2007-04-29

"世界の歴史をカネで動かす男たち" W. Cleon Skousen 著

本書は政治暴露本であり、アル中ハイマーはあまり近寄らない領域である。
ただ、ミステリーよりもリアリティを感じるので最近好んで読むようになった。また、著者の経歴もおもしろい。著者クレオン・スクーセンは、16年間のFBI在職、4年間の警察署長、10年間の警察雑誌編集長、17年間の大学教授、そして政治評論家である。捜査官ならではの裏が覗けそうである。

本書は、1300ページにもおよぶ書籍「悲劇と希望」の紹介書(解説書)の位置付けにある。「悲劇と希望」の著者はキャロル・キグリー。1966年に刊行された。これは、現実社会を牛耳る金融支配体制の暴露本である。そして、刊行後間もなく全米書店から姿を消した。権力の中枢がこの暴露を時期尚早と判断したからであろう。その後1970年、本書の原書である「裸の資本主義者」が発刊される。本書は、日本の出版界、学術界から黙殺された邦訳版である。と紹介される。この序文ですっかり立ち読みの罠に嵌ってしまった。ゆっくり読みたい。またもや衝動買いするのである。

いきなり全米の凶悪犯の紹介から始まる所は、いかにもFBIらしい。
どんな凶悪な犯罪者も自分自身が悪いとは思わないと語る。これは人間の真理かもしれない。人間はレベルの違いはあれども、過去に犯した罪は数あるはずである。
おいらは自分が犯してきた罪など思い当たるところが無い。なるほど、人間とは身勝手なもののようだ。ただ、アル中ハイマーだから記憶が辿れないだけで少し意味が違うかもしれない。と言い訳して許してもらえると思っているのは、もっと罪深いのである。
人間は許容範囲までは自分の罪を認める。許容範囲を超えると豹変して攻撃的な態度を取る。罪を認められる範囲が、その人の器というものだろう。さて、前置きはこのぐらいにして本題に入ろう。

本書は「国際エスタブリッシュメント」による闇の権力が世界支配を企てる。という一般的に語られる陰謀説を語っている。「悲劇と希望」の著者キグリー博士はこの黒幕に属している人物である。
彼曰く。「この黒幕は信用に足るグループであると保証し、もはや暴露しても問題がない。」と言い切る。おいらは、いきなりむかつくのである。
この国際エスタブリッシュメントを「銀行家一族王朝」という言葉で表現している。
「ここ二世紀で、欧米の巨大銀行一族が国際金融連合を形成し、政治支配を目指す新たな王朝を築き上げた。こうした銀行王朝は、どんな政府に対しても緊急時に借金できる財源を確保していなければならないこと。その資金を自分の財源から拠出できれば、意のままに王も民主的指導者も操れることを熟知している。」
主要な銀行一族を列挙すると、ロスチャイルド家から始まる。しかし、しばしば陰謀説で登場するようなユダヤ人の企てではないと断言している。
「世界的な陰謀を研究する時に、あらゆる悪の根源は大掛かりなユダヤ人の陰謀であると決めつけるヒトラー主義を鵜呑みにしてはならない。こうした企みを抱くグループは国際銀行家であって、特定の人種や宗教ではなく金と権力への渇望であることを心に留めておくことが肝要である。」
こうした超富豪王朝の世界支配組織が地球征服を目指しており、社会福祉的法律を適用したり、また、必要な場所では共産主義革命もいとわないというのである。キグリー博士自身が、自家用ジェット機で世界を飛び回り、この秘密権力グループの一員であると自負している。

キグリー博士は、国際エスタブリッシュメントによる金融支配は大方良いことである。と満足げに語る。資本主義の暴走を抑えつつ共産主義を支援したこと。FRBの誕生とそれを牛耳る銀行一族の存在。モルガン、ロックフェラー、カーネギー財団は中国を共産主義陣営に売り渡したこと。朝鮮戦争で米国が勝てないように巧みに仕組まれたこと。ロックフェラー系の石油会社、2社が、過去20年間、政治改革が世界各地で発生するたびに、石油、天然ガスの権益を独占してきたこと。などなど。
「平和を希求する諸国家の連邦であるはずの国連は偽善的な茶番でしかなく、その創設メンバーの米国は世界で最も戦争、破壊、世界制覇を擁護する存在であることは明らかである。拒否権の発動により安保理が機能を果たさない。国連本部の全部門がロックフェラー家の援助を受けているのは偶然の一致ではない。」
日本において「プラザ合意」「金融ビックバン」「郵政民営化」となんとなく強制的に仕組まれたという感じがするのは偶然ではないかもしれない。日本で講義される経済学はゴミのような大量の情報で欺瞞されていると言い切っている。その件はまったく同感である。

