない。ゼータ関数のゼロ点の風景は、素数の風景の投影というわけか。
しかしながら、この風景がどんな音楽を奏でているのか、人類にそれを聴く資格があるのか、まだ予想がつかない。

ところで、実数部の直線上にゼロ点が点在するとは、何を意味しているのだろう。ゼロ点を境界面にしながら、誤差のような余計な存在が奇跡的に相殺しあうとでもいうのか。量子力学ってやつは、真空に仮想粒子なるものを登場させたり、物質の誕生には反物質なるものを登場させたりと、何もない所でも負のエネルギーを登場させては都合よく宇宙を膨張させてしまう。プラスの現象には、マイナスの現象を無理やり登場させて相殺してしまえば、エネルギー保存則に矛盾せず、うまいこと説明がつくという寸法よ。ゼロ点境界面でも、それと似たような現象が起こっているというのか。
ある振幅の音と、それとは真逆の振幅の音がぶつかれば、互いに消し合い、そこに沈黙が生まれる。素数が奏でる音楽とは、崇高な沈黙なのであろうか...

3. ラマヌジャンの見た風景
分割数は、素数ほどデタラメに分布しているようには見えない。
とはいえ、ラマヌジャンが導いた分割数の公式は、なんじゃこりゃ!平方根やら、πやら、虚数やらが三角関数と複雑に絡み合い、微分まで顔を出してやがる。
Dn ときたら、まるで湯上がり気分の王子様気取り...

  P(n) =   1 
 π√2 
 

1≤k≤N
√k (  

h mod k
ωh,k e-2πi(hn/k) ) Dn  + O(n-1/4)

  Dn  d 
 dn 
{ ( cosh (  π√(n - 1/24) 
 k 
√(2/3) )  - 1 )/ √(n - 1/24) }

しかも、分割数の増え方は、量子力学や統計力学で分配関数と呼ばれるものに相当し、量子系のエネルギー準位を代弁するような関数だという。
ちなみに、フィボナッチ数にも自然界と不思議な関係が見て取れる。ヒマワリや松ぼっくりの種子の成長、巻貝の螺旋形状、兎の繁殖モデル、等々。フィボナッチ数列は黄金比に収束し、黄金比をもつ相似形には自然美に通ずるものがある。
だからといって、分割数の公式の複雑さは、自然美とは掛け離れ、とても人間業とは思えない。すると、デタラメ度からいって素数の公式は、もっと複雑になるというのか。やはり人間を超えた能力でなければ...

ところで、ラマヌジャンが示した無限和は、素人目にも驚異的である。

  1 + 2 + 3 + … + n + … = -   1 
 12

自然数の総和が、マイナスの分数に収束するというのだから、当初、奇人変人として相手にされなかったのも頷ける。これを変形すると...

  1 +  1 
 2-1
 +   1 
 3-1
 + …   1 
 n-1
 + … = -   1 
 12

なんと、ゼータ関数に -1 を入れた時の答えだ。これを発見したラマヌジャンの経歴も驚異的である。なにしろ、ヒンドゥー教の事務員からの転身だ。これも突然変異がもたらした自然美の一つであろうか...

2020-09-13

"代替医療解剖" Simon Singh & Edzard Ernst 著

著者サイモン・シンと翻訳者青木薫のコンビに触れるのは久しぶりで、「フェルマーの最終定理」、「暗号解読」、「宇宙創成」に続いて四冊目。共著者に名を連ねるエツァート・エルンストは、彼自身が代替医療に従事し、様々な治療法の有効性と安全性を検証してきた第一人者だそうな。
尚、「代替医療解剖」は、文庫版に際して「代替医療のトリック」から改題されている。「トリック」ってやると皮肉めいたものを予感させるが、「解剖」ってやると真実に寄り添う姿勢が感じられる。中身は、露骨なほどに皮肉が効いているけど。原題 "Trick or Treatment ?" らしく...

この物語は、二千年以上前、エーゲ海に浮かぶ島コスに生を受けたある人物の警句を指針にしているという。それは、医聖ヒポクラテスの言葉...
「科学と意見という二つのものがある。前者は知識を生み、後者は無知を生む。」

科学は、真実について客観的なコンセンサスを得るために、実験や観察を繰り返し、議論を交える。一度結論に達してもなお、見逃している点はないか、間違いがありはしないか、とほじくり返し、自分自身の主張にも疑いの目を向ける。その意味では、自虐的な一面を曝け出すことに...
意見ってやつは、多数派に流されやすい。名声や権威ある者の意見なら尚更。主流派に逆らえば、理不尽な攻撃を喰らう。それは、医学界に限ったことではない。大衆社会では、最も宣伝のうまい者の意見が猛威を振るう。それだけに健全な懐疑心を保つには、よほどの修行がいる。本書には、「科学的根拠にもとづく医療」という言葉がちりばめられる...

ところで、医学は科学であろうか。いや、科学だ。間違いなく。いや、おそらく。では、医学に寄り添う医療はどうであろう。科学にも限界がある。けして万能ではない。少なくとも人類の知識では...
医療の現場では、しばしば身体の病よりも精神の病の方が手ごわい。しばしば医師の言葉よりも看護師の言動の方が頼りになる。
代替医療は、より正確に書くと「補完代替医療」となる。通常医療を補完する治療法ならば、それほど目くじらを立てることもあるまい。
しかし現実には、完全に独立した形で施術されるケースがあまりに多い。医師の意見を無視して併用したり、完全に通常医療に取って代わったりと。しかも、代替医療業界は、いまやグローバル産業に成長した。本書は、代替医療を「主流派の医師の大半が受け入れていない治療法」と定義し、何百万もの患者が、あてにならない治療法に金を使っている状況に苦言を呈す...

とはいえ、主流派の医師にも問題はあろう。そもそも、なぜ代替医療に駆け込むのか。通常医療に不満を抱く患者も少なくない。言いつけを守らないと、まるで罪人扱い。権威的で... 強制的で... 他の病気になりそう... そんな医師も少なくない。セカンドオピニオンといっても、なかなか言いづらい空気がある。そして、もういい!他の病院に行く!ってなる。言いやすい医師ほど、セカンドオピニオンなんて用語はあまり必要あるまい。すすんで別の病院や優秀な専門医を紹介してくれる医師もいるし、セカンドオピニオンによって横の繋がりを歓迎する医師もいる。
病は気から... とも言うが、人間精神において、気休めの占める領域は意外と大きい。プラセボ効果だって侮れるものではない。
ちなみに、うちの婆ぁやときたらジェネリック薬に拒否反応を示す。その薬のせいか分からないが、一度気分が悪くなって、ジェネリックと聞いただけでアレルギーときた。入院すると、国が奨励しているらしく、ジェネリック薬を強制されるので、病院にいるとかえって精神を病むから頭が痛い。おいらの場合は逆に、なるべくジェネリックを選択するようにしている。安ければ...
医者にかかれば、なにかと薬漬けにされる昨今、やはり気分の問題は大きい。合理性には、精神的合理性と物理的合理性があり、あとは使い分けるだけのこと。結局は、自己満足ってことか。自己陶酔ほど心地よい精神状態もなかろうて。
また、病気ってやつは、医師が一方的に患者を治してあげるというものでもあるまい。医師と患者が協力して立ち向かっていくものであろう。そこで、本音で語り合える主治医に出会えることを願うが、それにはちょいと運がいる...

1. 主要な四つの代替医療
本書は、主要な代替医療として、鍼治療、ホメオパシー、カイロプラクティック、ハーブ療法の四つに焦点を合わせ、付録では、三十以上もの治療法について外観させてくれる。

鍼治療...
古代思想を受け継ぎ、生命力の源泉とされた気の流れに応じた治療法。気の流れは体内の決まった経路を通り、これに沿って点在する経穴、すなわち、ツボを刺激することによって、気の流れを妨げているものを取り除く。古代の入れ墨でも、この経路に沿って掘られたという説を聞いたことがある。古代医学の気の流れは、近代医学の血液の流れと重なる。実際、瀉血があらゆる病気の治療法として用いられた時代がある。古代ギリシアから中世ヨーロッパに至るまで。ただ、おいらは鍼が恐い!

ホメオパシー...
同質療法とも呼ばれ、「類が類を治療する」という原理を利用する治療法。病気の原因となる物質が治療にも役立つという考えは、体内で抗体を形成するプロセスとも重なる。

カイロプラクティック...
脊椎を手で調整(アジャスト)して、腰痛の治療を行う。脊椎に与えた刺激は、神経系統を介して身体全体に渡り、今では、喘息をはじめ、どんな病気にも有効だとする医者が多数いるという。イギリスでは、主に腰痛や頚部痛の治療法として医療システムに組み込まれているとか。

ハーブ療法...
植物や植物エキスを用いる治療法。各地域に生息する植物と結びつき、最も古い歴史を持つとされる。おいらには、治療法というより健康法というイメージが強いが、どんな病気や予防にも効くと過大宣伝されるケースも見かける。

これら四つの代替医療は、それぞれに原理はもっともらしく、まだ良心的な方であろう。本書は、いずれの治療法にも、「プラセボ」が大きな役割を果たしているとしている。
とはいえ、人間にとってこれが一番効果がありそうな気がする。深刻な病でない限り。人間は感情の動物だ。主治医の言葉にしても、治療法を理解した上で任せているというよりは、医師を信じて任せている。科学的根拠と言われても、無知者は信じるほかはない。
例えば、地球が丸い!地球は太陽の周りを回っている!なんて常識とされる知識も学校で教わっただけのことで、自分自身で確かめたわけではない。ほとんどの知識が、信じるか、信じないか、で成り立っている。少なくとも、この酔いどれ天の邪鬼の場合は...

付録に目を向けると、胡散臭いものが勢揃い。おいらがよく利用するものでは、リラクゼーション、リンパドレナージュ、リフレクソロジー(足つぼ)、マッサージ療法といったところ。もっとも医療という意識はない。単なる気分転換。仕事で膠着状態にある思考回路を揉みほぐしてやるために。その意味では、バーに行ったり、バーバー(理髪店)に行ったりするのと同じ感覚。いくらなんでも、マッサージ師に癌を治してくれ!などとは言えまい。
しかしながら、藁にもすがる思い... という患者も少なくない。科学的に証明されてからでは遅すぎるという深刻な患者が。だから、現時点で科学的に立証できていなくても、近い将来、立証されそうな予感のする代替医療に縋る。だからこそ、本音で語り合える主治医が必要なのだ。
ちなみに、本書でも挙げられるサプリメントや漢方薬だが、これらを嫌う医者は多い。いや、勧める医師を見かけたことがない。西洋医学の立場では、そうなるのだろう。自然治癒を信条とする医師なら見かけたことがある。本人が病気になっても、絶対に痛み止めを飲まないそうな。痛みを感じるのは治癒に向かっている証拠で、自然治癒こそが最高の治療法というわけである。さすがに患者には処方するらしいけど...
他人から見れば、詐欺にあっているようでも、本人にしてみれば、安心を買っているということがある。宗教もその類い。お布施を捧げたから、今の災厄で済んでいると信じている人も少なくない。お布施を捧げなかったら、もっと酷い災厄にあっているはずだと。それで慰められるなら、これも見返りの原理というものか...

