2012-03-25

"共産党宣言" Karl Marx & Friedrich Engels 著

「資本論」はあまりにも大作が故に生涯手を出すことはないだろう。そう決めてかかっていたが、ほんの気まぐれで「経済学批判」を読んでみると、余剰価値の悪魔性や貨幣至上主義に陥ることへの批判、あるいは経済活動の同質化による精神的弊害が指摘されるのは、むしろ高尚な自由主義を唱えているように映った。共産主義とは、資本主義の延長上に描かれた思想なのか?そう思うと資本論構想が近づいてくる。
続いて、題名からして抵抗感のある「共産党宣言」に手を出してみると、最後の方で共産主義の具体像なるものが示された瞬間に幻滅する。とりあえず、当面の敵はブルジョア階級にあるとして、世界規模の社会運動を煽っている。政権奪取の初期段階においては、共産主義と社会主義は共通目的があったようだ。
では、その後は???
公平的動機と平等的分配の違いを区別しているようだけど、いかんせん具体像が見えてこない。社会主義を空想的共産主義とし、科学的観点を欠くと批判してはいるが、禁欲すぎても経済循環は成り立たない。多様的な能力主義と平等的な分配主義の均衡を保つのは難しい。機会に溢れながら個人能力を伸ばす自由競争の社会が、いずれ精神の高まりとともに自然に社会的活動へ導かれるということであろうか。社会的とは、国有化とは別もののようだが。...などと勝手な解釈を試みる。
理想像だけを追いかければ、若者たちが蟹工船に乗りたくなる気持ちも分からなくはないが、具体像が現れた瞬間に逃げ出すかもしれない。「経済学批判」の刊行が1859年に対して「共産党宣言」が1848年と古いことから、まだ共産主義の具体像が描ききれていなかっただけなのか?いや、理想の具体化とは、案外こんなものかもしれん。「万国のプロレタリア団結せよ!」と叫んでも胡散臭く映る。人生において思考の一貫性を保つことは不可能だけど...再び、資本論が遠のいていく。

共産主義と社会主義は兄弟のようなもの、と思っている人も少なくないだろう。反社会分子のアル中ハイマーもその一人。しかし、マルクスはニセの兄弟と蔑んでいる。冷戦時代、共産圏にある多くの東欧諸国は社会主義国家を名乗った。そして、マルクス主義とボリシェヴィキが重なって「アカ」などと呼ばれる。父であり教師であったスターリンは、血なまぐさい怪物であった。聖者レーニンにしても、血なまぐさい噂は絶えない。自由の暴走が経済的格差を生む理屈は分かるが、平等を崇めると粛清につながる理屈が分からない。平等とは、多様化する人間感覚を否定することなのか?すべてを同質化しようとすれば、精神成長を拒むことになろうに。
実際、共産党が実施してきた計画経済や国有化の類いは、そのほとんどが失敗してきた。巨大官僚主義に変質し、権力抗争の渦に巻き込まれてきた。だが、資本主義や自由主義にも官僚化の傾向がある。既得権益を守ろうとする思考は、人間の本質的なもの、いわば防衛本能の一つであろう。結局、どんな体制であっても、政権にとって反対者が邪魔なだけ。民主主義ですら政治的圧力がかかり、ただ従う者が出世するようにできている。天下りを天下(てんか)と書くのは偶然ではないのかもしれない。それは、君主制時代からの伝統であって思想の次元ではない。したがって、自由競争という手段で「毒を以て毒を制す」の原理の方がより現実的ということになる。おそらく人間は、より高尚な理性に精神の安住を求める性質があるのだろう、などと楽観論に頼ればだけど。だからこそ、より知識を求め、思考を繰り返し、自己の破壊を試みる必要がある。
共産主義や社会主義の真の姿がどんなものかは知らん。ただ、現時点の人類の価値観からすると、自由主義や資本主義に修正を加えていくのが最も現実的ということになろうか。そこで、マルクスが高尚な自由主義を唱えているとすれば、興味深いのだけど。自由と平等のバランスは人間社会にとって難題だ。なにしろ、プラトンやアリストテレスの時代から論争を繰り返してきたのだから。その答えを、この書に期待してもしょうがないかