2014-12-28

"無形化世界の力学と戦略(上/下)" 長沼伸一郎 著

本棚を掘り起こしていると、とんと覚えのないヤツを見つけた。「物理数学の直観的方法」の著者が、人間社会の力学をミリタリーバランスの観点から定量的に語ろうというのである。我が家で数十ページほど立ち読みしてみると、これがなかなか!購入履歴を遡ると、およそ十年前に買ったことになっている。記憶力がないということが、いかに幸せであるか...
そういえば、政治家の資質には、理系出身者が相応しいと考えていた時期があった。厳密には、自然学者と言った方がいい。しかーし、未納三兄弟!などと発言して墓穴を掘った某党首が理学部出身と知るや、そんな考えをあっさりと捨てた。おまけに、その御仁は首相になった挙句、原発事故でせっかく放射能予測システムSPEEDIがありながら情報を開示しなかった。環境汚染を語る前に科学が政治に汚染されているとは...
プラトンは政治を哲学者の手に委ねることを理想とした。真理の探求に、理系も、文系も、はたまた体育会系もあるまい。そして、夜の社交場ではセクシー系も、癒し系も、はたまたハッスル系も捨てがたい...

価値の無形化は、貨幣の発明から始まった。能力は賃金で査定され、信用は利息で精算され、欲望はインフレ率で測られ、希望は株式市場に委ねられ、命ですら貨幣換算される。さらに、電子マネーや暗号通貨の登場により、貨幣自体が曖昧な存在となった。精神の持ち主とは、奇妙なものよ。精神自身の実体を説明できなければ、どこにでも都合よく代替価値を見出すことができるのだから...
人間社会における競争原理は、価値の創出合戦によって繰り広げられる。そう、価値こそがパワーの源泉なのだ。古代、人間の価値は、腕力、脚力、格闘力で測られた。それは、オリュンピア祭典競技の種目に見てとれる。国力では武力が指標とされてきた。やがて、これらのパワーは機動性や柔軟性に呑み込まれていき、腕力は智力に、武力は戦術や戦略にとって代わる。重装歩兵が主力であった時代、アレキサンダー大王は騎兵の機動力に注目してアケメネス帝国を制した。フリードリヒ大王は奇襲をもってオーストリア軍を制した。第二次大戦でドイツの用いた電撃戦は、機甲部隊と航空部隊との連携によって高い機動性を発揮した。
一方、大日本帝国は自ら空母の機動性を証明しながら、大艦巨砲主義に固執した。太平洋戦争の敗因では、索敵の不徹底や暗号神話に陥った硬直性など、情報戦略のお粗末さがよく指摘される。それも一因ではあるが、本質的な問題ではあるまい。近代戦争はそのまま消耗戦と化す。ウィリアム・ペティの政治算術から受け継がれる国力試算は、既に武力から工業力へ移っていた。工業資本の付加価値性と物量こそが、武力の機動性と柔軟性をもたらしたのである。
では、現在はどうであろうか... 戦後、国力の指標は経済力に向けられた。経済が整わないうちは、いくら軍事力を強化しても持続できない。さらに、経済循環を円滑にするために、購買意欲を誘う宣伝力が注目される。現在では、プレゼン力と呼ばれるやつだ。宣伝力が武力として有効であることに最も早く気づいた戦略家は、ヒトラーかもしれない。宣伝相という要のポストを設置し、映画製作やらで見事に正義を装った。
もはや無形化は単なるアナロジーの域を脱し、情報が物質に替わるという文明上の問題を抱えている。静かに語られる真理よりも、大声で誇張し、分かりやすい言葉で反復効果を狙う方が世論を席巻できるとすれば、人間社会はますますロストワールド化していくであろう。とはいえ、悲観論ばかりでもない。ネット社会では、一権力によって情報操作が思うようにならなくなった。それは、ある意味健全かもしれん...

本書は、こうした力関係を、陸軍、空軍、海軍の性質に分類しながら、経済を陸軍力に、メディアを空軍力に、研究機関の知的影響を海軍力に結びつけて考察している。そして、米ソ冷戦構造を無形化された準三次大戦に位置づけ、第一大戦や第二次大戦との類似性を分析している。
注目したいのは、「運動量保存の法則」「最小語数の原理」「パターン再現仮説」の三つの概念を柱にしていること。二つの大戦が軍備競争によって約5年かかったのに対し、冷戦は資本主義と共産主義の経済対立によって50年を要した。一般的に軍事予算は、GDP比のほぼ1割とされる。残りを経済力で換算すれば、経済部門は軍事部門に比べて鈍速だが、その分体重が重く、比率は10倍で等しくなる。
また、マスコミ屋と空爆屋との類似性から「情報制空権」の重要性を物語る。
「ある概念は、それがたった一語で内容を表現できる場合にのみ、一般社会に爆発的に流布する。そしてそれは表現に2語以上を要する複雑な概念を常に駆逐する。」
確かに、機動性や柔軟性においては、軍事力よりも経済力が、経済力よりも情報力の方が優っている。メディアに至っては、むしろ流動性と言った方がいい。速度の影響力は絶大であり、ニュートン力学においても質量と速度の積によってパワーが定義される。現実に、経営戦略では意思決定能力が問われ、資源の集中と敏速な行動こそが成功の鍵を握る。
「経済的世界においても、その運動を本質的に決定している抽象的要素の相対的な関係が同じである限り、対応する軍事的世界において起こったのと全く同じ力学によって必ず支配され、相互の動きは基本的に同じパターンに従う。」
しかしながら、最も重要な要素に「知的制海権」の概念を持ち出している。
「現状を見る限りでは、インターネットの興隆に代表されるように、"様々な垣根を取り払って文明を速くする"テクノロジーによって世界統合に行き着く道が圧倒的に優位にあり、対抗馬にはもはや安楽死以外の選択はあり得ないかのように見える。しかしここで一つ考慮すべきことがあり、それは"伝統的な垣根を残して文明を遅くする"側に人類はどの程度の頭脳を投入してきたのだろうかということである。」
流動性の高さが機動性を発揮するのも事実だが、流動性が高すぎると、自身の中に力学を構築する前に流動体の奴隷と化す。手段にばかり目を奪われ、地に足がつかない戦略が横行するのは、まさにそういう状態であろう。いくら経済力や情報力を強化したところで、真の底力は深遠な道理を踏まえた知的能力に辿り着くはずだ。
ただ神の目には、戦争も経済も、はたまた超新星やブラックホールも、同じ物理現象に映っているのかもしれん。だから野放しにしているのか?戦争にしても、経済にしても、人間社会の手段に過ぎないと。では、どちらを選択するか?それは人類の叡智にかかっているとするしかあるまい...

1. 核兵器と精神力学
機動性や柔軟性を唱えたところで、それは社会に適合する上での相対的な特徴でしかない。いくら優れた特徴を備えていても、時代に受け入れられなければ、変質扱いされる。
核兵器は物理的に絶大な破壊力を持つが、使用するとなると、これほど硬直した融通のきかない兵器はない。核はもはや人間社会における相対的な武器を超越し、絶対的な破壊力の前では戦争の抑止力というより、人類滅亡のリスクとして機能する。この抑止力が、5年の軍事戦争を50年の経済戦争へ転嫁させた。事実上使用できなければ、経済的負担となるだけ。にもかかわらず、核のパワーに憑かれた政治指導者はごまんといる。自己の悪魔を制するには、悪魔に縋るしかないってか...
権力を暴力と置き換えれば、モンテスキュー式の暴力分立の原理がここにある。冷戦時代、核兵器の存在を意識しながら、戦車や戦闘機による小規模の戦闘が水面下で生じてきた。そして、長い時間を経て小さなエネルギーが蓄積し、巨大帝国を自然に崩壊させた。幸いにも人類滅亡の危機は避けられたわけだ。アルキメデスが言った... 我に支点を与えれば、地球を動かして見せよう!... というのは本当かもしれん。
本書は「通常兵器の相対的核兵器化」という考えを持ちだしている。核兵器の代理兵器と言おうか。そして、その延長上に「経済力の相対的軍事力化」という概念を持ち出す。
戦争を国家権力の及ぶ国境線を動かす仕事量とするならば、経済はグローバル化によって国境線を曖昧にする仕事量とすることはできそうである。平和時の交通事故の死者、自殺者、災害死などの社会的リスクは、死者の観点からすると戦争時と原理的には同じかもしれない。
「かつて平和を語っていた者が今や戦争を語り、かつて戦争を語っていた者が平和を語り始めたという立場の皮肉な逆転はこのような理由による。」
また、冷戦構造における西側勝利の最大要因は、半導体技術の登場だとしている。ハイテクが庶民に浸透し、豊かな生活をもたらした。東西の生活水準の格差は、民衆の大量流出を招いた。いまや、半導体業界の動向が、経済動向を判断する上で重要なファクタとなっている。しかし、一般報道では携帯端末といった身近なハイテク商品が話題になるだけ。所詮、半導体は部品よ!開発現場でも半導体技術者は粗末に扱われている... などと自分の立場を愚痴るのもなんだが... 所詮、人間は部品よ!
しかしながら、いくら核兵器を多様な兵器で置き換え、さらに軍事力を経済力に代替して、機動性や柔軟性をもって制圧しようとも、絶対的な自然力には到底敵わない。人間のできることといえば、せいぜいリスクを回避するぐらいなもの。いくらテクノロジーを進化させようとも、人間の頭脳の中で働くソフトウェアはほとんど変化しないし、精神力学はあまり変わらんようだ...

2. 情報制空権と運動量保存則の罠
空軍の威力は絶大であり、味方の犠牲を最小限にできるために、空軍至上主義に陥りやすい。だが、地上制圧が主目的であり、空爆しかできない軍隊では都合が悪かろう。むしろ宗教力の方が影響が強そうだ。戦争状態で地上を制圧する役割が陸軍力だとすれば、非戦争状態では経済力や文化力ということになる。ただし、ここで言う経済力や文化力は、政治的に仕向けられた思惑とは一線を画す。空爆的な威力を発揮するメディアの誇張が事実を伴わなければ、空回りするのも道理。情報化社会が高度化するほど、冷笑や虚無主義へ誘導するというのは本当かもしれん...
ちなみに、トーマス・ジェファーソンの言葉に、こんなものがあるそうな。
「良い政府が存在するが良い新聞が存在しない世界よりも、良い新聞だけが存在して良い政府が存在しない世界のほうが良い。」
人間には自分の意見と合う者同士で群れる習性があり、報道屋だけに中立の立場を課しても無理というもの。歴史を振り返れば、新聞が戦争を煽ってきた例は実に多い。そして敗戦が濃厚になると、平和主義者に豹変して戦犯探しに明け暮れる。英雄に持ち上げながら、一夜にして国賊扱い。専門家でも意見が分かれるところを、メディアは都合の良い立場しか取り上げない。著名人に罠をしかけ、スキャンダラスな事を言わせて注目を集めようとするのも彼らの常套手段で、勝手に人物像をでっちあげて抹殺にかかる。実際、マスコミ手法にはガスライティング的なものも少なくない。空爆で攻撃するパイロットは海兵隊などと違い、殺す相手を直接見なくて済む。だから、残虐性に疎いのかは知らん。
「ある事業がメディアの支援を受けながら行われる場合、事業完成までに要する時間の 1/10 の時間でメディアはそれを陳腐化させ、精神的な力を奪う。これが運動量法則の罠である。」

3. 知的制海権
伝統的な海軍の任務は、制海権の確保、パワープロジェクション(戦力投射)、プレゼンス、シーレーンの防衛といったところであろうか。総合的な戦略では、海を制して、いかに陸上に戦力を投射するかが問われ、その役割は空母の登場で、より直接的となった。経済的に言えば、企業の研究部門が新技術を開発して市場の膠着状態を一変することができれば、市場に投射できる。
政策で大きな役割を担う研究部門といえば、シンクタンク系である。ただ残念なことに、国家レベルでシンクタンクを機能させるアメリカに対して、日本では政府系シンクタンクが弱点とされる。かつては、総合商社や金融機関といった民間のシンクタンクがその役割を担い、官僚集団がそれらの機能を補ってきた。代替のシンクタンク機関を構築せずに官僚支配を弱めれば、もはや国家の頭脳は麻痺するだろう。そうした構造が官僚支配を助長する結果を招いてきたわけだが...
経済活動は多様化し社会構造も複雑化していく中で、バラバラの行動パターンによって、ゲリラ戦の様相を呈していく。手段が多様化する中で合理性を求めるならば、分進合撃といった戦略が必要であるが、国家レベルの知的戦略がないために、民間の研究部門が危機感を募らせる一方で、公共の研究機関は予算獲得に奔走する始末。
また、天然資源の乏しい我が国にとって、シーレーンの防衛は死活問題となる。それは、そのまま技術のシーレーンと結びつき、教育機関や研究機関が知識の補給線となる。かつては、技術力に直結する理工系が重要視された。現在では、仮想価値を煽ることで経済循環を促すことができる金融の異常発達が、原理的にそれを補っている。だがそれも、砂上の楼閣であることは否めない。MBAの取得に躍起になるような風潮では持続性に欠ける。金儲けに直結する知識ばかりに偏れば、知的柔軟性を失い、やがて知識の大艦巨砲主義に成り下がるであろう。
多様性と柔軟性は相性がよく、兵器と同様、知識も多様性によって相乗効果が期待できる。しかしながら、人間には目先の勢いに惑わされる習性がある。太平洋戦争時代、海軍の外交的見解よりも陸軍の精神論の方が、一般庶民には分かりやすかった。ドイツ陸軍の勢いに惑わされて、アメリカの工業力という潜在的な能力が見えなかった。現在でも、政治的リスクを無視して新興国の勢いに釣られて進出するなどの経済活動が旺盛である。しかも、研究部門を放棄してまで売上至上主義に突っ走った企業も少なくない。バブルの後遺症かは知らんが。バブル景気とは、高度成長時代に蓄積された平和ボケという堕落エネルギーがもたらした結果と見ることもできよう。
本書は、余剰労働をサービス業にばかり転化すれば頭でっかちな経済システムとなり、「万人が万人の召使になる」社会となり、さらに競争が激化すれば「万人が万人の奴隷になる」社会に堕落する、と警鐘を鳴らす。サービス業の概念も随分と多様化しているので、そこに知的部門を見出すこともできようが。
知的資源は目に見えにくいだけに、これを主軸とした国家戦略を練ることは難しく、よほどの計画性を要する。政治ジャーナリズムは、政治家の無力や無能を言い立て、政治不信こそが社会の閉塞状態の根源であると非難するが、それは本質的な問題ではなさそうである。情報制空権や知的制海権を確保しようという国家戦略すら存在しないのだから...
「政治家たちは情報制空権も知的制海権もない状態で、国旗の下の防御拠点に立てこもる以上の選択が最初から与えられていない。それゆえ政治家のどんな交代劇も、せいぜいマジノ線の防衛指揮官に誰がなるかということ以上の意味をもともと持ち得ないことは明らかなのであり、大衆がそれに無関心になるのはむしろ当然であろう。」

4. ハートランドと地政学
伝統的な戦術や戦略における理論において、地理的優位性というものがあり、戦略的要地をいかに制すかが勝敗の鍵となる。地政学の結論を大雑把に言えば、こういうこと。
「東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を制する。」
ハートランドとは、大陸の心臓部という意味で、ハルフォード・マッキンダー著「デモクラシーの理想と現実」の中で、ユーラシア大陸の中核地域を中軸地帯と呼んだことに始まる。ヨーロッパを含むユーラシア大陸が地上の陸地の大部分を占めることから、これが世界島というわけだ。
ただ世界島の中で、戦略的要地は時代によって変化してきた。例えば、ローマ帝国の海軍力の低下を、閉鎖海戦略にあるとしている。地中海がローマ陸軍に制圧され、閉鎖海となったことで、コップの中の海軍と化し衰退したという。陸軍が強すぎても、海軍が強すぎても、はたまた空軍が強すぎても、うまくいかない。古くからヨーロッパとアジアの主導権争いでバルカン半島が要地とされ、第二次大戦では資源要地をめぐる戦いとなった。つまり、兵力の機動における地理的要地から、強力な武器のエネルギー源となる資源的要地へと移行してきたわけだが、無形化社会では、柔軟性と寛容性を持った知的要地へと移行していくのであろう。
従来の戦略には、「戦略的影響力は距離の2乗に反比例して減衰してゆく」という原則があるという。戦略的要地の概念も、距離の概念も、根本的に見直す必要がありそうだ。文化の中心地という意味ではあまり変わらないかもしれないが、流通経路、情報経路といったものが要地となる。実際、人間の集約力ではメガターミナル構想、物資の集約力ではメガフロート構想、資金の集約力ではメガバンク構想、情報の集約力ではビッグデータ構想、生産の集約力では多国籍企業化といった戦略がある。
日本列島は、太平洋上の航路において地理的条件は良い。だが同時に、中途半端な空港や港湾建設が乱立すれば、ガラパゴス化しやすいという脆さも抱えている。なにも海上封鎖などに頼らなくても、一国をガラパゴス化することは可能なのだ。にもかかわらず、政治屋どもは相変わらず地方へに利益供与に執心し、いまだ領地の幻想に憑かれている。おまけに、情報封鎖がお好きときた。冷戦構造が終結し、大国の影響力が弱まりつつある時代に、寄りかかり外交では危険である。既に準四次大戦が始まっているというのに...
「日本側が認識すべき厳しい現実は次のことである。... 現代世界では情報制空権さえもっていれば、"真実(少なくとも政治レベル)"は作れるのであり、そして中華文明圏の上空において、日本側が情報制空権を握れる見込みはほとんどないということである。」
もはや唯一の戦略は、単なる民主主義のレベルを超え、普遍的な理念を持つことしかあるまい。しかしながら、人間社会には陸軍的な論理に引きずられやすい傾向がある。愛国心ってやつは陶酔しやすいだけに歪みやすい。数千年に渡って変えられなかった意識を無形化世界の力学によって変えることは、突然変異でも起こらない限り難しかろう...

2014-12-21

"ラファエロ" 若桑みどり 著

「ラファエロには、ただ一つの傑作というものはない。彼のどの作品にも、"刹那よ、とどまれ!"ということはできない。彼は水であり、河である。それも、澄んだ河である。まわりのものを誰よりもみごとに映して見せる、鏡のごとき河である。彼が本当に持っていたもの、それは透明さなのだ。それは、自己の色を持たないということを意味している。」
ラファエロは、盛期ルネサンスの三大巨匠の中でも地味な存在、いや、他の二人があまりにも強烈なキャラクターであったと言った方がいい。レオナルドは科学者、哲学者であり、その万能者ぶりは群を抜いている。おまけに、同性愛の容疑をかけられた。ミケランジェロは、神がかりな新プラトン主義者であった。
レオナルドにとって、自然界は既に秩序が失われ、怪奇と謎の得体の知れぬ創造と破壊を繰り返す、魔術的な力の場であったという。より人間と神との対立を敏感に感じ取ったミケランジェロは、ルター派のような神による救済を信じることができず、烈しく苦しみ抜いた生涯を送ったという。
対して、ラファエロは、それほど深く思い悩む人ではなかったようである。その思想は大衆性に根ざしたもので、意図的に宗教的な権威を批判したのか?あるいは、素朴な感情がゆえに崇高な思想を排除したのか?本書は、レオナルドとミケランジェロが改革家ならば、ラファエロは神のごとき剽窃家であったとしている。

芸術家は、革命家になるか、剽窃家になるかのどちらかだ。...ポール・ゴーギャン

しかしながら、バロック期に宗教の大衆化の波が訪れると、むしろラファエロ芸術が権威と結びつく。16世紀半ば、反宗教改革のカトリック教は大衆性に着目し、ミケランジェロを避難してラファエロを持ち上げた。崇高で重々しい歴史を説くよりも、分かりやすく、親しみやすく、面白がらせる方が洗脳しやすい。そして、ロマン主義の時代になると、古き様式の権化とされ、激しい批判に晒される。ジョルジョ・ヴァザーリはこう語ったという。
「私はかく思う。ラファエロはミケランジェロに比肩しようとしたが彼に近づくことはできなかった。そこで彼はこの巨匠の手法を真似ることを止め、別の分野で、カトリック的な名声を得ることにした。たとえ誰であるにせよ、我々の世代の人間が、ミケランジェロの作品のみを研究しようとすれば、我々は彼の極度の完璧さにはけっして至りつくことはできない。... だが、カトリックの教えと、他の分野とをめざせば、自分たちにもこの世に役立つことができよう。」

1. 異色の肖像画
肖像画の技術において、レオナルドの「モナ・リザ」がバイブル的な存在であったことは確かであろう。それが男性像であっても、人物の角度といい、色彩の用い方といい、「アーニョロ・ドーニの像」、「一角獣と貴婦人」、「唖の女」、「バルダッサーレ・カスティリオーネの像」などの作品に見て取れる。
しかしながら、「ラファエロとその友人の像」は、やや異色である。晩年によく見られる様式だそうで、古典主義の原理からまったく外れているという。37歳という若さで死に、晩年と呼ぶのも、ちと違和感があるが。
非常に強い明暗と極端な短縮法、おまけに偏った配置は、確かにレオナルド式とは程遠い。画面の大部分を占める武人のポーズは、上半身をひねり、差し出された手が妙に強調されている。光のあたり具合では、後ろで控えているラファエロの肖像が浮き出されるような仕掛け。一瞬、友人が主役かと思いきや、じっくり眺めると、やはり主役はラファエロ自身か。遠近法と光源効果を巧みに組み合わせた手法を魅せつける。

2. 古典主義とキリスト教文化の不完全な統一
レオナルドとミケランジェロは、古典主義とキリスト教文化をルネサンスにおいて見事に統一した。対して、ラファエロには、その統一性において不完全だという酷評がある。
その対象とされる作品が「墓へと運ばれるキリスト」。フィレンツェ時代の最終作品で、まだ未熟だったということか。本書は、その意味を擁護している。この作品は、息子を殺されたアタランタ・バリオーニの依頼によるもので、死者を運ぶ若者と嘆くマグダラのマリアに、母とその子の肖像を描かなければならなかったという。主要人物は、バリオーニ家の人々というわけだ。重厚な歴史画に個人の肖像画を埋め込むという構想が、なんともアンバランスな感じを与える。
しかしながら、神話の世界において、優美な女神の裸体像などは完成度が高い。「三美神」では、互いに背く貞節と甘美を結び、そこに我を配置した三位一体図は、宗教画の域を脱しており、高尚さや崇高さを失いつつも、節約簡素な古典的イメージを醸し出す。背く二つの徳の仲裁に入れば、二倍の徳をともなって、我に返るとでも言いたげな...
「アダムとエヴァ」は、ユリウス2世の依頼で「著名の間」の天井の区画に描かれた作品で、キリストによる贖罪の原因となった人間の祖先の原罪を表しているのだとか。
この手の作品は、芸術性が高いのかもしれないが、裸体の不自然さと、無理なポーズが理解不能。完成度において一貫性を欠いているのは、パトロンの思惑次第というところもありそうか...
一方で、聖母の特徴は、一貫性を保っている感がある。「ひわの聖母」「緑野の聖母」「カニーニの聖家族」「フォリーニョの聖母」などは、連作として眺めると聖母へ昇華していく様子が伺える。

3. 神学的ヒエラルキー
「アテナイの学堂」は、階段を使った見事な遠近法の中に古代ギリシアの偉人たちを勢揃いさせる。階段は、形而上から形而下に渡る学問の格付けであろうか... といったことは前記事で触れた。
これと似たような主題に「聖体の講義」という作品がある。「講義」というネーミングはヴァザーリの記述から誤って伝えられ、この構図に相応しくないと指摘している。本来、教会または秘蹟のトリオンフォ(勝利)と題されるべきであると。画面の中心は、輝く聖体盒に入った聖餅で遠近法的中心点になっていて、同時に、天と地、霊と肉との奇蹟的な合体である秘蹟の意味が、遠近消失点と合致しているという。そこに三位一体のシンボルが加わり、縦軸に天と地の人々の半円状の環が取り巻いているという構想だとか。地上の人物がだいたい実在人物の肖像画とされるのも、「アテナイの学堂」と同じ趣向か。ルネサンス期の人物像を、天球に配置して崇めようとでも...
また、「パルナソス」では、9人のムーサイ(詩女神)に囲まれて、丘の頂で竪琴を奏でるアポロンを中心に、古今の詩人たちや神々が並ぶ。左側には盲目のホメロスとかたわらにダンテ、右側にはバルダッサーレ・カスティリオーネとも、ミケランジェロとも言われる人物。9人のムーサイに支配される9つの詩の分類に従って、新旧の詩人が選ばれているという。古代の詩人に、ルネサンス期の人文主義者たちの肖像を置いて、古代文芸の復活をイメージしていると。
とはいえ、「聖体の講義」と「パルナソス」の二つの作品は空間的な精彩を欠いており、「アテナイの学堂」ほど遠近法と神学的ヒエラルキーという構想が結びついたものはあるまい。

4. 遠近法の破綻と崇拝の破綻
「ヘリオドロスの追放」は、16世紀の激情に放り込まれるような作品で、右側に激情が集約され、左側に不安が集約されるという構想。神殿から略奪するヘリオドロスを馬で踏みにじる天の騎士と、恐れおののく女子供たちの表情が、事件の残忍さを物語る。さらに、左端で平然と傍観している人物はユリウス2世か。静と動の意識的な配置が、劇場鑑賞を思わせ、激情の明暗と遠近法が見事に融合する。
「ペテロの救出」にも、明暗の調和による激情の物語がある。中央には、鉄格子の中で眠るペテロと、救出しようとする天使の姿を輝かせる。右側には、天使に導かれて牢を出るペテロと眠りこける兵士たち。左側には、囚人の逃亡を知って駆けつける兵士たちが、月光の下で浮かび上がる。
これとは対照的に、激情とは一変した冷静さで奇蹟を物語っているのが、「ボルセーナのミサ」。1263年にボルセーナで起こった事件を題材に、不信の司祭が手にした聖餅が血を流した奇蹟を描いている。ユリウス2世と従者たちは、奇蹟を予知していたかのような冷静さで、背後で群衆がざわめき、ロウソクがゆらめく。奇蹟の偉大さをユリウス2世の前では当然とし、逆説的に教皇の偉大さを示しているとすれば、却って庶民が期待する激的なものは伝わらない。
さらに、「ボルゴの火事」では、遠近法によって主題が隠された感がある。9世紀半ば、レオ4世の治世に起こった火事を鎮める奇蹟を、時の教皇レオ10世の讃美として描いた作品。中央のはるか遠くに、教皇らしき人物が見えるものの、火事で大騒ぎしている民衆が強調され、もはや主題は奇蹟というより火事そのもの。壺に水を入れて運ぶ人々、裸体で壁をよじ登ろうとする男、壁の上から子供を拾い上げようとする女、老人を背負って逃げ惑う男、両腕を祈るように掲げる女たち... A.M.ブリッツィオは、「ギリシア悲劇の舞台」と解した方がいいと言ったそうな。
ついに、「オスティアの戦い」では、遠近法が崩壊する。空間的構想より主題を強調することで、合理的な空間を形成することはあるだろう。だが、題名からして海戦が主題であるはずなのに、船団は遠くに描かれ、手前で人々がごった返している様子。祈っている人々や司祭やら、負傷者や捕虜やら、床を掃除している男やらが目立ち、もはや何を描きたいのかも伝わらない。遠近法の破綻が精神の破綻にも映るのは、パトロンである教皇の精神を映し出しているのであろうか。なぁーんだ、このブログと同じじゃないか...