2. 臨床試験における客観性の壁
臨床試験の現場に目を向けると、客観性の壁にぶち当たる。そもそも、一人の患者で、一つの薬を投与するかしないか、一つの治療法を施すかしないか、ということができない。となれば、ある程度似たような症状の患者を集めて、同じ条件で試験をし、多くのサンプルを集めるしかあるまい。
しかしながら、同じ条件というのが、なかなかの曲者!条件設定をするのは観察者であり、それによって得られた統計情報は解釈の余地を与える。ベンジャミン・ディズレーリは言った... 嘘には三種類ある。嘘と大嘘、そして統計である... と。
著名人あたりが、この薬が効きました!などと、ちょいと吹聴すれば、製薬会社はたちまち大儲け、ヘタをすれば政治利用される。もっとも本人は利用されているなどとは思いも寄らない。人間の性癖の一つに、自分が良い目に遭うと、他人に喋りたくて勧めたくなる、という衝動がある。布教の心理学とでも言おうか...
本書は、「ランダム化プラセボ対照二重盲検法」という用語を持ち出す。盲検法では、患者に薬や治療法を伝えすに試験をやることによって、患者側の意識バイアスを抑制する。さらに二重盲検法では、医師にも伝えず、観察者側の意識バイアスも抑制する。しかもランダムで。こうした多重条件下で、プラセボに対処している臨床試験の現場を紹介してくれる。

3. 瀉血と四体液説
瀉血は、四体液説によく馴染んだ治療法である。四体液説では、人体に「血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液」の四種類の体液が存在するとし、それぞれの性質と病理を関連づける。今日でも、四体液説のなごりを耳にする。あの人は、多血質でほがらかだとか、胆汁質でかんしゃくもちだとか、黒胆質で憂鬱症だとか、粘液質で無気力だとか。血気盛んという言い方も、その類いであろうか...
古代ギリシアの医師たちは、血液が体内を循環していることを知らず、病気になるのは血液がよどむためだと信じていたという。そこで、よどんだ血を取り除くことを主張し、病気に応じて方法論まで提示したとか。肝臓の病気には右手の血管を切り、脾臓の病気には左手の血管を切るといった具合に。
中世には、瀉血を受けられるほど裕福な患者は、修道士にその処理してもらったとか。1163年、ローマ教皇アレクサンデル三世は、修道士がこの血なまぐさい処置に携わることを禁止し、代わりに床屋が瀉血をやるようになったという。瀉血用の医療器具も進歩し、医療用ヒルまでも用いられる。ヒルは高額で売買され、市場を賑わしたとさ...
そういえば、理髪店の看板が赤白の縞模様で螺旋状に回転するのは、外科医の役割を果たしていた名残りとも言われるが、瀉血をやっていたことと関係があるらしい。赤は血液、白は止血のための包帯、円柱のてっぺんにある球は、真鍮製のヒル盥、そして、円筒自体は血液の循環を促すために患者に握らせた棒の象徴だとか...
ちなみに、アメリカ合衆国の建国の父とも言われるジョージ・ワシントンが瀉血で亡くなったとは知らなんだ。もともと持病があったようだけど。最初は風邪らしき症状で瀉血をし、さらに苦しみがるので瀉血を繰り返し、1リットルもの血を抜いたとか。偉大な人物の死は、伝統的に崇められてきた治療法に対して、医師たちが疑問を呈すきっかけになったとさ...
歴史は皮肉なもので、医者にかかれる裕福な人よりも、医者にかかれない人の方が死亡率が低い時代があったようである。瀉血が人口制限に一役買っていたのかは知らんが、ヴォルテールはこう書いたという...
「医師というのは、ろくに知りもしない薬を処方し、薬よりもいっそうよく知らない病気の治療にあたり、患者である人間については何も知らない連中である。」

4. 英皇太子に捧ぐ...
ところで、表紙の扉を開くと、いきなり意味ありげなフレーズが飛び込んでくる。「チャールズ皇太子に捧ぐ」と...
いち早く代替医療に関心を寄せた英皇太子は、通常医療との協力を奨励して「統合医療財団」を設立したという。科学ジャーナリストとして知られるサイモン・シンは、科学的根拠の示されない治療法に対して懐疑的な立場。実際、代替医療と呼ばれるあらゆる治療法に、多くの医師が疑いの目を向けている。
2008年、サイモン・シンは英国カイロプラクティック協会に名誉毀損で訴えられた。そう、本書が扱う四つの代替医療の一つだ。批判の矛先は、WHO や MHRA(英国の医薬品・医療製品規制庁)にも向けられる。翻訳者が改題したのも、こうした背景があったからであろうか...
ちなみに、イギリスでは、こうしたケースで名誉毀損で訴えられると、まず勝ち目がないという事情があったそうな。今は知らんが。国際的な団体や企業が事実上の口封じのために、イギリスを裁判地に選ぶことがよくあったとか。今は知らんが。国際司法界で噂される「名誉毀損ツーリズム(Libel Tourism)」ってやつか。自分に有利な判決が下される見通しのある外国の裁判所を探し回っては、そこに提訴するって寸法よ。
案の定、サイモン・シンは裁判に負け、裁判費用の負担ばかりか、多大な時間とエネルギーまでも奪われたという。しかし、科学者やジャーナリストたちが立ち上がり、これにコメディアンや芸能人なども加わって、カイロプラクティックを誇大宣伝するウェブサイトの摘発キャンペーンを展開。カイロプラクティック協会は、会員にサイトを閉鎖するよう通達したメールまでもリークされ、2010年に訴訟を取り下げたとさ...

2020-09-06

"リア王" William Shakespeare 著

かの四大悲劇を、ハムレットの復讐劇、マクベスの野望劇、オセローの嫉妬劇と渡り歩けば、トリは老王の狂乱劇ときた。やはり歳は、トリたくないもんだ。
シェイクスピアに魅せられると、人生ってやつがいかに悲劇の連続であるか、そして、道化を伴わず生きてゆくことの難しさ、そんなことを再認識させられる。老いてゆくには、苦難を笑う奥義を会得せねば...
尚、福田恆存訳版(新潮文庫)を手に取る。
「年寄りになるのは、智慧を貯めてから後の事にして貰いたいものだね。」

四大悲劇の魅力といえば、なんといっても道化が登場するところ。真理を語らせるには、この世から距離を置くものの言葉が説得力を持つ。人間が語ったところで、言葉を安っぽくさせるのがオチよ。
ハムレットとマクベスは、この世のものとは思えぬ存在に操られ、オセローは現世を生きる安っぽい存在にしてやられた。道化は至るところで姿を変え、もはや、この世のものやら、あの世のものやら。
そして、道化の最高峰の作品が、この「リア王」。ここでは、現世を生きる道化役が堂々と道化を名乗る... この身はリアではない。こんな惨めな人間が俺であるはずがない。お前は誰だ。俺をよく知る者か。おいらはアホウ。爺様の影法師さ!... と。
人生なんてもんは、道化を演じながら生きているぐらいなものかもしれん。猿の仮面をかぶれば猿に、武士の仮面をかぶれば武士に、エリートの仮面をかぶればエリートに、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンになりきる。あとは、幸運であれば素直に波に乗り、不運であれば生きる糧とし、いかに達者を演じてゆくか。
そして気づく。自我を救う唯一の道が、狂気であることを。悲劇とは、まさに劇薬。それは滑稽劇のことを言う...
「然り、その通り、お前さん、結構いい道化になれるぜ。」

さて、この滑稽劇の筋書きを綴ろうとすると、道化のヤツが熱くさせやがる。こいつは、シェイクスピアの分身か...
まず、ブリテン王リアは、二人の客、フランス王とバーガンディ公爵を招いて宣言する。三人の娘に領土を譲って引退し、最も孝心の厚い娘に最大の恩恵を与えると。老リアは、長女ゴネリルと次女リーガンのえげつない甘言を大いに喜ぶが、末娘コーディーリアの実直な言葉に激怒する。「愛情は舌よりも重い」とコーディーリアが沈黙すると、「無から生じるものは無だけだぞ!」とリアは言い放ち、勘当したのだった。フランス王とバーガンディ公爵は、コーディーリアを嫁に迎えようと競っていたが、勘当の身となれば持参金もなく、バーガンディ公爵は辞退し、フランス王はそれでも連れ帰る。
そして、王の権力と財産のすべてが二人の姉に渡った時、老王はますます老いていったとさ...
道化が歌う...

「親爺ぼろ着りゃ、子は見て見ぬ振り
親爺財布持ちゃ、子は猫かぶり
運の女神は、名うての女郎
銭の無いのにゃ、何で戸を開けよう」

長女ゴネリルがやってくると、道化が愚痴をこぼす...
「こいつは驚いた、お前さんと娘共とは一体どういう血の繋がりがあるのかね、あの連中は俺が本当を言うと鞭をくれる、お前さんの方は嘘をつくと鞭だという、そうかと思えば、時には、黙っているからといって打たれる事もあるがね。つくづく思うよ、何になるにしても、道化だけはなるものではないね、といって、お前さんになるのも御免だよ、おっさん、お前さんという人は自分の智慧を両端から削って行って、中身が何も残らなくしてしまった人だね。それ、そこに、削り落しの一かけらがやってくる。」

老王は娘たちに放り出され、道化とともに荒野をさまよう。
「墓の中にいたほうが、まだしも楽であろう... 人間、外から附けた物を剥がしてしまえば、皆、貴様と同じ哀れな二足獣に過ぎぬ。」

ここで重要な役割を演じるのが、忠臣ケント伯爵。彼はコーディーリアをかばって共に追放されるが、風貌を変えて別人を装い、老リアに再び仕える。だが、老いぼれには、ケントの忠節さえも救いにならないと見える。そして、リアの家来というだけで足枷を嵌められると、道化の解説付きという親切ぶり...
「は、は、は!ひどい脚絆があったものだ。生き物を繋ぐには急所があって、馬は頭、犬や熊は首、猿は腰、人間ならば脚と相場が決っている。殊にあちこちほっつき歩いて脚を使い過ぎると、必ず木製の靴下を穿かされるものさ。」

おまけに、リア王親子を投影するかのように、グロスター伯爵親子の滑稽劇を物語るという二重仕立て...
グロスター伯爵の庶子エドマンドは、父を奸計に陥れてグロスター伯爵の嫡子エドガーを勘当させ、領地を相続する。エドマンドは、次女リーガンの夫コンウォール公爵の目に留まり、召し抱えられる。グロスターは、リアの身を他人事とは思えず補助したために、リーガンの命で両目を抉られる。
そして、放り出されたグロスターは、自ら勘当したエドガーと、なんの因果か再会することに。愚かな盲目の父と、父の生贄になった乞食とは、妙に気が合うらしい。
「誰が言えよう、俺も今がどん底だ、などと... どん底などであるものか、自分から、これがどん底だ、と言っていられる間は。」
エドガーは、ドーヴァーの崖に父を連れ、その自然の景色を描写して聞かせる。盲目の絶望を弄ぶかのように。
父グロスターの思いは、この場で飛び降りて、死なせてくれ!といったところ。そこに、狂った老リアが合流する。
「今は末世だ、気違いが目くらの手を引く。」

老リアは愚かだ。そして、狂った。狂ったがために、王位という虚飾の中に人間存在の虚飾を見た。狂気とは、愚かの進化形か。
グロスター伯も愚かだ。そして、盲目にされた。盲目になったがために、真の人間存在を見た。盲目もまた、愚かの進化形か。
神は、狂人にしかまともな世界を与えんのか。盲人にしか真理を見せんのか...
「人間が虫けらの様に思われて来た... いわば気まぐれな悪戯児の目に留まった夏の虫、それこそ、神々の目に映じた吾らの姿であろう、神々はただ天上の退屈凌ぎに、人を殺してみるだけの事だ。」

ところで、この物語で踊らされているのは、男か、女か。実行犯は、ことごとく男ども。父を放り出すのが娘たちの夫ならば、グロスター伯爵の目をえぐるのも次女の夫。老リアが孤立した知らせを受けてフランス軍をドーヴァーへ派遣するのも、フランス王妃となった末娘の進言。男性社会などと息巻いている男どもをからかうかのように...
結局、フランス軍はエドマンド率いるブリテン軍に敗れ、リアとコーディーリアは捕らえられる。ゴネリルとリーガンは、夫そっちのけでエドマンドの男っぷりに惹かれる。ゴネリルは、あの人の事で妹に負ける位なら... と、リーガンを毒殺。わたくしが法よ...
そして、ゴネリルも自ら胸を刺して命を絶つ。こんなえげつない女がなんで自ら。女心は男には永遠に分からんだろう。エドマンドは二人の姉と誓い合った男。死者二人と婚礼を挙げりゃいい... とでも。
ゴネリルとリーガンの遺体が揃って運び入れられると、そこに、コーディーリアの遺体を抱いた老リアが入ってくる。コーディーリアは、獄中で絞め殺されたのだった。ついに老いぼれは、絶望のうちに死ぬ。
こうして、老リアと三人の娘は、死者となって再会したとさ...

最後に、ちと脱線するが... いや、筋書きだって結構脱線してるけど...
「リア王」をモチーフにした黒澤映画「乱」について、ちょっぴり触れてみたい。設定を日本の戦国時代に移し替え、王女三姉妹の代わりに武将三兄弟を登場させた物語である。そして、シェイクスピアが乗り移ったような台詞を道化に吐かせる。
「こいつはめでたい!狂った今の世で気が狂うなら気は確かだ!」
"In a mad world, only the mad are sane!"

本書の中にも、これに近い台詞を見つけることができなくはないが、これといって特定することは難しい。原文を読んだわけではないので何とも言えないが、むしろ、あちこちに散りばめられた道化の台詞を一言で表現すると、こうなりそうな。あの世で、シェイクスピアが黒澤明に座布団一枚!なんて言ってそうな。もしかしたら、シェイクスピアが他の場所で似たような言葉を漏らしたのかもしれないが、いや、乗り移ったような...
それにしても、道化の台詞を追っかけるだけで哲学できちまうんだから、おいらはイチコロよ...