ここで、本書の著者スクーセンはキグリー博士の言うところの「世界的陰謀」の中核体として「国際銀行家」を正確に定義している。これは、貯蓄銀行や商業銀行とは違うのである。
イングランド銀行を主体として「シティー・オブ・ロンドン」が形成され、この「シティー」こそが事実上、主権を有する世界政府であるという。イングランド銀行が英国下院の支配監督検査を受けない。FRBも言うまでもない。世界金融システムの本質はイングランド銀行と「シティー」の権力構造に米国を取り込み世界国家へと進む。世界金融は民族、国家を一切認めない。
恐ろしいことにキグリー博士は「世界中の政治経済力が巨大な一枚岩の全世界的権力に収斂しつつある」と断言している。このような闇組織に逆らった政策を取る国は滅ぼされかねないというのである。"長いものには巻かれろ"ということか。日本国の最も得意とする戦略である。

国際エスタブリッシュメントにとっての脅威についても語られている。
「国際エスタブリッシュメントにとっての脅威は、米国中流階級である。中流階級こそ、進歩的、自己統治的、自由を愛する国民性を維持する上で一番重要な階層だからである。この階層は独裁制に逆らう。米国中流階級を無慈悲にも抹殺するしかない。そして、高度に集中化された社会主義国家へと向かっている。」
もはや堂々と批判できる人間は一般市民でしかないのか?マスコミによる世論調査などの報道は、まったく胡散臭い。数字の改ざんをしなくても、調査方法そのものに方向性をつけていると自然に感じとれる。少なくとも、アル中ハイマーの周りでは、しばしばマスコミ報道と対極にある。きっと、似たもの同士の集まりだからであろう。社会への反抗分子の集まりである。

本書は最後に、国際エスタブリッシュメントの存在を明らかにしたキグリー博士への感謝を述べつつ、こうした「悪党は駆逐されるべき」と述べている。米国の二大政党は、もはや権力のバランスを保つためには機能できないと言い切っている。日本においても、国民主権により選ばれた国会議員であっても、巨大な官僚が支配している。そこに、国際エスタブリッシュメントが圧力を加えれば万事休すである。

キグリー博士は、社会の一部では悪い方向に向かっていることを認めつつも、人類の超エリート階層というのは、理性を失ったり、慌てふためくようなことはない。と言い切っている。
世界の超エリート階層による支配とは、人間の倫理観とは、そんなに信頼できるものなのだろうか?過去に輝かしい功績を上げた人間でも、現在、努力を怠ると過去の栄光にすがる。大金を持つと人間は豹変する。人間とは思い上がるものである。
本書は、一般のマスコミや政治指導者達の無知さかげんをあざ笑うかのごとく語られている点はとてもおもしろい。しかし、こうした行為を恥じらいもなく公表しているのは少々むかつくのである。このような暴露本や陰謀説は、冷戦が終わった途端に吹き上がる。大抵は10年以上前にさかのぼる。リアルタイムでは、権力者に抹殺されるからであろう。ということは、現在進行中の陰謀はどんなものだろうか?
支配者からすると、馬鹿で酔っ払いな国民ほど扱いやすいものはないのだろう。アル中ハイマーは、ますます福祉重税国家の罠に嵌っていくのである。

2007-04-22

"グーグル・アマゾン化する社会" 森健 著

本書は、Web2.0を情報化、多様化が進む社会現象と結びつけ、経済界、自然界、あるいは心理学的にアプローチしたものであり、なかなか興味深く読めるのである。
情報化、多様化が進む社会において、Web2.0的企業は果たして偶発的なものなのか?情報化、多様化が進むと、逆に一極集中する現象が起きるのはなぜか?現在の社会が、格差社会を助長させるのではないか?という問いに対して話が展開する。Web2.0をユーザ参加型という世間の論調があるが、まさしくユーザ依存型であると定義している。

まずは、Web2.0的企業としてアマゾンとグーグルが紹介される。
アマゾンと言えば、ロングテール戦略で成功した企業として真っ先に名前が挙がる。売上の3分の1は、売上順位15万位以下の"死に筋"商品から成り立っている。これは、商品の展示コストを限りなく0にすることで実現できる。
グーグルと言えば、真っ先に検索エンジンが思い浮かぶ。その主力技術である検索連動広告の「アドワ-ズ」と「アドセンス」を紹介している。前者は検索キーワードに連動した広告表示、後者はブログに含まれる文字と関連キーワードに連動した広告配信、そして多数の小額広告料により収入を巨大化する。
双方とも巨大なデータベースを武器に、アマゾンは誘導的に、グーグルは半強制的にユーザのWeb活動を取り込むことに成功している様が語られる。