2014-12-14

"ラファエロの世界" 池上英洋 著

1520年... 美術の教科書では、この年をもってルネサンス期の終焉とするそうな。なんのことはない、ラファエロが亡くなった年である。彼を盛期ルネサンスとマニエリスムのどちらに区分するかは微妙であろう。既にバロック様式を体現していたとする意見も耳にする。37歳という早すぎる死にも、係わりがあるかもしれない。芸術家として成熟を極めた年齡とは言い難いのだから。いずれにせよ、芸術様式がある年をもって突然変化するわけもなく、歴史における便宜上の問題でしかあるまい。
さて、盛期ルネサンスの三大巨匠といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ。代表作でいえば、レオナルドの「ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)」や「最後の晩餐」、ミケランジェロの「ダヴィデ」とすぐに思い浮かべることができる。
しかし、ラファエロのものとなると、どうであろう。そういえば、ある専門家は、ラファエロ好きなどと発言すると変わり者という目で見られる、と語っていた。三人の中で最も地味な存在という印象もあるが、実は一番好きな画家だ。もっとも美術的な価値は分らないが、動的な物語に惹かれるのである。
あの「アテナイの学堂」には、ネオプラトニズムが存分に顕れている。古代ギリシアの偉人たちが賑やかに勢揃いし、しかも、ルネサンスの著名人たちをモデルにするという洒落が利いている。中央のプラトンのモデルがレオナルドというだけで、その存在感が伺える。階段の下で、のんびりと肘をついているヘラクレイトスのモデルは、ミケランジェロ。右下で幾何学を講義するユークリッドのモデルは、建築家ドナト・ブラマンテ。ラファエロ自身は、右端で遠慮気味に顔を覗かせるアペレスとして描かれる。個人的に見過ごせないのが、階段の中央でだらしなく横たわっている犬のディオゲネス。このモデルは誰であろうか?乞食の代名詞をわざわざ名指しすることもなかろうが...
こうした着想は、古代文化に匹敵するほどの偉大な時代を生きていることへの自負心であろうか。美術オンチの酔いどれですら、いつかはヴァチカンの「ラファエロの間」を訪れてみたいと夢見るのであった...

万能人を多く輩出したのも、この時代の特徴であろう。ミケランジェロにしても、ラファエロにしても、芸術家でありながら建築家でもあった。レオナルドに至っては、科学者、数学者、あるいは発明家とも呼ばれる別格。
ルネサンス時代に古典文化を重ねるということは、多彩な学問の融合が要求されるであろう。そもそも古代ギリシア・ローマ文化は神話的な多神教の世界であり、キリスト教的な一神教の世界とは相反する。そこで、聖書の下で、神話の中に登場する神々の新たな解釈が求められる。おそらく、信仰心を超越した普遍的な抽象レベルにおいて、思想の融合を図るしかあるまい。この時代の芸術家たちが自然科学にも精通していたことは、必然だったのかもしれない。幾何学に精通した様子は、遠近法の作品群が如実に物語っている。信仰的な矛盾を犯しながらも、古典回帰の思想が生まれたのは、よほど宗教の暴走を嘆いた時代ということであろうか...
18世紀になると、産業革命とともに中産階級が台頭し、絶対君主の庇護にあった美術作品は批判の的とされる。ロマン主義の時代には、ラファエロ芸術もアカデミズムの権化として攻撃されたという。芸術作品が、政治思想の象徴として描かれてきたのも事実。ラファエロがルネサンス期の最後を飾ったことも、古典至上主義の代名詞とされた一因であろう。芸術作品に宗教思想のレッテルを貼って、古臭いカノンなどと攻撃を受けたり。偉大な思想は、後世の解釈のされ方によって、ほとんど言いがかりのような批判に曝されることがある。今を生きる人間は、流行の意見に惑わされがちで、純粋な価値が見えないもの。
しかしながら、偉大な芸術は、時代の潮流から切り離されて、純粋に評価させようとする力がある。死後に再評価されるのは、偉大な学芸家の宿命なのかもしれん...

1. アテナイの学堂
階段を使った見事な遠近法の中に古代ギリシアの偉人たちが勢揃いする作品で、「署名の間」に描かれたフレスコ壁画。ただ、人物にばかり目がいっていたが、本書はその構造上の解説を加えてくれる。
聖堂の象徴的なアーチの奥に、二体の巨大な大理石像が配置され、左側がアポロン、右側がミネルヴァ(アテーナー)で、芸術と知識のシンボルが描かれるという。ルネサンス芸術とギリシア知識の融合というわけか。神話の神々は多神教、いわば、異教徒の神だが、これらが教会支配下の中心、つまりは聖堂において集約されるってか。どんな異教であろうがキリスト教の下で一元化できるというのも、ちと無理があるけど。なるほど、パトロンは戦争好きのレッテルを貼られた教皇ユリウス2世か...
ところで、この作品には昔から考えさせられることがある。それは、階段が何を意味しているかということ。最上段では、自著「ティマイオス」を脇に抱えるプラトンと、隣で語り合うアリストテレスも何やら著作を抱え、二人で共に歩きながら、やがて階段を降りるであろうことを想像させる。最上段が最上の哲学の原型であるイデアだとすれば、階段の下へ行くほど現世に近づき、どんな叡智もやがて庶民化していき、下っていく... と解するのは行き過ぎであろうか?階段の下でヘラクレイトスが肘をついているのは、現世で諦めの境地に達したようにも映る。階段下の右側で民衆相手に講義しているユークリッドは、幾何学と現実空間の親和性を物語っているのであろうか。ラファエロ自身をアペレスに重ねて、幾何学のグループに属しているのも興味深い。
犬儒学派ディオゲネスが階段の中央で横たわり、まだ階段の下に足が到達していないのは、この狂えるソクラテスはまだ救いの領域にあるとでもいうのか?あるいは、昔を懐かしんで階段を登ろうとし、疲れきっているのか?はたまた、形而上から形而下への格付けなんてものは、所詮人間が編み出した価値観に過ぎないと蔑んでいるのか?
尚、この作品には、女性数学者ヒュパティアも描かれるが、別の作品「天体の起動」に描かれる天使に祝福される女性もヒュパティアではないかと想像してしまう。映画「アレクサンドリア」でも描かれた彼女は、狂信的なキリスト教徒に八つ裂きにされる運命を辿る。「天体の起動」もまた「署名の間」に描かれたフレスコ画だそうな...

2. 女の達人!?
「美術家列伝」の著者ジョルジョ・ヴァザーリは、ラファエロの早すぎる死の一因を過度の女好きに求めたという。神々しい女性を描いた作品群が、親しみやすい雰囲気を漂わせているのは、実存する女性を描いたためだとか。しかし、派手な女性関係を噂されながらも、特定の女性との交際を裏付ける資料はほとんど残っていないという。証拠を残さないとは、よほどの達人か!
パトロンの枢機卿メディチ・ビッビエーナから、姪マリア・ビッビエーナを紹介されて婚約したのは確かなようである。だが、婚礼に至らぬまま、彼女は1514年に急死したとか。彼女への遠慮からか、あるいは、枢機卿の推挙で聖職者としての重職に就く可能性があっためか、表向きは生涯童貞を宣言したという説もあるそうな。一夫多妻を拒否するハーレム主義者は、結婚しなければ矛盾しない。愛はホットな女性の数だけあるとすれば、独身貴族こそ純粋な平等主義者となろう。実際、彼は生涯独身を通したという。
この時代の肖像画は、男性像であっても、人物の角度といい、色彩の用い方といい、レオナルドの「モナ・リザ」がかなり意識されているようである。
作品「ラ・フォルナリーナ」には、腕輪に「RAPHAEL VRBINAS」と銘記され、ラファエロの「秘めたる花嫁」という伝説が生まれたという。パン屋の娘という意味だが、日本流であれば、ラファエル命!と腕に入墨をやるところであろう。シエナ出身のマルゲリータ・ルーティがモデルとされ、高級娼婦との説もあるらしいが、実在人物かも定かではないらしい。
作品「ヴェールをかぶった婦人(ラ・ヴェラータ)」に描かれる女性もフォルナリーナと同じ人物とする説もあれば、花嫁特有の仕草から、婚約者マリア・ビッビエーナと考えられるむきもあるという。
さらに本書は、ちと興味深い指摘をしている。それは、作品「システィーナの聖母(サン・シストの聖母)」のマリアにも酷似していること。愛する女性を理想化し、聖母として神格化させることは、男の深層心理としてありがちな話である。ましてや、女性の死が早いとなれば、若く美しいままの姿で記憶に留めることであろう...

2014-12-07

壊れかけの Raid

いまだ、ハードディスクがいきなり壊れるという経験がないのは、幸運であろう。この手の呪いは、なんらかの前兆がある。不良セクタが見つかるやら、アクセスのリトライが増えるやら、異音が鳴り始めるやら...
そして今回は、BIOS がゲロを吐く... "AHCI PORT0 Device Error"
Win7(64bit)でも... "ハードディスクの問題が検出されました"

モノは、DELL Studio XPS8100(2010年購入)内蔵 HDD...
  Seagate ST3500418AS(500GB/7,200RPM)
  # Motherboard: 0T568R(SATA)

お陀仏になる前に交換することに...
  Western Digital WD5003AZEX(500GB/7,200RPM)

1. Win7 の復旧で、ちと手間取る...
いきなりインストールで失敗!途中で固まる。たまたまかと思いきや、再度やってもダメ。
あっそうだ!BIOS の S-ATA 設定が、RAIDモードになっていた。Win7 のインストーラは対応していないが、必要なドライバを参照できるようになっている。DELL提供のドライバディスクにある RAIDドライバを、外部のメディアに展開しておいて、インストーラに食わせればいい。いや、最新版をどこからかダウンロードしてきた方がいいだろう。
さて、パーティションは、ブート領域に 100MB を確保する仕様になっている。なるほど、ここにシステムを置いて、起動安定性を確保するという戦略か。壊れたら、とりあえずこの領域を修復すれば起動はできる。
しかし、HDD が破壊される確率は、物理構造に依存することに変わりはない。システム領域よりも、データ領域のバックアップの方が重要であろう。

2. RAID から ATA へ
ところで、RAID にする意味ってあるんだっけ?内蔵HDD が一台しかないというのに。購入時、なぜ RAIDモード?と思ったが、深くは突っ込まなかった。工場出荷状態で、数MB のゴミのようなパーティションを切っているのは、気になっていたが...
ミラーリングだけなら、外付 HDD で十分!ただ、速度重視で内蔵HDDを増設して、RAID 0 で組む手はある。
とはいえ、Surface Pro3 のおかげで SSD に魅せられ、少々静かでパフォーマンスの高い HDD を持ちこんでも、まったく感動できない有り様。SSD で RAID を組むなら元気も出そうか?
てなわけで、BIOS の設定をATAモード(no AHCI)で再構築することにした。

3. ネアンデルタール人のバックアップ思想
ちっぽけな事業所とはいえ、ミラーリング(RAID 1)ぐらいは構築しておきたい、と考えたのが十年以上前。当時、RAIDといえば、サーバといった大掛かりなイメージがあった。そして、大昔のバックアップ思想が残っている。作業領域の差分データをサーバへ ftp して一括管理し、サーバ側で日々の差分をバックアップして、週末に全体を再構築するといった具合。大規模な事業所ならともかく、バックアップテープの発想だ。こんなやり方はとっとと捨てたいところだが、せっかく自動化しているのだからもったいない!という意識が妙に働く。これには、深かぁ~い言い訳がある。面倒くさい上に、当時の思考回路が再現できないときた。
見直せど見直せど、なお我が魂、官僚主義に沈みつつ、じっと手を見る...

2014-11-30

"昨日の世界(I/II)" Stefan Zweig 著

歴史とは、客観的に語られてこそ、より輝きを放つもの。だが、ツヴァイクは、あえて自我を主役に据えた歴史小説を綴る。大量殺戮の世紀と化した20世紀の証言者という使命を背負うかのように...
しかしながら、自我を綴ることは危険だ。自ら無へ帰することになりかねない。
「私が物語るのは、私の運命ではなく、ひとつの世代全体の運命である...」
こう記した二年後、亡命先のリオ・デ・ジャネイロで、再婚して間もない夫人と共に命を絶つ。これはツヴァイクが残した最晩年の自伝書であるが、ヨーロッパ文化が残した遺書と言うべきかもしれん...

近い過去にあっては人間悲劇、遠い過去にあっては人間喜劇となるのが、歴史というものか。同じ愚行を繰り返しているだけなのに、時間の観念のみが心持ちを変える。同じ言葉を発しても、同世代の人間にはライバル意識を燃やし、大昔の偉人には素直に耳を傾けることができる。そのくせ死人に口なしの原理に縋って、過去の人たちに子どもじみた議論を持ちかけては欠席裁判を仕掛ける。
講和を唱えようものなら、ヨーロッパでは敗北主義者と罵られ、日本では非国民と罵られた時代。自由論者も平等論者も同じく狂気し、もはや勝利か!破滅か!の選択肢しか与えられない。この物語の影には、不可能な賠償金を課せられ、空前のハイパーインフレに喘いでいた経済を、あっさりと立て直した独裁者の演説に陶酔する大衆がつきまとう。政治家ってやつは、経済政策さえうまくやれば、少々悪い政策を持ち込んでも大衆を黙らすことができると考える。そして、知らず知らずのうちにメフィストフェレスに魂を売るのだ。
「歴史は、同時代人には、彼らの時代を規定している大きなさまざまな動きを、そのほんの始まりのうちに知らせることはしない、というのが、つねに歴史のくつがえしえぬ鉄則である。そこで私も、いつ初めてアドルフ・ヒトラーの名前を聞いたのかをもはや思い出すことはできない。」

ツヴァイクがユダヤ人としてウィーンに生を享けた1881年、神聖ローマ帝国が解体されたとはいえ、依然ハプスブルク家はオーストリア = ハンガリー帝国として強大な勢力を保っていた。芸術の都ウィーンは、まだ世界市民的な風潮が旺盛だったようである。文化だけでなく民族的に、ドイツ人も、チェコ人も、ユダヤ人も、時には愚弄しあうことがあったとはいえ、共存共栄の下で暮らしていたという。
やがて、新たなスピードの時代が訪れる。自動車や航空機などの機械化が進み、電話やラジオが普及すると、憎悪のヒステリーを世界中に感染させていく。その意味では、グローバリズムの波に対抗して愛国心を煽ったり、インターネットの普及によって欺瞞情報を瞬時に拡散させる現代と何が違うというのか。人間社会ってやつは、善玉菌より悪玉菌の方が感染力が強いようである。普遍的な学問よりも金儲けの手段を学ぶ方が手っ取り早いし、子供じみた衝動に駆られ続けるのは、何千年もの昔から変わらない。究極の知性人が、社会嫌いになり、人間嫌いになり、自己嫌悪に陥るのは必然なのか。彼らには、寒山拾得のごとく社会から距離を置き、あるいは、世間の目に晒してはならないシャングリ・ラのような保護区が必要なのかもしれん。
ツヴァイクもまたそうした知性人たちの例に漏れず、やがて勃発する第一次大戦に絶望し、わずかな望みを託した国際連盟にも絶望し、さらに第二次大戦へ突入するだけでは飽き足らず、ゲットーを目の当たりにして、人間というものに完全に絶望し、その批判的言論が亡命生活を余儀なくされる。
「しかし、私はそれを嘆くまい。故郷なき者こそが、新しい意味において自由であり、何ものにも束縛されない者のみが、もはや何ものをも顧みる必要がない。」

1. ファシズムとステレオタイプ
ツヴァイクが、「マリー・アントワネット」や「ジョゼフ・フーシェ」のような伝記小説を残したのは、フランス革命に始まる民主主義の本性を暴きたかったからかもしれない... と、なんとなくそう思いながら読んでいる。
「ジョゼフ・フーシェ」は、不本意ながらナチズムの国家主義者たちに愛読されたようである。確かに、政治陰謀のバイブルのような小説だ。人間社会には常に集団的な野獣性が潜んでおり、政治戦略はこれをいかに利用するかにかかっている。フロイトは、破壊的な衝動によって理性が簡単に無力化される性質を指摘し、パスカルは、人間を狂うものと定義した。集団性の前では、理性とてファシズム化する。禁煙ファシズム、環境保護ファシズム、動物愛護ファシズム、絆ファシズム...
理性人どもが、なんでもかんでも、けしからん!不謹慎だ!と憤慨すれば、冗談も言えない窮屈な社会となる。笑いの情念は高等な動物にしか持てないとされるが、笑いの質こそが人間社会の成熟度を測る物差しとなろう。
「人間の性質のうちには寛濶に答えるには寛濶をもってし、充溢に答えるには充溢をもってする、というところがある。」
価値観の多様化が進む現代社会にあってもなお、多数派に反対するには勇気がいる。一般市民が魔女狩りのごとく追求し、全体思想を押し付ける風潮があるのは、いつの時代も変わらない。おまけに、有識者どもが率先して吹聴する傾向がある。ファシズム、ナチズム、ボルシェヴィズムといった悪疫は、いずれもナショナリズムが高揚した形で現れた。政治屋どもが正義を掲げれば、報道屋どもはもっと大きな正義を掲げ... 正義の暴走ほどタチの悪いものはない。メディアには公平性と客観性が求められるが、現在のメディアとて、一斉に持ち上げるだけ持ち上げ、叩けるだけ叩き、どちらか一方に傾倒する。いまや、どこの国も民衆の意志は一枚岩ではない。ダブルスタンダードどころかマルチスタンダードだということだ。だが、いつの時代も、国粋主義的な風潮とステレオタイプ的な視点が強調され、傍観と無関心な態度が彼らを暴走させる。そりゃ、ヒステリーな熱狂者と関わりたくはないが、政治ってやつは、性質上こうした連中と結びつきやすい。自国に誇りを持つことと、他国を蹴落とすことでは、まったく意味が違うというのに。民主主義の成熟度は、国粋主義的な傾向の度合いや、ステレオタイプ的な見方の強弱によって測れそうか...
「安定という言葉をずっと前からひとつの幻影として、語彙から消し去ってしまったわれわれならば、あの理想主義に眩惑した世代が、人類の技術的進歩は同じように急速な道徳的向上を無条件にもたらすと信じたその楽天的な幻覚を、冷笑するのもたやすいことである。」

2. 人生大学
「私にとっては、良書は最良の大学のかわりをする、というエマーソンの原理が、確固として妥当し続けて来たのである。人は大学、あるいはギムナジウムにさえも通うことなくして、すぐれた哲学者、歴史家、文献学者、法律学者、そのほかの何にでもなりうる、と私は今日でも確信している。」
生の万象を示してくれる人生の大学を求めて、書物を漁ってまわるのも悪くない。若い頃は、優れた人物から学ぶことも大きいが、同世代の仲間と議論することの方が、より多くを学べたような気がする。本質を学ぶ資質は、政治的な態度に毒された大人よりも、純粋に学びたいと欲する子供の方が優っているのだろう。ある大科学者は、常識とは18歳までに身につけた偏見の寄せ集め、と言ったとか言わなかったとか。偏見に見舞われれば、自己の正当性を主張するのに必至になる。
ツヴァイクの交友関係は、実に広い。少年時代に出会った天才ホーフマンスタールの衝撃に始まり、ヘルツル、リルケ、ヴェルハーレンとの交友を語り、ロラン、ジイド、ヴァレリー、トーマス・マン、バルトーク、フロイト、ゴーリキーといった知識人との回想を織り交ぜる。彼らは、生き証人としての義務を果たすかのように協力しあう。偉大で悲惨な時代だから、互いに引きつけたのだろうか。平和で凡庸な時代では、真の自由について考えることもあまりない。ちなみに、フロイトを真理の熱狂者と呼び、彼はこう語ったという。
「百パーセントのアルコールがないように、百パーセントの真理というものはありませんね。」
狂気の社会では、冷静に物事を考える人間を排除し、子供じみた虚栄心や野心が旺盛となり、エリートほど危険な存在となる。教科課程が生徒を平均化させることを意図し、多数派に属することで安住できるように仕向ければ、権威主義が蔓延り、軍部の思い上がりが民衆を先導する。国家主義を育むには、実に都合のいい構図だ。
政治の思惑が、自己実現をいかに廻り道させてきたことか。粗暴に加担しないというだけでは充分ではない。戦争責任は政治指導者にあるが、独裁者一人でやれるものではなく、民衆の後ろ盾が必要だ。集団の不自然さ、すなわち、無関心を装い傍観者であり続けることが、戦争という不自然な現象を招き入れる。虚栄に乱されず、自由で朗らかな人間でありたいものだが、俗世間の泥酔者には、大人になっても似た者同士で集まることぐらいしかできん。困ったものよ...

3. 引き金の繰り返し
1914年の大戦は、フランツ・フェルディナント夫妻がサラエボで暗殺されたことが引き金となった。だが、この帝位継承者は大衆に人気がなく、愛嬌や人間的魅力に欠けていたとか。対して、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の唯一の子息ルードルフは、感じのいい皇太子だったという。ルードルフはマイエルリンクで銃で死んでいるのを発見されるが、この事件については陰謀説がくすぶる。
しかし政治的には、サラエボ事件の犯人は、ボスニア系セルビア人とされ、オーストリアはセルビアに宣戦布告した。独墺伊の三国同盟にあったドイツも宣戦布告し、英仏露の三国協商にあったロシアがオーストリアへ宣戦布告すれば、連鎖反応で世界大戦となる。
では、1914年の悲惨を経験しながら、なぜ、1939年にも同じことを繰り返したのか?ツヴァイクの答えは単純だ。1939年には、1914年と同じぐらい子供らしい素朴な信仰を持ちあわせていなかったと。皇帝フランツ・ヨーゼフが84歳にして血の犠牲を欲したことを、誰も疑問に思わなかった。そんなことが、1939年にも起こったというのか...
ヴェルサイユ条約の破綻に幻滅すれば、外交を軽蔑する。ウィルソンの偉大な綱領を信じたところで、はたまたロシア革命に希望を持ったところで、再び地獄に引き戻される。時代は、チェンバレンの妄想的な平和宣言よりも、戦争屋チャーチルを欲した。当初、単なる国境や植民地のための戦争ではなく、イデオロギーの戦争であったはずが、科学の進歩とともに無差別攻撃を容認し、非戦闘員までも犠牲にした。もはや戦争は、勇気と誇りの象徴ではなくなり、憎悪とヒステリーの代名詞となった。シェイクスピアはドイツの舞台から追放され、モーツァルトやワーグナーはイギリスの音楽堂から追放され、道理に適った会話は不可能となり、平和を好む人々までも血の臭いに酔いしれる。結局、二つの大戦は同じ悲劇を繰り返しただけだった。引用されるシェイクスピアの言葉がいつまでも残る...
「こんなに汚れた空は、嵐なしではきれいさっぱりとはならぬわい。」

2014-11-23

"人類の星の時間" Stefan Zweig 著

ほんの一瞬に過ぎ去るからこそ輝いて見える...
毎日が栄光に満たされていれば、退屈病に襲われる。無数の凡庸人で溢れているからこそ、一人の天才が出現する。芸術精神もまた、地道な思考の繰り返しの中から、霊的なものに憑かれる一瞬によって創造される。閃きってやつだ。そして、無限の坦々たる時間が流れ去った後、歴史に刻まれる一瞬が生まれる。平凡の内に一瞬にして宿る天才的資質とは、歴史のみが発明しうる矛盾とでもしておこうか...
時世の勝利者が、歴史の勝利者となるわけではない。どんな星の下に生まれ、どんな運命を背負うかは、やってみなきゃ分からん。だからこそ、終世、活力ある生き方をしたいと願う。情熱を持ち続け、若さを保つ秘訣は、やはりホットな女性との恋ですかねぇ... ゲーテ爺ちゃん!

ツヴァイクの仕事は確固とした形に打ち鍛えられているが、中心にはいつでも炎が燃えている。...  リヒャルト・シュペヒト

「ジョゼフ・フーシェ」や「マリー・アントワネット」の本格的な歴史叙述とは違い、ちと趣向(酒肴)を変えた12の物語。歴史の影に潜むウンチク話とは、いかなるものであろうか。得てして、こうした裏話の方に歴史の本質が隠されているものである。現象を皮相的に捉えるのではなく、心情的現象としていかに解釈するか、これぞ歴史小説の醍醐味であろう。
「歴史は余計な後押しの手を少しも必要とはせず、ただ畏敬をもって叙述する言葉だけを必要とする。」

1. 大罪人の逃亡劇から生まれた太平洋の発見
コロンブスの堂々たる誇張癖は、アメリカ大陸をインドだと思い込み、無尽蔵の金があるとスペイン王に報告させた。そして、デスペラードどもがこぞって黄金郷に群がり、数年間で土着民の人口を根絶に致しめる。荷箱に入って密航したバスコ・ヌニェス・デ・バルボアもまた、そうした一人。スペイン王が派遣した総督が命を失ったのも、彼のせいだという。
しかし、スペインは遠い。断頭台に送られる前に権力の横領を正当化するには、なんらかの功績が必要だ。当初、フランシスコ・ピサロと協力して土着民から略奪するが、未開の地を探検するには原住民を味方にする方が得と見て、小王国コイバの酋長カレタの娘を妻にして同盟する。
そして、パナマ地峡の横断に挑む。兵士190人を派遣し、原住民を運搬人や案内人にし、病人や足手まといは見捨てられるという苛酷な旅。土着民の話によれば、ある山の頂上から二つの大洋、すなわち、大西洋とまだ名の付けられていない太平洋が見下ろせるという。山頂に近づくと、あと一歩というところで、バルボアは行進停止を命令する。太平洋を初めて見るキリスト教徒は、自分でなければならないからだ。さらに、酋長は「南の海」の彼方にある国の名を言った。ビルー!どうやらペルーのことらしい。
一方、スペイン王は、バルボアを処罰するために、ペドロ・ペドラリアス・ダビラを派遣して総督に任命した。だが、バルボアの偉業を知ったスペイン王は、、バルボアを臨時総督に任命し、二人で計るよう命令する。次の目標は、新世界の黄金郷を征服すること、すなわち、誰よりも先駆けてペルーを征服すること。しかし、兵員や物資の不足に悩まされ、今度は幸運に恵まれず、その功績を戦友のピサロに譲る。ピサロは、インカ帝国の征服者として知られる人物。バルボアの失敗は、ダビラの嫉妬の餌食に合い、断頭台へ送られる。
「運命というものは運命の寵児たちに対してさえ、決して過度に寛大であることはない。運命の神々は一人の人間に一つ以上の不滅の行為を恵んでさせることは稀である。」

2. コンスタンティノープル陥落のあっけない真相
オスマントルコの穏健な皇帝ムラード(ムラト2世)に代わって、ずるく精悍な若い王子マホメット(メフメト2世)が帝位に就くと、ビザンチンの人々を恐れさせた。トルコ人によって包囲され、最後の皇帝コンスタンティヌス・ドラガセスの帝位も風前の灯。ドラガセスは何度もイタリアへ援軍を要請するが、古来カトリック教とギリシア正教の遺恨は深い。
とはいえ、西方教会も東方教会も元を辿れば同じキリスト教であり、共通の強敵が出現すれば、ローマ法王の特使とギリシア正教の総主教グレゴリウスが肩を並べて和解のミサを行うという奇跡も起こる。しかしながら、歴史において、理性と和解の瞬間ほど、すぐに過ぎ去るものはない。聖堂の中で共同の祈りが行われている間も外では罵り合う始末。またもや狂信主義者どもによって引き裂かれた。
しかし、包囲戦が始まっても、千年に渡って補強されてきた難攻不落の城壁は、最新の大砲をもってしてもびくともしない。マホメットは、どんなに大金を払っても、新しい攻撃手段を作るとの声明を出す。大砲の鋳造家ウルガス、あるいはオルバスという名のハンガリア人はキリスト教徒で、以前コンスタンティヌス皇帝にも仕えていたという。彼は「弩砲」と呼ばれる新型の大砲をこしらえ、マンモスのような大砲の群れが城壁の前に出現した。だが、歴史を変える決定弾とはなりえない。
この時代のトルコとビザンチンの国境は地理的に分かりやすい。ボスポラス海峡のアジア側の海域がトルコ。深く陸地に入り込み、盲腸みたいな形をした「黄金の角」と呼ばれる湾港が、自然の要害となっていた。マホメットは、ハンニバルやナポレオンに匹敵するほどの空想家だという。湾港に船団を侵入させることが不可能と見るや、船団を山越えさせるという途轍もない計画を実行したとか。ハンニバルやナポレオンが、突然アルプス越えでオーストリア人を脅かしたように。だが、これも歴史を変える決定弾とはなりえない。
さて、城壁をめぐる激烈な攻防戦にあって、およそ起こりえないことが起こるものである。「ケルカポルタ」という城門だけが、なぜか?開いたままだったとか。平和時には歩行者たちの通用門として使われるちっぽけな門が、興奮のるつぼの中うっかり忘れられていたのか?歴史的な戦闘が、こんなにあっさりと城門を突破させるとは、なんと間抜けな話!