「何と王様、狂うたか、アホウを相手に、いない - いない - ばあ」

「智慧の無い奴は、狂わぬうちに...」

「頭を突込む家を持つためには、まずその前に頭を持つ事だ。」

「逃げたヤクザは、アホウになるが、アホウは決して、ヤクザにゃならぬ...」

2020-08-30

"オセロー" William Shakespeare 著

シェイクスピアの四大悲劇に数えられる二つ、ハムレットの復讐劇とマクベスの野望劇に酔いしれれば、残りの二つに向かう衝動も抑えられそうにない。目の前で狂ったリア王が道化と一緒に手招きしてやがるし、おいらは暗示にかかりやすい...
ただ、このオセロー物語だけは、筋書きを知らない。それに、ちと異質な感もある。他の三つの物語は、国家を揺るがす大事。比してこの物語は、一人の将軍の家庭内のいざこざ。スケールが違う。それでも酔いしれてしまうのだから、ここでも人間の本性を暴いてくれるからであろう。ヘタな心理学の教科書より、ずっとイケてる...
尚、福田恆存訳版(新潮文庫)を手に取る。

ざっと、あらすじを書いてしまうと、単なる嫉妬劇で片付けてしまいそうになる。
例えば、こんな感じ...
ヴェニス公は、トルコ艦隊の動きを牽制するために、サイプラス島にムーア人の勇敢な将軍オセローを赴任させる。その際、恋に落ちたデズデモーナを父の反対を押し切って連れて行き、妻とする。オセローから副官に任命されなかったことを根に持つ旗手イアーゴーは、策謀をめぐらせ、副官キャシオーを失職させた上にデズデモーナとキャシオーの不義をでっちあげる。イアーゴーを信頼しきっているオセローは、武将らしく誠実で高潔であるがゆえに二人が許せず、キャシオーをイアーゴーに殺すよう命じ、妻は自らの手で扼殺してしまう。だが、イアーゴーの妻エミリアの告白で、すべてがイアーゴーの奸計であったことを知り、オセローは絶望する。そして、ハムレットと同じ運命をたどったとさ...

こんな嫉妬劇でも、心理描写や凝った手口は、推理小説ばり。これぞシェイクスピアの真骨頂と言うべきか。動機が単純な分、設定が複雑になるのかは知らんが、前戯派にはたまらん...
「ああ、人間というやつは!わざわざ自分の敵を口の中へ流しこんでまで、おのれの性根を狂わせようとする...」

1. ムーア人という設定
まず、主人公をムーア人としていることが、背景を複雑にさせる。ムーアというのは、七世紀、北アフリカのモリタニア地方を征服したアラブ人が、イスラム教に改宗させた原住民のことをヨーロッパで呼称されたそうな。八世紀には、その混血人種がジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島へ侵入。その侵略者をスペインやポルトガルでムーア人と呼ぶようになり、後に、北アフリカのイスラム教徒全般をムーア人と呼ぶようになったとか。
そういえば、西洋文学にムーア人が登場するのを見かける。ロビンソン物語にも。美術作品にも、ムーア人を題材とする絵画を見かける。ルーベンス工房にも。
オセローはムーアの黒人。だが、そのイメージとなると、黒人奴隷とは結びつかない。なによりもヴェニス公が、この人物に敬意を払っており、よほどの武将であったと見える。三国志で言えば、関羽のような...
とはいえ、人種的な問題を抱えていないわけではない。人間ってやつは、差別好きな動物である。考え方が違い、感覚が違い、住む世界が違うとなれば、それだけで排斥的になったり、攻撃的になったりする。しかも、短所を並び立てては誇張し、イメージを植え付けたりする。これは、いわば人間の性癖である。ましてやイアーゴーは、憎悪に燃えている。同輩が副官になったことの嫉妬も露わにし...
「おれはムーアが憎い。... ムーアは万事おおまかで、こまかいことに気を使わない、他人を見る目も、うわべさえ誠実そうにしていれば、それだけのものと思い込んでいる。... 全く驢馬よろしくだ。」
オセローにしても、人種的劣等感をまったく見せないわけではない。
「おそらく黒人だからであろう、優男のみやびな物腰をもたぬからであろう、あるいは歳も峠を越したため... というほどでもないが、そんなことから、あれの心はおれを去ってしまった...」
絶望すれば、愚痴もこぼれる。オセロー物語は、人種意識よりも、人間が根本的に抱える差別意識を浮き彫りにしている。
ちなみに、オセロゲームの名前の由来にもなっているらしい。緑の平原が広がるイギリスを舞台に、黒人将軍と白人妻をモチーフにしているとか。
しかし、寝返ったり、挟まれたりする場面はあまり見当たらない。イアーゴーがオセローを騙すのは最初から意図があってのことで、信じるかどうは勝手次第。あとは、オセローが妻に裏切られたと思い込むことぐらいであろうか。エミリアの告白も夫を裏切ったわけではなく、正直なだけのこと。
全般的に一人相撲感が強く、オセロゲームとのつながりが、いまいちピンとこない...

2. 嫉妬の布石
最初の布石は、デズデモーナの父ブラバンショーが吐き捨てる。
「その女に気をつけるがよいぞ、ムーア殿、目があるならばな。父親をたばかりおおせた女だ、やがて亭主もな。」
イアーゴーとキャシオーの会話によると、デズデモーナはよっぽどの女らしい。
「あれこそ好き者のジュピター神が決して見のがしっこない女人だぜ... あの目がすごい!艶にして挑むがごとしだ。人を誘い込むような目をしている。しかも、貞潔ですがすがしい。それに、あの声、聞く者を思わず恋に駆り立てる鐘の音とでも言いたくなるではないか...」
イアーゴーは、男心を焚き付けておいて、酒で失態を演じさせる。これで、キャシオーは副官を失職することに。キャシオーは復職をオセローに嘆願するために、デズデモーナにとりなしてもらう。そのセッティングにも、イアーゴーが一枚噛む。そして、キャシオーとデズデモーナの仲が怪しいと、オセローに吹き込むのである。
ところで、オセローは、正義と名誉のために不義を許せず、デズデモーナの首を締めたということになっている。涙を流しながら...
しかし、それほどいい女なら、嫉妬しないわけがない。恋とは、所有欲であり、独占欲である。恋は不安を掻き立てる。人は誰しも、異性のしぐさに惹かれることがある。それが恋人以外であっても。それを感じなくなったら色気も失せる。夫婦で恋愛を続けたければ、そんな刺激も必要であろう。さすが、シェイクスピア!妻が裏切ったと信じ込ませるだけの布石を随所に打っている。
そして決定的な布石が、おまじないのかかったハンカチーフ...

3. 証拠物件ハンカチーフ
オセローがデズデモーナに初めてプレゼントしたハンカチーフには、魔法がかかっているという。その所以を、夫婦愛を育む場面で言って聞かせる。それは、オセローの母親がエジプトの魔法使いから貰ったものだとか。魔法使いの予言によると...
「これが手にあるうちは、人にもかわいがられ、夫の愛をおのれひとりに縛りつけておくことが出来よう、が、一度それを失うか、あるいは人に与えでもしようものなら、夫の目には嫌気の影がさし、その心は次々にあだな想いを漁り求めることになろう...」
おまけに、デズデモーナとイアーゴーの妻エミリアが道化を交えて、夫について愚痴をこぼす場面がある。井戸端会議で見かける、うちに旦那は... てな具合に。妻同士、お仲がよろしいようで...
「妻が堕落するのは夫のせい... 自分では仕事の怠け放題... 私たちの財産を、どこかよその女猫に注ぎこんだり、急に訳のわからない嫉きもちを嫉きだして、私たちを閉じ込めて人前に出すまいとする。... 女がいくらおとなしいからといって、時には仕返しもしてやりたくなる... 世間の亭主たちに教えてやるとよろしいのです、女房だって感じ方は同じだということを...」
最初のプレゼントの話題になれば、まるでのろけ話、エミリアも夫にあてつけて愚痴ったことだろう。私もこんなの欲しいわ... てな具合に。イアーゴーはハンカチーフのいきさつを知っていたようである。
そして、そのハンカチーフをちょっいと借りてこい、とエミリアをしつこくけしかける。イアーゴーは、オセローにキャシオーとデズデモーナの仲が怪しいことを告げていたが、オセローは真に受けない。
「見そこなうな、イアーゴー、おれはまずこの目で見る。見てから疑う、疑った以上、証拠を掴む、あとは証拠次第だ、いずれにせよ、道は一つ、ただちに愛を捨てるか、嫉妬を捨てるか!」
そんなとき偶然!エミリアは、デズデモーナが落としたハンカチーフを拾い、夫に見せてしまう。これで、証拠物件が成立!イアーゴーは、こっそりハンカチーフをキャシオーの部屋に置いたのだった。
あとは証拠次第だ!ただちに愛を捨てるか... なんて格好良くきめちゃったから後に引けない。男ってやつは、実にくだらないプライドにこだわり、実につまらない意地を張るものである。オセローは、妻を愛の生贄に捧げるのだった。
エミリアはオセローを責め立てる。あなたこそ悪魔!奥様は天使になられた。人殺し!間抜け!頓馬!でく同然の分からず屋... と。エミリアは、告白したその場でイアーゴーに刺し殺される。
すると、オセローはイアーゴーを憎み、二人の対決ということになりそうだが、そんな雰囲気はない。人間ってやつは、絶望的な人間不信に襲われると、相手を責めるより自暴自棄の方が優勢になるらしい。そして、自らも愛の生贄に...

2020-08-23

"マクベス" William Shakespeare 著

シェイクスピア戯曲の四代悲劇に数えられる「マクベス」。こいつを知ったのは、黒澤映画「蜘蛛巣城」に出会ったおかげ。設定を日本の戦国時代に替えてはいるものの、まさに生き写しのような作品だ。黒澤映画の中で最も印象深く、終始怪しげな「蜘蛛手の森」の影が、本物語のキーワードの一つ「バーナムの森」と重なる。ただ、もう一つのキーワードの方は、この設定に投影するには、ちと難しいか...
尚、福田恆存訳版(新潮文庫)を手に取る。

さて、マクベス物語には、キーとなるお呪いが二つある。実は、三つあるのだけど、それは後ほど...
一つは、「バーナムの森が攻めてこない限り、お前は滅びはしない。」
二つは、「女の生み落とした人間の中に、お前に歯向かう者はいない。」
いずれも魔女の予言である。普通なら、森の木々が一斉蜂起するなんて考えられないし、また、人間は生物学的に女が産むものと決まっている。実に当たり前なことを、この世のものとは思えない存在が静かに語ると、不思議な力を持つ。有識者どもがまともなことを声高に叫んだところで、言葉を安っぽくさせるのがオチよ。
シェイクスピアの魅力は、なんといっても道化役の用い方であろう。怪しげな存在が語るからこそ、人は惑わされる。邪悪な人間性を見事に演じる道化に、まんまと乗せられた人間どもが、自らの意思で滑稽を演じてしまうという寸法よ...

マクベス物語は、ハムレット物語と対象的に論じられるのをよく見かける。しかし、天の邪鬼なおいらの眼には進化版に映る...
ハムレット物語は、城に出現した父王の亡霊が謀略によって殺害されたことを息子に告げることに始まる。主人公は亡霊の言葉を一人で背負い込み、生か、死か、と苦悩し続け、周囲の人までも死に至らしめ、しまいには復讐を遂げた主人公自身を死に至らしめる。親友に未練がましい言葉を遺して... 見事な独りよがりぶり。
となると、道化役は、亡霊か、主人公か...
物の怪の登場の仕方では、マクベス物語が上手。いきなり三人の魔女がハモってやがる... きれいは穢い、穢いはきれい... と。主人公は、魔女の語る二つのお呪いを後ろ盾に、絶対的勝者となる宿命を信じ、王座を奪った残虐行為を正当化する。
ここで、凄いのは魔女ではない。むろん主人公でもない。夫人だ。幻想世界の魔女を現実世界に引っ張り出し、夫をけしかける。この際、神のお告げか、悪魔のお告げか、そんなことはどうでもいい。狼狽える夫は、わざわざ森へ出かけて魔女の言葉を確認しに行くが、それを横目に夫人は沈着冷静な策謀家ときた。国王は誰が殺したかって?そんなことは、居ない者のせいにすればいいのよ... 夫人の台詞を聞いていると、どっちが主犯なんだか分かりゃしない。
「あいつらの短剣は、あそこに出しておいた、見つからぬはずがない。あのときの寝顔が死んだ父に似てさえいなかったら、自分でやってしまったのだけれど...」
内助の功というが、女は恐ろしい。実に恐ろしい。骨までしゃぶる。男性社会などと、あぐらをかいている場合ではない。
となると、主人公を操ったのは、魔女か、夫人か...