情報化、多様化が進むと、結果として一極集中が招かれるのはなぜだろう?
ロングテールを美化する世間の論調があるが、実際にWebを利用した小売で生き残れるのは、在庫スケールをもつトップ企業だけである。つまるところ物量作戦の恩恵である。
こうした現象は、Web業界だけにとどまらず、金融、経済、政治にも顕著に現れる。本書では、社会現象の例としてミリオンセラーの発生頻度を挙げている。映画の劇場総動員数、音楽CD、書籍などは、産業としては下降状況にあるにも関わらずミリオンセラーは、かつてない勢いで登場するようだ。これも多様化から一極集中で勝ち組みを助長する現象であるという。
インターネットは分散的で各サイトはフラットに存在する。しかし、人が集まるサイトは分野別に固定化され一極集中が起きる。「群集の叡智論」で多くの人が意見を述べ、集団でまとめられる意見が最適な解であるならば、理想的な社会へ向かっていると言えよう。これはグーグルの理念とも一致する。ただ、ページランクの主旨はリンクが多ければ重要度が高い、という解釈は真理だろうか?

複雑系とネットワーク理論における「スケールフリー・ネットワーク」現象について科学している。
「六次の隔たり」という仮説は、おもしろいので記しておこう。
どんな人でも6人も介せば世界中の誰とでもつながる。
社会学者スタンレー・ミルグラム博士が唱えた説である。
例えば、一人に50人の知り合いが居るとすると、それぞれ50人の知り合いが2500人となる。これを5回続ける6人目に至るときは150億人を超え、かるく世界人口を上回る。
本書は、このネットワークはランダムネットワークではないと指摘する。
「人の知り合いも特に要職にあるものなど顔の広い中心人物を介する。神経細胞ネットワークも、ニューロンは局所的に集中してつながる部分とそうでない部分がある。物流におけるハブ空港やハブ港からインターネットのアクセス網に至るまで。こういった仕組みは自立成長を成す。また、効率的観点から優先的選択が起きる。」
産業分野では、先行者利益や、一番でないと意味がない、という物言いがある。これも「スケールフリー・ネットワーク」がもたらす現象だと述べている。
しかし、グーグルは後発参入組みではないか。YouTubeや、mixiも。
これに対する答えは、以下のように述べている。
「後からでも結節点に適応性があれば、優先的選択が起きてハブができる。適応性とは、利便性、操作性、技術、コストなどで、イノベーシュンにより参入する余地である。」

Web2.0時代の特徴としてオープンソースが語られる。
「Webサーバの3分の2を占めるApacheはオープンソースである。サーバ構築で最もよく用いられるLAMP(Linux, Apache, MySQL, PHP)は全てオープンソースである。こうした流れは、企業の知的財産保護に真逆にある。」
オープンソースのコミュニティにはボランティア精神が受け継がれる。知的挑戦を目的とした真の研究者の財産と言えよう。こういうコミュニティに参加できるということは、それだけの技術レベルを持った証拠であり、金銭的な報酬がなくても精神的に満足できる。ただ、こうした財産を武器に巨大なマーケットを手中に治める企業が現れるのも事実である。

「金持ちほどますます金持ちになる現象」について群集心理を分析している。
最初は支持者が少なくても、ある限界点を超えると突然殺到する様を、従来のマーケッティング例や、心理学から弁明している。ある限界点を過ぎると、下降せず一定の力を持ちつづけるともある。つまり、富を持つ者は増やし続けられ、富を持たざる者はいつまでも持てないという真理である。日本でも格差社会と言われはじめているが、加速するまでの臨界点にきているのかもしれない。

パーソナライゼーションは一見、個性、多様性の重視として持てはやされているが、その危険性についても語られる。
パーソナライゼーションは、過去の行動履歴をコンピュータが記憶するという手段で実現される。行動履歴とは、意味を持つ言葉としての最小単位である単語を累積することである。
「最小単位の単語は、サイエンスが万物を極限まで分類する性格からしても合理的な流れである。しかし、顧客のマーケッティングに有効な情報が得られる一方で、完全に個人の世界が出来上がる。結局親しみのある連中の世界が形成され、類は友を呼ぶ現象となる。」
集団分極化が進むと考えが異なる別の集団の意見を排除し、同じ集団で考えが極端に偏る傾向を指摘している。集団分極化は、むしろ情報を任意に取得しコントロールできる空間に発生しやすいという。人間は心地よい意見を多く聞きたいものである。特に社会不安に直面すると顕著である。世界でナショナリズムが進む傾向もこれに似た現象と捉えている。このあたりは、SNSが勢いを増す現象と照らして、その典型であるmixiを攻撃しているがごとく語られている。