3. ヘンデルの復活に見る「メサイア」誕生秘話
1737年、急に倒れたゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは四ヶ月もの間、まったく身動きができぬ無力の状態にあったという。話すこともできず、右半身不随となり、医者が諦めるほどの重病だったとか。短気な性格が、急激に精神を病ませたのか?医者が熱い湯に3時間以上入ってはいけないと警告したにもかかわらず、毎日9時間も入って意志力を回復させ周囲を驚愕させる。音楽に対する執念がそうさせたのか...
しかし、せっかく創作意欲を取り戻したものの、時代は彼に敵対する。女王崩御のための上演は中止され、スペインとの戦争が始まると民衆は音楽どころではない。評論家からは冷笑され、借金がかさみ、心は暗澹とし、ますます自己に閉じこもる。
1741年8月21日、そんな絶望の日に小包が届く。「サウル」と「エジプトにおけるイスラエル」の台本を書いた詩人ジンネンスからの手紙を添えて。
「新作の詩をお送りする、音楽のけだかい守護神、音楽の不死鳥が、願わくば彼の貧寒な詩に慈悲を垂れて、その翼に乗せて、永遠界の大空に天(あま)がけり給わんことを...」
お前まで嘲るか!と憤るヘンデル。もう一度、冷静に台本を手にしてみると、最初の言葉に「慰めあれ!」とある。この言葉が、彼の本能を刺激したのか?得体の知れぬ好奇心のようなものが、そうさせたのか?一度、肉体の麻痺から立ち上がらせたヘンデルを、今度は、精神の麻痺から立ち上がらせる。そして、歓呼のフレーズに出会う。「ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!(神を頌せよ)」そう、あの名曲だ。三週間自室に閉じこもり、魔術的な素早さで完成させたという。時間の観念をまったく失い、リズムと拍子だけが支配する空間とはいかなるものであろうか...
1742年4月13日、アイルランドの首都ダブリンで講演。この演奏で得た金は、心を開いてくれた感謝とともに、すべて寄付することに決めたという。1759年、重い病にあるヘンデルは74歳。最後の審判を仰ぐ日を、聖金曜日としたいと願う。それは、ちょうど4月13日、メサイアの初演を飾った日。自分が更生されたその日に、世を去りたいというわけか。実際、この無比なる意志力は、死の時期までも支配することに...

4. 一晩だけ宿った才能が生んだ「ラ・マルセイエーズ」
フランスは、急進派の勢いでオーストリア皇帝とプロイセン王に宣戦布告。1792年4月25日、革命政府がオーストリアへ宣戦布告したという知らせがストラスブールに届く。市長ディートリヒ男爵は、大広場で宣戦布告文書をフランス語とドイツ語で読み上げた。初めての軍歌「サ・イラ」は、連隊の歩調とともに軍隊的な調子を帯びていき、カフェやクラブでも歌われる。ディートリヒは、乾杯の時に側にいた要塞守備隊のルジェ大尉が、憲法発布時に自由のための歌を作ったことを思い出し、明日進軍するライン軍のために軍歌を作ってくれと頼んだという。ルジェは、正当な理由もなしに貴族っぽいルジェ・ド・リールと名を変えていたとか。そして、翌日生まれたのが「ラ・マルセイエーズ」。凡庸な才能が、一晩にして天才的な霊に憑かれるとは...
この歌が革命の象徴へと育っていくと、逆に作曲家の名は忘れ去られる。ルジェ・ド・リールという名は、誰一人として顧みる者はなく、楽譜にも名が印刷されなかったという。しかも、この作曲家はまったく革命的でなかったとか。パリの民衆が「ラ・マルセイエーズ」を高唱しながら、チュイルリー宮を襲撃して王位を引きずり下ろした時、革命に酷く幻滅。共和制に宣誓するのを拒み、軍人としてジャコバン党に奉仕するよりも、軍籍から去ることを望んだという。彼は、外国の王冠をかぶった暴君たちを憎んだが、それに劣らず、国民議会の新奇な暴君たちと専制者たちを憎んだという。革命の公安委員会にも公然と反感を示し、革命の象徴を作った男が祖国を裏切った罪に問われた。まだしもギロチン刑にされれば、歴史に名を残したかもしれない。やがてフランス国歌となる作曲家は、地味なうちに人生を終えたという...

5. ナポレオンを百日天下とさせたグルシー元帥
歴史は奇妙な気まぐれによって、重大な運命をそれに相応しくない人物に委ねることがある。凡庸人は、高い地位を得たり、大金を得たりすると、ほんの束の間の幸せを味わうことに没頭する。更なる高みに上る機会を掴んでもなお欲望に溺れ、自己を高めようとはしないことが、凡庸たる所以であろうか。
ウォーターロー(ワーテルロー)の決戦の瞬間が、まさにそれだ。西洋史において、この時代ほどイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアの王侯たちが一致団結を見せたのも、珍しいのではあるまいか。北方からはウェリントンが進軍し、それにブリュッヘア元帥が指揮するプロイセン軍が続く。ライン河畔ではシュヴァルツェンベルクが戦備を整え、後方にはロシア軍。ナポレオンはプロイセン軍をや破り、その追撃を命じた。追撃隊を一任されたのはエマニュエル・ド・グルシー元帥、3分の1もの軍隊を任せる。20年間の数々の戦場で戦うが、目覚ましい功績もなく、ゆっくりと元帥まで昇進した人物だという。ナポレオンの天才的直感とは正反対に、自発的な行動に慣れない人物だとか。ナポレオンも、その器を見抜いていたらしいが、なにしろ忠実な人物。独裁的な人物ほど、やたらとイエスマンを好むようである。
しかし、戦争のような混沌とした状況では、応用力と決断力こそが決め手となる。雨の中、泥道をゆっくりと進軍し、敗走するプロイセン軍の足取りは依然つかめない。農家で朝食をとっていると鈍い轟音が。ナポレオンがイギリス軍を大攻撃しているのは明らか。副官は、大急ぎで砲声の方へ向かうべきだと進言する。だが、ひたすら服従で昇進してきた人物は、新たな命令がない限り、自分の義務から外れるわけにはいかない。副官ジェラールは、自分の分隊だけでも援軍に行かせてくれと歎願するが、拒否される。もう一人の副官ヴァンダームも、この判断に憤慨。その間、ウェリントンはフランス軍の4回の攻撃を押し返すものの、かなりのダメージを受ける。総攻撃を命じようとしたその時、森の中から援軍が現れた。どちらの援軍か?言うまでもなく、ブリュッヘア。3分の1の部隊が無意味にうろつきまわっている間に、プロイセン軍はいち早くイギリス軍と合流したのだった。わずか4時間の地点にありながら、いまだのんびりと追撃を続ける。副官たちは敗戦を悟ったのか、死に場所を求めるかのように森をさまよう...

6. 老人の失恋から生まれた芸術詩「マリーエンバートの悲歌」
1823年9月5日、カルルスバードからエーガーの国道をゆっくりと走る一台の四輪馬車がある。中には、ザクセン・ヴァイマル大公国の枢密顧問官フォン・ゲーテと、老僕と秘書ヨーンの三人。それは、沈黙の旅であったという。74歳のゲーテが19歳の娘ウルリーケ・フォン・レヴェツォフに求婚するも、確かな返事がもらえない。ちなみに、1822年2月、ゲーテは何度も意識を失うほどの重病にかかり、死を感じたという。医者たちも手の施しようのない病状だったとか。そりゃ、恋の熱病は誰にも治せんよ。
6月には、マリーエンバートへ行き、深夜まで女性たちと戯れたとか。お爺ちゃんが、マリーエンバートからカルルスバードへ愛する者を追うが、やはり返事はもらえない。心の中を秋風が吹き抜ける帰路で作られたのが、マリーエンバートの悲歌。
「人が苦しみのあまりに無言になるとき、自分で苦しんでいることを言い現わす術を、一人の神が私に授けている。」
昔馴染みのウェルテルにでも目覚めたのだろうか。人生の最後を恋で締めくくることができれば、なんと素晴らしいことだろう。こりゃ負けちゃおれん!と呟いて、さっそく夜の社交場へ消えていく一人の男を、鏡の向こうに見かける...

7. 西部開拓史を先駆けた破産屋
1834年、西部開拓史の始まりを予感させる時代、ヨーハン・アウグスト・ズーターという男が、妻子を置き去りにしてニューヨークへ渡ったという。破産屋、泥棒、手形偽造者の彼は、荷造人、薬種商、歯医者、売薬商人、居酒屋の主人、宿屋の主人などをやり、時流に乗ってミズーリーへ。そして、財産を売り飛ばして、誰も見極めていないカリフォルニアを目指す。
当時、哀れな漁村だったサン・フランシスコを見て、この土地が大農場に適しているばかりか、一つの王国を建てるに相応しいと感じたという。そして、知事と面会し、開拓権を得る。農場建設から、続々と入植者が流れこんできて、運河や製粉場や工場が作られる。やがて、蒸気機関車がアメリカ全土を横断し、イギリスやフランスの最大の銀行に資金を持つ。45歳で成功した彼は、見捨てた妻子を呼び寄せた。
1848年、使用人の大工ジェイムズ・W・マーシャルが土を掘っていると黄金が出てきたと、慌てて駆け込んできた。これでさらに富めるはずが、瞬く間に噂が広まりコールドラッシュ!銃で意志を通すしか知らない連中が大挙して押し寄せる。従業員たちも仕事が手につかず、巨大経営も停止。財は奪われ、またもや破産屋となる。妻子が到着した時、妻は旅の疲労で死に、三人の息子は静かに農業経営に励む。真の西部開拓史は、ズーターよりも、むしろ三人の息子によって受け継がれているのかもしれん。
1850年、カリフォルニアがアメリカ合衆国連合に組み込まれると、法の秩序がもたらされる。ズーターは、失った土地や運河や製粉場などの所有権を主張して倍賞請求する。1855年、裁判はズーターの権利を認め、世界最高の富豪に返り咲く。だが、またもや致命的な打撃を受け、破産屋へ引き戻す。判決が世間に広まると、民衆が暴動を起こし、裁判所を襲ったのだ。農園は焼かれ、財産は略奪され、長男は暴徒たちに強迫されて拳銃自殺、次男は殺害、三男はスイスに帰る旅で溺死。
辛うじて命を救われたズーターは、すべてを失って気が狂う。25年が過ぎ、数十億ドルの権利を請求しようと惨めにワシントンの裁判所の周りをうろついていると、そこに訴訟をそそのかす弁護士やペテン師がつきまとう。事件を派手に演出するために、おかしな将軍の制服を着せられたりと、不幸な男はまるで操り人形。役人たちの嘲笑の的となった彼は、乞食として死んでいったという。
「依然としてサン・フランシスコとその一体の土地は、他人の所有地の上に立っている。これについての権利のことが問題とされたことはまだない。」

8. ドストエフスキーの作風の転換点
夜中に突然眠りから引きずり起こされると、地下の幽閉室にはサーベルの音がガチャガチャ鳴る。馬車にいきなり押し込まれれば、まるで車輪に揺られる墓穴。行き先は処刑場。
中尉が宣告文を読み上げる... 銃殺刑!
コサック兵が目を布で隠そうとすると、見えなくなる前に辺りをむさぼり見る。光を失った瞬間、忘れ去られていた過去が蘇る。鼓動は静かに弱まり、突如として溢れる浄福感。弾丸をこめる音と、太鼓の音が空気を揺さぶり、その一瞬が永遠に感じられる。
その時、叫び声が聞こえた... 処刑中止!
士官が命令書を読み上げる。皇帝は聖なる意志によって恩赦を与えると。死は突然、こわばった手足の関節から立ち去る。これを機に、ドストエフスキーの作風が社会主義から、キリスト教的人道主義へ変化したとされる。
「そしてそのとき彼は、地上のすべての苦悩が、全世界にその悲しみを熱烈に叫びつづけているのを、今初めて聴きとった。ささやかな者らの声、弱い者らの声、むだな献身をした女たちの声、自嘲する娼婦らの声、つねにしいたげられる者らの黒い恨みの声、どんな微笑にも心をうごかされない孤独者らの声、すすり泣いて悲しみなげく子供らの声、そして、こっそり誘惑におちいった者らの無力な悲嘆、悩みをになっているあらゆる人々の声を彼は聞いた。... 死の中に生をさとった人間にとっては、苦悩が喜びに代わり、幸福が苦痛に変わる。」

9. 時間と空間の概念を変えた大西洋横断ケーブル
サイラス・W・フィールドは、技術屋でもなく、電気の知識もなかったという。だからこそ、海底ケーブルという単純な発想が浮かんだのかもしれない。そのために会社を設立するが、民間企業だけでは資金調達も難しく、国家を巻き込んだ大プロジェクトとなるは必定。こうした地道で遠大な事業計画は、ある種の使命じみた執念が必要である。専門家からも馬鹿にされる。なにしろ、水に弱い電気を海の中に通そうというのだから。
途轍もない遠距離の電線を運ぶだけでも、どんな船舶を用意すればいいか想像もつないし、電線を通したからといって性能テストがうまくいくかも分からない。嵐の吹く大西洋上で苛酷な作業を強いられ、リスクも高い。おまけに、電線の寿命も計り知れない。実際、電信記号が不明瞭になって、すぐに音信不通になったという。当初、あれほど称賛された電信は、無能呼ばわれ。フィールドは罪なき罪人として悪意のこもった憤慨の的となる。英雄に崇めた人物を、一夜にして大罪人に仕立てあげるのは、マスコミの常套。そして6年間、海底ケーブルは忘れ去られる。
19世紀の最も大胆な計画は、内戦や政治の激動によって話題をさらわれた。沈黙が破られるのは1865年のこと。先人たちの熱意が物理的障害を乗り越えて、今日のネット社会を支えている。大陸間の移動速度、情報の伝達速度は、飛躍的に進化した。
しかし、世界旅行で現地を気軽に見聞できるようになり、地域情報がリアルタイムで得られるようになれば、知識を高められ、普遍的価値というものに素早く到達できそうな気もするが、実際には遠ざかっている感がある。時間と空間の概念は、数倍、数十倍とムーアの法則に従って広がっているというのに。どんなに人体の周りが進化しようとも、内的時間と精神空間は変えようがないということか...

10. 未完成に終わったトルストイの戯曲「光闇を照らす」
1890年、トルストイは自伝的な戯曲を書き始める。それは、彼が計画した家出の正当化と、妻への弁明であったという。人生の決心を見い出せないまま、意志の放棄ゆえに、この戯曲は完成に至らない。主人公は、まったく途方に暮れたままで、ただ神に乞い求め、自己矛盾による分裂を早く終わらせるよう祈るのみ。すべてを清算し、家出を敢行するのは、精神の浄化を求めてのことか?いや、現実逃避か...
ツヴァイクは、この未完に仕えながら終曲を綴る。主人公は、サリンツェフという二重人格者ではなく、トルストイという実存者。
学生は議論を持ちかける... 革命に参加すべきだと、大義名分を大切にすべきだと、数々の人命が牢獄で滅んでいく様を知っているあなたなら、それを文章に書き続けるあなたなら、と...
トルストイは反論する... 暴力を是認したことはないと、暴力なんぞで悪を世界から根こそぎ排除できるなどと本気で思っているのか?それこそ思い上がりだ、と...
「まことの強さは暴力に対して暴力をもってこたえることをせず、その力は謙虚さと通じて相手を無力ならしめるのだ。」
その一方で、贅沢な生活を見捨て、巡礼となって旅することが、自分の義務であることを告白する。自分の人生を心の底から深く恥じると。この悩みまでも自慢するとしたら、まさに思い上がりであると。
「たといただ一つの生命でも、その生命の死の責任がわたしにあるということになるなら、わたしは自分の良心に対してその弁明をすることができまい。」
80を過ぎれば、死を見ないふりをすることはできない。死を目前にしてこそ、決意すべきことがあるはず。学生の問うた、実行すべきことを実行しない理由、それは魂の臆病さにほかならない。そして、遺言をしたためる... 全財産を全人類に捧げると、切羽詰まった良心から発した言葉を金儲けの道具にしてはならないと...
トルストイの妻ソフィアは世間では悪妻と評されるが、ツヴァイクは、死を前に妻を証人として呼び寄せ、彼女をヒステリックにさせたのは夫に責任があることを感じているかのように演出する。娘アレクサンドラ(サーシャ)をともなって家出を決心。これが最後の巡礼の旅となる。そして、小さな停車場アスターポヴォの駅長の宿舎で息を引き取る...

11. 南極点到達で名声は奪われたものの、真の研究家であり続けたスコット大佐
人類の飽くなき知への渇望は、とどまるところを知らない。ナイル川の源泉、アマゾンの森林、チベットの屋根... ついに人類を極点へ導くが、数十年も企てられてきた氷の館は、死骸が横たわる氷の棺と化す。33年後、ようやく発見された亡骸は、スウェーデン探検家アンドレー。気球で北極を越えようとした男だ。
アメリカでピアリーとクックが北極探検の準備をしていた頃、ヨーロッパでは二艘の船が南極に向けて出発。ノルウェーのアムンゼンとイギリスのスコット。スコットは真面目で義務感の強い人物だという。何が彼を冒険に駆り立てたのか?全財産を犠牲にしてまで。船の名は「テラ・ノヴァ(新しい土地)」。彼は風変わりな準備をしている。ノアの方舟のごとく、いろいろな動物を積み、船そのものが近代的な実験室のように研究器具を備え、一行には、動物学者、地質学者、技術者など様々な専門家を伴う。計画は壮大な冒険であるものの、緻密に計算された科学調査団のようである。
1910年6月1日、イギリスを出航。ニュージランド側のエヴァンス岬附近に越冬の家を作る。ところが、西方を探索した者たちが、アムンゼンの越冬の家を見つけて愕然とする。この家が、地図上で110キロメートル極に近い位置にあることを知ったのだ。科学調査団は、突然、冒険家に変貌。しかも、国の威信をかけた。もし、アムンゼン隊を偶然見つけなかったら、緻密な計画の上で無事帰還することも適ったかもしれない。
愛情をそそいできた動物たちを殺しながら、白い荒野をさまよい、30人の隊列は20人になり、10人になり... ついに決行のために選抜された5人は、スコット、バウアース、オーツ、ウィルソン、エヴァンス。最初の功績という歴史的な手柄とは、よほど魅力があるものと見える。もはや名誉だけが意志を支える。そして、南極点に到達するが、アムンゼンのキャンプの痕跡を見つけ、悲しげにユニオン・ジャックをアムンゼンの勝利の旗と並べて立てた。帰路はさらに苛酷となる。行きは羅針盤によって極点に導かれるが、帰り道は見失ったら終わり。不名誉な帰国に意志も挫け、病に一人倒れれば、足手まといにならぬよう死に突進。それでもなお科学者たちは、観測の義務を怠らない。16キロもの重量の珍奇な鉱石を積みながら...
一方、目的地まで同行する名誉を得られなかった仲間たちは、数週間、一行の帰りを待つ。救援しようにも悪天候に見舞わる。南極の春は遅い。10月になって、英雄たちの遺骸と遺言を見出すために出発。そして、凍死した悲壮な姿を発見する。
スコットは、到達競争という意味では敗れた。しかし、だ。貴重な標本を残したという意味ではどちらに軍配を上げるだろうか?歴史の勝利は、ちょいと視点を変えるだけで違ったものに映る。人類の目的が、叡智を伝承することにあるとしたら。実際、南極の景色が、乾板やフィルムとして残され、スコットの手記も貴重な情報をもたらしたという。
「わたしは自分が探検家として価値があったかどうかを知らない。... しかしわれわれの実行の結末は、勇気の精神と克己力とがわれわれの種族から今なおなくなっていないことを証明するだろう。」

12. レーニンを革命家に導いた封印列車
世界大戦の間、四方面から囲まれた中立国スイス。それだけに推理小説の舞台としては絶好だ。交戦国の外交使節、経済界の要人、ジャーナリスト、政治家たちが入り混じり、スパイの組織網が互いにしのぎを削る。そんな場所に、情報の材料にほとんどならない人物がいる。カフェにも行かず、口数も少ない。隣人ですらロシア人であることを知らない。しかし、毎日規則正しく図書館へ行き、決まった時間にきっちり帰る。多くを読書し、孤独に学ぶ人物が、世界を驚かせる革命をもたらすとは...
1917年、革命が勃発したとのニュースが飛び込むと、亡命者たちはロシアへ帰国できると歓呼する。偽の旅券を使わず、本名を隠すことなく、堂々と。だが、数日後には失望。ちっとも革命ではなく、政府上層部がドイツとの講和を締結させまいとする、ツァーリに対する叛乱であった。主戦派と帝国主義者、そして将軍たちの陰謀であり、市民革命ではなかったのだ。
レーニンは、マルクス主義的な革命を欲し、なんとか帰国できないかと模索する。ドイツはロシアとの和睦を求めており、ドイツの外交ルートを利用すれば、帰国の道が開けるのではないか。しかし、戦争中に敵国に入ることは、国家反逆罪となる。それを覚悟した無名の亡命者は、既に将来のロシア代表者であるかのように条件を伝え、ドイツ政府に好意を示す。条件とは、列車に治外法権が承認されること。ドイツは焦っていた。アメリカが宣戦布告したからだ。
そして、ドイツ政府の援助で封印列車を確保し、スイスからドイツを経由してペテルスブルグに到着。当時、ペトログラードと呼ばれていた町は、祖国癖に憑かれた愛国心に見舞われ、再逮捕されるのではないかという懸念がある。しかし、亡命からの帰国者は、民衆に盛大に歓迎されるのだった...

2014-11-16

"マリー・アントワネット(上/下)" Stefan Zweig 著

歴史は得てして、凡庸な人物に命運を託すことがある。単に無思慮で、はしゃぎ好きな娘を、王党派は偉大な聖女に祭り上げ、共和党派は堕落女と罵声を浴びせる。フランス革命という急進的な時代にあって、大衆を敵に回し、魔女狩りのごとく処刑されていく命運とは。ハプスブルグ家の皇女という誇りが、そうさせたのか。民衆は魔女の戯言に同情するほど余裕はない。世論の捌け口とされるがゆえに、今日英雄として担がれた人物が、明日には悪魔として駆逐される。共和政治が恐怖政治と化すのに、大して手間はかからない。パスカルが書いたように、やはり人間とは狂うものらしい。狂気した者は、狂気の結末を求めてやまない。自らを悲劇の英雄に仕立て、自己の中に人生という歴史を刻み、自己完結できればそれでいいのだ。はたして狂気した者が、狂気していることに気づくことができるであろうか。感動的な芝居をうつのに、英雄的な資質など必要としない。いや、芝居かかっているから歴史なのかもしれん...

さて、シュテファン・ツヴァイクという作家を知ったのは、著作「ジョゼフ・フーシェ」に出会ってからのこと。おいらが知る歴史書、いや推理小説の中でベストテンに入る作品である。
正直言って、マリー・アントワネットの印象は、贅沢三昧に溺れた浪費家の自爆ぐらいにしか映らない。むしろ、彼女をヒステリックに追いやった夫ルイ16世の無気力と優柔不断さ、もっと言うなら、太陽王の影で惰性的に王位に就いた継承者たちの不甲斐なさの方が、歴史的に意味がありそうに映る。
ヴェルサイユ宮殿の栄華は、フリードリヒ大王をはじめとする王侯たちの憧れであった。しかし栄華とは、偉大な政治的意志が伴ってはじめて花開くもの。後継者たちは国家財政を窮地に陥れただけの存在でしかない。もちろん王妃も同罪だ。数々のスキャンダル沙汰に囲まれながら大衆の餌食となっていく様に、これといって陰謀めいたものを感じない。女の面子を競って虚栄を張り、煮え切らない浮気心を覗かせ、せいぜいルイ14世が残した負の遺産を目立たせるぐらい。この派手好きな人物をツヴァイクならどう描くだろうか、凡庸な人間像から迫る歴史叙述とは... 興味はただこの一点にある。
「王妃マリー・アントワネットの物語を綴るということは、弾劾する者と弁護する者とが、たがいに激論のかぎりをつくしている、いわば百年以上にもわたる訴訟を背負いこむのと同じことである。」

ツヴァイクは、歴史文献の扱いの難しさを問いかける。そして、確実な文献であるはずの自筆の手紙でさえ信頼できないと指摘している。王妃の書簡と称するものは、ほとんど自身の著名が残されているそうだが、短気で落ち着きのない性格となれば手紙の書き手としても無精で、彼女自身がサインをするのは稀だという。大胆不敵にも天才的な偽造者がいるというわけだ。書簡集だけでも大儲けできるとなれば、マリー・アントワネット物語とは偽造の歴史というわけか。
ツヴァイクは、偽造の張本人を名指しする。書簡集の出版者フィエ・ド・コンシェ男爵にほかならぬと。有数な外交官で、異常な教養の持ち主だとか。落ち着き過ぎた丸味のある書体はいかにも胡散臭いし、あまりにも巧みに筆跡、文体を真似ているために、本物と偽物の見分けもつかないとぼやく。したがって、フィエ・ド・コンシェ男爵の文献は、容赦なくいっさい顧慮しなかったという。
「歴史的著述の末尾には、利用した文献をあげるのがならわしではあるが、マリー・アントワネットという特別の場合にあっては、いかなる文献を、いかなる理由から利用しなかったかを確めておくほうが、私にはより重要なことと思われる。」

口述文献においては、手紙よりも事情がさらに酷い。歴史の証言には、政治的に改竄されてきた口述で溢れている。フランス革命の熱狂にあっては疑わしい証言ばかりで、傀儡的な侍女や召使たちが好き勝手に喋る有り様。身の毛のよだつ恐怖政治の下では、まともな証言はすべて抹殺される。しかし、それが集団的狂気の中で起こった出来事だとすれば、現在の情報社会における集団的暴走と何が違うだろうか?
「国民大衆というふしぎな実体は、いつも擬人的に、まったく人間的にだけものを考える習いがある。概念なぞいうものは、大衆の理解力にとっては、けっして完全に明瞭になるものではなくて、ただその概念を具現している人物だけがはっきりしているのである。」
モーツァルトがマリー・アントワネットに求婚したという話から、更に懲りずに、処刑の際、誤って刑吏の足を踏み、丁寧にごめんなさい!と言ったという話... これらの逸話は、フィエ・ド・コンシェ男爵の作品だそうな。そして、いかにも読者を喜ばせ、朗らかな印象を与える逸話を、本書の中に見つけることができず、読者をがっかりさせるだろうと断っているが、どうして!どうして!
マリア・テレジアとの往復書簡にしても、完全に公刊されると言われながら、極めて重要な部分が非公開になっているそうな。本書は、そうした箇所を存分に取り入れている。それでも真相は闇の中、当人にしか知り得ないことに変わりはあるまい。歴史上の人物に興味を持たせるために、是が非でも人物像を理想化し、感傷化し、英雄化する必要はない。人間を人間らしく伝える、これぞ歴史叙述というものであろうか。
とはいえ、激動の史実を語るのに、文学的な脚色は不可欠だ。ルイ16世との悲愴な愛の苦悩と、スウェーデン貴族フェルセンとの純愛の讃歌が対照的に描かれるところに、文学の美を醸し出す。歴史をいかに紐解くかという観点から、歴史叙述を推理小説風に展開する手腕は相変わらずだ...