確かに心理面において、ハムレット物語とマクベス物語は対照的に見える。
ハムレットは、父の仇を討つという使命感に掻き立てられるが、マクベスには、魔女の言葉に従うか、どうかの自由がある。義務を負うかどうかの違いは、大きいかもしれない。しかし、義務とはなんであろう。運命めいたものに翻弄される自己催眠の類いか...
単に権力を欲しただけという意味では、マクベスの方が純真である。いや、幼稚か。君主を殺害した後ろめたさのようなものに苛み、自己の殻に閉じこもっていく。マクベスの抱える精神的問題は、まさに現代病だ。だからといって、現代人が進化しているかは知らん...
物語の性格においても、大義名分上の王権奪回と、欲望に憑かれた王権略奪の違いは大きい。それは、憎悪と嫉妬という対照的な情念に看取られている。ハムレットは憎しみに怒り、マクベスは妬みに怯える。
ハムレットの場合は、憎しみのあまり自己矛盾に陥り、周囲の人までも巻き沿いにした挙げ句に自己完結しておしまい。
マクベスの場合は、妬みのあまり周りが敵に見え、ことごとく手にかけた挙げ句に恨みを買った男に敗れておしまい。
ここで注目したいのが、三つ目のお呪いである。
「子孫が王になる、自分がならんでもな。」
これは、ライバル将軍バンクォーに告げた魔女の予言で、マクベスと一緒に聞いている。バンクォーは生まれつき気品を備え、分別があり、人望も厚い。マクベスは、このライバルの気質が恐ろしく、夜も眠れない。そこで、親子ともども暗殺を謀るが、息子は取り逃がしてしまう。奸計が行われている間、酒宴が催され、バンクォーの座には突然亡霊が現れる。部下に命じた殺害が遂げられた瞬間に。そして、亡霊に向かって叫ぶのである。お前の息子のために、俺の手を汚し、慈悲深い王ダンカンを殺させたというのか...
ハムレットは、徹底的に自己矛盾に苛むものの、自己を見失うまでには至っていないが、マクベスは、それを自己破滅型人間に進化させたかに見える。ラ・ロシュフーコーは... 嫉妬は憎悪よりも、和解がより困難である... と言ったが、まったくである。

ところで、シェイクスピアは、トンチ屋か...
物語を最高に盛り上げる場面は、二つのお呪いをものの見事に覆すところである。
「バーナムの森...」に対しては、敵兵たちが枝木を一本ずつ身にまとって行進すれば、あたかも森が攻めてきたように見える。
「女の生み落とした...」に対しては、月たらずで母胎からひきずり出された男マクダフによって野望が砕かれる。つまり、帝王切開で生まれ出た男に。
尚、マクダフは、王ダンカンの長男の亡命先に走ったために、マクベスに妻子を殺されたのだった。
血は血を呼ぶというが、まさにそんな物語である...

2020-08-16

"ハムレット" William Shakespeare 著

恥ずかしいことかもしれんが、おいらはシェイクスピアをまともに読んだことがない。劇場には何度か足を運んでいるものの。
ただ、あまたの作品を遺しながら、これほど筋書きを知っている作家も珍しい。「ヴェニスの商人」、「マクベス」、「リア王」等々、そして、この「ハムレット」... 数々の名言を吐かせた作品の群れに大きな影を感じずにはいられない。
ゲーテは、カントの作品をこう評した... たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えている... と。シェイクスピアという作家は、まさにそんな存在である。知っていれば、いまさら感がつきまとい、歳を重ねれば、手を出すのにも勇気がいる。とはいえ、気まぐれってやつは偉大だ!くだらんこだわりを一掃してくれるのだから...
尚、福田恆存訳版(新潮文庫)を手に取る。

ハムレット物語の展開は既に知っている。
デンマークの王子ハムレットは、父王の亡霊から叔父クローディアスの謀略で殺された事を告げられ、復讐を誓う。さっさと行動に移せばいいものを、狂気を装って周りを欺き、懐疑心に憂悶し、恋心に苦悩するなど、まどろっこしい展開。格式高い国家が醜態を演じているさなか、周辺国との血なまぐさい背景までもちらつかせ...
おまけに、主要人物がことごとく死んでいく。王権を奪い、王妃である母を穢した現王クローディアスはもとより、母の寝室で王と間違えて宰相ポローニアスをやっちまうばかりか、その因果で宰相の息子レイアーティーズを決闘で死に至らしめ、なんの因果か母ガートルードも毒を飲み、叶わぬ恋かは知らんが宰相の娘オフィーリアまでも狂い死に、しまいには復讐を遂げたハムレット自身が毒刃に倒れる。親友ホレイショーに、この武勇伝を語り継ぐよう言い残して...
「しばし平和の眠りから遠ざかり、生きながらえて、この世の苦しみにも堪え、せめてこのハムレットの物語を...」

四大悲劇の中でも名高いハムレット物語。しかし、これは本当に悲劇であろうか。劇場で観るのと本で読むのとでは、まるで光景が違う。だから愉快!
ハムレットという人物像を一人眺めてみても、その独りよがりぶりときたら、まるで一貫性がない。無邪気で打算的、情熱的で冷静、慎重で軽率、意地悪で高貴な王子。この作家の気まぐれには、まったくまいる。だから愉快!
シェイクスピアほどの有名な作品ともなると、その解釈では学術的なものが優勢となりがちだが、深読みしてもきりがない。いまや、ハムレットは本当にオフィーリアを愛していたのか... なんてどうでもええ。レイアーティーズは本当にハムレットを憎んでいたのか... そんなこともどうでもええ。そもそも、父と名乗った亡霊が告げた言葉は真実だったのか?ハーデースが人間どもの二重人格性をからかっていただけ... ということはないのか。
そして、最も気に入っている幕が、二人の道化が登場する場面。二人は墓を掘りながら鼻歌まじりに、こんなことをつぶやく... 身分が低けりゃ、キリスト教の葬儀もやってもらえねぇ... 石屋や大工よりも頑丈なものをこしらえる商売は、首吊台をつくるヤツよ... 首吊台は教会よりもしっかりしてらぁ... と。
死人が何を語ろうが知ったこっちゃないが、死人に舌を与えると、ますます愉快!その分、生きている輩には沈黙を与えよう。所詮、人間なんてものは、墓穴を掘りながら生きている存在なのやもしれん。所詮、人間なんてものは、道化を演じながら生きている存在なのやもしれん。そうした人間の本性を、シェイクスピアという作家が最も自然に滑稽に描いて魅せた。ただそれだけのことやもしれん...
「人間は自分を肥らせるために、ほかの動物どもを肥らせて、それで肥った我が身を蛆虫どもに提供するというわけだ。肥った王様も痩せた乞食も、それぞれ、おなじ献立の二つの料理... それで万事おしまいだ。王様を食った蛆虫を餌にして魚を釣って、その餌を食った魚をたべてと、そういう男もいるわけだ。」

シェイクスピア戯曲の魅力は、作品が自由でいるということであろう。自由でいるということは、解釈の余地が広いということ。そして、ハムレットの支離滅裂感こそ、人間味というものであろう。翻訳者の言葉にも、グッとくる...
「どの作品の場合でもそうであろうが、翻訳には創作の喜びがある。自分が書きたくても書けぬような作品を、翻訳という仕事を通じて書くということである。それは外国語を自国語に直すということであると同時に、他人の言葉を自分の言葉に直すということでもある。そういう創作の喜びは、また鑑賞の喜びでもある。」
いま、「翻訳」という言葉を「読書」に置き換え、甘いピート香の利いたグレンリベットをやりながら鑑賞の喜びを味わっている...

1. ハムレットの名と狂気のイメージ
ハムレット物語の源流を求めると、シェイクスピアと同時代を生きた書き手にトマス・キッドという人がおったそうな。この人物は、すでに復讐劇の元締的存在だったらしく、「スペイン悲劇」という物語を書いているという。さらに遡ると、12世紀末、デンマーク人サクソーが、「デンマーク国民史」という本を書いており、その第三巻に「アムレス」という人物が登場するという。アムレスもまた狂気を装い、悪罵の限りを尽くし母親を罵る場面があるとか。尻軽の淫売め!と。"Get thee to a nunnery!" の原型であろうか...
シェイクスピアとの関係を別にすれば、「ハムレット」という名の源流は、民間伝承や民俗詩にも見つけられるそうな。アイルランド系では「アムロオジ」という名が現れ、13世紀の散文物語「エダ」の中の詩にも出てくるという。それは「アンレ」と「オジ」の合成語で、前者はスカンジナビア地方の一般男性名、後者は戦闘的、狂的という意味だとか。
どうやら、「ハムレット」という名は、狂気を掻き立てるものがあるらしい。人間ってやつは、狂気に身を委ねなければ、行動することも難しい。シェイクスピアは、そんなことを主人公の名を通して暗示したのであろうか...

2, To be or not to be, that is the question...
ハムレット物語に触れたからには、この名セリフを避けるわけにはいくまい。やはり名言には、自由でいて欲しい。解釈の余地を残しておいて欲しい。だからこそ寓意となる。本書の翻訳は、こんな感じ...
「生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生き方か、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶのと、それとも剣をとって、押し寄せる苦難に立ち向い、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが...」
ハムレットは、どうやって死を覚悟したのか。死は眠りに過ぎない。眠りに落ちれば一切が消えてなくなる。無に帰するだけのこと。いっそう死んでしまった方が楽になれるやも。いや、眠っても夢を見る。これがまた妙にリアリティときた。現世を生きる者は、死後の世界を知らない。死後の世界でも夢を見るのだろうか。なぁーに、心配はいらない。どうせ嫌な夢、見たくもない!惨めな人生ほど、なさけない夢がつきまとう。ならば、皇帝ネロにでも魂を売るさ。
そして、おいらの天の邪鬼な性分は、こんなセリフの方に目を向けさせるのであった...
「個人のばあいにもよくあること、もって生れた弱点というやつが、もっともこれは当人の罪ではない、誰も自分の意思で生れてきたわけではないからな、ただ、性分で、それがどうしても制しきれず、理性の垣根を越えてのさぼりだす。いや、その反対に、ちょっとした魅力も度をすごすと、事なかれ主義の世間のしきたりにはねかえされる。自然の戯れにもせよ、運のせいにもせよ、つまり、それが弱点をもって生れた人間の宿命なのだが、そうなると、たとえほかにどれほど貴い美徳があろうと、それがどれほどひとに喜びを与えようと、ついにはすべて無に帰してしまうのだ。」

2020-08-09

"決定版 快読シェイクスピア" 河合隼雄 & 松岡和子 著

シェイクスピアを初めて体験したのは、おいらが美少年と呼ばれていた学生時代。貧乏大学生の演劇に嵌っていた記憶がかすかに蘇る。いずれまた挑戦してみたい!
そう考え、考え... もう何十年が過ぎたであろう。いかんせん劇場で観たものを、小説で読むには勇気がいる。もう分かり切ったシナリオじゃないかぁ... と、頭のどこかで邪魔をしやがる。
しかしながら、十年も経てば人は変わる。もうまったくの別人だ。別人ならば、新たな境地を発掘できるやもしれん。歳をとることは、なにも寂しいことばかりではあるまい...
そんなことをぼんやりと考えながら本屋で立ち読みしていると、シェイクスピア戯曲の目録のような書に出逢った。ここでは、ユング派の心理学者とシェイクスピア専門の翻訳家が繰り広げる座談会を、演劇のように鑑賞させてくれる...

さて、「快読シェイクスピア」という題目には、原版から増補版を経て、決定版へと至る流れがあるらしい。もとは「ロミオとジュリエット」、「間違いの喜劇」、「夏の夜の夢」、「十二夜」、「ハムレット」、「リチャード三世」の六作品に始まり、増補版で「リア王」、「マクベス」、「ウィンザーの陽気な女房たち」、「お気に召すまま」の四作品が加わり、さらに決定版で「タイタス・アンドロニカス」が収録される。
となると、さらにさらに期待したいところだけど、河合隼雄氏は他界されているし、松岡和子氏もご高齢とお見受けする。この酔いどれ読者ときたら、誠に身勝手なものでますます貪欲に... この系譜を受け継ぐ座談会の出現を期待したい。いや、他人に期待する前に、再読が先決だ。そうすれば、あの有名な台詞の群れも違った光景を魅せてくれるやもしれん...

ハムレットは気高く生きようと自らに問うた。このままでいいのか、いけないのか... と。
"To be or not to be, that is the question."

ヘンリー四世には、老人の愚痴まで聞かされる。やれやれ、われわれ老人というのは、どうしてこう嘘をつくという悪癖から脱けられないんだ... と。
"Lord, Lord, how subject we old men are to this vice of lying!"

リア王ともなると、道化を伴わないと老いることも難しい。そして、道化に粋な台詞を吐かせた。おっと、この台詞は黒澤映画の方であろうか。そこは、シェイクスピアっぽいということで。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ... と。
"In a mad world, only the mad are sane!"

1. 生き方なんてものは十人十色!
シェイクスピアの世界には、たった十数年で駆け抜ける人生もあれば、八十年かけてじっくりと熟成させる人生もある。十代を全力疾走したロミオとジュリエット... 濃密な三十年を生きたハムレット... このような生き様を魅せつけられると、自分の人生がなんとも虚しく感じられる。そうかと思えば、八十近く惰性的に王として生き、最後の一年で我が生涯に目覚めたリア王... このような生き様には、人生まだまだと未練がましくもなる。なぁーに、未練は男の甲斐性よ...
ランカスターとヨークの両家が王位継承で争った薔薇戦争の時代を生きたリチャード三世に至っては、王位に就いたのはたった三年。その短い期間に、悪党宣言たる独白に始まり、見事なほど完璧な悪役を演じきる。邪魔なヤツはどんどん殺し、欲しい物はなんでも手に入れる... まるで人間の本性を剥き出しにしたような人生。アドラー心理学そのままに... ここまで徹底できる人間は、そうはいない。
孔子の言葉に... 十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順がふ、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず... というのあるが、もはや何年で人生を完結させるかなんてどうでもいい。最後の三日で人生を充実させ、覚醒させる人もいるだろうし...