本書は「一極集中化が進む社会にあって、いかに多様性や異質性を汲み上げるかが問題であり、その問題を踏まえた上で主体的志向を貫けるか、群集の叡智は真価を問われている時代である。」と締めくくる。
読んでいて、昔から持っている疑問を思い出す。自分自身に主体はあるか?
自分の意見を主張しているつもりでも情報操作がなされ、その罠に自分自身が嵌っているのではないか。更に、それすら気づかないでいるのではないか。という仮説である。
科学者ならば、発明することにより実感できるかもしれない。しかし、それも人間の進化の過程でたまたまその人に巡ってきた幸運かもしれない。
自動的に特定方向に誘導していくパーソナライゼーションは専門性を高めるが情報ベクトルは狭められる。個人の自主的選択とは、実は強大な力に屈しているだけかもしれない。主体性があるかどうかも把握できないのに、主体性を主張しているかのように錯覚しているだけかもしれない。Web2.0は、それを後押しするツールなのかもしれない。
今日のインターネットを中心とした情報化社会における利便性は高く評価できる。ここでで述べられる社会現象は、良い社会へ進むための過渡期なのかもしれないし、悪い社会への前兆なのかもしれない。
アル中ハイマーは、自分の意見に酔っていると主張するが、実は酒に酔っているだけかもしれない。そして、遠隔操作され、いつのまにか夜の社交場に居ることはよくある。
更に、お姉さんに意見操作され、いつのまにか朝まで飲んでいる。
こうなると自分自身はどこに存在するのかも疑わしい。
ついに、アル中ハイマーは酒樽の中に存在すると主張する有様である。

2007-04-15

"ブルー・オーシャン戦略" W. Chan Kim & Renee Mauborgne 著

最近、なぜかamazonのおすすめ商品が当たらない。「大学院進学ガイド」なんてものもあるから、思わず笑ってしまう。しかし、ふと思う。この歳で大学院を目指すのも悪くはない。アル中ハイマーはすぐにその気になって酔っ払ってしまう。悪い癖である。

今宵のアル中ハイマーは機嫌が悪いぜ!よって書評も荒れるのだ。なぜかって?そこにあったはずのグレンリベットが無くなっているのだ。そして、ドスの利いた声で鏡に向かって絡むのである。
「犯人は、てめえーだろう!証拠は挙がってんだ!顔色が赤いぜ!」

本書は2005年6月初版だから、従来のマネジメントの書籍に比べてもそれほど古くもない。しかし、真新しく感じるものがない。随分昔からあるマネジメント論が並べられているだけである。
本書は大会社のお偉いさんが推薦している。お偉い方々というのは忙しいから、マネジメントの本なんてじっくり読む時間がないのだろう。そういう意味では手頃な本なのかもしれない。
「ブルー・オーシャン」という言葉は心地よい響きがある。カバーの色も青く落ち着いている。更に、サブタイトルには「競争のない世界を創造する」とある。何か別世界へでも導いてくれるようで、宗教の香りさえする。アル中ハイマーは、酒の醸し出す香りのごとく、つい雰囲気に惑わされるのであった。

ブルー・オーシャン戦略とは、このように定義している。
「競争のない市場空間を生み出して競争を無意味にする。縮小しがちな既存需要を分け合うのではなく、競合他社との比較を行うものでもない。需要を押し上げて競争から抜け出すことを狙いとする。競争を前提とした戦略理論と一線を画す。」
既存の需要が形成される市場競争の世界を「レッド・オーシャン」、新しい市場空間を開拓し競争を避ける世界を「ブルー・オーシャン」と呼んでいる。ここだけ読むと、かなり期待感が募る。

レッド・オーシャンは、競争の原理が働き、その戦略は兵法の影響が色濃く、「領土が限られているため、敵を打ち負かさないと繁栄できない。」と表現している。
「競争のない新しい市場空間を想像できない。供給が需要を上回っている世界では進展がない。コストか品質でしか他社を上回ろうとしない企業群の世界である。この世界で成長できても単に運が良いだけである。20世紀の戦略論、マネジメント論の大多数がこの世界を前提としたものである。」
やや反論もあるが、新戦略論がどう打開するのだろう?もう少し読み進めてみよう。
永遠の「エクセレント・カンパニー」や「ビジョナリー・カンパニー」は存在しないと主張する。おいらは「エクセレント・カンパニー」Thomas J. Peters & Robert H. Waterman著は読んでいるか記憶にない。「ビジョナリー・カンパニー」James C. Collins著も読んだ記憶がないが形跡がある。なぜか本棚に並んでいる。

ブルー・オーシャンは、以下のように論じている。
「競合他社とのベンチマークを行わず、従来とは異なる戦略ロジックに従う。これを"バリュー・イノベーション"という言う。価値と革新が重んじられる。従来の競争市場では、価値とコストはトレードオフの関係にある。この前提から抜け出し、差別化と低コストを同時に実現しようとする。新しい需要を掘り起こす。ブルー・オーシャンを創造する体系的方法は、なじみのあるデータを従来と別の角度から眺めるだけである。」
  • 代替産業どうしの狭間には往々にしてバリュー・イノベーションの機会がある。
  • 見落としていた買い手を見つけ出す。
  • 往々にして補間材や補間サービスには潜在的な価値が秘められる。トータルソリューションを提示する。
  • 従来志向は、価格や機能に訴える業界と、反対に感性に訴える業界と2つに分かれる傾向にあるが、一方で決まるほど割り切れる例はまれである。
  • 企業は、結果的に「何を期待すべきか」という点について買い手を啓蒙してきたが、顧客の立場に立たなければならない。

「自分の目で現場を見る」一見当たり前だが、外部委託する経営者はよく報じられているのは嘆かわしい。間接的な報告を受けるなどは、当然のようになされている。一貫性のない戦略、矛盾した戦略は職能別の縦割りが強い企業によく見られるのである。

本書は「ブルー・オーシャン」と「レッド・オーシャン」という言葉で新しい戦略と従来型の競争戦略を切り離して論じられている。しかし、新たな市場空間を見出すということはアイデア競争と考えることができるし、体力競争から、知的競争に置き換わっただけのことのように思える。言葉は新しく聞こえるのだが、なんら真新しい戦略とは思えないのである。そもそも境界線を引く必要があるのだろうか?大企業とは、このように戦略論を分けて論じないと発想転換ができないような頑固な組織なのだろうか?
ピーター・ドラッカーによると、大企業にも意外と起業家精神がありイノベーションを遂げてきた。むしろ中小企業に起業家精神の無い大企業体質を持つ危険性が高いと言う。
今まで見向きもされなかった顧客層を開拓し新しいマーケッティングを展開するためには従来の常識を転換する必要があると語られているが、古くから歴史的に語られていることである。
学者というのは、新しい言葉を創出し、専門用語を流行らせようとすることを好むようだ。現場では既に無意識に実践されている状況をよく見かける。
本書を売るためのマーケッティング戦略と考えれば、タイトルの設定が絶妙である。おいらは、見事に戦略に引っかかって買ってしまった。だからと言って嘆きはしない。全く当たり前のことが書かれているように思えるが、人間というのは、当たり前と決めつけていることが意外と分かっていないものである。分かっているつもりというのは危険な領域に陥るかもしれない。
本書で紹介されるマーケッティング戦略の手法は、いろいろな本で見かけてきた。そうしたものを思い出し頭を整理する役割にはなるのである。こうして、アル中ハイマーは無理やり理屈をつけて、自らを幸せな領域へと導くのである。

2007-04-08

"文明の衝突と21世紀の日本" Samuel P. Huntington 著

サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」といえば10年以上前に読んだ覚えがある。本棚を眺めると、やはり青く色あせた分厚い本が隅っこにある。アル中ハイマーにしてはなかなかの記憶力である。しかし、内容は覚えていない。すっかり分厚い本を根気良く読む元気がなくなったが、本書は薄いので読む気になるのである。

本書では、かつて国家は、政治体制やイデオロギーによって分類されてきたが、いまや冷戦時代を終え、人類の本質でもある文明の違いにより分類される時代であるとしている。
1993年「文明の衝突」理論が発表された当時は、冷戦後は新世界秩序なる一つの世界民族主義が主流となり、価値観のグローバル化を唱えた学者も多くいた。東西ドイツ統一などからしても無理からぬ思想である。しかし、実際はハンチントン理論のように民族紛争へと進み文明間の対立は顕著になっていくように見える。

では、ハンチントンの世界観をざっと摘んでみよう。
世界政治は、文化と文明のラインによって再構築されつつあるとしている。世界の主要文明は、西欧文明、東方正教会文明、中華文明、日本文明、イスラム文明、ヒンズー教文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明である。人類の歴史で初めて世界政治が真に多文明化する言う。

これからの紛争の主な源は、「中国の台頭」と「イスラムの復興」としている。潜在的に危険な紛争は、米国と中国の関係であることは日本人であれば自然と感じとれる。
日本人には理解しずらいイスラム世界についても紹介してくれる。
「イスラム世界による挑戦は経済発展ではなく人口爆発に根ざしている。世界総人口の20%を占め、2025年には30%を占めると言われる。イスラム教徒が暴力に頼りがちな原因の一つは、オスマン帝国没落以来リーダーシップを行使する中核国家が存在しないからである。第二の原因は出生率の高さにある。15歳から24歳までの若年人口の激増を生み出している。」
歴史的に見て若年層人口が20%以上を占めると社会的に不安定になるらしい。しかし、人口増加は1970年イランでピークを迎え、やがて年齢が高くなり諸国で沈静化していくとしている。日本の高齢化社会は、ある意味平和的で良いのかもしれない。

日本の特徴についてもいくつか語られる。
「日本は、文化と文明の観点からすると孤立国家である。日本文化は高度に排他的で、広く指示される宗教やイデオロギーを持たないため、他国との文化的関係を築けない。」
日本の唯一の同盟国は米国であり最良の友と主張する政治家や知識人は多い。米国人は他国の人々より日本人とのコミュニケーションを難しいと考えているようだ。日本で危機が生じた時に米国は当てにならないことは言うまでもない。ましてや、アイデンティティを感じるなどで他国から結集して支援してくれるなどありえない。金だけ出して利用される、悲しい性である。
東アジアでは、日本を中心とした経済圏は成り立たないだろうとも言っている。孤立国家という表現は、日本人の体質からして恐れる人も多いだろう。しかし、おいらには孤立文明がもたらす世界的役割もはっきりしてくるように思える。民族紛争の多い時代にあって中立の立場を取れる。偏った戦略は不幸を招くだろう。こういう時代だからこそ世界観を見極められる政治家に期待したいものである。実は、真の政治家が求めらる国は日本のような国なのかもしれない。と考えるとなぜか落ち込むのである。

今後も、米国は中国とイスラムとの間に防衛線を引くであろうことは容易に推測できる。そうなると、その間で揺れる国家は重要な位置付けになるだろう。本書では、それは、ロシア、インド、日本であると主張している。
「ロシア、インドは今のところ曖昧な態度を取っているが、日本は米国にくみしてきた。国際関係の理論からすると、新興勢力に対して、勢力の均衡を維持するか。追随するかである。日本は、歴史的に追随の道を辿ってきた。第一次大戦時の大英帝国。第二次大戦時のファシズム強国。そして、今は米国との同盟。中国が台頭してくれば、日本は中国と米国の力関係を比較検討するだろう。ぎりぎりまで選択を避けるだろうが米国が超大国となりえないと見るや中国と手を結ぶ可能性が高い。中国、米国、日本の三国の相互関係こそ、東アジアの政治の核心である。」
日本と米国の関係は当面持続しそうに思える。中国と米国の関係は難題こそあれ改善されつつあるそうだ。とすると、最も弱いのは日本と中国の関係である。
本書は「中国には寛容さが必要であり、日本には歩みよりが必要である。更に米国の後押しが必要である。」と述べている。

冷戦後の最も重要な国際関係は東アジアであると述べている。
「アジアは文明のるつぼであり、文明の衝突を引き起こす可能性が高い。東アジアの状況は18世紀及び19世紀に見られるヨーロッパに似ている。しかし、西ヨーロッパでは、ここまでの文明の違いは無かった。東アジアは政治体制も経済体制も様々で複雑であり、火種もいくつかある。2つの朝鮮と2つの中国である。それぞれは紛争に発展する可能性もあるが極めて低い。なぜならば同じ文化を共有しているからである。むしろ武力衝突は領土問題で起きる可能性の方が高い。日本とロシアの北方領土問題、中国とロシア及びインドの国境問題、中国が経済大国になればモンゴルの領有権を主張するかもしれない。東シナ海で、中国、フィリピン、ベトナムに加えて周辺国が関わる可能性もある。中国の中央軍事委員会は、東アジアの安全保障は非常に暗く見えると考えている。」
中国は歴史、文化、伝統、領土、経済、自己のイメージなど全てにおいて東アジアの覇権を求めるであろう。これは歴史的にみて自然なことである。かつて全ての強国、英国と仏国、独国と日本、米国とソ連が、急速な工業発展により領土拡大、強い自己主張で帝国主義に走った。同じことを中国がしないと考える理由はない。歴史は繰り返されるのだろうか。アジアを過去のヨーロッパのようにならないように祈りたいものである。

異文明時代において大規模な戦争を避ける原則を上げている。
「中核国家は他の文明内の衝突に介入するのを慎む必要があり、これは真理である。一部の国家にとって、特に米国にとってはなかなか容認できない真理であることは疑いない。他の文明内の衝突に中核国家が干渉しないという、この不干渉ルールは多文明かつ多極的な世界にあっては平和の第一条件である。第二条件は中核国家が互いに交渉して紛争を阻止する共同調停ルールである。多文明社会での共存方法は普遍主義を放棄し多様性を受け入れ共通性を追求することである。人類が世界文明を発展させるためには、こうした共通の特徴を追求し拡大することである。よって第三のルールは共通性のルールである。」
おいらは、少なくとも道徳レベルでは、いくつか共通性を見ることができると思う。また、主要宗教間においても重要な価値観を共有できるだろう。しかし、人類はもうしばらく時間を要しそうに思えるのである。

本書を読んで、中核国、特に米国の指導者に対して、西欧文明の普遍主義により、非西欧文明との対立を招くことを警告しているように思える。米国は一極体制であるかのように振舞うのは止めるべきである。実際、一極体制ではない。米国の指導者は、慈悲深い覇権国という幻想を捨てるべきである。実際、覇権国にはなりえない。実は、諸文明との対立を避け非西欧文明との共存の道こそ西欧文明の優位性を長く保つ秘訣であり国家戦略であるとしている。さすが世界一流の政治学者の理論であるが、やや西欧のエゴが潜むようにも感じとれる。
また、日本文明を、中華文明とは別の独自文明として扱っている点もおもしろい。ただ、西欧の文明史論者のほぼ主流的な考え方のようだ。
本書では、中国が経済的にも安定し成長し続け、21世紀の超大国となると予言している。しかし、このような文明による枠組みを信じるならば、中国が抱える民族問題も大きいだろう。分裂の危機も見過ごせないと思う。もし、そうなったとしても中国の東海岸側では都市が独立に振舞って安定するのかもしれない。
本書は、「イデオロギーが統一されていても文化的に分裂している国は分裂する。イデオロギーが異なっても文化的に共通すれば統合される。文明の衝突こそが人類の根本的問題であり最も根深い。」と述べている。

このようにハンチントン理論は「文明による枠組み」が進むであろうことが述べられている。国家の枠組みだけでは限界がきているのかもしれない。国家は経済主導で発展するであろう。軍事主導よりは、はるかにましである。しかし、あまりに魅力のない国家指導者や支配層が君臨すれば、都市レベルで独立し都市国家の枠組みができるかもしれない。これも一つの文明が生まれると思えばハンチントン理論の延長上とも考えられなくもない。かつて古代ギリシャの都市国家がそうであったように。こうしてアル中ハイマーは無理やり理論を結びつけて、九州が独立するとおもしろいと思っているのである。

2007-04-01

"ご冗談でしょう、ファインマンさん(上/下)" Richard P. Feynman 著

久しぶりに嵌ってしまった。著者はノーベル賞物理学者であるが、この世界を覗けば日々の出来事が馬鹿らしくなる。真面目なのか?冗談なのか?その按配が絶妙である。まったりとして、それでいて癖がない。濃厚なマイルド感。なんとも気持ちのええカクテルである。徹底した探究心と根気。子供の頃から結果よりもその過程の方がおもしろかったと語っている。これぞプロフェッショナルの真髄かもしれない。科学者の書籍というものは、その辺の哲学書よりも深い哲学を感じる。本書は1986年に刊行されている。おいらは学生時代だ。もっと若いうちに読んでいたかったと思う反面、当時ではそれほど酔えないかもしれない。どんなに素晴らしい酒も、味わうためには、それなりに心の準備が必要である。こうして昔の書籍をあさっていくのも悪くない。では、数ある中で泡立ちの良さそうなところを摘んでみよう。なぜか?って。そこにビールがあるから。

1. 脳の視覚部門と感覚部門のつながりについて分析した時の話。
「僕が夢を観察した一つの理由は、目を閉じていて、何も外界からの刺激が無いとき、いったいどうやって人の姿などのイメージを夢の中で見ることができるだろうということに、非常に興味を持っていたことに始まる。」
絶えず眠りにつく時の自分を観察しようと努力したとある。
この発想で、おいらは大学時代を思い出した。講義中、寝てる時に自分の意識を自覚しようと努力したことがある。そして金縛りになった。皆からは良く笑われたものである。金縛り中、頭元に霊が存在するかのような感覚に陥って初めは恐怖を感じるが、慣れるとおもしろい。そして、力が抜け過ぎて金縛りになれなくなった。楽しみを一つ失うのである。
今では、医者から処方してもらった睡眠薬を飲んで、眠くなった状態でどこまで長く起きていられるか。という遊びを覚えた。楽しみを一つ増やすのである。

2. 「本質的対象とは何か」という哲学的議論をした時の話。
彼は「電子は本質的対象か?」という質問から始める。そもそも「本質的対象」という言葉を理解するところから始めたかったわけだ。
実は電子とは仮説なのだ。これが自然のしくみを理解する上で、ほとんど実在しているというぐらい便利なものである。そこで、理論上の構成物を本質的対象と考えるかという質問から始める。すると、あーでもないこーでもないという議論に発展して、哲学ではありがちな混乱で締めくくる。
結局「本質的対象」とは何かという定義すら誰も理解していなかったというオチだ。これでは、深夜の討論番組「朝まで生ビール」である。

3. 原爆の話。
著者がノーベル賞物理学者なので、このエピソードは外せないだろう。ロスアラモス時代、マンハッタン計画に参加した頃、数々の有名人に囲まれた会議の風景を物語る。つまり原爆を作る会議である。ここでは少々長いが、印象に残ったのでそのままの文章を引用する。
「誰か一人が意見を述べると今度は違う者がそれに対し異なる意見を説明する。という形で進行する。そこで気になるのが、最初に意見を言った人間が繰り返し強調しない。この会議のメンバーは皆それぞれに新しい事実を考えに入れて実に様々な意見を発表しながら、一方でちゃんと他の連中が言ったことを覚えている。しかも最後には一人一人の意見をもう一度繰り返さなくても、それをちゃんとまとめて誰の意見が一番良いと決めることができるのである。これを目のあたりに見て僕は舌を巻いた。本当に偉い人とはこういう連中のことを言うに違いない。」
目的意識が完全に共有できた賢者の会議というものがひしひしと伝わってくる。
一方で、外部との情報のやりとりに検閲が入る不自由な環境において、夫人への手紙で、わざと暗号っぽい数字を並べるなどのいたずらをしたことなどは微笑ましい。また、夫人もわけのわからないアルファベットを並べた手紙を書いたりと、よくできた女性のようだ。下手すると反逆罪で捕まる緊張感のある時代にこうした冗談がやれる人間性は洒落てるのである。