1. ブルボン家とハプスブルグ家の婚姻
ブルボン家ではルイ14世が世を去り、ハプスブルグ家でもカール6世が世を去ると、女帝の時代に突入する。その典型的な形は、フリードリヒ大王に対抗して、ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジア、ロシア女帝エリザヴェータ、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人の三人が包囲した戦争に見て取れる。フランス王国では、ルイ15世、ルイ16世と惰性的な王が続き、王妃や愛妾が宮廷を牛耳るようになる。何世紀もの間、ハプスブルグ家とブルボン家はヨーロッパの覇権をめぐって戦争を繰り返してきたが、ついに両家とも疲れ果て講和を求める。ハプスブルグ家は、巧みな婚姻外交によって領土を広げてきた備えから、いつの時代にも結婚適齢期の女性で事欠くことがない。
では、誰をルイ15世に輿入れさせるか?年齢順に候補を募ると、雲隠れするは、その気はないはで、なかなか決まらない。1766年、ようやくルイ15世の孫と年齡で釣り合うマリア・テレジアの娘の名があがる。マリー11歳のこと。だが、13歳になってもドイツ語もフランス語もまともに書けない不勉強で能天気な怠け者、これを教養ある貴婦人に仕立てあげるには骨が折れる。フランス側からオルレアン司教の推挙で、ヴェルモン神父が傅育官としてウィーンへ派遣される。神父がフランス王妃に相応しいと本当に判断したかは知らないが、見た目だけなら上品そうで明るい性格だし、ちと無理のある報告で、ルイ15世はようやく結婚を承諾する。ちなみに、神父は、利発だが怠慢で、皇女の教育は自分には手に余ると漏らしたとか、漏らさなかったとか...
華燭の典は、両家の誇りや見栄のために盛大に行われた。財政緊縮を迫られているというのに。豪華極まりない祭典に民衆がわき、幼い新王妃が有頂天となるのも仕方があるまい。だが、民衆とは移り気が激しいもので、何事も賛否両論があり、その力関係は振り子のように揺れ動いている。いつの時代も、政治家はこの流れが読めないで苦慮する。既にフランス革命は、ここに運命づけられていたのかもしれん...

2. 宮廷喜劇
ルイ16世は優柔不断もさることながら、異常に無気力な性格の持ち主。寝室でも、内気のせいか?経験不足か?愛撫もできず、7年間も実質的な夫にはなれなかったとか。宮廷で不能が噂され、物笑いの種。マリーは、女として妻として恥辱をこうむってきた。
ツヴァイクは、ルイ16世の精神状態を、男性的弱体に由来する劣等感の典型的な症例であると、臨床医学的に解説している。男の性格に及ぼす現象と、女のそれとでは、夫婦でまったく正反対になるという。男の場合は、性的能力に障害があると、抑圧に悩み、無気力となり、女の場合は、受け身で献身的な態度が実らないと、怒りやすく、自制心を失うと。
また、皇室の圧力は、余人には想像もつかないものがある。「マダム・エチケット」と渾名されるノアイユ伯爵夫人の口うるさい説教から逃れようとする日々。マリーの場合は、感受性が強く、情熱的な乙女だけに、余計に爆発したと見える。なにしろ、22歳まで処女だったのだ。遊び好きはエスカレートし、毎日朝帰り!
「私は退屈するのがこわいのです。」
享楽というものは恐ろしい。真の自由を与えないばかりか、まったくの奴隷にさせる。社交界では、独りでいることもできない。そんな王妃に、気弱なルイ16世は小トリアノン宮を贈る。もともとは、ルイ15世がデュバリー夫人などの浮気のために使った宮殿だとか。なによりも束縛を嫌うマリーは、ここに絶対不可侵な国を作り、美術品や装飾品で埋め尽くしてロココの女王となった。
商売に抜け目のない装身具屋が、彼女の気性を利用しない手はない。今日はどの衣装にするかという気まぐれな悩みは、侍女や裁縫師や刺繍師たちを忙殺する。贅沢こそが、着飾ることが、義務だと言わんばかりに。実際、そう思っていたのかもしれん。
それはともかく、夫婦仲がうまくいかなけば、フランスとオーストリアの同盟が危うい。さすがに母マリア・テレジアも娘を説教し、兄の皇帝ヨーゼフ2世は義弟のルイ16世を励ますために、わざわざパリへ赴く。そして、長年の不能から、ついに誇らしげに妊娠が報じられる。だが、贅沢病は死んでも治りそうにない...

3. デュパリー夫人との確執
宮廷は二派に分かれた。ルイ15世の妃は既に亡く、婦人仲間で最高の権威をめぐる争いは、王の三人の娘に帰するはずだった。だが、愚かな三人娘は、やることなすこと不手際。謁見の際、上席を占めたり目立つこと以外に、地位を利用する術を知らない。へつらったところで地位を世話してくれるわけでもなく、なんの見返りもないとなれば、影響力を失うばかり。
そして、栄光と名誉は、ルイ15世の寵妾デュバリー夫人に帰する。デュバリー夫人は下層社会の出身で、貴族の片割れという肩書を手に入れるために、いいなりの情夫に金を出させ、無類の好人物デュバリー伯爵を手に入れたという。そして、伯爵は結婚後すぐに身を引き、夫人は王のお気に入りとなる。
そんなところに、マリーが輿入れしてきたものだから、デュバリー夫人を快く思わない連中が近づく。ただ、形式上の地位はマリーの方が上で、自然に振る舞っていれば威厳を失うはずもない。儀礼の上では下の者から言葉をかけるわけにはいかないので、ちょいと王妃が声をかければ済む話。しかし、この意地っ張りは冷然と嘲笑うがごとく、いつまでも言葉をかけず、徹底的に無視することによって決闘を挑む。宮廷では、どちらが勝利するかの話題で持ちきり。実にくだらん!
しかし、これが同盟の危機となれば話は別だ。母マリア・テレジアの耳にも入り、外交ルートを通じて、戦争になるぞ!とちょいと脅せば、マリーは涙ぐむ。1772年、ついにヴェルサイユ宮殿の観客を証人とする中で、デュバリー夫人の勝利で決着。誰もがマリーの言葉を聞き漏らすまいと静寂する中、ひとこと口にした。
「今日は、ヴェルサイユは、たいへんな人ですこと。」
だが、一度母に譲歩したからには、デュバリー夫人に二度と声を聞かせないと決意したとか...

4. 首飾り事件
1785年、王妃の名を語った詐欺事件が発生。大掛かりな詐欺には、二つの要素が揃わなければならない。一つは大ペテン師、二つは大馬鹿...
ヴァロワ家のラ・モット伯爵夫人は宮廷に知り合いがなく、いきなり奇襲をしかけたという。歎願者に混じって応接間に現れるや突然倒れ、長年の飢餓と衰弱によって涙ながらに同情を集める。すると年金が増額されたとか。味をしめて二度、三度と倒れて見せるものの、胡散臭く見えてくる。そして、軽信家ド・ロアン大司教に近づく。ロアン大司教は、マリーを男にしたような人物だという。軽率、皮相、浪費、無頓着。聖職者でありながら、まったく世俗的で、陽気な遊び好きとくれば、マリーと馬が合いそうな...
それはさておき、ラ・モット夫人は、ロアン大司教に王妃の親友だと語り、宮廷御用宝石商ベーマーに首飾りを買いたいと伝え、160万リーブルもの宝石を騙し取った。この事件が明るみになると、浪費家で名高い王妃の責任を問う世論が巻き起こる。潔白を証明しようと裁判に持ち込んでも、証拠物件が見つからない。というのも、ラ・モット夫人の夫が首飾りの一切をロンドンへ持ち逃げしていた。偽造文書も焼却され、本当に偽造があったのか?王妃が隠し持っているのではないか?という噂が広がる。
ことごとく関係者と思われる人物が逮捕されていく中、結局、ラ・モット伯爵夫人だけが有罪。そして、V字の焼き印を胸に押されるという戦慄な処罰が行われる前で、民衆の同情が集まる。この裁判の勝者はいないが、少なくとも敗者は自ら法廷に持ち込んだ王妃であった。この事件で、マリーは初めて自信を失ったという。
優柔不断なルイ16世は、裁判後、辛うじて大司教の職を奪い、関係者数人を国外追放にしたのみ。ラ・モット夫人は、暗闇にまぎれて獄舎の扉を開き、イギリスへ亡命。脱獄できたのは司法取引であろうか?狡猾な女ペテン師は、再び宮廷と瞞着する。口止め料をもらって回想録を発行し、自分が犠牲者であったことを告白。暴露本には、ロアン大司教とマリーの親密な関係までも掲載されたという。もちろん事実無根。スキャンダル沙汰というものは、面白おかしく飾り立て、報道屋の餌食にされるものだ。それこそ首飾りのように...
「マリー・アントワネットは、頸飾り事件の奇々怪々な奸策陰謀に対しては全然無罪ではあるが、このような詐欺が彼女の名においてともかくおこなわれ、また信じえられたという点にいたっては、彼女の歴史的罪であったし、また歴史的罪たるを失わない。」

5. フランス革命勃発
アメリカ独立戦争から帰国した志願兵たちが、かの戦地で目の当たりにしたのは、宮廷もなければ国王もいない、貴族もいない、市民と市民がいるだけの社会。王政がもたらす秩序が、神の意志に基づく唯一のものでもなければ、最上のものでもないということだ。それは、ルソーの「社会契約論」にもはっきりと謳われ、ヴォルテールやディドロの著述にも表れる。
1789年、ついに国民議会が爆発。この国の支配者は国王と国民議会のどちらか?瞬く間に革命の象徴となる三色旗が掲げられ、至るところで軍隊が襲撃され、パリの町は勝利に酔いしれる。
ところが、この世界的事件のさなか、わずか10マイル先のヴェルサイユでは誰も気づいていない。ルイ16世は、バスティーユ襲撃の報を受けても断を下さず、10時には睡眠に入る始末。当時、革命という言葉がどれほど認知されていたかは知らない。フランス革命によって知れ渡った言葉といえば、そうかもしれない。ここに国家と国王の新旧イデオロギー対決が始まる。それは、王族の繁栄と国家の繁栄とが区別されはじめた時代だ。鈍感なルイ16世が、この事態を呑み込めなかったのは無理もない。王妃はというと、感覚的にモノを言う人であることはとっくに分かっている。王室の立場しか理解できない彼女にとって、自分に反対する者は、口やかましいヤツぐらいにしか思っていないだろう。
王家は、ルイ14世以来百五十年このかた、住まいとして使っていなかったチュイルリー宮に幽閉される。そこに、オノーレ・ミラボー伯爵が宮廷に援助を申し入れ、国民議会との仲介役を買って出たという。だが、ミラボーは暴動を引き起こす天才だとか。王家にその人格を見抜く力などあろうはずもない。歴史の激動期には、必ずこの手の魔神的な人物が暗躍するもの。ツヴァイクは、彼ほど二股膏薬を演じた者はない、と評している。
しかし、王室を手玉にとった男も、1791年、忽然として死去。その二年後、王と内通していたことが暴露されると、肉体を墓所から引きずり出され、皮剥場へ投げ捨てられたとさ。ミラボーの死によって国民議会との唯一のパイプを失い、宮廷側は完全に沈黙する。

6. フェルセンとは何者か?
スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンは、マリーの愛人として片付けられることが多い。だが、ツヴァイクはこの人物に重要な役柄を与えている。
フリードリヒ大王と敵対する国々は、フランスとオーストリアの同盟関係に注目している。スウェーデン国もその一つ。フェルセンとスウェーデン王との書簡のやりとりが、いずれスウェーデン国で要職に就くことを予感させる。彼は、ラシュタット会議、すなわち神聖ローマ帝国とフランス革命政府との講話会議で、スウェーデン国代表を務めている。王党派の情報は筒抜けだったのかもしれない。スウェーデン王グスターフ3世は、こう記しているという。
「王一家の運命に寄せる余の関心がいかに大であるとはいえ、しかもなお、ヨーロッパ諸国の勢力均衡という一般的情勢の難点、スウェーデンの特殊利益、及び絶対権の問題の困難さのほうが、はるかに重大だ。いっさいは、フランス王政が回復されるかどうかにかかっているのであり、王座そのものが回復せられ、騎馬学校の怪物(国民議会)が破砕せられるということであるならば、この王座にすわる者がルイ16世であろうと、ルイ17世であろうと、はたまたシャルル10世であろうと、われわれにとってはまったくどうでもいいことだ。」
しかし本書には、マリーの思慮浅い性格を利用して、ブルボン家を操ろうなどという思惑は見えてこない。役目はなんであれ、あくまでもプラトニックな愛を育んだ証拠を強調している。

7. ヴァレンヌ逃亡劇
フェルセンは、王族の逃亡劇で一役買う。最も信頼できる人物とはいえ、国王の脱走を外国人に委ねるのも無思慮な王妃らしい。しかも、一分一秒を争う脱走劇で、一族が一緒に乗れる大型の馬車を準備させたり、身の回りの世話をする侍女や召使を同行させる有り様。お嬢様には、脱走と旅行の区別もつかないらしい。
しかし、ルイ16世は逃亡中、これ以上のフェルセンの同行を望まない。妻の友人と肩を並べて臣下の前に姿を表すことが、はばかられたのか?ルイ16世は、国境付近の軍を預かっていたブイエ将軍が駆けつけることを信じ、パリへ取って返して王位奪還を目論んでいた。だが、ヴァレンヌの人々は、革命の歌とともに行進してくる。ブイエ将軍が到着するも、時既に遅し。
国王一行がシャロンに着くと、市民たちは石の凱旋門で待ち構えていた。歴史の皮肉か!21年前、ガラス張りの馬車に乗って、国民の歓呼を浴びなからオーストリアから輿入れした時に、王妃の名誉のために建てられた凱旋門である。石の装飾にはラテン語で、こう刻まれる。
「この記念碑、我らの愛のごとく永遠につづかんことを」
鉄面皮は民衆の憎悪にさらされ、もはや王でもなく、王妃でもない。マリーは、まだ生きている旨をフェルセンに手紙したという。だが、真に愛情のこめられた書簡は、フェルセンの子孫によって抹殺されているそうな。それでも言葉の欠片から、愛情の躍動を感じ取ることができる。
しかしながら、本当の禍いは、逃亡劇の失敗よりも、ルイ16世の弟プロヴァンス伯爵が時同じくして試みた亡命が、成功したことにあるという。後に、ルイ18世を名乗る人物だ。投獄されたルイ16世とその息子ルイ17世の失脚は、無条件で二段階特進という寸法よ。政治とは、まさに二枚舌の才が求められる世界。兄レオポルトですら妹マリーを釣ろうと...
「兄は妹をあざむき、王は国民をだまし、国民議会は王を裏切り、君主は君主をあざむいて、ただただ自己の問題に有利となるよう、時を稼ぐべく万人たがいにだましあっている。... 誰も火傷はしたくないが、みな火をもてあそび、皇帝も諸王も王族も革命党員も、このたえざる密約と欺瞞によって、一種の猜忌の雰囲気をかもし出し、ついには欲せずして、二千五百万の人々を二十五ヵ年にわたる戦乱の渦中に投ずるにいたる。」

8. タンプル獄とコンシェルジュリー牢獄
ルイ16世が共和制の憲法を承認すれば、一旦身柄は安全となる。だが、急進派は相変わらず王政廃止を目論む。フランス革命が行き詰まりを見せると、オーストリアへ宣戦布告。大昔からのやり口だが、国内の不満が抑えきれなくなると対外戦争にうってでるのが、政治の常套手段。
マリーは王妃の地位を守るために、フランス軍の進軍計画をオーストリア大使に伝える。この浅はかな行為が、売国奴の汚名を着せられる。激怒した民衆は、国王一家が収容されるテュイルリー宮を襲撃。国家反逆罪に問われても仕方がないが、国家や国民の概念ですら認知できなかったと見える。
監獄には古めかしく陰鬱な城塞が選ばれ、いまやルイ16世、マリー、王太子、王女、妹エリザベス女公の五人だけ。ただ、城壁に幽閉されれば、身柄の安全は保障される。
しかし、王家の監督を委ねられた人物エベールこそは、革命党員の中で最も典型的な人物だという。王妃を誹謗してやまない毒舌家に一任したことは、読み飛ばしたくなるほどのフランス革命史の暗澹たる一頁であると...
革命の初期段階では、理想主義が優勢であったのは確かであろう。心ある貴族や市民、あるいは名望家から構成される国民議会は、民衆を解放しようと意図するものの、やがて解放された者は、解放してくれた者に歯向かう。革命の第二期では、急進分子や怨恨からの革命党員が優勢となり、彼らにとって権力は新たな野望の対象となる。やがて卑劣な人物が采配をふるい、野心と狡猾さに自由が支配され、議会は精神的凡庸さによって席巻される。
「フランスのいままでの主君が、歴代諸王の王宮を獄舎と換えたその同じ夕、パリの新しい主人もその居を変える。同じ日の夜、断頭台はコンシェルジュリーの中庭から引き出され、威嚇的にカルーゼル広場へすえられたのである。フランスは知るべきでだ、八月十三日以降フランスを支配するのはもはやルイ16世でなくてテロであることを。」
王家の集団リンチは、民衆にとってある種のお祭りだ。革命は、反革命派を根こそぎ処刑するために最初の生贄を欲した。1793年、ルイ16世処刑。死刑宣告を受けてもなお恐怖も興奮も示さない無感動な性格が、ここにきて王としての威厳を見せるとは...
王太子は靴匠シモンに引き渡され、マリーはいよいよ孤独となる。いまやハプスブルグ家の人質の役割でしかない。革命政府はオーストリアに賠償交渉を持ちかけるが、レオポルト2世の子、皇帝フランツは、叔母を救い出すために宝石一つ出そうとはしない無情漢。そこで、マリーの身柄はコンシェルジュリー牢獄へ移送される。コンシェルジュリーは「死の控室」と呼ばれ、ヨーロッパ中に知れ渡った牢獄だそうな。つまり、オーストリア皇女を殺すぞ!と脅しにかかったわけである。
ところで不思議なのは、これだけ厳重に監視されているにもかかわらず、脱獄させようという計画が、やたらと記録に残っていることである。「カーネーション事件」は、その典型である。後に、アレクサンドル・デュマが潤色をほどこして一大小説に書いたやつで、ある男が独房に真っ赤なカーネーションの花束を差し入れすると、その中に救出の段取りが書かれていたという逸話。この事件の真相を知るのは、ほとんど不可能のようだが、マリーは裁判で自供しているそうな。チュイルリー宮の時代から知っている人物で、その男からカーネーションに潜ませた手紙を受け取ったことや、返事をしたためたことを。そして、その近衛兵の名前は思い出せないと突っぱねたという。
マリーには、看守までも、友に、助手に、召使にしてしまう魅力があるらしい。最も厳しい監獄にありながら、特別なご馳走を用意したり、好きな飲料水を他の地区から持ってきたり、髪を結いましょうと申し出たりと、陰ながら尽力しようとした見張り役も少なくなかったようである。タンプル獄からの一連の試練が、彼女に死を覚悟させ、気高い振る舞いをさせたのであろうか...
「危険というものは一種の硝酸である。可もなく不可もない生ぬるい生活状態では、見分けがたく入りまじっているものが、... 人間の果敢と臆病が、この試験を受けると分離する。」

9. 革命裁判
1793年、フランス革命は危殆に瀕する。最強の砦マインツとヴァランシエンヌが陥落し、イギリス軍が重要な軍港を占拠。パリに次ぐ大都市リヨンには叛乱がおこり、植民地は失われ、パリは飢餓に襲われ、民衆は意気消沈し、共和政府は没落寸前。もはや自殺的な挑戦あるのみ、それは恐怖を吹き込むこと。そして、リヨン大虐殺の蛮行に走る。革命裁判の暴走は、断頭台を活況とさせる。過激政策を非難する者には、裏切り者の名を与え、ことごとく処刑。その矛先は、マリーにも向けられ、最初から処刑ありきの裁判へ。
ところで、古来、マリー・アントワネットの伝記を書く者にとって、大きな謎とされる事があるという。それは、王太子の母に対する不利な証言と、擁護者たちの屈折した証言である。子が生みの母を誣いる陳述をしたことは、歴史にもあまり例を見ない。暴力で脅した様子もなければ、酒を飲ませて意識を朦朧とさせた形跡もない。王太子の態度は、証人席に腰掛けて足をぶらぶらさせるなど、遊戯的な厚かましさが記録されるという。お喋り屋さんで、聞いたことをすぐに口にする癖があったとか。とはいえ、まだ8歳のガキだ!王妃の情熱的な擁護者たちも、ばかに回り道をした説明や、とんでもない曲解に逃れたりしているという。幸か不幸か、母マリーは常に獄中にあったので、王太子の途轍もない陳述をすぐには知らない。死の前々日になって、ようやく告訴状によって屈辱を知るのである。
裁判が始まると、千差万別の罪状が時間的にも論理的にもつながりがなく、雑然と持ちだされる。おまけに馬鹿げた証言ばかり。ある侍女は、王妃がヨーゼフ2世に巨額の金貨を送ったのを聞いたとか... オルレアン公を殺すつもりで常に二挺拳銃を携帯していたとか... 裁判が、物笑いの餌食にするための喜劇を演じるならば、証拠なんぞどうでもいい。しかし、ギロチン刑で処すとなれば、大罪人である証拠がいる。罪があるとすれば、浪費家が国家財政を圧迫させたこと。そして決定的なのは、王位を奪還するために、オーストリア大使にフランス軍の進軍計画を漏らしたこと。
裁判中、マリーはちっとも動じない。最初から死刑と決まった裁判を引き伸ばす必要が、どこにあろう。この世でなすべきことは、二つしか残されていない。毅然とした態度で自己を弁護し、自若として死ぬことだ。ハプスブルグ家の皇女であり、依然としてフランス王妃であることを、国民に誇示するしか道はない。そして、妹エリザベス女公に最後の手紙を宛てる。
「愛する妹よ、いま貴女に最後の手紙をしたためます。いま判決を受けてきたところですが、恥ずべき死ではありません。犯罪人にとってのみ死刑は恥ずべきことであります。」

10. マリーの死後
斬首されると、共和国万歳!の叫びがこだまする。しかし、そんな一時もすぐに忘れられる。恐怖政治では、明日は我が身!実際、墓穴を掘るにも金がかかり過ぎるほど、続々と断頭台に送られていく。ダントンしかり、ロベスピエールまたしかり...
一方、皇女を救おうとしなかったハプスブルグ家は、良心に苛まれる。後に、ナポレオンはこう語ったという。
「フランスの王妃について深く沈黙を守ることは、ハプスブルグ家において固い掟であった。マリー・アントワネットという名前が出ると、彼らは眼を伏せ、迷惑な手痛い問題を避けようとするかのように話題をかえる。この掟は家族全員が守るばかりでなく、国外駐在の使臣たちにもそれとなくいい含められていた。」
さて、マリーの死後も変わらず、最も忠実な人はフェルセンだったという。彼女への思いを妹に書簡しているとか。しかし、遺児の娘はフェルセンに話しかけることも許されず、オーストリア宮廷の滞在も拒否される。ヴァレンヌ脱走劇で、ルイ16世の命に従って、王妃を残して去った6月20日のことを悔いたという。
フェルセンは故国で有力者になる。元帥となり、王の顧問となり、次第に支配者型の人物になっていったとか。彼は、王妃の処刑からか、民衆を悪意ある賤民、卑劣な下民として憎悪したという。民衆もまた彼を憎み返し、フランスに復讐するために、自らスウェーデン王になろうとしていると吹聴される。スウェーデン王太子が死ぬと、フェルセンが毒殺したという噂まで。マリーがそうであったように、フェルセンもまた民衆の餌食とされ、暴力分子に惨殺される。6月20日の運命の日に...

2014-11-09

"エリック・エヴァンスのドメイン駆動設計" Eric Evans 著

ドメイン駆動設計(Domain-driven design)とは、モデリングパラダイムを中心に据えたソフトウェア設計手法である。おいらはプログラマではないが、あらゆる分野の研究、開発、設計が、効率化とコスト削減のためにデスクトップ上に展開される御時世。プログラミングをまったくやらなくて済むなんて職場を、おいらは知らない。統計モデルの記述には数値演算言語が、電子回路の実装にはハードウェア記述言語が、データベースの管理にはSQLが、Webの構築にはマークアップ言語が、などなど... 古くから、脳をモデリングするための人工知能言語が研究され、新しいところでは、ゲーム開発用のスクリプト言語が登場する。いわゆる、ドメイン固有言語ってやつだ。こうした言語は、各々の分野で本質を見極めようとする動機から生まれ、おかげで、システムのプリミティブな知識を知らずとも、本来の仕事に集中することができる。本書は、コンポーネント群から分離した本質を抽出するプロセスに、「蒸留(distillation)」という語を当てる。モデルとは、蒸留された知識を言うそうな。今宵は、余計な知識を揮発させるために、熟成された蒸留酒をやらずにはいられない...

ソフトウェアの設計は、対象が目に見えないだけに、メタファ的な発想を要求してくる。いわば、概念と実体を結びつける空想力だ。リファクタリングやリポジトリ、あるいはレイヤ化アーキテクチャといった発想は、システムを理解する上で重要な概念となる。こうした思考法は、ソフトウェアに限らず、多くのシステム開発で参考にできるはずだ。現実に、システムを本当に理解している人は、そういるもんじゃない。技術屋の関心事は特定の技術に向けられ、営業屋は顧客の要求がすべてだと考え、お偉いさんは納期や政治的な事ばかりに気を配る。顧客だって提案に反応するだけで、本当に要求するべきものを知っているわけではあるまい。強烈な責任分解が悪しきシステムを生み出し、複雑なシステムほど手に負えなくなるのも道理である。
「大規模な構造を適用すべきなのは、モデルの開発に不自然な制約を強いることなく、システムを大幅に明確化する構造が見つけられた時だ。うまく合わない構造なら、ない方がましなのだから、包括的なものを目指すのではなく、出てきた問題を解決する最小限のものを見つけることが一番だ。"より少ないことは、より豊かなこと(Less is more)"なのだ。」

本書が提供してくれるものは、ソフトウェアの核心にある複雑さを相手取るための思考法である。それは、設計上の意思決定を行うフレームワークと、ドメイン設計について議論するための技術的な語彙であり、語彙の定義こそが要だ!ということを教えてくれる。つまり、顧客から開発者に至るまで対話できる共通ボキャブラリの構築である。なによりも強調していることは、チームをより効果的に導くこと、ビジネスエキスパートとユーザにとって意味ある設計に集中させること、そして、深いモデルとしなやかな設計を目指して試行錯誤の継続が重要だとしている。
ここには、エリックの経験則が綴られる。むかーしから蓄積されてきた愚痴が、つい爆発してしまうのは、それだけ現場の本音を物語っているからであろう。設計者が顧客を説得できないのは、システムのポリシー、ひいては哲学がないからに違いない。もっと言うなら語彙が乏しい。専門に閉じこもればシステムとしてのドメインが見えなくなる、高度な技術に凝り固まればユーザの気持ちが見えなくなる... とは、実に頭の痛い御指摘!こいつは、実践に概念を結びつけるための哲学書である。そして、ドメイン駆動設計には非常に高度な設計スキルを養う機会が溢れていることを教えてくれる。
尚、対象読者には、オブジェクト指向, UML, Javaなどの基本的な知識が必要としているが、プログラミングを趣味ぐらいにしか考えていないアル中ハイマーでも抵抗感がない。もっとも仕事も趣味の延長ぐらいにしか考えていないが...