2. 恐ろしい思秋期!
思春期を象徴するロミオとジュリエット物語は、汚れちまった大人どもにはあまりに酷!ロマンスには嘘がつきもの。秘密がなければ、ときめきもしない。しかも、純真だから死物狂い。ネガティブな欲望を人のせいにしながら生きてゆければ楽になれるのに、自己批判の方がまだしも行儀がいい。思春期とは、自分を殺すか、生かすかを問う時代だ。
とはいえ、下半身抜きでは恋愛物語も色褪せる。たいていの人はそこで死ねないから、もう少し長く脂ぎった人生を送ることができる。大人の知恵はたいていどこぞの本に書かれているが、子供の知恵は計り知れず。大人の誰もが、そんな時期を経験してきたはずなのに、汚れちまったらすべての記憶はチャラ。愛という言葉を安っぽくさせるのも、惰性的に生きてきた成果だ。結婚を背負わなければ、純真な恋愛物語が完結できるというのに、結婚できる年齢となった途端に愛人呼ばわれ、世間から悪役キャラを背負わされる。そりゃ、おいらだって大人になることに幻滅するよ...
「見ろ、これがお前たちの憎悪に下された天罰だ。天は、お前たちの歓びを愛によって殺すという手立てを取った。」
"See what a scourge is laid upon your hate, That heaven finds means to kill your joys with love;"

3. 爽快な認識の喜劇!
「間違いの喜劇」には、二組の双子が登場する。離れ離れになった双子の兄弟と、その兄弟に仕える双子の召使いが巻き起こす騒動は、圧巻!
ちなみに、ドルーピー物語にも「双児騒動」ってやつがあって、なんとなく重なる。
双子に似たような名前をつけるケースは世界各地で見られ、名前を並べただけでひょっとしたら双子かと思わせるケースがある。逆に、あまりにも見かけが似ているから、区別できるようにと全然違う名前をつけるケースも。
名前ってやつは、人格にも大きな影響を及ぼす。あまりにも立派な名前を与えると、名前負けすることも。ちなみに、おいらの場合、珍しい名前のおかげで、すっかり天の邪鬼になっちまった。
それはさておき、物語の方はというと... わざわざまったく同じ名前にすることはねぇだろう。シェイクスピアのファルス論には、まったくまいっちまう...
「『間違いの喜劇』は、認識の喜劇でもある。兄を探しにきたはずが一時自分を見失うことになったシラクサの主従だが、ここに至って兄を見出すと同時に再び自分をも見出す。混乱と抱腹絶倒のあとだけに、感動の深さと至福感はひとしおだ。」

4. ご都合主義大王!?
松岡氏は、シェイクスピアを「ご都合主義大王」と呼ぶ。滑稽を演じれば、自然の流れに反するところも出てくるし、それが逆に自然だったりする。
また、独善的であるからこそ、芸術は芸術たりうる。そうでなければ個性も発揮できないし、面白味も欠ける。
人間ってやつは、本性的に自然に反する存在なのだろう。しかも、それを自覚しているから、「自然」の対義語に「人工」という語を編み出した。恋愛が自然な状態かどうかは知らん。ただ、恋に理屈をつけると、理に落ちて、それだけのことになってしまう。人生自体が理に落ちることはない。現代人は、なんでもかんでも理屈で説明しようとしすぎる感がある。河合氏はこう指摘する。
「ご都合主義といって非難するのはむしろ、近代人の病ですね。」

5. 王子と太陽...
同音の son と sun は、シェイクスピア劇ではしばしば意味を重ねるという。例えば、こんな感じ...

"Now is the winter of our discontent. Made glorious summer by this son of York."

この台詞は、「リチャード三世」で登場する独白。王の息子は、太陽王たる王子というわけか。人は歳を重ねていくと、駄洒落好きになっていくのかは知らんが、おいらも駄洒落や語呂あわせが大好きときた。
son に sun すなわち光を当てれば、そこに影ができるのは自然法則。古代ギリシアの自然哲学者たちは、日時計の原理となる影ができる図形に憑かれた。ユークリッド原論にも登場するあれ、そう、グノーモーンってやつだ。こいつには直角三角形の偉大さが暗示されている。人類初の距離の測定方法となる三角法やピュタゴラスの定理などが、それだ。影の幾何学とでもしておこうか。
古代の記録には、日食を不吉とする記述を見かける。皆既日食ともなると、まるで天変地異。突然、戦闘中に大きな影が現れると、大軍も逃げ出してしまい、たちまち形勢逆転。現代人はドラマチックな天体ショーとして見物しているけど、それでも人間は影に怯えて生きているところがある。
自ら影法師を演じているうちに、自分の影を背負うようになろうとは。リチャード三世にしても、リア王にしても、自分自身を生きたのか、影法師を生きたのか。人生なんてものは、自我の本性を探りながら、自我の影法師を演じて生きてるようなものやもしれん...
「リチャードは、善悪でいえば悪の側に立って、人間を見下して笑う立場だったのに、王位についたとたんに今度は笑われるキャラクターに転換させられているんです、シェイクスピアに。...(略)... 恐怖と畏怖の的であった人間を、あえて笑いの対象にしてしまう。一気に落ちていく斜度を実にうまく表現している...」

6. brother and sister...
英文を翻訳する時、brother や sister という単語に出くわすと、兄か弟か、姉か妹か、いつも悩ましい。翻訳の達人でも、これらの用語を邦訳するのは難しいらしい。はっきり区別したければ、older brother や younger sister とやればいいのだろうけど、西洋人はそうした必要性を感じないようだ。日本語では、兄が弟かを特定しなければ、おかしな文章になる。ましてや演劇の台詞で、兄さん!と呼びかけるところを、兄弟!では不自然だ。日本人は、たいてい曖昧な表現を好むけど、上下関係となると目くじらを立てるようである。肩書、名声、序列、年齢といったものに。この方面では、西洋の方が平等主義の意識が強いのかもしれない。その分、男性名詞と女性名詞で区別するようだけど。文法における性の扱いでは、男性、女性、中性で区別する言語系は多い。だからといって、それがそのまま差別意識になるとも思えんが...

7. 自立は裏切りによって成立するか?
リア王物語論を見ていると、裏切りによって自立できることを暗示しているのだろうか。たいていの場合、人は裏切られると相手を憎む。だから狂うと楽になれる。ならば裏切られたと思った時、それは相手を恨む前に人間関係を根本から見直すタイミングだとすればどうであろう。まさに自立のチャンス!シェイクスピアは、ネガティブ思考から解放される方法論までも提示しているような...
「裏切りによってしか自立できないというのは、人間の不幸なセオリーのようなもので、歴史上の人物でも、このときだけは裏切ってるって人がたくさんいますよ。」

2020-08-02

"絶望名人カフカの人生論" Franz Kafka 著

「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。」

翻訳者頭木弘樹が「絶望名人」と呼称する文豪カフカ。彼の日記や手紙には、自虐の言葉で埋め尽くされているという。
名言といえば、この世には実に多くのポジティブな言葉が溢れている。確かに、ポジティブな言葉には人を励ます力がある。
しかし、そんな言葉だけで人生を彩るには心許ない。ネガティブな本音の言葉に癒やされることもある。元気で明るいだけの言葉は、どこか嘘っぽい。本当に辛い時に、頑張れ!と声をかけられても、それはむしろ拷問である。絶望している時には、やはり絶望の言葉が必要だ!

カフカの人生は、なにもかも失敗の連続。現代風に言えば、負け組ということになろうが、そんな表現では足りない。虚弱体質に、食が細く、不眠症。自信家で逞しい父親に対するコンプレックスのために、自らを歪めていく。学校では劣等生のレッテルを貼られ、教師や同級生から馬鹿にされてきた。人付き合いが苦手で、サラリーマンの仕事がイヤでイヤでたまらない。ひたすら書くことに救いを求めて小説家を自称するも、すべての作品が未完に終わり、生計を立てることもできない。結婚願望は人一倍強いものの、生涯独身を通す。一人の女性に憧れて求婚し、二度婚約するも、自ら二度破棄。結婚し、子供をつくって遺伝子を残すことへの罪悪感。自分にそんな資格があるのかと、ひたすら問い続け...
「誰でも、ありのままの相手を愛することはできる。しかし、ありのままの相手といっしょに生活することはできない。」

頑張りたくても頑張れない。働きたくても働けない。すべて自ら招いた心の病であることを告白する。すべて自分が悪い。究極の自己否定節。究極の自己破滅型人間。
しかしながら、こうした心理状態は多かれ少なかれ誰でも経験しているし、まさに現代人が抱える病がそれだ。ニートやひきこもりの心理学を体現するような、まさに現代病の先駆者とでも言おうか...
それでも、自殺には至っていない。自殺願望を匂わせつつも。いや、自己の破滅を謳歌しているような気配すらある。骨折や病気になったことを喜び、社会的地位から追い落とされることを快感とし、究極の M か...
「ずいぶん遠くまで歩きました... それでも孤独さが足りない... それでもさびしが足りない...」

カフカの言葉は、悲惨ではあるけれど、どこか余裕を感じないではない。自分が不幸なのは自分自身のせいだと自覚できるということは、自己を冷静に見つめている証拠。なんとなくニヤけてしまいそうな真実を浮き彫りにし、もはや、ポジティブやネガティブなどと区別することもバカバカしい...
巨匠ゲーテは、真実を実り多きものとしたが、文豪カフカは、真実につまずかされる。これでもか、これでもか... と。人間には、他人の不幸を見て慰められるという情けない一面がある。あの人よりはまし!... と。カフカの場合、人間が本能的に持っている滑稽な側面をあえて曝け出しているようにも映る。そんな余裕があったとも思えんが...
重いのは責任ではなく自分自身... 死なないためにだけ生きる虚しさ... 自殺したい気持ちを払いのけるためだけに費やしてきた人生...などとネガティブ思考のオンパレード。その行間からポジティブ思考への強い憧れが滲み出る。自分を信じるだけで、自分を磨こうとはしない。あえて自分にハンデを与え、失敗した時に自尊心を傷つけないようにするってか。才能があると信じて才能を伸ばす努力をしないのは、失敗した時に努力しなかったからだと言い訳できるってか。論理的に理由を説明しようとするのは、他人を納得させることができれば、自分をも納得させられるってか。
人は目の前の真実から目を背け、自分に言い訳をしながら生きている。それだけ、真実を見るには勇気がいるってことだ。自ら心の病を受け入れ、それを曝け出せるような人は、そうはいない。その意味で、自分の弱さを素直に認めて正面から向き合ったカフカは、真の勇者だったのやもしれん。
生前カフカは、ついに小説家として成功するこはなかった。病床では、未完の原稿をすべて焼却するよう友人マックス・ブロートに遺言する。しかし、ブロートはカフカの作品を世間に紹介した。まさか、あの世でこの友人を恨んではいまい。ブロートは、カフカへの手紙にこう書いたという。
「君は君の不幸の中で幸福なのだ。」

2020-07-26

"変身・断食芸人" Franz Kafka 著

小雨降りしきる中、虚ろな気分で古本屋を散歩していると、なんとも異様な文面で始まる物語に出逢った。
「ある朝、なにやら胸騒ぐ夢がつづいて目覚めると、ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫に変わっていることに気がづいた...」

カフカの小説に触れるのは、これが初めて。初体験ってやつは、なんであれゾクゾクさせるものがある。主人公がどんな夢を見ていたのかは知らん。おぞましい姿に変身する夢でも見ていたのか。そして、それが現実になってしまったのか...
夢ってやつは、見ている間は妙にリアリティがある。ふと冷静になり、それがありえないシチュエーションであったとしても。夢を見ている間は、現実との見分けもできない。ならば、いま目の前にある現実が、夢ではないと言い切れるだろうか...
尚、本書には、「変身」と「断食芸人」の二篇が収録され、山下肇/山下萬里訳版(岩波文庫)を手に取る。

そういえば、今のおいらは、どんな夢を見るだろう...
心理学では、夢が精神状態を投影しているとも言われる。日頃のストレスとも関係がありそうだ。ひと昔前は、排泄物に囲まれた夢... 昆虫が身体中を這い回る夢.... そんな光景にうなされたこともあった。もっと昔になると狙撃者に狙われたり... 学生時代にはゴジラ級の怪獣に追いかけられたり... そして現在となると、ホットなお姉様方にイジられる。ん~... M な性分は変えられそうにない。
ただ、それが現実になるとは、これっぽっちも考えていない。所詮、夢は夢。どこか安心して眺めている自我の眼がある。夢を見ている間は、眠りが浅いと言われる。熟睡すれば外界との交渉を完全に断ってくれるが、中途半端な眠りは外界との関係をグチャグチャにする。眠りは生理学的には休養だが、心理学的には何を意味するのだろう。現実逃避か。永遠の眠りへの不安か。はたまた、熟睡は死への憧れか...
それにしても、どういうわけか?ホットなお姉様といいところになると、きまって目が覚めやがる。続きを見ようと二度寝すると、今度は熟睡し、朝方寝過ごして大慌て。最大目標であるハーレムの夢には、永遠に到達できそうにない。せっかくの夢の世界、どうせなら思いっきりエゴイズムを演出してもよさそうなものだけど。いや、まったく思い通りにならんから、リアリティがあるのやもしれん...