また、原爆実験が成功した時、皆が興奮して喜んだ中、開発者の一人が「どんでもないものを造ってしまった」と言ったことに対して、無我夢中で働いてきて、考えるという機能が停止してしまっていたことを語っている。数学者フォン・ノイマンの「今生きている時代に責任を持つ必要はない」という忠告で「社会的無責任感」を感じるようになり、それ以来幸福な男になった。と言っているが、悩み悩んだ照れ屋が無理に語っているように思える。

4. 優雅なバー「アリバイ・ルーム」での話。
アル中ハイマーとして反応しないわけにはいかない。
ある常連客がミルクを注文する。この客が胃潰瘍であることを皆が知っているから哀れむ。これを見て、彼は次からコーラを注文し、つまらなそうな顔を作ってみせた。すると他の連中がたちまち彼をとりかこんで同情しはじめたという。
試しに、おいらも行付けのバーでやってみた。しかし、殺人カクテルが出てきた。ちなみに、このバーでオーダーが通った試しがない。

また、女性を口説く手ほどきを受ける。基本法則はこうだ。
「男は紳士と思われたいのが普通だ。礼儀知らずの野暮な奴と思われたくないし、ことにケチと思われるのが一番こわい。女の子達はこれを見抜いているから、思い通りに操られるというわけだ。よって、どんなことがあっても紳士であってはいけない。女の子を頭から軽蔑してかかること。しかも第一のルールは、女の子に決して何も買ってあげてはいけない。」
おいらは、ベロンベロンと、うぬぼれのデュアルバイアスがかかっているので見事に操られる。
かつて、女性から「ハイヒールを忘れたから買っといて!」というメールを受けた。
さっそく、おいらは夜の社交場近くのヒール店に一人で恥ずかしそうに入った。
どれを選んでよいかわからないので少々悩む。店員は真剣に選んでいると思ったのかもしれない。
「これなど、いかがでしょう!今人気がありますよ!」と近寄ってくる。おいらは、即座に逃げたかったが、いちおう色の好みだけは伝える。そして、「すぐに使うから包まなくていいよ!」って言うと、店員から「お客さんが履かれるんですか?」と止めを刺される。おいらにオーラでもあるというのか?「女の子に決して何も買ってはいけない」という教訓が身にしみるのである。

本書は、他にもたくさんのエピソードがあり、全てに突っ込みを入れたいが、今日はこのぐらいにしといてやろう。ただ、出てくる話はトップレスの店やら、バーでの出来事など、ただのスケベおやじである。ノーベル賞物理学者ってこんなもんかあ。妙に親しみを感じる。
まさしく馬鹿と天才は紙一重である。アル中ハイマーは前者であるという証明である。
おいらもそれなりに人生を楽しんでいるつもりであったが、楽しみ方が足らないと反省するのである。こういう本に新鮮さを感じるということは、おいらの根は真面目過ぎるのだ。
おっとくしゃみが「ヘークション!どこぞの女が俺の噂をしてやがるぜ!」
とドスの利いた声でつぶやくのである。

ここで、本書とは関係ないがロスアラモスでの出来事を追記しておこう。
かつて、相対性宇宙論の世界会議がロスアラモスで開催された。
アル中ハイマーは「重力場における時間の歪と相対性理論による実証」と題して論文を発表した。
「ホットな女性と一緒にいると時間が短い。そうでもないと時間が長い。オーラとは、重力による空間の歪であり、時間は美貌の波長に左右される。」
もちろん、オッペンハイマーの目に留まったことは言うまでもない。
オッペンハイマー&アル中ハイマー、なんとなく語呂合わせが良い。こうして記念に造られたワインが「ハイマースハイマー・ロゼ」である。このワインは、市場の不完全性パラダイムを体系化したハイマー理論に基づいて製造されたため、激辛と強烈なつんとくる酸味からは信じられない、濃厚でボリュームたっぷりの甘味を醸し出す。
また、会議のあまりの盛況ぶりに、どこかで噂を嗅ぎつけたクラブから、桜祭りの招待状が届いたことを付け加えておこう。アル中ハイマーはクラブ活動にも余念が無い。
すっかり、意気投合してしまったオッペン君は、カクテル「アトミック・ボンブ」を一気に飲み干した。そして、実証実験と称して「もう1軒行こう!」と言い出した。
おいらも、つい口癖で応酬する。「しょうーがねーなあ!」
以上。19XX年4月1日の出来事である。