1. ドメインとユビキタス言語
ところで、ドメインってなんだ?改めて突き付けられると、なかなか手強い用語であることに気づかされる。辞書を引くと、領域、範囲、分野、あるいは、境界や定義域といった意味を見つける。通信業界ではネット―ワックの管理単位とし、ディレクトリサービスでは共有範囲や利用者グループの範囲とする。ソフトウェア工学は仮想的な領域を扱うことが得意なだけに、用語の量や複雑さに圧倒される。活動や関心の範囲を抽象化し、実体を含む領域もあれば、実体を含まない概念だけの領域までも編み出しやがる。モデルは、この重荷と格闘するためのツールであり、シンプルに組み立てられた知識の表現形式である。したがって、ドメインとは、知識が厳密に構成され、効率的に抽象化された定義域とでもしておこうか。
自然言語も、人間のコミュニケーションツールとしてのドメイン固有言語と言えるかもしれない。あらゆる学問で情報交換を効率的に行うために専門用語が編み出されるが、これも同じようなものであろうか。そして、システムは言語である、とでもしておこうか。
それは、技術者に留まらず、ユーザを含めたシステムに携わるすべての連中とコミュニケーションできる手段となるべきもの。本書は「ユビキタス言語」と呼んでいる。ユビキタスとは、チームの至ることころに存在するという意味で使われている。
しかしながら、言語の柔軟性は想像以上に手強い。言語表現は、精神活動の投影でもあるのだから。例えば、「信用」という用語は、経済学のものと心理学のものとでは大きな隔たりがあるし、「客観」という用語は、数学のものと他の学問のものとでは度合いがまったく違う。客観性の強いはずの技術用語ですら微妙なニュアンスの違いを見せる。パッケージ、コンポーネント、インスタンス、エンティティなど、これらの用語は専門によって使い方が違ったり、企業組織や開発グループによっても微妙に解釈が違ったりする。オブジェクト指向を一つとっても捉え方は様々で、美しいモジュール性を励行したり、カプセル化や継承を強調したり、メソッド操作の一貫性を保ったりと。Wikipediaや用語辞典に頼り過ぎると、却って混乱することもある。
チームに浸透する微妙なニュアンスは、実践でしか育まれるものではない。最初の会議で、用語群の定義を大切にするマネージャを見つければ、それだけで信頼に値するだろう。プロジェクトマネージャとは、ある種のシナリオライターだと、おいらは考えている。その一方で、長嶋茂雄ばりの英語まじりで、何を言っているか分からないお偉いさんを見かけるけど...
どんなシステムを設計するにしても、その仕事に適した用語群が形成されるはずだ。言語とは、記号で記述するものだけでなく、構造図、振る舞い図、関連図といった視覚的に訴える手段も含めておこう。言語は、柔軟性こそ味方につけるべきである。プロジェクト内で用いられる言語が、設計の楽しさを醸し出し、我がチームの合言葉となることを願いたい...

2. レイヤ化アーキテクチャとドメイン層
本書は、システムアーキテクチャを四つの層に分けて分析することを推奨している。上位から、ユーザインターフェース層、アプリケーション層、ドメイン層、インフラストラクチャ層である。ユーザインターフェース層はユーザの要求や状態などを管理、アプリケーション層は処理やトランザクションなどの管理、インフラストラクチャ層は上位のレイヤを支える技術を提供する。
注目したいのは、ドメイン層を独立させていることだ。この層では、概念や規定の責務を負うという。いわば、設計思想を担う核心部分というわけだが、これを分離する感覚がとっつきにくい。そもそも思想や哲学というものは概念的なものであって、しかもシステム全体に浸透すべきものであり、すべてのレイヤを含んでいそうなもの。しかし、概念と手段を明確に区別することにも、一理ありそうだ。ドメイン層がアプリケーション層とインフラストラクチャ層の間に位置するのは、思想と実践の架け橋にでもなろうというのか。
ところで、古くから、MVCというデザインパターンがある。モデル、ビュー、コントローラで分離する設計概念である。ビューとコントロ―ラを結合させて、ドキュメント/ビュー構造にも馴染みがある。ドメイン層という発想は、こうした流れから派生しているようである。そうなると、ドメイン層は実装よりもドキュメントとの結びつきが強そうに映る。なるほど、ユビキタス言語との結びつきが鍵というわけか。
実際、多くのエンジニアが手段に目を奪われ、本質的な要因を理解しようとしない。コマンドの叩き方やコードの書き方を工夫すれば、目的に適った動きをしてくれるので、それで理解した気分になれる。コンピュータサイエンスの視点からモノを見るエンジニアは意外と少ない。そんな必要もないのかもしれんが。些細な問題を抱えても目先の対処で誤魔化すために、潜在的に大きな問題を抱えるケースも珍しくない。あるいは逆に、冗長的な方法論や過剰な機能を付加して、自ら墓穴を掘るケースもある。
しかしながら、モデリングパラダイムによく適合した実装技術を身に付けるとなると、かなり骨が折れる。手っ取り早く、オブジェクト指向あたりでええじゃん!と、つい考えてしまう。実際、言語システムを選択することで、設計思想の確立を肩代わりさせることもある。設計グループには文化があり、そこに実装に用いる言語がどっぷりと浸かっている。設計文化が、言語そのものとか、コーディングルールだと主張する人も珍しくない。そのために、どの言語システムを選ぶべきか、という論調になりがちである。
「モデルに貢献する技術的な人はだれでも、一定の時間をコードに触れることに費やさなければならない。プロジェクトで主に果たしている役割が何であれ、そうしなければならないのだ。コードの変更に対して責任を負う人はだれでも、コードを通してモデルを表現することを習得しなければならない。すべての開発者は、モデルに関する議論にいずれかの段階で参加して、ドメインエキスパートと話をしなければならない。その他の方法で寄与する人々は、ユビキタス言語を通じてモデルに対する考え方をダイナミックに交換する際に、コードに触れる人々を意識して巻き込まなければならない。」

3. リファクタリングとリポジトリ
ドメインモデルを習得するためには、リファクタリングが鍵になるという。戦略的設計には、より深い洞察へ向かうリファクタリングが必要だというわけだ。政治的に言えば、ビジョンってやつか。最初からシステムを理解している者など、そういるものではない。すべては試行錯誤によって導かれるであろう。システムってやつは、機能追加や修正にともなうバージョンアップを繰り返すうちに、いつのまにか設計思想を見失って硬直化し、やがて過去の遺物と化す。
リファクタリングの対象は、モジュールそのものに向かいやすく、設計思想といった上流工程に向かうことはあまりない。インターフェースを保持しながら、構成要素の中身を再検討することはよくやるが、一度決定した全体構成を見直すことをあまりやらない。変更リスクが大きいからだ。
しかし、ドメインレベルで思考することによって、システムそのものが生き物のように進化するという。それは、構成の分離と統合、用語の定義といった様々な境界を明確にしながら、さらに再定義すること、そして、システムに柔軟性を持たせると同時に、異質な設計の紛れ込む余地を許さないことを目的とする。ひとことで言えば、アジャイルに、PDCA(Plan - Do - Check - Act)を回転させるといったところであろうか。
また、リポジトリのテクニックが重要だとしている。データベースへの問い合わせは、過去を遡る手段となる。そして、データベースの構造、すなわちデータ構造そのものが、ドメイン設計にとって根幹となるはずだ。各メソッドのデータ構造へのアクセス方法が、一貫性を保つルールを自然に育むだろう。リファクタリングの意義は、完璧な設計などありえないというコア思想を見直す習慣を身に付けることになる。その習慣が、技術と品質の妥協を許さない技術者魂を呼び起こすであろう。最終的にシステムは、ユーザにとって役立つものでなければ意味がないが、その前にエンジニアにとっても役立つものとしたい。コードの保守は、後々重要な知識の蓄積となって返ってくる。モデルとは、システムの物語を伝えるためのものなのかもしれん。
「深いモデルは、ドメインエキスパートの主要な関心事と、それに最も深く関連した知識に関する明快な表現を提供するが、一方で、ドメインの表面的な側面は捨て去るのだ。」

4. 副作用の宿命
モジュール化によって、様々な副作用の余地を残すのは危険であろう。関数の設計であれば、副作用のないことを期待するが、完全に副作用を排除することも難しいので、どのような作用が生じるか明示しておく必要がある。ライブラリの揃える関数群の引数や戻り値の一貫性や、操作性の一貫性が、他のモジュールへの影響を小さくする。あるモジュールを使用する場合、その実装について悩まされ、コードを確認しなければならないとすれば、カプセル化の価値は失われる。設計思想の違うモジュールの結合によって構成されたブラックボックスは、深刻な問題を抱えている可能性が高い。強烈なものになると、「解析済みの問題」と称して、これらを仕様書に羅列したものを見たことがある。10項目ほどの。これを使えば開発期間が短縮できると、意気込んだお偉いさんとセットで。解析済みってどういう意味かは知らんが、問題を修正してから持ってこいよ!それとも修正できないほど深刻ってか?幸か不幸か、この手の直感は外れたことがない。意図を明確にしておけば、インターフェース仕様が適さないことは明白になるはず。にもかかわらず、政治的な意図で工程が短縮できるとすれば、設計とはなんなんだ?技術とはなんなんだ?おっと、愚痴が加速する!
設計思想の一貫性を保つことは、システムが複雑になるほど不可能なほど難しい。クックブックのようなルールで対処できるものではない。やむを得ず矛盾を許す箇所も生じるだろう。どんな規則にも、例外が生じることは覚悟しておいた方がいい。それでもなお一貫性を保とうとする努力を怠ることはできない。それが、エンジニアの宿命なのかもしれん。物理学者が不確定性原理に、数学者が不完全性定理に、哲学者が二律背反に立ち向かうように...

5. 腐敗防止層と例外処理
ドメイン層とは、ちと違うが、概念を独立させるという意味でイメージしやすい事例を紹介してくれる。「腐敗防止層」とは、なかなか興味深いネーミングだ。究極の例外処理と解するのは、大袈裟であろうか...
どんなに優れたシステムでも、数年後には腐敗する。これは自然法則と思うぐらいで丁度いい。そこで、腐敗の傾向をモデリングできるとありがたい。腐敗防止層のインターフェースとは、どのようなものであろうか?もしかすると、政治色の強いお偉いさんの思考にも、なんらかの傾向があるのだろう。整合性のための自動チェック機構のようなものがモデリングできれば、政治屋を黙らせることができるだろうか。
古代中国は、近隣の遊牧騎馬民族の襲撃から国境を守るために万里の長城を築いた。だが、誰も通れない防壁だったわけではなく、規制しながらも交易は認めたという。大軍の侵略に対して頑強な障害物であればよかったのだ。なるほど、きちんと境界条件が定義されていることが重要だ!という教訓か...

2014-11-02

"人月の神話" Frederick P. Brooks, Jr. 著

コンピューティングの世界は日進月歩。チューリングマシンが考案されて一世紀に満たず、いまだ過渡期にあるのだろう。ここに、出版後20年経っても色褪せない書がある。プロジェクトの事情はあまり変わっていないようだ...
「人月」という用語は、開発、設計、製造などあらゆる生産工程において用いられる。それは、人と月の積で表される工数の単位で、二つの項が互いに交換できるという意味がある。人と月が交換可能となるのは、作業者たちの間でコミュニケーションを図らなくても仕事が分担できる場合や、機械的な作業に徹することができる場合。エンジニアのスキルには個人差があり、時には十倍もの能力差を見せる。
にもかかわらず、人月の幻想に憑かれたお偉いさんは、労力と進捗を混同した見積もり計算を続ける。マイルストーンを美しく見せることが管理者の仕事と言わんばかりに... 表面的な技術を寄せ集め、結合すればいいという安直な考えに走れば、却って現場を混乱させ、お粗末な結果を招くことは何度も経験してきたはずなのに... ゴールとスケジュールが予算に適ったものなど見たことがない。そして、ブルックスの法則がこれだ。
「遅れているソフトウェアプロジェクトへの要員追加は、さらにプロジェクトを遅らせるだけだ!」
尚、著者フレデリック・ブルックスは、1999年チューリング賞を受賞し、IBM System/360 の父としても知られる。再読に際して、20周年記念増訂版を手にする...

「銀の弾などない!」という主張は、なかなか挑発的である。ムーアの法則に従って、メモリ容量やCPU性能など、ハードウェアリソースが飛躍的に進化する中、ソフトウェアの生産性において格段の向上をもたらすプログラミング技法は、ここ10年登場しない!と断言しているのだ。
確かに、構造化技法やオブジェクト指向といったパラダイム変化を見せつつも、これが最高というものがなかなか見当たらない。複合的に技法を導入し、しかもプログラマのセンスに委ねられているのが現実である。その状況は、多様化するプログラミング言語に見てとれる。関数型プログラミング、オブジェクト指向プログラミング、ジェネリックプログラミング...  あるいは、マルチパラダイムプログラミングなどなど。言語に愛着を持った連中が、それぞれにこれが一番だと主張する様は宗教論争にも映る。
本書は、そうした技法を度外視して、プロジェクトチームの在り方や管理手法の側から問うている。その前提に本質性と偶有性とを混同しないこととし、概念構造体やソフトウェア実体の側面から議論を展開する。
「すべてのソフトウェア構築には、本質的作業として抽象的なソフトウェア実体を構成する複雑な概念構造体を作り上げること、および、偶有的作業としてそうした抽象的実存をプログラミング言語で表現し、それをメモリスペースとスピードの制約内で機械言語に写像することが含まれている。」
本質性と偶有性とは、アリストテレスを彷彿させる概念だ。ここでの偶有性には、偶然発生するという意味ではなく、副次的や付随という意味が込められているようだが、本質に対するその場しのぎ!という意味も感じられる。そして、最も重要な事柄は、「コンセプトの完全性」「アーキテクトの資質」であるとしている。ハードウェアリソースの奴隷となる前に、ソフトウェアとして見失ってはならないものがあろう。これはソフトウェア論ではない。ある種の組織論である。

手段に目を奪われがちなのは、なにもソフトウェアに限ったことではない。おいらはプログラマではないが、ここに語られるチームの鉄則は他の業界にも十分適用できるだろう。ソフトウェアの構築には、強い変化を意識させられる。自分自身を変えよ!と要請してくるほどの。プロジェクトマネジメントは極めて社会学的で心理学的な分野であるからして、ソフトウェア手法の柔軟性の高さは、不変な精神活動において大いに参考になるはずだ。
「ソフトウェアエンジニアリングというタールの沼は、これから当分の間厄介なままだろう。人間が、手の届く範囲の、あるいはぎりぎりで届かないところにあるシステムを、ずっと試していくことは容易に想像がつく。おそらくソフトウェアシステムは、人間の作り出したもののうちで最も複雑なものだろう。この複雑な作品は私たちに多くのことを要求している。この分野を引き続き展開させていくこと、より大きな単位に組み立てることを学ぶこと、新しいツールを最大限使用すること、正当性が立証されたエンジニアリング管理方法に最大限順応すること、常識から自由になること、それに誤りを犯しがちな点と限界を気づかせてくれる神の与えた謙遜の心を。」

1. コンセプトの完全性
「コンセプトの完全性こそ、システムデザインにおいて最も重要な考慮点だと言いたい。一つの設計思想を反映していれば、統一性のない機能や改善点など省いたシステムの方が、優れていてもそれぞれ独立していて調和のとれていないアイデアがいっぱいのシステムよりましである。」
ソフトウェアの目的の一つは、システムを使いやすくすること。使いやすいとは、機能を使うためにマニュアルを読んだり、知識を覚えたり、調べたりする労力を省いてくれることである。そのために様々な言語に対応したり豊富な機能を備えるわけだが、複雑な処理をシステムに肩代わりさせるのに、一切のマニュアルなし!というわけにもいくまい。あるいは、使いやすいく簡単というだけでも、豊富な機能というだけでも、良いデザインとは言えまい。
「システムのアーキテクチャとは、ユーザーインターフェースについての完全かつ詳細な仕様書であると考える。それは、コンピュータにとってはプログラミングマニュアルであり、コンパイラにとっては言語マニュアルである。制御プログラムにとっては、機能を呼び出すのに使用される言語のマニュアルである。そして、システム全体にとっては、利用者が自分の仕事全部をこなすために調べなければならないマニュアルを集めたものになる。」
古くから、機能の豊富さこそが最高のものとされる傾向がある。ソフトウェアの軽快さを犠牲にしてまで、使いもしない、見向きもされない機能が装備されるとは、これいかに?セカンドシステム症候群とは、まさに多機能主義に陥って、最初の哲学を見失った姿だ。哲学のない技術は危険であろう。とはいえ、システム設計者にとって、システムの一貫性を保つことほど難しいことはない...

2. アーキテクトの資質
コンセプトの完全性とは、一つの原理を反映することであり、ある種の芸術性を具えている。鑑賞者や批判者の意見をすべて取り入れては、芸術の高邁さは失われる。芸術とは、啓発された利己主義者のものだ。そこで、一つのシステムは、一つの芸術作品として捉えたい。
「制約が芸術のためになると納得させるような美術や工芸品の例はたくさんある。芸術家の格言に曰く、"形式は自由な創造の源だ"。最悪の建築物は、用途に対してコストを掛け過ぎたものだ。バッハの創造的な作品には、定められた様式のカンタータを毎週作り出さなければならないという要請に押しつぶされたところなど微塵も見られない。」
芸術作品となると、少数のアーキテクトによってアイデアが創出されることになり、プロジェクトマネージャの権限は絶大となろう。プロジェクトチームは君主制になりがちだ。とはいえ、アーキテクトが創造的楽しみを独占し、実装者の創意工夫を締め出すのでは、単なる作業者の集団に成り下がる。インプリ屋に成り下がって、ただ仕様書に従うだけではチームの活力が失われ、ましてや予算とスケジュールに押し潰されれば、命令に対して感情的にもなる。やはりチームには民主制の余地を残したい。メンバーが自由に発言し、それを芸術の域にまとめ上げるのが、プロマネの仕事としておこうか。
実際、好転したプロジェクトには、あらゆる意思決定の権限を持つマネージャが、穏やかな独裁者として振る舞っているものである。メンバーに高位な意思を伝授し、相互に切磋琢磨し、技術に対して積極的な関心を持つ風潮を大切にしたい。とはいえ、メンバーに作る喜びを与え続けることほど、難しいものはないのだけど...

3. 生産性 vs. 品質... 本当に銀の弾はないのか?
銀の弾などない!とは、憂鬱なテーマでもある。間接的にゲーデルの不完全性定理を語っているような。ただ、これを悲観主義とするのはあんまりだ。楽観主義では何も解決できないし、最終的に勝利するのは現実主義であろう。まったく市場原理と似ている。ブルックスは、プログラマの楽観主義は職業病だと言っている。
「懐疑主義は楽観主義とは違う。輝かしい進展は見えないが、そう決めてかかることはソフトウェアの本質から離れている。実際のところ多くの頼もしい新機軸が着々と進められている。それらを開発、普及、利用するという厳しいが一環した努力こそ、飛躍的な改善をもたらすはずだ。王道はない。しかし、道はある。」
あれだけもてはやされたオブジェクト指向は、銀の弾になりえたであろうか?このパラダイム変革には、様々な見解がある。モジュール性と美しいインターフェースを励行することや、カプセル化を強調すること、あるいは、継承を強調すること。別の見方では、強い抽象データ型を強調し、特定のデータ型には特別な操作によってのみ扱うことが保証されるべき... などなど。様々な特徴を有するが故に、コードを書く人の必要と好みに応じて取り込まれる。ちなみに、ある組織では、継承禁止令!があると聞く。権限者が理解できないから、嫌いだから、禁止ってのもどうかと思うが...
コーディングルールをあまり厳密にすると、思考の柔軟性が失わる。それよりも、変わったコードを書く人には、コードレビューを開催してもらうことだ。手段ではなく、哲学の方を共有すべきであろう。
カプセル化は大好きな概念だが、見知らぬ人が設計したものをブラックボックスで流用するとなると、ちと抵抗がある。ソフトウェアの再利用は、生産性と品質の双方において重要な役割を果たすだけに、お偉いさんは工程が短縮できると信じこむ。そして、中身の検討を無視し、もはや何を設計しているのかも分からなくなる。
「右手がやっていることを左手が知らないせいで、スケジュールの惨憺たる状態だとか、機能がうまく合っていないとか、システムのバグといったことが一度に生じる。... チームは憶測でばらばらになっていく。」
ところで、ソフトウェア業界は、生産性と品質のどちらに目を向けるべきであろうか?現代の風潮は、品質よりも利便性が圧倒的に優勢にあろうか。実際、Webサービスには、些細な不具合が何年も放置されたまま。無料だから仕方がないと諦めているユーザも少なくあるまい。実用面で問題にならないと言えばそうなのだが...
しかしながら、品質を着実に確保していかなければ、そこから派生する設計までも爆弾を抱えることになる。品質はコストに影響を与えるために、お偉方は目を瞑りたいようだが、品質を重んじなけば、自己の進歩も見えてこない。多くのプロマネは、系統だった品質管理の欠如とスケジュールの破綻に相関関係があることを経験的に知っているだろう。
確かに、完全な品質を実現することは不可能だ!ただ、人類の進化論には、突然変異という離散的な現象がある。それは、継続されたな意志によって生じるエネルギーの蓄積からもたらされる。つまり、こだわりってやつよ。楽観主義から意志エネルギーの蓄積は望めまい。
ソフトウェアの歴史は、いまだ過渡期にあり、一概に銀の弾はない!とも言い切れまい。いや、人類の歴史そのものが、いまだ過渡期にあるのかもしれん。そういえば、ケイパーズ・ジョーンズ氏は日本講演で、ソフトウェア業界には大事なものが欠けていると語った。本書にも、彼の言葉が紹介される。
「品質にこそ焦点を絞るべきなのであり、生産性は後からついてくる。」

4. ドキュメントの試行錯誤
自然言語は、定義のための厳密性を欠く。そこで、現実的な手段として形式的定義といった表記を用いる。プログラミングとは、まさに形式的な記述の積み重ねだ。厳密な記述は、分かりやすい記述とは性質が異なる。それ故に、マニュアルが曖昧になることもしばしば。法律の条文が極めて形式的なのは、厳密性を求めるからである。求めたからといって、得られるとは限らんが...

「簡潔に言うっていうのはすごくいい。自分が今どこにいるか知っていようが知っていまいが。」...サミュエル・バトラー

かつて、コードを説明する手段としてフローチャートが過大評価された。今では、フローチャートという言葉すらあまり聞かない。UMLのアクティビティ図のような派生的な技法は見かけるものの。コードを読む手がかりとしては、むしろテーブルやデータ構造、あるいはモジュール定義や構造記述の方が重宝される。
プログラミング言語が進化すれば、ドキュメントの書き方や用い方も変化するだろう。形式化と柔軟性の按配は、いつの時代でも、どんな分野にも、つきまとう問題である。いつも言っていることだが、我がチームではドキュメントの書き方を規定しない。分かりやすく、好きなように、思ったように書くようにと... 参考にするのはいいが、少しは独自性を見せようと... 芸術性とは主観性に支配されるもの、存分に精神を解放しようではないかと...
「表現はプログラミングの本質である。」

2014-10-26

"MAKERS" Chris Anderson 著

Do it yourself !... とは、起業家には不可欠な精神であろう。
財務処理から流通手配や営業交渉まで、それがたとえ苦手な仕事であっても、すべて自分でこなさなければならない。いくら頼りになる相談役や事務屋が側にいても、すべての責任は自分に降りかかる。そんな面倒なことを背負い込んでまで、独立を望むのはなぜか?それは、本当の自由を欲するからであろう。少なくとも、おいらの場合はそうだ。
しかしながら、自由ってやつも、なかなか手強い!自由の範囲を広げようとすればするほど、依存度を高め、ますます責任や義務が増していく。勢いに乗って事業を拡大すれば、維持するための資金が増大する。銀行やベンチャーキャピタルからの融資を受け入れれば、今度は間接的に支配される。もはや事業は誰のものやら。自由を求めて集まってきた従業員たちは、窮屈さを感じて逃げ出す。ベンチャーと称する企業で、創業時のメンバーが大勢残っているケースをあまり見かけない。こんなはずじゃなかった!と呟いている経営者も少なくあるまい。金儲けが目的ならば、あえてそれを望んでいるのかもしれんが...

DIY の根源的な動機は、日曜大工のような気軽さから発する。基本は、仕事が好きであること、仕事を楽しむこと。そうでなければ探究心は失われ、作る喜びがなければプロフェッショナル感を味わうこともできない。趣味をビジネスにできればなおいい...
しかしながら、20世紀型ビジネスモデルでは、製造手段そのものは企業によって支配され、作り手のものではなかった。いつの時代も経済の根幹を支えているものは、やはり生産力。人間が生きるということは消費を意味し、いくら流通業やサービス業が成長したところで、生産物がなければ成り立たない。にもかかわらず、今日の社会は、価値を変動させてサヤ取りに執心する金融屋や、情報を煽って目立ちたがる報道屋によって支配されている。
本書は、国力を維持するものは本質的な生産力であるとし、デスクトップと工作機械が仮想空間上で結びついた時、企業が独占してきた製造手段が庶民化し、メイカーたちによる真の生産社会が形成されるとしている。これが、21世紀の新産業革命というわけか。産業革命とは、単なる技術革新ではなく、社会的な意識改革までも引き起こすことを言うのであろう。DIY から発するカスタム製造やデザイン思想が、はたまた製造技術のオープン化が、はたして真の民主主義をもたらすであろうか...
ちなみに、コリイ・ドクトロウのSF小説に「メイカーズ(Makers)」という作品があるそうな。そこにはこう描かれるという。
「ゼネラル・エレクトリック、ゼネラル・ミルズ、ゼネラルモーターズといった社名の企業はもう終わっている。富を全員で分け合う時代がやってきた。頭のいいクリエイティブな人たちが、それこそごまんと存在するちっぽけなビジネスチャンスを発見し、そこでうまく儲けることになる。」

すべてのデジタルデザインはソフトウェアが牽引してきた。それは、ひとえに柔軟性にあると言っていい。今日、オープンソースを利用した開発手法が当たり前のように用いられるが、オープン思想は、なにもソフトウェアにだけ特権を与えるものではあるまい。
著者クリス・アンダーソンは、ロングテールの概念や、ビット世界における無料経済モデル(Freemium)を世に知らしめ、名を馳せた。彼自身、オープンハードウェア企業と称す3Dロボティックスを立ち上げ、本書に紹介される3Dプリンタやラピッドプロトタイピング技術などの話題も見逃せない。そして、オープンプラットフォーム上に作られたメイカー企業は、最初からキャッシュフローを生み出すとしている。これは、モノ作りの側から語った経済論!おまけに、技術屋魂をくすぐりやがる。サラリーマン技術者ではなく、アマチュア発明家になれ!と言わんばかりに...
「起業家を目指すメイカーたちにはみな、ヒーローがいる。情熱と工具だけを元手に、やりはじめたら決して諦めなかった人たちだ。彼らは本物のビジネスを築くまで、作りづづけ、建てつづけ、リスクを取りつづけた。自宅の作業台から始まって市場を見つけるまでの道のりや、人の手によるもの作りの物語は、いまとなんら変わることがない。」

1. ビット世界 vs. アトム世界
ビット対アトムの概念は、MITメディアラボの創設者ニコラス・ネグロポンテの提唱から始まる。言い換えれば、ソフトウェア対ハードウェア、情報技術対それ以外、仮想空間対実体空間といった構図だが、そう単純ではない。モノ作りが、企業の隷属から解放されれば、あらゆる概念を変えるであろう。有用な技術に検索や口コミを通して噂を嗅ぎつけた人々が集まってくれば、セールスマンを必要とせず、営業の概念を変える。個人融資で成り立つサイトも多く、スポンサーの概念を変える。新たな三次元製造技術が、ラピッドプロトタイピングを促進し、工場の概念を変える。モノの生産がアイデアの生産へとシフトしていき、生産力の概念は大量生産から創造力や想像力へとより重みを増す。人件費の効率から製造拠点を置くという考えも、製品を提供するための流通効率という考えに移行するだろう。わざわざ通勤する必要もなくなり、職場の概念も変わる。雇用の概念も変わるだろう。企業の従業員名簿に名を連ねることもなく、仕事を受けることができる。失業の概念も変わるだろう。収入がなくても、意欲的な仕事を見つけることは可能である。仕事の動機を生き甲斐に求めるならば、収入目的は優先順位を徐々に下げ、もっと多様化するだろう。そして、発明家の概念は、起業家と結びついていく。自由とは、すべてをなるべく自分でやるってことかもしれん...
「面白いのは、そうした高度の細分化が、かならずしも利益を最大化するための戦略ではないことだ。むしろ、意義の最適化、といった方がいいかもしれない。アダム・デビッドソンはニューヨークタイムズマガジンで、これを中流階級以上の基本的欲求が必要以上に満たされた、豊かな国家がたどる自然の進化だと書いている。」

2. 21世紀型の産業革命
18世紀頃、産業革命に登場した発明家や起業家たちの多くは、裕福な特権階級出身者であった。蒸気機関で名を残したジェームズ・ワットしかり、これをビジネスにしたマシュー・ボールトンしかり。産業革命と言えば希望に満ちた言葉に聞こえるが、発明や起業で必要な遊び心はエリートや富裕層の特権であった。だが、悲観的なマルサスの人口論を凌駕するほどの莫大な富を庶民にもたらすと、人口増加を爆発させ、経済活動を民主化させる。特権階級が牽引役となって富を分散させたのだ。産業革命とは、単なる工業化の恩恵ではない。
「本質的には、産業革命とは、寿命や生活水準、居住地域と人口分布などの、あらゆることに変化を及ぼし、人々の生産性を激的に拡大する一連のテクノロジーを指すのものだ。」
そして今、知識を自由に共有できる時代がやってきた。有名大学の講義はWebで公開され、オープンソース事業には自由に参加でき、意欲さえあればどんどん知識が吸収できる。従来の博士号といった肩書に縋る連中ほど、実践的な知識をあまり持ち合わせないようだ。
インターネット技術は、ビット世界のイノベーションを牽引してきた。だが、無重力経済(weightless economy)、すなわち、情報、サービス、知的財産といった無形ビジネスが話題となりやすい。この流れを21世紀型の産業革命に育てるには、アトム世界にまで広げる必要があろう。
本書は、この新たなパラダイムシフトを「メイカームーヴメント」と呼んでいる。草の根から始まるモノ作りの民主化とでもしておこうか。実際、コンピュータ工学の知識がなくても、ちょいとかじれば誰でもプログラミングできる時代となった。とはいえ、プログラミング技術が庶民化すれば品質の劣る作品が大量生産され、必ずしも良いとは言えないけど。
また、モノ作りの目的からコミュニティは自然に生まれる。格調高い意識の集まりが自然な秩序を生み出し、フラットな人間関係を形成する。誰でも共有できるということは、もちろん悪用のリスクもある。だが、意識のコミュニティを破壊する人がいれば、すぐに退場させられるだろうし、破壊屋が多数派となれば、真のメイカーは去っていくだろう。罵り合いのコミュニティに生産性はなく、志ある者が留まることはあるまい。実際、コミュニティも二極化する傾向にあるようだ。共通意識と哲学的意識がしっかり根付けば、人間ってやつは、意外とうまく民主主義を機能させるのかもしれん。
ただし、オープンモデルは万能ではないことに留意したい。自動車のように人の命にかかわる製品では、製造責任の所在を明確にしておく必要がある。大企業の存在意義とは、まさにここにあろう。従来型の製造モデルを、単に古いから悪いと決めつけない方がいい。

3. モノのロングテールと人材のロングテール
大企業の存続には大量生産が欠かせないが、ニッチ市場に目を向ければ、気楽に構えることができる。ニッチ商品は、たいてい大企業のニーズからではなく、庶民ののニーズから生まれる。大量生産から生まれた商品に飽きると、自分だけのものが欲しくなったりするものだ。まさに日曜大工の感覚でビジネスをやるわけで、そこには遊び心やアイデアが溢れている。ちっぽけな要求を集約して、チリも積もれば... ってやるのが商品におけるロングテールの原理だが、メイカー精神の観点からすると、むしろ人材のロングテールの方が本質かもしれない。
それにしても、あらゆるテクノロジーでコモディティ化が進むのはなぜか?情報が溢れ、生活様式が多様化しているというのに。他社サービスからの移行を促すために、乗り換えリスクを回避するためか?いや、選択肢を奪うことで諦めさせ、最大収益を狙うってか?まさに経済人の価値観だ。依存症を高めることで商売が成り立つとすれば、まるでコモディティ宗教!使いやすい、分かりやすいだけの製品では、深い味わいを求める少数派を満足させることはできまい。ユーザを飼い馴らすには、絶好の戦略ではあるけど。
一方、情熱家の作る作品には、手作り感があって、要求の高い専門性を具えている事が多い。効率的な大量生産品の方が莫大な利益をもたらすが、民主主義の成熟した姿は多様性の方にあるような気がする。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したわけではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、それらが共存するためには、生命体が多様性に富んでいる必要がある、というのが真の意図だと思う。
電子機器の発達は、半導体技術の成長とともに、ムーアの法則に従って指数関数的に加速してきた。半導体は原子制御の世界であり、まだまだ発達の余地がある。量子力学と結びつけば、無限の発展も夢ではなさそうだ。しかし、すべての産業がムーアの法則に従っているわけではない。農業や食糧生産など人間が直接生きることにつながる領域ほど、この法則は成り立たない。寿命が延びたといっても、せいぜい100年ちょい。なによりも人間精神が、進化しているのか?退化しているのか?テクノロジーの進化には、置いてけぼりの精神で相殺し、進化のエネルギー保存則は健在のようだ...

4. デスクトップ工房の「四種の神器」
本書は、テクノロジーの変革ツールを四つ紹介してくれる。3Dプリンタ、CNC装置、レーザーカッター、3Dスキャナがそれだ。
3Dプリンタには、溶融プラスチックを積み上げてオブジェクトを作る方式もあれば、液体または粉末の樹脂にレーザーを照射して固めて、原料容器の中からオブジェクトを浮かび上がらせる方式もあるという。ガラス、鉄、ブロンズ、金、チタン、ケーキ飾りの糖衣など、様々な素材が使えるとか。足場の上に幹細胞を吹き出すことで、生きた細胞から人の組織を作ることにも成功していると聞く。
CNC装置は、3Dプリンタが足し算方式で層を積み上げていくのに対し、引き算方式でドリルを使って削り出すという。この方式で、最小限の材料で最大限の強度がその場で計算されるとか。思い描いたものが、そのまま実物として目の前に現れるとは、なんとも恐ろしい世界だ!こうした技術にバイオテクノロジーが結びつくと、原子を自己組織化して食べ物や飲み物に変えることもできそうか。DNAの複製も?原子構造を維持しながら、複製することも理屈では可能であろう。三次元の仮想空間に臭いや味などの五感までも取り込まれ、もともと仮想空間の得意とする第六感や霊感が結びつくと、人類は五感以上の知覚を獲得するのだろうか?いや、相殺されて五感を麻痺させるだけのことかもしれん。人体をスキャンすれば、人間だって製造できそうか。クローンとは違う視点だが、はたしてそれは人間なのだろうか?
ビット世界をアトム世界に変換きるということは、その逆変換も可能になるかもしれない。リアリティキャプチャってやつだ。社会現象までもキャプチャできれば、政治的に利用される可能性だってある。市場はもともとコンピューティングで動いており、過去の経済現象をキャプチャして再現することも難しくない。ということは、金融工学はリアリティキャプチャの最先端を行っているのか?なるほど、価値を仮想的に煽りながら金融危機を再現してやがる。

5. オープンオーガニゼーション
1937年、経済学者ロナルド・コースは、こう言ったという。
「企業は、時間や手間や面倒や間違いなどの取引コストを最小にするために存在する。」
一見もっともらく聞こえる。同じ目的を持ち、役割分担や意思疎通の手段さえ確立できれば仕事がやりやすい、という発想だ。そして、隣の机にいるヤツに仕事を頼むことを、効率性とみなす。対して、サン・マイクロシステムズの共同創業者ビル・ジョイは、こう言ったという。
「いちばん優秀な奴らはたいていよそにいる。」
取引コストの最小化を優先すると、最も優秀な人材とは一緒に仕事ができないというのか?だから、会社が雇った人間としか仕事ができないってか。これを「ビル・ジョイの法則」と呼ぶそうな。なるほど、優秀なエンジニアは外部の人材とのつながりが広い。オープンコミュニティは、企業と違って法的責任とリスクがなく、自由と平等が保たれやすい。彼らには、役職や肩書なんてどうでもいいのだろう。そういえば、巷で仕事は何をしていますか?と尋ねると、会社名を答える人がいると聞く。会社の看板に縋って仕事をする人には、あまり近づきたくない。
もちろんコミュニティだって万能ではないし、ボランティア精神だけで経済が成り立つはずもない。ただ、人材を探すのに組織内にこだわる必要はないし、組織に忠誠を誓い一箇所に集まって仕事をやる必要もないってことだ。
オープンソース化で、無料の研究開発システムを手に入れることだって可能である。製造工程でコストのかかる一つにテストがある。実際、セキュリティソフトや検索ソフトなどのエンジン部分を無料公開することで、ユーザが無意識にテストに参加させられる。高度でテストの難しいソフトほど、マニアが使いこなす傾向があり、苛酷なストレステストにかけられる。大儲けしている企業ですら、製品の品質はボランティアたちの情熱によって支えられているのが現状だ。各自の経験から互いにサポートし合い、ユーザコミュニティを形成し、開発者もユーザとして参加する。効率的な使い方や、不具合を回避する助言は、提供されるマニュアルよりも役立ち、企業の思惑が入り込まない純粋な情報が得られる。有効なサイトには自然に翻訳者が募り、多国語でサポートされる。これこそ民主主義の姿であろう...

6. メイカービジネスの資金調達
高い志を持った愛好家が集まるだけではビジネスは成り立たない。どんな事業にもスタートアップの壁が立ちはだかり、その最初の問題は資金調達であろう。
本書は、裏ベンチャーキャピタルってやつを紹介してくれる。設立時に資金を必要とするのは、商品開発、設備、部品購入、製造などの費用のためで、通常は商品を販売しないと回収できない。そこで、キックスターという企業は、起業家が抱える三つの問題を解決してくれるという。
  • 一つは、売上を予約時に受け取れれば、必要な時に資金を調達できること。
  • 二つは、顧客をファンのコミュニティに変えてくれること。プロジェクトに資金を出すことは、ただの商品予約以上の意味があるという。デザインの生まれる過程で、ファンからアドバイスやコメントがもらえるのは大きい。口コミで評判が広まれば宣伝効果も得られる。ある種のマーケティング戦略というわけだ。
  • 三つは、市場調査を提供すること。初期段階から資金注入の効果が分析できるのは大きい。新会社にとって、これが最も重要かもしれない。
このような資金調達モデルは、寄付金や投資の概念までも変え、「クラウドファンディング」と呼ばれる。実際、気に入ったプロジェクトを見つけて投資したいと考えている人は少なくない。いずれコミュニティ銀行なんてものが登場するかもしれない。杓子定規な株式市場に投資するよりも魅力がありそうだ。ただ、どんな投資システムでも、儲けが保障されると勘違いする人も珍しくなく、巷では見返りがないとすぐに訴えるケースも見かける。
また、エッツィーという最大のメイカー市場を紹介してくれる。手作り品が取引され、高給な芸術品からかぎ針編みなどの小物まで出品されるとか。キックスターと違って、資金調達やモノ作りを助けたりはしないが、ここをきっかけに起業する人も多いという。
従来の企業組織的なものの見方に固執すれば、自然のコミュニティを見失う。モノ作りの背後にある人々の存在を忘れがちとなれば、売上至上主義となり、倫理に反し、持続可能な事業とはならないだろう。創業時の哲学を忘れ、なんのために会社を起こしたのかも分からなくなるケースは、けして珍しいことではない...

2014-10-19

"FREE" Chris Anderson 著

なぜ、最も人気のあるコンテンツを無料にしても商売が成り立つのか?あらゆる価値が貨幣換算される時代では、フリーとは無を意味するはず。フリーを巡っての論争は、間違った状態とするか、自明な結果とするかで二分されてきた。無から有を生み出す概念だけに、誤解されやすく、恐れられもする。だが、いまやフリーは当たり前と考える方が優勢であろうか。著作「ロングテール」で名を馳せたクリス・アンダーソンは、この得体の知れない概念の正体を暴こうとする。そして、二元論に陥ることなく、 読了後にはどちらにも与しないことを願っていると語る。
フリー経済では無料のものが有料よりも価値の高い場合が生じる。それは、貨幣に頼らない価値判断を促しているのだろうか?真の価値で経済循環を促そうとしているとしたら、それは良い風潮かもしれない。生活様式や価値観が多様化する中で、仕事の価値を収入でしか測れないのでは、あまりにも寂しい。オープンソースの世界には、技術を磨くために無料奉仕で仕事をする人たちがいる。ネット社会には、見返りを求めずプロ顔負けの情報を提供する人たちがいる。彼らの創作意欲を動機づけるものが、お金でないとすればなんであろうか。彼らなりに自由を謳歌することであろうか。フリーとは、貨幣経済では無駄を意味しても、精神哲学では自由を意味する。彼らは無駄の意義をよく知っているのだろう。贈与の心理学は、無駄をめぐる倫理観において顕著となる。自己啓発された利己主義ほど力強い動機はあるまい...

今まさに、無の概念を後ろ盾にしたビジネスモデルが社会を席巻しつつある。ソフトウェア業界では、OS, ブラウザ, SNS, 辞書サービス, クラウドサービスなどが無料化され、各種開発ツールまでもオープンソースで提供される。ハードウェア業界もまたその恩恵を受けながら、デスクトップ上の設計やシミュレーション手法によって開発コストを抑え、ますます無へ近づこうとしている。
プロとアマチュアの境界も曖昧になり、むしろ取り組む姿勢、すなわち能動性と受動性でバンドギャップを広げるかに映る。製造工程までもロボット化が進めば、人間から見出せる価値はアイデアを創造する力だけということか。いや、ネット社会にはアイデアまでも溢れ、ちょいとググれば済む話。ほんの一部の頭脳があれば、人間社会は成り立つというのか?その他大勢は、商品同様、人間性においてもコモディティ化が進むというのか?最後の砦は人件費ぐらいなもの、そして人間の価値までも無へ帰するのかは知らん...

とはいえ、フリーは古くからあるマーケティング手法である。95% の製品を売るために、5% を無料で提供するオマケという発想によって。
ところが、コンピューティング上の仮想社会、いわゆるビット世界ではフリーの概念を逆転させる。5% の製品を売るために、95% を無料で提供する「フリーミアム(Freemium)」という発想によって。尚、Freemiumとは、Free(無料)とPremium(割増)を組み合わせた造語で、ベンチャーキャピタリストのフレッド・ウィルソンが広めた。多くのユーザが無料でサービスを謳歌し、グレードの高いサービスを有料にして賄うという意味では、不幸に遭遇した人を金持ちが施す仕組みにも映る。
こうした仕組みを可能にするのは、二つの経済的要素がある。それは、経済学で言うところの限界費用をゼロにすることができること、そして、想像もつかないほどの大規模な市場が潜在的に存在することだ。テクノロジーはムーアの法則に従い、情報処理能力、記憶容量、通信帯域幅の限界費用を限りなくゼロに近づけてきた。市場においては、コンピューティングは1人1台に留まらず、無人機器や無人施設にまで拡大し、もはや人間の数では測れない。製造、販売、流通などあらゆる中間コストがゼロになれば、消費者にとってこれほど嬉しいことはあるまい。仮想店舗の構築にコストがかからないから、ロングテールの概念が成り立つ。電子決済では、1円払うのも百万円払うのも手間は同じで、コンテンツのダウンロードが1円でも商売が成り立つ。取引の基点サーバが海外にあれば、税金の概念までも変える。そして、フリーはユーザを惹きつける最良の価格となった。
一方で、消費者もまた、なんらかの仕事をやっているわけで、生産者でもあることを忘れてはなるまい。結局、キャッシュフローを生み出さなければビジネスは成り立たない、という経済常識は変わらないようだ。
それでもなお、お金のかかるべきでないところがフリーになるとすれば、どうであろう。従来型の経済循環は、必要以上にお金を回そうとしてきた。実際、政治家が打ち出す景気刺激策は、消費を煽るぐらいしか能がない。賃金が下がることに労働者が激しく抵抗すれば、相対的に貨幣価値を下げることになる。労働資本のように硬直性の高い価値と、為替のように柔軟性の高い価値を共存させるには、経済全体としてインフレ方向に振れざるをえない。
その一方で、ネット社会はデフレ側にバイアスをかけるという見方がある。余計なキャッシュフローを抑制するという意味では、そうかもしれない。経済界はデフレを悪魔のように言うが、それは本当だろうか?景気を煽るために無理やり消費者物価指数を高めようとする政策が、はたして理に適っているのだろうか?フリー経済は、インフレやデフレの概念までも変えようとしているのかもしれん...

1. フリーの形態
フリーといってもその形態は無数にある。ただ基本的な思考では、内部相互補助というものが働くようである。要するに、他の収益でカバーすることである。
例えば、DVDを買うと2枚目はタダとか、クラブの入場料は女性を無料にするとか... いつも男性諸君は倍返しを喰らうのよ。生命保険は、健康な者が不健康な者をカバーする仕組みで、したがって健康者をいかに募るかがビジネスの鍵となる。フリーとは、こうしたマーケティング戦略を大げさにしたものらしい。
本書は、四つのフリー形態を提示してくれる...
  • 一つは、直接的内部相互補助。消費者の気を引いて、いかに他のモノを買ってみようと思わせるか。
  • 二つは、三者間市場。まず二者が無料で交換することで市場を形成し、三者が追従することで参加のための費用を負担させる。メディア戦略は、この構図が基本であろうか。広告主を基盤にするテレビやラジオの発展型が、google の戦略と言えよう。インプレッションモデルでは、視聴者やリスナの閲覧回数に対して支払われる。他にも、クリック単価(CPC)や成果報酬(CPA)という概念が生まれ、サイト訪問者が有料顧客となった場合にのみ広告料を払うといったモデルが登場した。リードジェネレーション広告では、無料コンテンツに興味を示した見込み客(リード)の氏名やメールアドレスなどの情報に広告主がお金を払う。
  • 三つは、フリーミアム。本書で最も重要視される戦略で、基本版を無料で広め、プレミアム版を有料にする。アプリケーションとOSの関係もこれに属す。OSを無料で配布して有料のアプリケーションで儲けるか、あるいはその逆も。典型的なオンラインサービスには、5%ルールというものがあるという。5%程度の有料ユーザが、無料ユーザを支えていると。
  • 四つは、非貨幣市場。対価を期待せず、提供するものはすべて。それは、喜びや満足感、あるいは知性や感性など、自己存在を確認できるものすべてに価値が生じるといったところか。
さらに、フリーミアムにおける四種類の戦術を提示している...
  • 一つは、期間制限。30日間無料で使用できるアプリなど。
  • 二つは、機能制限。有料でフル機能装備など。
  • 三つは、人数制限。一定数を無料に、それ以上は有料にするなど。
  • 四つは、顧客のタイプによる制限。小規模で創業まもない企業は無料で提供するとか、ビジネスとアカデミックで料金を分けるとか。
いずれの形態も、通信業界やソフトウェア業界でよく見かける価格モデルだ。

2. ペニーギャップ
フリーは気分がええけど、ちと良すぎるところがある。フリーならば多少の品質の悪さに目をつぶることができても、有料なのにフリーよりも品質の悪いものが出回る。最新版を買い続けたところで、機能アップばかり謳いながら、品質ではむしろ劣化しているケースも珍しくない。
ソフトウェア開発で、最もコストのかかる要件の一つにテストがある。ウィルス対策ソフトなどでは、基本エンジンを無料公開すれば、マニアたちが厳しいストレステストをやってくれる。彼らの情報をフィードバックしながら、GUIを整えプラスアルファの機能を盛り込めば、精度の高い製品が安価で提供できる。
フリーは、価格が安いというだけの意味ではなく、そこには別の市場が生まれる。需要供給曲線は、有料市場からフリー市場に移行した瞬間、線形性を失う。ブラックホールかアトラクターに陥ったかのように。ペンシルヴェニア大学のカーティク・ホサナガー教授は、こう語ったという。
「価格がゼロにおける需要は、価格が非常に低いときの需要の数十倍以上になります。ゼロになった途端に、需要は非線形的な伸びを示すのです。」
これが、ペニーギャップってやつか。需要の価格弾力性は、価格を下げれば需要が増すなんて単純なものではない。現実に、たった1円を払わせることが、いかに難しいことか。フリーモデルでは、心理的効果が大きな意味を持つ。
「値段ゼロは単なる価格ではない。ゼロは感情のホットボタン、つまり引き金であり、不合理な興奮の源なのだ。」
行動経済学は、フリーに対する複雑な反応を、社会的意思決定と金銭的意思決定に分けて説明する。無料なものは、使い捨てという心理が働くのも確かだ。あまり注意を払わないことも、フリーの弊害となろう。
しかし、たとえ無料でも資源として存在するならば、大事に使おうという社会的意識が働くかもしれない。そこになんらかの価値を見出すことができれば、粗末にはしないだろう。経済的合理性とは反するかもしれんが。
ちなみに、「economics」の語源は、古代ギリシア語の「oikos(家族)」と「nomos(習慣、法律)」に由来するという。家庭のルールという意味だそうな。家族の絆まで貨幣で測られるのでは敵わん!

3. 潤沢な社会
「潤沢な情報は無料になりたがる。稀少な情報は高価になりたがある。」
フリーになりたがる、という意志と、フリーであるべきだ、という結果では言葉の響きが違う。経済理論では、価格は市場が決定することになっている。
では、無料であるべきか有料であるべきかなんて、市場が決めることができるのか?潤沢となった商品の価値は他へと移り、新たな稀少を求めてそこにお金を落とす。潤沢さに価値を求めるか、それとも、相対的に見いだされる新たな稀少に価値を求めるか、はたまた、その両方か、価値に対する考え方はますます多様化するであろう。人間ってやつは、贅沢に馴らされると、次の刺激を求めてやまない。社会学者ハーバート・サイモンは、こう書いたという。
「情報が豊富な世界においては、潤沢な情報によってあるものが消費され、欠乏するようになる。そのあるものとは、情報を受け取った者の関心である。つまり、潤沢な情報は関心の欠如をつくり出すのだ。」
さて、フリー経済では、無料と有料が極端に乖離しながら、共存できるという奇妙な現象がある。その典型的な事例は、TEDカンファレンスに見ることができよう。参加者にはベラボウに高いチケットを販売しておながら、Web閲覧者には無料公開される。VIPたちにとって、ライブで味わえる幸福感はなによりも代えがたいのであろう。その一方で、一介の貧乏泥酔者でも鑑賞できるのはありがたい。これは、ある種の民主主義の形体を提示している。
「デジタル市場ではフリーはほとんどの場合で選択肢として存在することだ。企業がそうしなくても、誰かが無料にする方法を見つける。複製をつくる限界コストがゼロに近いときに、フリーをじゃまする障壁はほとんどが心理的ものになる。つまり、法律を犯すことの恐れ、公平感、自分の時間に対する価値観、お金を払う習慣の有無、無料版を軽視する傾向の有無などだ。デジタル世界の製作者のほとんどは、遅かれ早かれフリーと競いあうことになるだろう。」

4. フリー経済の参入障壁
従来型の経済モデルで潤ってきた企業にとって、フリーへの参入障壁は大きい。「死ぬ瞬間」の著者で、精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスは、「悲嘆の五段階」という説を唱えたそうな。
本書は、この説にマイクロソフトの事例を重なる。海賊版が多く出回るようになり、不正コピーを撲滅しようとすれば、却ってコストがかかり、ついにはユーザが逃げ出す。一方で、GNUが登場すると、フリーウェアに秩序を与え、特別なライセンス形式がオープンソースの概念を定着させる。なぜマイクロソフトは、Linux を無視してきたのか?
  • 第1段階、否認。いずれ消える、とるに足らないと考える。フリーウェアがマニア仕様であった時代、一般に普及するとは思わない。
  • 第2段階、怒り。Linux がライバルになることが明確になると、今度は敵意を見せ、経済性を攻撃する。真のコストはソフトウェア価格ではなく、サポートなどの維持費にあると主張。Linux を導入すれば専門家にお金を払うことになり、無料は表面上に過ぎないと警告した。
  • 第3段階、取引。マイクロソフトのやり方に怒りを覚えた民主家ユーザたちがいた。彼らは、Linux をはじめ、Apache HTTP Server, MySQL, Perl, Python などのオープンソースを使い続け、その勢力は拡大していった。マイクロソフトの非難戦略は、墓穴を掘る羽目に。
  • 第4段階、抑鬱。オープンソースが使っているライセンスは、GPL。マイクロソフトの戦略と真逆な発想だ。フリーライセンスから、自社製品にウィルスをまき散らす可能性を恐れ、現実からに目を背ける。
  • 第5段階、受容。市場は、三つのモデルに居場所を与えた。すべて無料、フリーウェアに有料サポート、昔ながらのすべて有料...
小口ユーザほど予算がないのでオープンソースを選択する傾向があり、大企業ほどリスクを恐れて金を払う。だからといっって、マイクロソフトのサーバに信頼が置けるのか?そこで、サポート付きの有料 Linux(redhat あたり)を選択する手もある。フリーと相性がいいのは、既存企業よりも新参企業の方であろう。そして、ユーザに愛着を持たせることが、最良の戦略となろうか...

5. クルーノー理論とベルトラン競争
1838年、数学者アントワーヌ・クルーノーは、経済学で傑作とされる「富の理論の数学的原理に関する研究」を出版したという。それは、企業競争を数学的にモデル化したものだそうな。製品競争の中で生産量が増えれば値崩れを起こすので、価格をなるべく高く維持するために、作り過ぎないように生産量を自主的に規制するというもの。生産者側から語った古そうな論理だが、現在でも影響力があるらしい。
1883年、数学者ジョセフ・ベルトランが、クルーノー理論の再評価を試みたという。当初ベルトランも、クルーノーに批判的だったとか。ところが、クルーノーモデルの主要変数を生産高ではなく、価格にして計算してみたところ、整然とした理論になったという。結論はこうだ。企業は生産量を制限し、価格を上げて利益を増すよりも、価格を下げて市場シェアを増やす道をとりやすい。実際、企業は製造コストのギリギリまで安くしようとし、価格を下げるほど需要は増える傾向がある。ベルトランの時代、競争市場はそれほど多いわけでもなく、製品の多様性もなく、価格操作もなかったという。
当時、二人の理論は、経済学モデルを無理やり数学の方程式に持ち込んだとして一蹴されたようである。そして20世紀、競争市場が激化すると二人の数学モデルが再評価されることに...
潤沢な市場では、生産量を増やすのは簡単なので、価格は限界費用まで下がりやすい。実際、ソフトウェアの限界費用はほぼゼロ。それでも、Windows や office を高額で売り続けられるのはどういうわけか?ユーザが多ければ、他の人も使わされることになる。実際、依頼元から excel + VBA の形式でデータが提供されれば、下請けは泣く泣く office を買う。
しかしながら、マイクロソフトが独占してきた市場が、ネット社会によって無料経済を解放してきたのも確かだ。グーグルの万能振りが巨大化すると、独占に至るまでに他の競争相手を創出する。SNSの世界でも、Twitter や Facebook が、そのまま独占しそうな勢いだったが、後続を許している。収穫逓減の法則は、伝統的に生産者側の原理を語っているが、デジタル市場では消費者側の重みが大きい。価格競争で勝てば市場が支配できるかといえば、そうでもない。これは民主主義にとって良い傾向であろう。オンライン市場では、独占の原理よりも多様化の原理の方を求めているように映る...

6. 贈与経済と注目経済
贈与経済ってやつは、非常に分かりにくい。ブログは無料で、通常は広告もなく、誰かが訪問する度に何らかの価値が交換されている。PageRank などの発想は、恐ろしく単純で、恐ろしく機能しやがる。まるで一種の通貨のごとく。リンクを張るだけでページの評判や信用を広め、おかげで仕事を受けることもできれば、評判がお金に変わることもある。
オンラインは、コストが安いという利点以上に流動性の効果が大きい。YouTubeは、千人に一人が動画をアップロードすれば成り立つ。一方で、スパムメールは百万通に一人が反応すれば成り立つ。ちなみに、雑誌業界では、定期購読を勧めるダイレクトメールの返事が、2%以下なら失敗とされるらしい。
簡単に価値が創出できるということは、同時に犯罪リスクをともなう。不正コピーを巡って著作権訴訟をやりあうのは日常茶飯事。真の著作元そっちのけで、というより真の著作者が誰かも分からないにもかかわらず、大声で主張した者の勝ち。風評流布や流言蜚語の類いは冗長されやすく、犯罪の限界効用もゼロとなる。タダより高いものはない!という原理は、やはり働くようだ...
「お金を払わないために時間をかけることは、最低賃金以下で働いていることを意味する。」
また、単に注目されたいという動機でフリー経済に参入する人も多い。基本的な動機が自己存在の確認のための注目度にあるとすれば、フリー経済が民主主義を高度に発達させるかは別の問題か。注目経済について経済学者ゲオルク・フランクは、こう語ったという。
「私が他人に払う注目の価値が、私が他人から受ける注目の量によって決まるとすれば、そこには個々人の注目が社会的株価のように評価される会計システムが生まれる。社会的欲求が活発にやりとりされるのはこの流通市場だ。注目資本の株式取引こそ、虚栄の市(バニティ・フェア)を正しく体現したものにほかならない。」

2014-10-12

"ビジネスは人なり 投資は価値なり" Roger Lowenstein 著

これは、ウォーレン・バフェットの半生を綴った物語である。彼は、金融危機が生じれば政府ですら泣きつくという構図があるほど有名な投資家で、支配下の投資持株会社バークシャー・ハサウェイは世界最大を誇る。その投資人生は、コロンビア大学で教鞭をとるベンジャミン・グレアムとの出会いに始まる。バフェットは、グレアムの唱えたバリュー投資論を信望し、彼の著書「賢明なる投資家」を最高の書と語る。
「グレアムを知らずに投資するのは、マルクスを知らない共産主義者のようなもので、マーケットの原理を知らないのと同じことだ。」
世界恐慌を経験してもなお、ウォールストリートにはテクニカルアナリストが台頭し、近代金融工学はボラティリティばかりを追いかけ、変動率をリスクと同一視する。このようなファンダメンタルズを軽視する戦略は、グレアムやバフェットには気違い沙汰に映ることだろう。バフェットが「オマハの賢人」と称されるのも、あえてウォールストリートに身を置くことを避け、独自性を保ってきたことにある。群衆心理や自己欲望に惑わされやすいカネの世界では、その震源地から距離を置くことこそ肝要。偉大な人物とは、孤高の精神を持ち続けることができる人を言うのであろう...
「歴史に名を残す投資家の中でも、バフェットのビジネスを見る目は抜きんでていた。石油王のジョン・ロックフェラー、慈善家で鉄鋼王のアンドリュー・カーネギー、小売業で有名なサム・ウォルトン、ソフトウェアおたくのビル・ゲイツの共通点は、たった一つの発明や技術革新で財をなしたことである。バフェットはビジネスを研究し、株を選ぶ純粋な投資で財をなした。」

注目したいのは、バフェットの投資論がグレアムのものから発展させていることにある。グレアムの投資論は、1929年に生じた世界恐慌の反省に基いており、極めて保守的な行動原理が唱えられる。元本割れなどもってのほか!と。その基本戦略は、ファンダメンタルズ分析とそこから導かれる割安株の概念、そしてリスク回避のための分散投資にある。
一方、バフェットは、長期戦略とファンダメンタルズ主義の基本理念は同じであるにせよ、割安株の概念を成長株の概念に昇華させ、分散投資の限界から集中投資の効果を唱えている。グレアムが唱える割安株の概念は、財務報告を基準とするのであって、ある種の数値主義とすることができよう。対してバフェットは、経営者の人格、企業哲学、ブランド力など、財務報告に表れない将来性こそ評価すべきだとしている。目に見えぬ価値をいかに評価するか、これこそが投資家の責務と言わんばかりに...
「これはたぶん私の偏見だろうが、集団の中から飛び抜けた投資実績はうまれてこない... ウォールストリートの横並び意識は、いまも昔も変わらないであろう。平均は安全で、平均から外れたものは危険という安易な考えは、いまでもはびこっている。」
分散投資にも大きな障壁がある。そもそも満遍なく業界や企業を十分に分析するなど不可能だ。50ぐらいの優良銘柄を揃えることが理想ではあろうが、選別に時間がかかり過ぎる。ポートフォリオに多様性を持たせると、理論上は、一つの銘柄が下落しても影響を最小限に抑えることができるが、逆に上がった時も利益を分散させてしまう。金融危機ともなれば、市場は連鎖反応を引き起こし、むしろリスクを高めるだろう。不十分な分析で数十銘柄に分散させるぐらいなら、十分に熟知した二つ三つの銘柄に集中させる方が、精神的ストレスからも解放される。グレアム贔屓のおいらでも、この点はバフェットの方が現実的に映る。そして、一般投資家は情報の非対称性を背負うことにも留意したい。
バフェットの投資哲学には、単なる相場師にならない意志を強く感じる。将来性を買うからには、元本割れも覚悟の上か。実際、バフェットに理想とする株式の所有期間を尋ねると、永遠!と答えたそうな。金融屋には信じられないであろう。欲望に憑かれた業界、褒美で釣らなければ動かぬ集団は、脆い!人生には常に運と命(めい)の二つが付きまとい、春夏秋冬の訪れはなにびとにも避けられない。流れを拒めば、自ら不運を掴むことになろう。冬が来てもなお平静でいられるか、ここに人の価値が問われる。試練とは、ある種の運試し、というわけか...

1. マクロ的視野と大局観
バフェットは、マクロ経済的な観点から社会問題をとらえ、心配事のすべては人口問題に始まるとしている。彼は、常に核戦争のリスクと過剰人口を懸念していたとか。広島の原爆投下から、キューバ危機、国粋主義に至る思想に興味を持ち、戦争を避ける方法について研究し、世界が終焉を迎える確率まで計算していたそうな。数学者バートランド・ラッセルの著書にも執心だったという。ちなみに、ラッセルは平和運動家としても知られる。
バフェットの懸念は、マルサス的人口論から発するもので、おそらく地球資源や環境問題といったものも含むのであろう。実際、人口過剰が食糧危機や環境破壊をもたらす。バフェットの財団は、家族計画、性教育、産児制度、中絶問題などに巨額の寄付を提供している。
しかし、地元にあまり寄付をしないことが、ケチ!で有名。それは、ミクロ的な発想があまりないからだそうな。国会議員ともなれば、やたらと地元にハコモノを作っては自分の名前を掲げたがるもので、銅像まで作らせようと目論む者までいる。だが、オマハには、バフェット公園やバフェット美術館などの類いは見当たらないらしい。
また、黒人が多い地域で、居住区も仕事も厳密に分けられる風習があるという。オマハのロータリークラブを退会したのも、会員の人種差別やエリート意識に反発してのこと。金持ちになれば、それが自己満足で終わるような考えを批判している。バフェットの巨額な資産や収入は、究極的には社会のためにならなければならないと考えたそうな。キリスト教圏の国々でしばしば感心させられるのは、貧困への施しや養子縁組を受け入れたりする文化が盛んなことである。日本には少ない傾向である。その分、際立った億万長者も少なく、高度成長時代に一億総中流の意識が植え付けられ、極端な貧困が少ないこともあろうが。
バフェットは、大金持ちになったからといってジェット機を購入するなどという考えを批判したという。とはいえ、やっぱり買っている。社内用とはどういう意味かは知らんが、確かにオマハからウォールストリートは遠い...

2. バフェットの投資哲学
「バフェットがビジネスを評価する際に常に自分に問いかけてきたのは、資本、人材、経験などが十分にあるとして、その企業と競争したらどうなるだろうということだった。」
投資家として大成功を収めれば、株価の価値を見抜くにはどうすればいいか?と多くの人々から聞かれるだろう。そこで、よく債権に例えて説明したという。債権価格は利子から生まれる将来のキャッシュフローに等しく、それを現在価値に割り引いたもので、株価も同じように考えることができる。要するに、株の利率をいかに見積もるか、である。その方法を簡単にまとめると...
  • マクロ経済や経済予測も、他人の株価予測も気にする必要はない。長期的な企業の価値の分析に集中し、将来の収益を予測するべき。
  • 事情に詳しい業界に集中するべきで、どの業界にも必ず原理や法則がある。ちなみに、バフェットの場合は小売りチェーンが多く、時流のテクノロジー株を毛嫌いしている。
  • 株主から預かった資本を自分の財産と同様に考え大切に使用する経営者を見つけるべき。
  • 証券会社の分析ではなく、自ら生のデータを細部にわたって分析するべき。しかし細部にとらわれるのもよくない。自分を信じるようバフェットは強調する。
ただし、投資家としての目利きは抜群でも、経営手腕では劣ることを自覚している。バフェットの口癖がこれ!
「万能選手になる必要はないが、どこに限界があるかは知る必要がある。」
限界を知るということは、限界を試してきたということでもあろう。チャレンジ精神が旺盛でも、これを持続することは難しいし、偉大な投資家が偉大な経営者になれるとは限らない。言葉は単純だが、なかなか辿り着ける境地ではなさそうだ...

3. 敵対的買収と際限なき中毒
1980年代... それまでお堅いイメージの投資銀行が、突然、非難の的となる。投資は、投機と買収へと変貌していった。赤いサスペンダーをした若くて金を操る優秀な連中が、M&A市場を戦場に見立て、大企業の経営者たちを恐れさせる光景は、映画「ウォール街」を彷彿させる。日本でもバブルに突入し、M&Aが流行した。
こうした流れでいつも問われるのが、「企業は誰のものか?」である。株主のものと考えるのが、経済人の主流であろう。敵対的買収に成功した者ほど、そう考えるようである。実際、商法でもそう規定されているし。そこで、ちょいと質問の角度を変えてみると...
「企業は誰によって成り立っているか?」と問い直せば、それは従業員であり管理者であろう。では、「企業は誰のために存在するのか?」と問い直せば、それは顧客であり社会的意義であろう。「経営責任を負うのは誰か?」と問えば、それは経営陣となる。これだけ立場の違う人間が複雑に絡めば、企業が私物化できるような代物ではないことは明らかだ。いくら商法で規定しようとも、法律なんてものは都合が悪くなった者が言い訳に使うためにあるだけのこと...
巨大な投資銀行ソロモン・ブラザーズもまた、敵対的買収の対象となり、バフェットに救済を求めた。減収を記録しながら、株主には一銭も配当しないばかりか、経営陣のボーナスだけは毎年支給される体質にうんざり!人間ってやつは、高待遇漬け、高収入漬けに麻痺するもの。そんな時に、不正入札事件が発覚し、信用は地に落ちる。バフェットといえども、あれだけ再建に苦労しながら株を売却するのは投資家としては当然だが、やはり行動はドライか...
1987年のブラックマンデーに至るまで、強気相場の根拠にキャッシュフローが株価を支えている、などという馬鹿げた理屈がまかり通る。PER20倍という歴史的な高値水準を、バフェットは危険水域と考え行動を控える。しかしながら、当時の日本市場では、PERが60倍ってのは当たり前のようにあって、アメリカの経済学者からも不思議とされた。これを根拠に高値水準が正当化されるのも奇妙な話だが、おそらく高度成長時代の名残であろう。そして、バブルが弾けると、日本の市場原理が特別ではなかったことに気づかされる。
ちなみに、現在ではこれと似た感覚に国債の対GDP比がある。200%超えはかつて経験したことのない水準だが、日本は本当に特有なのか?日本市場は、本当に機能しているのか?アル中ハイマーにはとんと分からん。
ブラックマンデーが過ぎ去ってもなお、新たなLBO(レバレッジド・バイアウト)のブームが次々とやってくる。LTCMの崩壊劇しかり、リーマショックしかり... 市場が好調の局面では、欲望が恐怖を押しのける。投資銀行は、マーチャントバンキングを標榜し、LBOの仲介だけでなく自己責任と称して企業を買収するようになる...

4. プロとアマの意識の逆転
バフェットは、投機的意識がプロとアマチュアで逆転したと指摘している。かつてプロは常に冷静に行動し、アマチュアは熱くなって失敗すると言われた。近年、市場はケインズが揶揄した美人コンテストと化し、バフェットの市場観察もケインズの恐慌論を基盤にしているように映る。
金融屋たちは、会社の業績や経営方針といったものに興味がなく、レバレッジ率を高めて儲けを最大化しようと目論む。つまり、他人の資金を当てにするってことだ。プロの資金運用会社は、他人の資金を運用しながら、定期的に実績を示さなけばならない。市場が強気局面でも弱気局面でも。弱気局面では、空売りの技術が必要となり、必然的に信用取引を駆使することになる。信用取引は担保や借金によって成り立つ仕組みであり、返済期限に追われる。担保にした債権や株式の市場評価が下落すれば、保証金を見せなければならない。そのプレッシャーは半端ではあるまい。
一方、アマチュアは無理に信用取引に手を出さずとも、十年や二十年のスパンで構えることができる。行動の柔軟性においては、はるかに有利な立場にあり、精神的にも風上に立てる。もちろんアマチュアだってレバレッジ率を高めれば、リスクは拡大する。それも自己責任の問題であって、自分の財布と相談しながら行動すればいいだけのこと。プロの場合は、組織ぐるみとなって自己責任の範疇をはるかに超え、実際、巨額な公的資金が注入されてきた。バフェットは寓話を持ちだす。
「石油の試掘業者が天国の入り口で、鉱区の空きはないことを告げられた。聖ペテロから一言だけ発言する許可を与えられた彼は、地獄で石油が出たぞ!と叫んだ。天国の石油堀り達は、先を競って地獄に向かった。そして、その試掘業者は天国への入場を許された。ところが、当人は、いえ結構です!本当に石油が出るかもしれないから彼らと一緒に行きます!といった。」

2014-10-05

"完訳 統治二論" John Locke 著

ジョン・ロックといえば、個人的には哲学者の印象が強い。「悟性論」の影響であろう。だが、政治や経済の書では、政治学者と紹介されることが多く、本書にもそんな香りがする。似たような印象に、アダム・スミスのものがある。世間では経済学者と呼ばれるが、「国富論」に触れてみると、そんな狭量な人物でないことが伺える。彼らには、政治学や経済学といった枠組みで人間社会を観察しようなどという意識はなさそうである。
ロックは、人間本性的な集団性から「自然状態」を探り、本来人間が保持すべきもの、所有すべきものを考察する。そして、自然に適った自由と平等の権利が、すべての人間に等しく与えられると主張する。言い換えると、自然に適っていなければ、自由も平等も制限されるということだ。したがって、政治における最重要課題は、法律が誰もが納得できる自然法となりうるか、これが問われることになる。
ひとりの人間が生まれると、血筋でつながった家族という集団単位を形成し、家族同士の結びつきから集団性の意識を育む。集団社会が形成されると、そこにまつりごとが生まれ、代表会が生まれ、首長が生まれ、さらに法が生まれる。誰一人として、生まれる地も、生まれる国も、両親も、自由に選ぶことができない。つまり、人間社会とは、生まれながらにして、どこぞの政治組織に隷属させられる奇跡的なシステムとすることができよう。はたして政治は自然の産物なのか?あるいは政治を自然な存在にし得るか?これが統治論の問い掛けであろう...

「完訳...」と命名されるのは、岩波文庫の「市民政府論」(鵜飼信成訳)が後編だけを掲載したのに対し、本書が全訳版(加藤節訳)ということである。
「前篇では、サー・ロバート・フィルマーおよびその追随者たちの誤った諸原理と論拠が摘発され、打倒される。後篇は、政治的統治の真の起源と範囲と目的とに関する一論稿である。」
統治二論の背景には、王権神授説との宗教的世界観をめぐっての対立が見て取れる。フィルマーは、君主を人間を超越した絶対的存在とし、民衆に服従する宗教的義務を唱えたらしい。対してロックは、君主とて人間であり、人間の自然性を考察しながら宇宙論的義務を見出す、といったところであろうか。そして、政治権力の起源を人民の合意、すなわち社会契約に求めている。
「人間の自由および自分自身の意志に従って行動する自由は、人間が理性をもっているということにもとづくのであって、この理性が、人間に自分自身を支配すべき法を教え、また、人間にどの程度まで自らの意志の自由が許されているかを知らせてくれるのである。」
この書が、ルソーの「社会契約論」の引き金となり、アメリカ独立宣言やフランス革命に影響を与え、その余波が遠く日本国憲法にまで及ぶことは、言うまでもあるまい。また、所有権の起源を労働に求めるあたりは、ある種の労働価値説を唱えており、アダム・スミスやデヴィッド・リカードを経てマルクスに受け継がれているのも確かであろう...

ところで、本書は、翻訳において、ちょっとした特徴を見せてくれる。「文庫版への序」の中で、所有権が身体や人格に及ぶ場合、「固有権(プロパティ)」という訳語を当てると宣言される。所有にもいろいろあるが、政治学や経済学が対象としがちなのは、財産、資産、土地、貨幣、住宅といったものである。ロックの所有は、生命や健康、あるいは自由や平等までも含め、普遍的人権のようなものを唱えている。その権利を得るための責任と義務とは何かを問い、政治の役割を相互保存の保障において問うている。なるほど...
ただ、偉大な哲学書には、一つの用語を多義的に用いたり、一つの概念にいくつもの同義語を当てたりするところがある。真理を探求しようとすれば言語の限界にぶちあたり、必然的に読者の理解力に委ねることになろう。それゆえに難解な書となりがちだが、おかげで思考に柔軟性を与えてくれる。実は多くの哲学者が、この柔軟性を意図しているのではなかろうか。そうせざるを得ないのかもしれんが...
完璧に精神を言い当てるような言語など存在しえないだろうし、もし存在するとすれば、人間は完全に精神の正体を知ったことになる。なんでも特別な用語に当てはめて定義しようとするのが学術界の常套手段であるが、却って奇妙なニュアンスを与えることがある。経済学における「信用」という用語など、その典型であろう。
実際、「固有権」という用語には、民族的な帰属意識やアイデンティティのようなものを感じる。自然状態というより社会状態に近いような。そうしたニュアンスを含めてもあまり違和感はないし、文脈を辿ると、基本的人権や自己保存の保障といった意味合いを強く感じる。固有といっても、私有と共有でも捉え方が違う。まぁ、好みの問題かもしれん。酔いどれ読者は翻訳者の苦労を解せず、さらりと読み流すのであった...

1. 統治二論の背景
ロック自身は、ピューリタンの家庭に生まれ、敬虔なキリスト教徒だったようである。神の目的から自然権を見出すという思惑は変わらないにしても、宗教的な神というより、宇宙論的な神を唱えているように映る。
ただ、第一論には、フィルマーの主著「パトリアーカ」への痛烈な批判が込められ、ちと感情的で、らしくない面も目立つ。自然な統治がなされない場合、すなわち暴力や征服の類いに対して、断固として抵抗する権利や革命の正当性を唱えるあたりは、ピューリタンらしいといえばそうなんだけど...
統治二論の成立には、イングランドの王位継承問題が複雑に絡んでいる。17世紀、オランダからの思想流入で、イングランド国教会はカトリック派とカルヴァン派の板挟みにあった。カトリック化を進めるチャールズ2世からジェームズ2世の継承の流れに対抗したのは、ロックのパトロンであったシャフツベリ伯爵(アントニー・アシュリー = クーパー)だが、反逆罪に問われオランダへ亡命。統治二論には、シャフツベリ伯爵を擁護することが意図されているそうな。その後、名誉革命によってプロテスタントの盟主であったオランダ総督ウィリアム3世が即位。本書の冒頭には、ウィリアム国王の正当性が綴られる。いかに人民の支持を受けた統治であるかを。
国王継承問題において、血筋などではなく民意の優位性を唱えることは、この時代には難しかったことだろう。革命後も、カトリック最強国フランスの軍事介入が続き、ロックもまたオランダへ亡命。イギリス人ロックの政治哲学が、フランスで活躍するルソーやモンテスキューに受け継がれるのも、歴史の皮肉を感じずにはいられない...

2. アダムの権原とイヴの幻影
正統な後継者を統治者の血筋に求めてきたのは、ほとんどの国や民族の慣例に見られる。直系、嫡子、正妻の子など。近代民主主義ですら世襲制が色濃く残る。そんな性向に理由付けするのも、詮無きことかもしれん...
キリスト教的な理由付けでは、アリストテレスの思想解釈がある。フィルマーは、アリストテレスの政治学に関する「考察」の序文に、こう書いているという。
「世界で最初の統治は、全人類の父における王的なそれであった。アダムは、子孫を殖やして地を満たし、それを服従させよと神に命じられ、また、全被造物への統治権を与えられることによって、全世界の王となった。彼の子孫の誰一人として、彼の認可あるいは許可を受けるか、彼から継承するしかない限り、何物をも所有する権利をもたなかった。」
父親の権力と、それに無条件に服従することの正当性は、人類創造に由来するというわけか。まぁ、百歩譲ってそうだとしよう。では、アダムの子孫は王家だけなのか?祝福されるべき人間は国王だけなのか?すべてが神の意志で誕生するとすれば、人民にこそ権利が認められるはずだが。そして、すべての動物、植物にも、同じく主権を与えることになるはずだが。親が子を保護するのは生物的本能であって、神が父親に子供を支配する権力を与えるなどとするから、おかしなことになる。父の祖先が絶対的な権威となれば、慣習は絶対となり、子孫は盲従するしかない。そして、反省の基準は服従の度合いで計られ、責任や義務もまた服従で理由付けられることになるではないか?
ロックは答えてくれる。「アダムが創造されたということ... それは全能の神の手から直接生を享けたということ以外のことを意味しない」と。あの世でアリストテレスも、迷惑がっているに違いない...
ところで、イヴの影が薄いのはなぜか?子を産むのは女性であり、主役はこちらのはず。ヘシオドスの神統記にも、カオスから生まれた原初神の一つに大地の神ガイアを置き、彼女が多くの神を産む母神としている。今日の男女の社会的優劣は、どこから生じるのだろうか?腕力か?それとも精子の持ち主か?自然界はそうでもなさそうである。無数の働き蜂に囲まれる女王蜂は複数の雄と交わり、カマキリの雄は雌に喰われる。なんと不条理な!
神の世界では、主神ゼウスがあらゆる女神の寝所に化けては進入し、子を孕ませる性癖がある。雷オヤジにも困ったものよ!人間の世界では、このだらしない遺伝子が女性に寛容力を養わせ、その隙に男性優位社会をこしらえたのかは知らん。女が子を産むという物理的優位性に対して、男は権威やら名声やらの幻覚的優位性に縋っているだけのことか。いや、野郎どもは、黒幕に操られる女性優位社会で踊らされているだけのことかもしれん。実際、三行半という言葉は愛想をつかすという意味で使われるし。ちなみに、ソロモン王の箴言に、こんなものがあるそうな。
「我が子よ汝の父の誡命を守り、汝の母の法を棄てるなかれ」
父が威張りくさっている間に、母が法となって裁くとすれば、アダムは永遠にイヴの幻影に怯えることになろう...

3. 自然状態と陪審制
ロックもルソーも、政治権力の正当性を導くために人間の「自然状態」を考察すべきだという立場は同じである。ただ、自然状態そのものの捉え方は、違いを見せる。ルソーの自然人は、理性や知性もなければ、徳も不徳もない、純真な情念にしか支配されない未開人とした。一方、ロックの自然人は、やや理性的観念を持ち自分を律することはできるものの、その情念は非常に不安定で、第三者の目を必要とするといったところであろうか。ただし、第三者とは、自然に適った法であって、宗教的戒律ではない。
「人それぞれが、他人の許可を求めたり、他人の意志に依存したりすることなく、自然法の範囲内で、自分の行動を律し、自らが適当と思うままに自分の所有物や自分の身体を処理することができる完全な自由の状態である。」
集団社会において、自由と平等の権利がすべての人間に等しく与えられるとするならば、必然的に自由と平等の範囲が制限されることになろう。統治の正当性を合理的に説明しようとすれば、統治の手段として用いられる法律が自然法に適っているかを問うことになるのも道理である。
また、抵抗や革命の正当性のようなものが語られる。
「すべての人間は自然法の侵犯者を処罰する権利をもち、自然法の執行者となるのである。」
ただ、この文章だけ切り出してみると、陪審制の理念のようなものを感じるから奇妙である。民衆の自然的な意思が裁くという意味では同じで、民意を尊重することが真の政治だとすれば、陪審制こそ象徴的なシステムと言えよう。だが、民意もまた宗教論や感情論と結びつきやすいだけに、魔女狩りの類いに変貌しやすい。
ところで、日本の裁判員制度は、哲学的な議論がなされているだろうか?裁判制度を国民の意識に適合させようというなら、それもよかろう。だが、国民は本当に自然法の在り方を学んだ上で、あるいは議論した上で参加をうながされているだろうか?そうした議論が慣習化されていれば、ある程度機能するだろうが、手段にとらわれやすい国民性は否めない...

4. 立法権と父親の権力
「立法権力とは、共同体とその成員とを保全するために政治的共同体の力がどのように用いられるべきかを方向づける権利をもつものである。」
政治の目的は固有権の平和かつ安全を享受すること、そのために、まずもって立法権を樹立することが必要だとしている。個人の安全保障に関する契約というわけだ。最高権力といえども、個人の同意なしで所有物を奪うことに正当性を感じない。となれば、最高権力を支える立法者は、よほどの人間性を具えた人物でなければ務まるまい。立法権力に他の権力が従属するというロックの立場は、ルソーに受け継がれる。日本国憲法第41条においても、国会を国権の最高機関とし、唯一の立法機関に位置づけられるが、このことが、国会議員を他の誰よりも格上に位置づけられるならば本末転倒。この点において、モンテスキューの分権論は修正版と言えようか。
また、国家の権力に父親の権力を重ねながら、その正当性を議論している。親子は無条件に血縁で結ばれ、そこに保護のための責任や義務が生じる。では、国家と個人の関係はどうだろうか?基本的人権の保障がなければ、税金を徴収する正当性もあるまい...
「父親の権力は、未成年のために子供が自分の固有権を処理できない場合にのみ存在し、政治権力は、人々が自分自身で処分できる固有権を持つ場合に、そして、専制権力は、まったく固有権をもたない人々に対して存在するのである。」

2014-09-28

"人間不平等起原論" Jean-Jacques Rousseau 著

プラトンは、イデアという精神の原型のような存在を唱えた。ルソーは、かつて人間は自己保存という欲求の元で、ほとんど不平等のない自然状態にあったと説く。だが、社会進歩の過程で堕落し、人間の根源的な状態を忘れ、ついに「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」だけを求めるようになったと嘆く。
そして、二つの不平等を定義する。一つは、自然的、身体的不平等。二つは、約束に依存する社会的、政治的不平等。本書の主題は、後者の不平等について、その起源は何か?またそれは、自然法において容認できるか?である。人間社会は、暴力に対して権利で対抗し、悪徳に対して理性で対抗し、これを法の下で実践する上で正義の概念を編み出した。法ってやつは、正義との癒着が強いだけに、乱用されやすいことに留意したい。
また、この書が「社会契約論」の下地となったように、教育論「エミール」でもそうであったようである。教育論ってやつは、理性をまるで欠いた酔いどれには、まったくもって煙たい存在であるが、いつの日か、その禁書にも挑戦してみたいという気にさせてくれる。
尚、「人間不平等起源論」の翻訳版がいろいろある中で、本田喜代治、平岡昇訳版(岩波文庫)を手にとる。

ロックは知性論の中で、すべての観念の生得性を否定した。さすがの賢人の主張も、ここだけは、ちとひっかかる。対してルソーは、人間の根源的意識に自己保存の欲求を位置づけ、自己愛を結びつける。さらに、自尊心を自己愛と区別し、自尊心はむしろ利己心に近いものとして自然状態から遠ざける。
アリストテレス曰く、「自然というものを、堕落した人々の中にではなく自然に従って行動する人々の中に、研究しなければならない。」

ところで、物心がつくとは、いかなる状態であろうか?既に純真な心を取り戻すことのできない状態であろうか?ルソーが問題とするのは、既に社会状態にある人間が、いかに自然人に立ち返ることができるかである。社会が形成され、集団規模が大きくなるにつれ、その中で生き抜くために自己を改善せずにはいられない。世間では、社会の適応能力と呼ばれる。だが、知識を知らなかった頃の自分が、何を考えていたかを思い出すことは難しい。外的要因ばかりを研究すれば、その外的要因によって変質し、もはや自己の姿すら見えなくなる。人間ってやつは、自分自身にどんなに関心を持とうとも、内的な自己には無知であり続け、外側の方がよりよく見えるようである。人間社会を賛美し、ばかげた傲慢と権威に憑かれ、なんとも知れない空虚な自己礼賛に陥り、自己を偏見へと誘なう。そして、理性を発達させることが、自然人を窒息させるのかは知らん...
「もっとも痛ましいことは、人類のあらゆる進歩が原始状態から人間をたえず遠ざけるために、新しい知識を蓄積すればするほど、ますますあらゆる知識のなかでもっとも重要なものを獲得する手段をみずから棄てるということであり、またわれわれが人間を識ることができなくなっているのは、ある意味においては人間をおおいに研究した結果だということである。」

1. 自然法について
国家の強制は、どこまで容認できるだろうか?政府が法律を国民にゴリ押しするような国家では持続性が危ぶまれる。法が神聖であるための条件は、いかに自然に適っているかが問われる。そして、自然法のもとで、常に政治システムは検証されなければなるまい。ルソーはもう少し踏み込んで、法律が自然法から逸脱するから、国家が不合理な不平等を生み出すとしている。
うん~... そもそも社会状態が、自然状態とは相容れないように映るのは気のせいであろうか?いくら自然法に近づけても、集団の規模が政治の許容範囲をとっくに超えているような気がしてならない。おそらく人口に適した政治の規模というものがあるのだろう。地方分権は機能しているだろうか?もしかして人間社会を生きること自体が、自然状態を放棄していることになりはしないか?
つい最近、スコットランドの独立を問う住民投票が行われた。現在の近代国家の枠組みが大方出来上がったのが18世紀前後で、まだ歴史は浅く、普遍的な枠組みと呼ぶには程遠い。今後も、国家という概念に対して疑問を投げかけられるであろう。
確かに、法を尊重できるかどうかは、誰もがある程度納得できるものでなければならない。法律が、私利私欲やご都合主義、あるいは支持者への利益供与のために編み出されては尊重されるわけがないし、すぐに改変されるような法律では人々に蔑まれる。改善するという口実で慣習を排除すれば、新たな悪行へ導く。現実に、時限立法と称しては支持を集め、しかも有効期限が過ぎても都合よく延長させ、却って社会を混乱させている。悲しいかな、悪徳は法の網を巧妙にかいくぐり、法律は悪徳の進化にともなって進化し、複雑化してきた。人間社会のエントロピーを元に戻そうとすれば、一旦リセットして再契約しなおすしかなさそうだ。氷河期や地軸変動といった地球規模の環境変化は、契約をチャラにしようという神の魂胆であろうか...

2. 自然社会と文明社会
「結論を述べよう、... 森の中をさまよい、器用さもなく、言語もなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、少しも同胞を必要としないばかりでなく彼らを害しようとも少しも望まず、おそらくは彼らのだれをも個人的に見覚えることさえけっしてなく、未開人はごくわずかな情念にしか支配されず、自分ひとりで用がたせたので、この状態に固有の感情と知識しかもっていなかった。自分の真の欲望だけを感じ、見て利益があると思うものしか眺めなかった。そして知性はその虚栄心と同じように進歩しなかった。
偶然なにかの発見をしたとしても、自分の子供さえ覚えていなかったぐらいだから、その発見をひとに伝えることは、なおさらできなかった。技術は発明者とともに滅びるのがつねであった。教育も進歩もなかった。世代はいたずらに重ねていった。
そして各々の世代は常に同じ点から出発するので、幾世紀もが初期のまったく粗野な状態のうちに経過した。種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のままであった。」
ルソーの描く自然人は、現代的な個人主義とは相容れない。自然人ほど臆病な存在はないのかもしれない。それだけに、知覚は極めて敏感で、危険の察知能力に優れる。文明化によって知覚能力は衰え、仮想空間に認識を求めれば、いずれ空想だけで生きていけるようになるのだろうか?食糧という実体ですら、サプリメントの進化で栄養分は集積化され、それで食べた気になれるとすれば、排泄の必要もなくなるのだろうか?性交の必要もなく遺伝子を伝播させることができれば、愛という幻想は精巧(性交)ロボットへ向けられるのだろうか?だが、生命体である以上、寿命という時間的な実体からは逃れられない。いや、肉体から完全に分離した精神だけで、生命を自覚できるような状態がありうるのだろうか?などといえば、霊媒師が喜ぶ。
文明社会では、寿命の対処においてですら不平等が生じる。権威者や金持ちは最先端の医療が受けられ、貧困層は放置される。いくら政治が平等を唱えても、食糧も、医薬品も、社会サービスも、文明が高度化するほど格差は広がる。はたして政治は自然の産物であろうか?
しかし一方で、文明社会が理性を育み、共同生活を安住の地とさせてきたことも事実である。弱者に対してそこそこの憐れみや施しがあるからこそ共存できるのであって、単純な弱肉強食の社会では持続できない。その意味では、個人の徳と悪徳は、集団性においてなんとか相殺されている。理性を高めるには、悪徳というリスクを避けられないのかもしれん。尚、ユスティヌスの歴史書には、こんな句があるそうな。
「ある人々にとって悪事を知らないことは、他の人々にとっては善事を知っていることよりも有益である。」

3. 自己愛と自尊心
本書は、自然人の固有の感情は自己保存の欲求とし、これが自己愛の根源だとしている。そこから派生する同胞への憐れみの情念が人間愛となり、やがて隣人愛や祖国愛へと広がると。対して、自尊心は、人間社会の腐蝕作用によって、自己愛が利己心へ変質した情念だと考えているようである。自己愛が自然的感情であるのに対し、自尊心は人為的感情ということか?自己愛も自尊心も利己心と相性が良さそうだし、言葉の堂々巡りのようにも映る。このあたりは用語のニュアンスの違いもあろうし、翻訳の難しさが伺える。
いずれにせよ、善人と悪人を区別しないような社会は、いまだかつて存在しない。ヘシオドスは、人間の進化を、黄金の種族、銀の種族、青銅の種族、英雄の種族、鉄の種族の五世代で物語った。黄金の種族は、クロノスが支配する時代で、人間は神々とほぼ同じ生活をし悩みや労苦を知らずに暮らす。銀の種族は、ゼウスが覇権を握った時代で、スケベえな雷オヤジが、あらゆる女神の寝所に忍び入っては子を孕まし、その子供たちが神々への敬意を忘れて争いを起こすようになる。青銅の種族は、さらに暴力的となって青銅製の武器を用いる。英雄の種族は、トロイア戦争で活躍した英雄たちの時代で、戦争をやるから英雄という概念も生まれる。鉄の種族は、正義や希望のない悪事が横行して退廃を極めた段階、すなわち、現世。
やがて、政治的な強者と弱者、経済的な富裕層と貧困層、社会的な知識人と無知人など、あらゆる面で二極化していく。物流と情報が発達すれば、都市と地方で差がなくなるかと思いきや、密集化と過疎化はむしろ顕著になる。情報社会が高度化すれば、誰でも平等に情報が得られそうなものだが、情報意識や情報収集意欲の格差が拡大し、情報主権が民衆へ移ってきた。あらゆる面で主権が民衆へ移行すると、能動的に生きる者と受動的に生きる者の意識格差は拡大するものらしい。
ならば、不平等を嘆くよりも個人の能力を自然に伸ばすように仕向け、最低限の自己存在の保障を規定する方が、よほど実践的であろうに。不完全な人間をエゴイズム的な完全像で描こうとするから、メフィストフェレスに付け入る隙を与える。そして、誰もが尊敬を受ける権利を主張するやかましい世の中になろうとは...
「各人は他人に注目し、自分も注目されたいと思いはじめ、こうして公の尊敬を受けることが、一つの価値をもつようになった。もっとも上手に歌い、または踊る者、もっとも美しい者、もっとも強い者、もっとも巧みな者、あるいはもっとも雄弁な者が、もっとも重んじられる者となった。そしてこれが不平等への、また同時に悪徳への第一歩であった。この最初の選り好みから一方では虚栄と軽蔑とが、他方では恥辱と羨望とが生れた。そしてこうした新しい酵母によってひき起された醗酵が、ついには幸福と無垢とにとって忌まわしい合成物を生み出したのである。」

4. 私有と共有
「ある土地に囲いをして、これはおれのものだ!と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会(国家)の真の創立者であった。」
本書は、社会的不平等の起源を私有制度に求める。ロックの格言に、「私有のないところに不正はありえない」というのがあるそうな。確かに、人間社会のすべての構成員に、私有の意識がなければそうかもしれない。しかしながら、自己保存の欲求の根源には、自分の身体は自分のものという意識がある。私有意識だけ明確に持ちながら、無理やり共有しようとすれば、むしろ不正の餌食となろう。共産主義的搾取の類いだ。現実に、すべての財産を共有すると宣言すれば、すべての管理は政府が担うことになり、そこに権力が集中し、癒着が生じ、搾取が始まる。あるいは、無条件な平等によって恩恵が受けられるとなれば、怠け者ほど得をする。純粋な自然状態に相応しい善は、社会状態では適合しなくなり、悪の道具となるばかりか、善自身が悪徳へと変質するだろう。
また、才能は誰のものか?と問えば、圧倒的多数が個人の努力の賜物と答えるだろう。真理に近づいた天才の中には、人類の叡智と答える者もいるが、人間社会の構成員の圧倒的多数は凡人である。才能が社会において有利となりうる条件だとすれば、ここにも不平等の起源がある。才能が優れていれば、それをもっと伸ばす環境を整えるべきだし、そのことが人類の叡智を保存することになろう。だが実際は、人類の叡智に貢献するよりも、はるかに経済的な成功者の方が評価される。勝ち組と負け組とは、まさにそんな概念だ。人類の叡智に貢献する者ですら負け組に種別される。もっとも本人に、そんな意識はないだろうけど...
所詮、そんなグループ分けは、他人よりも優位な立場に位置づけて、優越したいという欲求でしかない。経済に隷属すれば、貨幣量でしか価値判断ができない。知識に隷属すれば、知識量でしか価値判断ができない。土地の大きさに満足を求め、支持者や人気の数を競うのも、同じ原理であろう。身分と財産の格差、情念と才能の相違、有害な技術、つまらない学問といったものから、無数の偏見が生まれる。経済的な貧困と精神的な貧困では、次元が違うようである。どちらが高次にあるかは知らんが...
本書は、人間社会の構成員が国家という枠組みに組み込まれると、集団的な殺戮や復讐がより顕著になり、血を流すことが名誉や美徳となり、恐ろしい偏見が生まれるとしている。その偏見は、同胞ですら犠牲にする。今日、グローバル化の進む中で国家の枠組みが曖昧になり、経済交流や文化交流が戦争のリスクを軽減している。だがその一方で、帰属意識の不安からか?ナショナリズムが高揚し、その意識も二極化する傾向にある。自国民を優越させたいという欲求は、自尊心の類いから発す。その優越意識はオリンピックなどの祭典にまで及び、個人の名誉を国家の名誉と言わんばかりに罵り合う。政治家同士のネガティブキャンペーンのごとく。公私混同の甚だしさは、人間の悲しい性(さが)というものか...
名誉、友情、美徳を誇りとする情念は、いまや悪徳を誇りとする秘訣を見出す。愚者が賢者を指導し、大多数が飢えているにもかかわらず、ほんの一握りの者たちが奢侈に溺れるとは、これいかに?自ら犬と称したディオゲネスは、最も人間性に優れた都市アテナイを歩き回るものの、一人も人間を見出すことができなかった、と豪語した。社会状態とは、もはや不自然な集合体に成り下がる。人間の潜在意識に、狂いたいという欲求があるはずがないと、どうして言い切れよう...

2014-09-21

"社会契約論" Jean-Jacques Rousseau 著

おいらは、説教じみた話が嫌いだ。ルソーといえば教育者の印象が強く、避けてきたところがある。ただ、モンテスキュー思想に批判的な立場であることを知ると、ちと興味がわく。おまけに、モンテスキューの「法の精神」は禁書目録に加えられ、ルソーの主著「エミール」もまた禁書に指定された。それだけで反社会分子には、ルソーを読む理由となる。彼はこう釘を刺す、「注意を払おうとしない読者にわからせる方法を、わたしは知らない。」と...
尚、「社会契約論」の翻訳版がいろいろある中で、桑原武夫、前川貞次郎訳版(岩波文庫)を手にとる。

これは人民主権論を説いた書である。当時、政治理論の多くが支配者の立場から語られたのに対し、ルソーが民衆の立場から語ったことは注目すべきであろう。その観点が、ロックを継承しているのは間違いなさそうだ。必然的に、統治者たる資格を持つ崇高な道徳観を求めるよりも、俗的な意志に則した政治体制が議論されることになる。とはいえ、立法者の資格に限っては、超人的能力を求めているものの...
その精神はフランス革命の引き金になったと評され、日本においても自由民権運動に影響を与え、近代デモクラシーの宣言書とも呼ばれる。本書は、国家は個々が結合した状態で、互いの自由と平等を最大限に確保するための契約によって成立するとしている。はたして社会の運命は、契約などという人の力で変えられるや、否や。いずれにせよ、人の意志につられる運命と、運命につられる人生とがあるように思う。
「いかなる人間もその仲間にたいして自然的な権威をもつものではなく、また、力はいかなる権利を生み出すものでない以上、人間のあいだの正当なすべての権威の基礎としては、約束だけがのこることになる。」

モンテスキュー式権力分立は、立法、執行などの政治機能を同列に配置する並列型機構である。対して、ルソーは立法能力を国家形成の根幹に位置づけ、他の機能に対して優越すべきだとし、その下に執行などを従属させる階層型機構を唱える。そして、「一般意志」という概念を持ちだして、ルソー流「自然状態」と絡めながら意志の階層化を暗示している。個人の意志から集団の意志へ、さらに究極目的たる国家の意志へ昇華させるといったところであろうか。
個人的意志は目先の欲望に吸い寄せられる傾向があり、しばしば社会的意志と大きく乖離する。では、人間の自然状態とは、どの意志の段階であろうか?理性は自然状態に含まれるだろうか?政治学の伝統には、人間は社会的市民であるといったアリストテレス的な考えがある。社交的な性質が生まれつき具わっているとすれば、理性は自然状態に含まれることになろう。
しかし、ルソーは、社会関係は個人の利害関係から生じるものであり、これに対抗すべく道徳観念が生じるのは、既に自然状態から社会状態へ移行した結果だとしている。生まれたばかりの子供は、野心や邪心の欠片もない純粋な状態にある。対して、大人とは、どういう状態であろうか?歳を重ね、経験を積んだからといって、理性的になるとは言えまい。むしろ、頑固になり、せっかちになり、僻みっぽくなり、おまけに嫌味の一つでも言わないと気が済まないとくれば、説教することでストレスを発散する。熟練した政治家ですら、しばしば憤慨するではないか。集団に属すことで安住し、慣習に従っていれば思考せずに済むとは、まさに奴隷状態!社会状態とは、堕落の象徴とでも言うのか?そして、一旦自然状態へ回帰し、新たな契約を結び直せとでも言うのか?... そうかもしれん。
「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。どうしてこの変化が生じたか?わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか?わたしはこの問題は解きうると信じる。」

1. 自然状態と社会状態
最も自然な社会は、家族で構成される。ただ、子供が親に結び付けられるのは、自分自身を保存する上で親を必要とする間のみ、この状態は家族という暗黙の約束によって維持され、ここに法的な服従と義務の関係が結びつくという。服従も義務も自然的自由の下で成り立ち、運命的自由、あるいは人間本性的自由と言うべきかもしれない。そもそも人は生まれる国や両親を自由に選べない。生まれる地すら与えられない人もいる。自然淘汰的な競争原理において、人間の存在意識が防衛本能と結びつくのは自然であろうし、最も原始的な掟は自己保存に対する配慮となろう。ただ、親子の絆は血縁や愛などで結びつくが、支配者は民衆に対して愛を持たないばかりか、支配行為を快感とする。
では、国家と個人の結びつきは、何に頼ることになろうか?ルソーの政治論では、それが契約というわけだが。契約は人格と人格の結びつき、すなわち信頼によって成り立つ。国家はその信頼に値する存在であろうか?そこで、人間社会に課せられる最も素朴な権利が問われる。個人が国家を信頼するには、自己存在の保障が原則となる。そう、基本的人権の類いだ。
しかしながら、約束とは破られるもので、聖書との契約ですら心もとない。どんなに優れた政治理論をもってしても、最終的に縋るものが人間性だとすれば、政治家不要説が燻る。ルソーの描く国家像も、ブルジョワ的な立憲君主国家や議会主義国家などではなく、全人民を主導者とする革命的民主制、もっと言うなら、人民独裁国家に映らなくもない。革命ばかりでなく、暴力的な政治運動までも正当化されそうな。実際、フランス革命では、支配者が民衆の自由を奪ったのと同じ原理によって、民衆が自由の権利を取り戻したが、その反動に恐怖政治が訪れた。僭主による権利剥奪も、民衆による権利剥奪も大して変わらない。いや、集団性による専制の方がタチが悪いかもしれない。言葉が乱用される社会では、ささやかな事に目くじらを立て、言葉の揚げ足をとることに執心し、正義ですらストレス解消の道具とされる。
自然状態が自己保存における権利の保障に基づくとすれば、社会状態は集団的な保存における権利の実践ということになろう。それは秩序の上に成り立つ権利であって、自由奔放という意味ではなく、当然ながら自由も平等も制限されることになろう。主権者とは、社会契約を結んで一体となった人民全体のことを指すのであって、決して一個人を指すものではないという。
「精神的な事がらにおいては、可能性の限界は、わらわれが考えるほど狭いものではない。限界を狭くしているものは、われわれの弱さ、悪徳、偏見である。」

2. 一般意志と国家
自然状態において、すべての人間は生まれながらにして自由と平等が与えられる、とはよく耳にする。世界人権宣言にも似たような事が綴られる。だが、社会状態において自由と平等が制限されるということは、主権が制限されることになる。
では、個人が主権の制限を受け入れる動機は、どんな理由から発せられるであろうか?本書は、それは国家を作る根本原理、すなわち公共の幸福を求める「一般意志」だとしている。この用語は多数決的なニュアンスを与えるが、むしろ普遍的な意志と解すべきであろう。人間社会が不完全であるとはいえ、秩序なるものが自然に育まれてきたのは、義務の声が肉体の衝動を抑え、欲望を権利に置き換え、だいたいの方向性において集団的な理性が働いているからであろう。
しかしながら、公共利益を普遍性において定義することは、絶望的なほど難しい。集団の意志は、しばしば個人の意志と大きく乖離する。代議士は、本当に民衆の代弁者となっているだろうか?選挙運動は、純粋に政策を議論するよりも、血縁や地元出身を推したり、あるいは宗教的活動となりやすい。自分で思考することを放棄すれば、民主主義の義務を放棄しているようなもの。だからといって、立候補者の人格など分かるはずもない。結局、利益供与という動機が、票田とたかり屋の構図を生み出す。多数決の原理を本当の意味で機能させるためには、公共的な悟性の下で普遍的な意志を持つ側を多数派とするしかないだろう。だが、既に絶望的な状況にある。人間社会はいろいろな意味で格差が拡大する。経済格差、知識格差、認識格差... 民衆の意志は二極化し、おまけに報道屋が対立構図を煽り、世論はそれを面白がる。いまや国家は、国の枠組を超越した一つの概念のような存在であり、政府の意志で決定できるような単純な存在ではない。

3. 立法者の資質
「立法者は、あらゆる点で、国家において異常の人である。彼は、その天才によって異常でなけれならないが、その職務によってもやはりそうなのである。それは、行政機関でもなければ、主権でもない。共和国をつくるこの職務は、その憲法には含まれない。それは人間の国とは何ら共通点のない、特別で優越した仕事なのである。」
ルソーは、立法者に無の権威者となることを求める。人を支配するものが法であるならば、やはり人が法を支配してはなるまい。実際、日本国憲法第41条によると、国会は国権の最高機関で、国の唯一の立法機関とされ、これも一理ある。
しかしながら、立法者とて神ではない。国会議員は人間を超越した存在とでもいうのか?彼らは、司法の支持に従って、彼ら自身が当選してきた選挙制度を、中立の立場から不利な方向に修正できるだろうか?絶対的な安定多数を確保すれば、ドサクサに紛れて他の法案まで通過させてしまうような連中が。法を編む者、あるいは、それに口出しする者が、現実に執行権と結びついている。三権分立なんてものは、民衆の御機嫌とりのためのものか?ローマの十二表法を起草した十人委員会ですら、自らの権威を掲げるほどあつかましくはなかったという。そして、民衆への提案をこう語ったとか。
「君たちの同意がなくては、何一つ法とはなりえない。ローマ人よ、君たちみずから、君たちの幸福を生み出すべき法の作成者となれ。」
完全な立法においては、個人的意志は皆無でなければならないという。そりゃそうだろうが、主観が作用する意志において自己を排除することなどできようか。正義の根源ですら主観的に発するではないか。実際、有識者たちの憤慨する姿を見て、これが全体の意志に映るだろうか?普遍的な意志においては全体と個人は一致するのだろうが、そこに自信を深めた時、人格は暴走を始める。論理的な検証を怠り、意思決定を急ぐところに、ろくでもない条文が大量生産される。やはり、ルソー式階層型機構より、モンテスキュー式並列型機構の方が凡人に適っていそうな気がする。好みの問題かもしれんが...

4. 法の慣習性と硬直性
法には大まかに三つの種類がある。一つは、主権国家として規定される憲法。政治法や根本法とも呼ばれるそうな。二つは、構成員の相互関係や、社会との関係を規定する民法。三つは、これらの違法行為に対する罰則を規定する刑法。さらに本書は、四つ目の種類として最も重要な概念を加える。それは、市民の心に刻まれる規定で、いわゆる慣習法である。
特に民主政において、執行権が立法権と結合していることが弱点であると指摘している。権力との癒着構造が政治の腐敗を招くのはどんな政体でも同じだろうが、政府が法律を乱用する方がまだしも弊害が少ないとしている。どっちもどっちのような気もするが。裁判官の判決が世論の御機嫌伺いとなれば、もはや法治国家ではない。感情論に振り回されては、魔女狩りの類いとなんら変わらない。
「国家が解体するときには、政府の悪弊は、それがどのようなものであろうと、アナーキーという共通の名前で呼ばれる。これを区分すれば、民主政は衆愚政治に、貴族政は寡頭政治に堕落する。つけ加えれば、王政は僭主政治に堕落する。」
政治制度を強固にしようと欲するあまりに、その働きを停止する力まで失ってはならないという。古代スパルタでさえ自ら法律を休ませたことがあるそうな。ただし、公共の秩序を変えるような危険を冒してよいのは、最大の危機の場合だけと釘を刺しながら。最大の危機とは祖国の存亡にかかわる事態で、それ以外は法の神聖な力を止めてはならないという。
「法の非柔軟性は、事が起ったさい、法がこれに適応するのを妨げ、ある場合には、法律を有害なものとし、危機にある国家をそれによって破滅させることにもなりうる。形式の秩序と緩慢さとは、一定の時間を必要とするが、事情は時としてこれを許さない。立法者が少しも考えておかなかった場合が無数に起りうるから、人はすべてを先見することはできない、ということに気づくことが、きわめて必要な先見なのである。」

5. 政教分離
本書には、政教分離の原理を匂わせる部分がある。いや、絶望しているのか?支配者たちは世論を支配するために、しばしば神を利用してきた。改宗の義務までも、法によって被支配者に課してきた。人間の欲望は、土地を侵略するだけでは飽きたらず、精神までも征服せずにはいられない。その原理は、分かりやすい説得力や宣伝力を駆使して洗脳にかかる多数決の原理に受け継がれる。政教分離は古くから唱えられてきたが、本当の意味で政教分離を果たした国家は、まだ出現していないようである。
「市民的不寛容と神学的不寛容とを区別する人々は、わたしの意見によれば、まちがっている。この二つの不寛容は、分けることができない。のろわれている、とわたしたちが信じる人々とともに平和にくらすことは、できない。彼らを愛することは、彼らを罰する神をにくむこととなろう。彼らを正しい宗教につれもどすか、迫害するかが絶対に必要である。宗教的不寛容が認められているところでは、どこでも、それは市民生活に何らかの効果を生まずには済まない。そういう効果が生まれるやいなや、主権者はもはや、世俗的な事がらについてすら、主権者ではない。」