「変身」
変身物語の中の主人公は、外回りの営業マン。不規則で粗末な食事に、明けても暮れても、出張!出張!いつも違う人と接し、親しい人付き合いもできない。もう仕事にうんざり!... と、やるせないサラリーマンの愚痴のオンパレード。そして、目覚まし時計の音が苦痛になっていく...
そんな経験は誰にでもあろう。人間であることを放棄すれば、人間社会から課せられる義務から解放され、真の自由が獲得できるだろうか。自由なんてものは幻想だ... と言うなら、義務なんてものも幻想だ!と言いたい。バートランド・ラッセルは、こんなことを言った... 遠からず神経衰弱に陥る人の兆候の一つとして、自分の仕事がきわめて重要なものだという信念があげられる... と。
そして、不条理な夢が現実になった時、自己破滅型人間へと変身するのであった...

「断食芸人」
19世紀頃、断食興行というものがあったそうな。断食芸人はサーカスのような興行主と契約し、檻に入って、藁の上に座り、見世物となる。苦行層が静かに語る言葉には重みを感じるが、断食芸人の場合はどうであろう。自己宣伝屋か。山師か。人目に隠れて物を食べないよう見張り番までいる。早食い競争の逆パターンか。この、いとおしむべき殉難者を御照覧あれ...
時代とともに、断食芸の人気はすっかりガタ落ち。動物の檻と並ぶ断食芸人の檻には、観客が寄り付きもしない。誰も見ていないから、真の意味で断食行に集中できるってか。ふと見張り番が気づくと、断食芸人は藁に埋もれて息絶えている。最期の言葉は... 本当に美味いと思う食べ物が見つけられなかった... とさ。
断食芸人は、藁と一緒に葬られた。その檻には、なんでも美味そうに喰う豹が入れられた。観客は、生きる悦びに満ちた豹に群がる。
自由な風が吹く平穏無事な時代では苦行が見世物となり、抑圧に満ちた多事多難の時代では、自由が見世物になるってか...
「自由さえも、豹は全然恋しがっていないように見えた。必要なものは何でもあふれんばかりにそなえているこの高貴な肉体は、自由までも、つねに身につけているように思われた...」

2020-07-19

"贈与論 他二篇" Marcel Mauss 著

プレゼント... それは美しい心の表れであろうか。贈り物を頂くと、お返しをせねば... という気持ちにもなる。より良いものを、とばかりに。そして、お返しの、お返しの... 無限ループ。これがお付き合いというものか。それが世間体というものか。これからもよろしくお願いします!とな... よろしくってどういうことか。心のどこかで見返りを求めてはいないか。裏に潜む思惑。人の心は計り知れない。自分自身の心ですら...

1920年代、社会学者マルセル・モースは、贈与の心理学を通じて、交換から義務へ結びついていく経済原理を論じて魅せた。
副題に、「アルカイックな社会における交換の形態と理由」とある。未開人と呼ばれる民族の慣習に照らして現代人の原初的な心理を掘り起こす着眼は、後のレヴィ=ストロースの著作「構造人類学」にも通ずるものがある。実際、モースの影響を受けたらしい。
経済学には、価値の交換や物品の売買だけでは説明のつかない交換行為がある。原始的な物々交換だけでは説明のつかない心理状態がある。貨幣で換算される価値だけでは説明のつかない価値がある。もはや行動経済学の領域にあると思われるが、既にこの時代に...
尚、本書には「トラキア人における古代的な契約形態」と「ギフト、ギフト」の二篇が併収され、森山工訳版(岩波文庫)を手に取る。

"gift" という単語は、ゲルマン言語系の言葉で、元来「贈り物」「毒」という二つの意味があるそうな。ほぉ~... グルグル翻訳機にかけると、英語では「贈り物」、ドイツ語では「毒」と出る。ちなみに、タキトゥス著「ゲルマーニア」によると、アングロサクソン系もゲルマン種族と記される。
オランダ語では中性名詞と女性名詞があって、中性名詞は毒を指し、女性名詞は贈り物や持参財を指すという。別の言語系でも片方の意味が消滅している事例が多く、この言葉の意味がどのように派生してきたかは定かでないらしい。
とはいえ、この意味の両面性には、人の心の表と裏が透けて見える。そう、建前と本音ってやつが...

モースは、この心の二面性に、民族の集団性と原初的な慣習性を絡めて、「贈与 = 交換」という視点から論じる。ポリネシア、メラネシア、北アメリカ、ヒンドゥー世界など古今東西の贈与の風習を見て回り、その中でも、財産を蕩尽してしまう「ポトラッチ」という儀式に着目し、これを現代社会でいう義務という意識と重ねながら物語ってくれる。
確かに、集団社会では、慣習による強制めいた意識が働く。義務という意識も儀式のようなもの。個人と個人の間でも贈り物という交換行為は成立するものの、集団と集団の間によって、その行為は慣習に、さらに文化にまで高められる。
集団の中には、誰が誰にどんな贈り物をしたか、と眼を光らせている者もいる。贈り物を与える礼儀、受け取る礼儀、お返しをする礼儀... こうした行為は冠婚葬祭にも表れ、祝儀や香典にいくら包むかといった金額相場も生じる。町内の礼儀屋さんの相場どおりにやっていれば、無礼に当たらないという感覚も、集団性が編み出した心理学であり、ムラ社会ではより顕著となる。
地位の高い者が相手ともなると、贈り物の意味までも偏重させていく。より恩恵を受けるために... より立場を優位にするために... 贈り物にも格付けがなされ、まるで忠臣蔵の一場面。世間の眼が気になれば、礼儀正しい人に見られたい、誠実な人に見られたい。そして、贈り物は虚栄心を助長する。
事業で大成功を収めた経営者が、個人で慈善基金のための大規模な財団を設立したりするのも、儲けすぎたことへの後ろめたさのような心理が働くのかは知らんが、いずれにせよ余裕ある範疇での行為となる。いや、借金してまで貢物を捧げるケースも珍しくない。気前の良さを演じることが、ある種のステータスとなったり、神が相手ともなると、生贄を捧げたり。
一方で、真に心のこもった交換行為も多い。古くから互いの健闘を称えて兵士が武器を交換したり、近年ではスポーツ選手がユニホームやエールを交換したり。そして、贈り物という行為は、使命感や義務感にまで高められていく...

経済循環における交換原理には、自己優位性という心理学が働く。安く作って、高く売り、儲けを最大化するという目論見は、貨幣価値における自己優位性の模索である。だが、それだけではあるまい。むしろ、精神的な自己優位性こそが社会活動の原動力になっているように映る。
アリストテレスは、人間をポリス的動物と定義した。ポリス的というのは、共同体の一員であることを強烈に意識すること。共同体の一員というのは、人間は一人では生きてはゆけないということ。つまりは、集団に依存するということ。集団社会の中で生きていく上で、人間は見返りの原理を放棄することはできまい。仮に、そんな天使のような小悪魔に出逢えたら、この酔いどれ天の邪鬼は我が身を生贄に捧げたい...

それにしても、慣習の力は偉大である。なによりも人間を隷属させる力がある。疑問を感じさせず、義務と思い込ませる。迷った時には過去に縋ればいい。判例とはそうしたもの。慣習は、義務という感覚を生起させる。それは、世間からの批判を逃れるための呪術か...
この呪術に集団意識が結びつくと、これほど恐ろしい心理状態もあるまい。人は誰もが集団の中で自己優位性を保とうと必死に生きている。それは、自己存在というものを意識できる精神の持ち主の宿命であろうか。集団の中の居場所を強烈に意識させ、そこに競争原理を与え、ヒエラルキーを生じさせる。能力で優位性を見いだせなければ、肩書や名声に縋るって寸法よ。そして、これらの心理状態の多くに贈与の心理学が見て取れる。贈与には、義務と霊的な力が宿るらしい...

2020-07-12

"「いき」の構造 他二篇" 九鬼周造 著

粋(いき)な言葉をかけられると、なんとなくニヤけたり、なんとなく癒やされたり、なんとなくやる気が出たりする。粋な計らい、粋なルックス、粋なしぐさ... こうしたものが人生にアクセントを与えてくれる。然らば、粋に生きたいものである。理性屋どもの憤慨とは真逆なちょいワル感を漂わせ... 
ただ、ちょいワルといえば、ちと野暮ったい感がある。辞書を引けば、粋の対義語には、まさに野暮という語が当てられる。しかしながら、野暮もうまく振る舞えば、時には粋となる。然らば、粋も野暮も、その双方の極意を会得したいものである...
尚、本書には、いき(粋)を表題にした作品に加え、風流と情緒を表題にした「風流に関する一考察」と「情緒の系図」の二篇が併収される。

さて、「いき」、「風流」、「情緒」といった用語で表される美意識とは、日本民族固有のものであろうか。
例えば、「粋な」という語を機械翻訳にかけると、それらしい用語がフランス語に見つかる。"chic" ってやつが。この語は、英語でもドイツ語でもそのまま借用される。日本語でも「シックな」という表現をよく見かけ、辞書には... 粋な様、あかぬけた様子... とある。
元来、"chic" の語源には、二説あるそうな。
一説によると、"chicane" の略で裁判沙汰を縺れさせる「繊巧な詭計」の心得のような意味合いがあるとか。
他説によると、"schick" が原形となった「巧妙」という意味合いで、ドイツ語の "schucken" や "geschickt" がフランスに逆輸入され、次第に趣味についての "elegant" と似た意味合いに変化していったとか。
したがって、"chic" には「繊巧」や「卓越」といった意味合いがあり、対して、「いき」には、これに上品な美意識といった、やや限定された意味合いがあるらしい。"chic" の方が抽象度がやや高そうか。あるいは、「いき」は美意識にまで高めたということか...
西洋哲学には倫理用語に溢れ、その背景にキリスト教的教示を感じるが、九鬼哲学には、「いき」、「風流」、「情緒」の他にも「わび」や「さび」といったくすぐったい用語に溢れている。春風駘蕩たる趣を帯びた粋な哲学!とでもしておこうか...

とはいえ、言葉とは、気候や風土に強く影響されるもので、同じ社会の住人ですら個々で微妙なニュアンスの違いを見せるし、専門用語ですら専門家の間で用い方が微妙に違ったりする。言葉とは、精神投影の一手段であるからして、これを完全に一対一で翻訳するなんてほぼ不可能であろう。ましてや各国語間で...
したがって、翻訳語には経験と慣習が根付く。実際、西洋語を邦訳した用語には違和感あるものが溢れており、最初に翻訳語を提示した偉い学者の影響力も強い。言葉には解釈がつきもの。客観的な言葉は数学の記号にしか見当たらないし、数学にしても不完全性に見舞われている。言語という現象は、歴史を有する文化固有の自己開示にほかなるまい。
しかしながら、人間精神の根っこには存在問題がある。すべての意識は存在を意識することに始まり、この普遍性から枝分かれして存在意識に多様性をもたらす。単純な宇宙法則から、様々な形の天体や多様な星団のあり方が出現するように。この書には、言語における普遍性と多様性の共存という問題が暗示されているようにも映る。
それにしても、言葉遊びは楽しい。多様性に満ち満ち、実に愉快!精神描写の域(いき)では尚更。なによりも言葉の力を感じ、生きる活力を与えてくれる...
「生きた哲学とは、現実を理解し得るものでなければならぬ。現実をありのままに把握することで、会得するべき体験を論理的に言表することが、この書の追う課題である。」

1.「いき(粋)」について
「いき」とは、すなわち美意識である。この意識について、九鬼は三つの徴表を挙げている。
一つは、「媚態」。形容するなら、艶めかしさ、艶っぽさ、色気といった表現で、異性を意識した情念である。
二つは、「意気」すなわち「意気地」。形容するなら、生粋、伊達、気立て、侠骨といった表現で、自由な気骨が後ろ盾になった情念である。
三つは、「諦め」。形容するなら、開き直り、覚悟、やけっぱちといった表現で、運命論で後押しされた因果応報とも背中合わせな無関心の情念である。
これら三つの情念を自己消滅させるものに、空虚、倦怠、絶望、自己嫌悪といった情念を配置し、双方で綱引きを始める。無関心に美徳を求めながら、媚態を求め、しかも意気地な自由を生きる... この矛盾感ときたら。無関心な自律的遊戯とでも言おうか。積極性と消極性の狭間であえぐ控え目の美学とでも言おうか。派手なようで地味であり、粋でありながら野暮を演じきる。肯定も否定もせず、善と悪の双方と距離を置き、身勝手なようで優しさもちらつかす。媚態は、まさにチラリズムの象徴。上品と下品の微妙な関係を保ちつつも、品格や気質を備える。そしてついに、矛盾は調和へ昇華するというのか...
自己抑制、自己反発、そして自己否定... この生殺し感は、武士道の理想像にも通ずる。剣の達人が、抜かずの剣を会得するような。いや、抜かせない剣を会得するような。「いき(粋)」とは、中庸の哲学を体現することであったか...

2.「風流」について
風流とは、いかなる状態を言うのであろう。九鬼は、三つの要件を挙げている。
第一の要件は、離俗である。それは、社会的日常から離れ、世俗を断つこと。風流人になるには、心を正しくして俗を離れるべし!
この道は、世間から離脱するという消極性だけでは成立しない。個人の充実を求める積極性をともなって成立する。これが第二の要件である。
第三の要件は、自然回帰である。風流人とは、一方に自然美を、他方に人生美を纏っているものらしい。
そして、対極にある享楽をも飲み込む。芸術精神は、まさに享楽の一面。価値観の逆転や価値観の破壊は、自己破滅型の人間を要請するかのようでもある。風流人とは、自然的自在人のことを言うのであろう...
「風流とは自然美を基調とする耽美的体験を『風』と『流』の社会形態との関聯において積極的に生きる人間実存にほかならぬものであるが、そういういわば芸術面における積極性にはあらかじめ道徳面における消極的破壊性が不可欠条件として先行している。風流とはまず最初に離俗した自在人としての生活態度であって『風の流れ』の高邁不羈を性格としている。」

3.「情緒」について
本書は、主要な情緒に「驚、欲、恐、怒、恋、寂、嬉、悲、愛、憎」の十種を系図に描く。
その中で、第一に、生存や存在に関する「驚」と「欲」を配置している。第二に、自己保存に関する「恐」と「怒」を。第三に、種族保存に関する「恋」と、その裏面の「寂」を。第四に、充実不充実の指標としての主観的感情「嬉」と「悲」を、客観的感情の「愛」と「憎」を配置... といった具合。
そして、それぞれの情緒に「快」と「不快」の感情が絡めてカオス化する。
こうした図式化には西洋哲学の流れを感じるが、第一のものに「驚」としている点には議論の余地がありそうである。デカルト風に言えば、情緒の第一のものに「思惟」を配置することになろうか。思惟とは、認識である。アリストテレス風に言えば、知覚の第一に認識めいたもの、すなわち形相なるものを配置することになろうか。
人間は、なにか存在めいたものを認識することによって、なにかを感じ始め、情緒めいたものを彷彿させる。その意味では、「驚」は知覚の一種で、認識の第一歩とすることができよう。驚くといっても、なにも本当に驚くわけではない。あっ、なんかある... ぐらいのニュアンスでも...
一方、スピノザは「驚」を情緒として扱わなかったという。つまりは、情報の入力段階であって、認識に至っていないというのである。確かに、条件反射的に、無意識的に驚くことがある。情緒という現象は、無意識から呼び覚ますところもあり、「驚」の扱いも微妙か。
対して、「欲」には明らかに意識がありそうだ。いや、そうとも言えまい。無意識の領域は、本人の意識より遥かに広大無辺なのだ。自律神経ってやつは、意識の領域にあるのだろうか。すべての情緒が無意識の領域にもあるとすれば、やはり「驚」も情緒の一種ということになりそうである。
ん~... すべての情念は、「驚」を介して「欲」の派生型とすることもできそうな気もする。いずれにせよ、「愛」の情緒が幻想の領域にあることは断言できそうか...

2020-07-05

"「ガロ」掲載作品 水木しげる漫画大全集" 水木しげる 著

巨匠水木しげるの作品と言えば、「ゲゲゲの鬼太郎」や「河童の三平」や「悪魔くん」ということになろうが、おいらは読んだことがない。テレビでも見たことがない。巷の評判で、タイトルを耳にするぐらいなもの。
この漫画家に興味を持ったのは、朝ドラ「ゲゲゲの女房」を観てからである。朝ドラにしても、こんなものに夢中になる母親たちを馬鹿にしてきた。15分ずつ小出しするようなものの、どこが面白いのか?と...
ところがある日、ケーブルテレビで一晩ぶっ通しでイッキ見をやっていて、なんとなく吸い込まれてしまった。ゲーテ哲学を重ねながら、好きなことをとことんやる漫画家魂!こいつぁ、まさに技術屋魂を物語っているではないか。おいらはゲーテ好きなエンジニアなので、暗示にかかりやすい。
そして、衝動のままに総集編 DVD を八千円ほどで購入したものの、観たいシーンがことごとくカットされていた。商売戦略か!?さらに衝動のままに、完全版 DVD-BOX 全巻を三万円超えで買う羽目に...

水木しげるといえば、太平洋戦争で左腕を切断したことでも知られる。おまけに貧乏神に取り憑かれ、どん底を這いずり回り、それでも笑い飛ばしながら生きていく... これがドラマの魅力である。
しかし、だ。これを総集編で成功物語としてまとめ上げてしまえば、どうも薄っぺらだ。そりゃ、大成功して安堵できるシーンも欲しいが、そんなものは一瞬でいい。おいらは大の前戯派なのだ。それに現実はそう甘くはない。だからといって、成功者だけが幸せというわけではあるまい。むしろ、成功者の方が余計な苦労を背負い込んでいるような気がする。好きなことをやって生きていくことのもどかしさ... これこそが、このドラマに見る哲学である。こうした見方も、酔いどれ失敗者の僻みであろうか...
「戦争では、みんなえらい目にあいましたなぁ。仲間も大勢死にました。死んだ者たちは無念だったと思います。みんな生きたかったんですから。死んだ人間が一番かわいそうです。だけん、自分は生きている人間には同情せんのです。自分も貧乏はしとりますが、好きな漫画を書いて生きとるんですから、少しもかわいそうなことありません。自分をかわいそうがるのは、つまらんことですよ。」
... 第14週「旅立ちの青い空」より

さて、月間漫画雑誌「ガロ」は、テレビドラマでは「ゼタ」という名で登場し、どうやら大人向けの皮肉の効いた作品が集められているらしい。
そして、これまた衝動のままに本書を手にとってみたが、こんなすげぇヤツが... 1964年刊行開始というから東京オリンピックと重なる。世間が高度成長時代を謳歌しているのを横目に、貧乏神に取り憑かれた漫画家魂が滲み出ており、ドラマのシーンと重ねながら読むとより味わい深い。というより、ドラマの方が、この掲載作品から引用したような感がある。
台詞の一つ一つに風刺が効いていて、原始本能を目覚めさせようと仕掛けてきやがる。人間ってやつは実にくだらない存在だけど、それを認めた上でくだらないことに打ち込み、無為に過ごす。これが、人間の本来の姿なのやもしれん。だからこそ、ユーモアは必需品となろう...
「人間は無意味なことをして、酔生夢死するように作られているんだ。有意義なことをしようとするから人生が苦界になるんだな。無意味こそ最高だよ。神の声だよ...」

肩書社会を皮肉るかと思えば、ペットの猫の飼い主が逆に猫を養うために飼いならされる。ゆりかごから墓場まで、という社会保障車のセールスマンが安心を売りに来れば、所得倍増計画にちなんで、分身の術で苦労を一方に押し付けて自分は楽をするという人格倍増計画を仕掛ける。どっちが本物で、どっちが分身かって?そんなことはどうでもええ。周りの人間だって、都合のいい方を本物とするだけのことよ...

ちなみに、錬金術とは、こういうものを言うらしい...
「錬金術とは、金を得ることではなく、そのことによって金では得られない希望を得ることにあるんだ。この世の中に、これは価値だと声を大にして叫ぶに値することがあるかね、すべてがまやかしじゃないか。」

ちなみに、文明の利器とは、こういうものを言うらしい...
「欲しがらせるだけで、ガマンするのが文明なんだよ!」
品物を欲しがらせ、欲望を刺激し、それで神経をすりへらし... 野蛮で無知な人種をこうした世界に誘い込むのが文明人ってか。満員電車で通勤!これも文明。勤め先で時間に縛られる!これも文明。国中のどの土地にも税金がかかる!これも文明。近代宗教が神の存在を知らしめたわけではない。原始の時代にも神がいた。しかも純真な神が...
子供から大人まで競争社会に慣らされれば、原始の時代に憧れ、魔の東京ジャングルから抜け出そうとする。未来のトウキョウは、都市の再開発、再々開発、再々々... いつも工事ばかりで騒音と公害に満ちているとさ...
とはいえ、未来を覗くにも勇気がいる。覚悟がいる。なによりも責任がいる。結婚相手まで見せられた日にゃ... 夢は現実と乖離するほど価値を増す。高度な文明社会を生きる人間が、高度な人間かは知らんよ...
「人間にとって未知は必需品なのだ!」

中でも傑作といえば、こいつかなぁ... 「妖怪マスコミ」
それは、電気掃除機のように作家や漫画家を吸い込む妖怪だとさ。養分を吸い取られた漫画家は、肛門の穴から出てくる。中には奇怪な漫画家もいて、食べられているかのように見せて逆にマスコミから養分を吸い取り、まるまる太って十年ぐらいして排出されるのもいる。それでも懲りずに巨大マスコミは、アリクイがありを喰うように作家や漫画家を貪るとさ...

「新講談 宮本武蔵」も捨てがたい!いや、全部捨てがたい...
武士の品位が高貴なものかは知らんが、品位ってやつは人を軽蔑する快感に浸る癖をつけるらしい。勤労を尊ぶあまり娯楽を蔑視し、大切な青春すら失ってしまった悔恨が仏像を刻ませておる。五輪書なるものを書いたがために、大衆は剣一筋に生きた変人につくりあげてしまったとさ...

付録される随筆「漫画講座」もなかなか...
「親切なる漫画の書き方」と題しているところにも皮肉まじりな。おそらくここは真面目な体験談なんだろうけど...
漫画家の道とは、カラッポの頭とカラッポの財布をもって、誰もがうちのめされてきた道だそうな。才能は最初からあるわけではない。労せずして充実した頭なんぞありえない。不遇な時期でも、いや、不遇だからこそ、古今東西の名作を読破するくらいの心がけがいるという...
ちなみに、池上遼一がアシスタント時代を振り返って... 仕事場には「無為に過ごす」と張り紙されていたそうな...

2020-06-28

"劇画 ヒットラー" 水木しげる 著

おいらが漫画に目覚めたのは大学時代。定食屋に行けば、誰もが漫画で時間をつぶし、おいらだけが手持ち無沙汰ときた。絵と文字が一体となったハイブリッド構造に、どうもついていけない。しかも、友人たちは五分もあれば、一冊を読み切ってしまう。大人どもの間では、先進国で漫画を文化とするのは日本ぐらいなものだ... 子供の教育に悪い... などと低俗扱いする風潮もあったが、おいらの目には、むしろ高尚なメディアに映ったものである。
仕方なく絵だけでもと、読むというより眺めているうちに、こいつぁ、推理小説なみにおもろい!おいらは貧乏性だから、風景画、人物の表情、台詞のすべてを一体化させて、じっくり味わわないと気が済まない。なので、読む速さが思いっきり遅く、周りから、速く読め!ってせかされたりもした。
しかし、だ。人間ってやつは刺激を求めてやまないもので、読者はもっと深い、もっと凄い表現を求めるようになる。エロイムエッサイム、我は求め訴えたり!... この呪文のどこが低俗だというのか。劇画ともなれば、これはもう目で見る小説!
それは、漫画に限らず、芸術でも、学問でも... そして、あらゆるジャンルに哲学を見ようとする。一流のスポーツ選手が、一流のバーテンダーが、そして一流の漫画家が、一流の哲学を披露してくれることも珍しくない。おそらく、それが物事を究めるってことなんだろう...

さて、ここでは、人間味あふれた独裁者像を披露してくれる。人間味あふれた... というのは、人間の本質を暴いたという意味で、まさに人間そのものを描ききった作品と言えよう。どんな環境が、こんな人間に仕立てるのか。どんな過程を踏まえれば、こんな人間が出来上がるのか。全世界を熱狂の渦に巻き込み、史上稀な独裁者となったアドルフ・ヒトラーという人物。彼を怪物のように言う人もいるが、数千年の歴史を振り返れば、これが特異な事例とは言えまい。
尚、この作品は、1971年に発表されたものらしい。今でこそ映画や小説などで様々な角度からヒトラー像を思い描くことができるが、既にこの時代に...
取り巻き連中では、空軍だけでイギリスを屈服させてみせると豪語するお調子者ゲーリング、情報を文学で操る紳士づらゲッペルス、怪しい雰囲気を醸し出すオカルト・ヒムラー、いつも寄り添っては独裁者を心地よくさせる妖怪ボルマン、こうした連中に囲まれながらも、唯一まともそうに見える親友シュペーア... といった配置もなかなか。執筆の際に参照した文献も付録され、かなり深く調べた様子が伺える...

「蒼褪(あおざ)めたる馬あり、それに乗る者の名を死という...」

世界恐慌に始まる大失業時代。大衆ってやつは、どん底にあれば、なんでもいいから希望めいたものに群がる。ヒトラーがまず手をつけたことは、大規模な公共事業のオンパレード。つまり、大衆に無理やり仕事を与えることであった。アウトバーン、鉄道、運河などを次々に建設。古代エジプト王のピラミッド建設の如く。さらに、自動車税の撤廃で夢の自動車を庶民のものに。こうした経済政策は、ケインズ理論の最初の実践と評されることもあるが、超ハイパーインフレの中でやれることといえば、これぐらいしかなかったのかもしれん。荒療治を施すしか。
いずれにせよ、資本主義国家群があえぐ中で、あっさりと経済問題を解決して見せた。しかし、この公共事業には軍備拡張も含まれていた。第一次大戦敗戦後、ヴェルサイユ体制で屈辱を受けていた国民の誇りを取り戻し、急激に国粋主義へと傾倒させていく。ヒトラーの経済政策は、民族主義とセットになっていたとさ...
「われわれの運動は、新しい国民を作る新しい運動なのだ!」

人間ってやつは、人種に限らず差別が大好きときた。人間社会という巨大な集団の中でしか生きられない個人は、自己の存在位置を確認しながら生きている。自己の優位性を保とうと必死に生きている。自己の存在価値を大きく見せようともがきながら生きている。虚栄心のない人間なんて、この世にいるだろうか。
誇りを失った国民に民族優越説を唱えれば、心地よく響く。集団的な不安を煽り、共通の敵をでっちあげ、恐怖下で批判者に黙認させ、卑屈さをも利用する。
こうしたやり方は、政治に限らずあらゆる商業戦略で有効だ。それは、人間の深層心理に訴えるからである。
そして、政治戦略では、この心理学に正義という観念を結びつける。国粋主義と民族主義は、すこぶる相性がいい。宗教心ってやつは、同士に対しては自愛の念にあふれても、異教徒に対しては容赦しない。いやむしろ、神の御名において残虐行為ですら愉快にやる。集団心理に正義が後ろ盾になると実に恐ろしい。全権委任法なんて、どう見てもおかしな法律を、なぜ大衆が許したのか?そこには巧みな心理学が働いていたとさ...
「民衆の中から出てきた独裁者のみが国家を救うのだ!」

言い換えれば、国民経済がどん底でなければ... 大敗北で国民の誇りがズタボロにされていなければ...こんな狂人は、ただの狂人で片付けられていたのかもしれない。まさに大衆がつくりあげた巨像(虚像)というわけか。ファシズムってやつは、ファッショナブルと同じ語源を持ち、大衆とすこぶる相性がいいと見える。21世紀の今でも、ヒトラー信奉者は少なくない。このような独裁者の出現は、自由主義や民主主義において、いかに平時の備えが大事であるかを突きつけている。平時でこそ、このような集団暴走を抑止するための法の整備が重要であることを...

では、ヒトラー個人に目を向けるとどうであろう。自ら芸術的音楽家と名乗るも落第。芸術的建築家と名乗るも同じこと。劣等感を人のせいにし、大学のせいにし、社会のせいにし、これを克服するには人々を支配しなければならないと、政治家になることを決意する。
しかも、ただの政治家ではない。芸術的政治家を名乗り、千年王国という国家ビジョンを打ち立てる。癇癪、女性コンプレックス、暴力的思考、こうした性癖の持ち主が正義に取り憑かれると、もう手がつけられない。自我を肥大化させ、誇大妄想に取り憑かれていったとさ...
「神の摂理によって選ばれた天才は、たとえ始めは理解されず、その価値を認められなくとも、やがて偉大な国民を導いてさまざまな困難を克服し、さらに大いなる偉大性をかく得させるだろう!」

一方、大衆は、経済政策で大成功を収めれば、その功績を讃えて多少のことには目をつぶる。いや、残虐行為ですら見ないようにする。そんな集団心理を見透かしたかのように、ポピュリズム政治を利用する。大衆を操る演説の極意は、最先端のプレゼンテーション技術にも通じる。まさに集団心理学の実践と言えよう。
人間ってやつは、絶大な権力を握れば、神にでもなった気分になる。成功すれば手がつけられないのはもとより、追い詰められると今度は独善的な行動に突っ走る。ロケットやら、列車砲やら、重戦車やら、大型兵器に幻想を抱き、まったく合理性に欠いた戦略を正当化し、逆らう者は片っ端から抹殺。現在でも、気に入らない者を公開処刑や拷問に晒すケースは珍しくない。これが独裁心理学ってやつか。
そして終いには、焦土作戦!独善的な人間ほど道連れがないと寂しいものらしい。千年王国という幻想は、一度既存物を破壊し尽くし、すべてをチャラにした上でしか構築できないということか...
「もしも人生が幻滅しかもたらさないとすれば、人生なんぞ生きるに価しない。死はむしろ救いだ!」

2020-06-21

"超越論的方法論の理念 第六デカルト的省察" E. Husserl & E. Fink 著

哲学の書に触れれば、「超越論」という用語を見かける。認識論に発する語のようだ。哲学とは、認識論の構築にほかならず、認識論なくして哲学は成り立たない。カントは、如何にして先天的な認識が可能であるかを問い、認識能力の果てにアプリオリという概念を見い出した。時間と空間の二つだけが、これに属す真に純粋な認識としたのである。それは、自己存在と直結するもので、その原因を追求しようものなら人間の能力を超越することになる。ニーチェが唱えた永劫回帰もまた、超人的な能力を要請してくる。
こうして哲学者たちは、超越的な方法を模索しながら、理性の原理をどう導くか、といったことを問うてきた。認識能力の限界に挑めば、言語能力の限界にぶち当たり、あらゆる哲学用語が迷走を始める。彼らは、いったい何を超越しようというのか。自己を克服し、自我を超越すれば、それで人間性を救えるというのか。そもそも苦悩とは、自己を認識し、自我を目覚めさせることに発する。無我ほど心地よい境地はあるまいに...

ここでの超越論は、フッサールの名を目にすれば、それが現象学におけるものであることは想像に易い。70歳のエトムント・フッサールは晩年の力を振り絞り、今一度、改訂出版に挑んだという。46歳年下のオイゲン・フィンクを共著者に従えて...
フッサールのデカルト的省察は、「第一省察」から改訂を重ね、フィンクの「第六省察」で完成を見たのかは知らんが、フィンクは単なる伝言役などではなく、批判的な問題提起も加えている。
ちなみに、フッサールは、ハイデガーに「君と私が現象学なのだ」としばしば語ったそうな。ハイデガーもまた彼の弟子となるが、のちに仮借ない批判を展開した。アリストテレスが師プラトンに反論したように。哲学者という人種は、何よりも真理を友とするらしい...

さて、現象といえば、観察能力を問うことになるが、物事を正しく観ることの難しさは科学が教えている。ニュートンは大作「プリンキピア」の中で「我、仮説を立てず」と宣言したが、人間の思考過程において仮説を排除することは可能であろうか。客観とは、主観の試行錯誤の末に見えてくるもの。仮説とは、その試行錯誤そのもの。主観を存分に解放しなければ、純粋な思考は見えてこない。脂ぎった思考を削ぎ落とし、その先に見えてくるものとは。徹底的に自己を追求し、究極の自我を探し求め、その先に見えてくるものとは...
そして、ついに裏返ってしまう。利己主義とは真逆の自己主義、しかも、利他主義や愛他主義とも違う何か、それが純粋客観というやつか...

本書には、馴染みのない二つの用語がちりばめられる。
まず、「エポケー」ってなんだ?古代ギリシアの懐疑論者たちが、独断的判断を批判する語として用いたらしい。存在するという現象は、自己の主観がその存在を信じているだけのことであって、まずは判断するな!と。
次に、「現象学的還元」ってなんだ?論理的に分析し、その裏付けがあって初めてその存在を認めよ!と。分析するということは、既にその存在を仮定している。それは仮の存在認識であって、いわば、仮説である。
そして、こいつらが、省察とどう結びつくというのか。省察とは、経験に対する態度であり、つまりは自己分析。自己、すなわち自我ってやつは、反省の果てに見えてくるものというわけか。
そして、ついに裏返ってしまう。主観の客観化、すなわち、自我の客観化とは、省察を超越した境地を言うのであろうか。この酔いどれ天の邪鬼には、現象学がまるで主体を放棄した幽体離脱論に見えてくるのであった...

「現象学的還元は... きわめて動的な構造をもつ反省的エポケーにおいて形成される、すなわち、徹底した自己省察をつうじて変容しつつ、人間は自己自身と世界内での自己の自然的に人間的な存在とを超越論的観視者を生み出すことによってのりこえるのであり、そして、この超越論的観視者自身は世界信憑(Weltglauben)に関与せずに、つまり世界を経験する人間的自我の存在定立に関与せずに、むしろ世界信憑を注視し、しかも世界信憑的な生の世界性格、すなわち人間世の背後にまで問い通り、次ぎにこの生を人間統覚によって覆い隠された超越論的構成的な世界経験へと還元する。」

なんじゃ、こりゃ!狂ったかフッサール...
「世界信憑」ってなんだ?純粋客観の類いか。あるいは、究極の幽体離脱か。哲学ってやつは、触れれば触れるほど頭が混乱してくる。バラバラな草稿の群れ...ここに、一貫性はあるのか?
しかしながら、この言葉の渦は、心地よい混乱である。真理ってやつは、分かりにくいぐらいでいい。すこし混乱して、なが~く混乱して... 退屈病患者の処方箋にいい。真理を覗くことによって自己否定に陥り、それでもなお、愉快でいられるとしたら、真理の力は偉大となろう。
フッサールによると、「哲学する」とは「現象学する」ということらしい。精神の正体ですらまともに説明できないのに、自己把握なんてとんでもない。結局、人間なんてものは、都合よく言語を編み出し、自由気ままに言葉遊びをする、ただそれだけのことやもしれん。言語という手段をもって、自我を肥大化させるだけの。
そして、ついに裏返ってしまう。ネガティブ思考からポジティブ思考へ。だから、もっと混乱させて。おいら、M だし...
「現象学的営為は観念論でも実在論でもなければ、その他なんらかの立場をとる教説でもなく、あらゆる人間的教説よりも崇高な絶対者の自己把握なのである。」

2020-06-14

"現象学と人間性の危機" E. Husserl & A. Tymieniecka 著

「現象学」といっても、捉え方は様々。それだけ抽象度が高いということだろう。哲学用語とは、そうしたもの。真理ってやつには、様々な解釈を与える余地がある。真理ってやつには、いつまでも自由でいて欲しい。そもそも、真理なんてものが本当に存在するかも知らんし、人間が退屈病を紛らわせるために編み出した概念やもしれん...
この用語を文字通りに捉えれば、見たまんまといった皮相的な見解に陥り、物事の本質を捉えるという主旨に反する。だからといって深読みすれば、今度は客観性を見失う。人間が思考するということは、そこに主観性が介在することを意味する。主観には思考の深さを牽引する役割があり、客観には思考を整理して感性と知性を均衡させる役割がある。この両面を凌駕することは至難の業。だから面白い!
「哲学にはただ、普遍的で批判的な態度をとることの出来る能力がありさえすればよい...」

尚、本書には、エトムント・フッサール著「西欧的人間性の危機と哲学」と、その助手アンナ=テレサ・ティミエニエツカ著「現象学と現代西欧思潮」の二つの論文が掲載される。

客観性によって担保される学問といえば、数学であろう。どんな学問分野であれ、客観性を重視する立場であることに違いはないが、客観性の水準となると数学は他を寄せつけない。そのために、しばしば無味乾燥な学問と揶揄される。
フッサールが生きた時代は、現代数学の父と呼ばれるヒルベルトが 23 もの未解決問題を提示した時期と重なる。それは、あらゆる物理現象は科学で説明できると豪語された時代。ヘーゲルは、すでに精神現象を弁証法的に捉えていたが、さらに科学や数学で裏付けられれば強固な理論となる。フッサールは、より科学的に、より数学的に基礎づけようとしたようである。
しかしながら、科学界は、あらゆる物質の根本をなす量子系の中に不確定な特性があることを認め、数学界は、自然数の理論の中に不完全な性質があることを証明してしまった。これに呼応するかのように、フッサールは人間性の危機を唱えているように映る。彼は、現象学をもって、近代科学から人間性を救おうとしたのであろうか...
「精神科学の研究者は自然主義に目をくらまされて、普遍的で純粋な精神科学の問いを立てて、精神の無制約的普遍性に従い、種々の原理や法則を追求する純粋精神の本質論を問うということを、全く放棄してしまった...」

とはいえ、一つの学問分野に、人類を救え!などとふっかけるのもどうであろう。フッサールは、学問の超党派でも目論んだのであろうか。科学を中心に据えながら。
確かに、科学には、その精神を根本から支える信条に、古代から受け継がれる観察の哲学がある。まずは観ること。それは、先入観や形而上学的な判断を排除する立場であり、21世紀の科学者とて、その野望は捨てきれない。現象を正しく観ることの難しさを、客観性の水準の高い学問ほどよく理解していると見える。現象は、正しく観察しなければ、適格な判断ができない。それは、宇宙がその住人に課した永遠のテーマにも思える。それで、単なる物質を知的生命体へと進化させようというのか。神の思惑は、まったく読めん...
「現象学は、現象の構造の直接的な分析にひたすら専念することによって、説明上の仮説を立てることを不用にし、多くの分野で古い方法が自称していた以上に、複雑なことを解明したのである。(略)現象学的アプローチは自己解明的であり、従って、直接的な洞察による明証性によって、仮説因果的アプローチは除去されるのである。」

尚、本書には、現象学の理念めいたものも語られるが、著作「超越論的方法論の理念」で詳しく扱っているので、次回触れるとしよう...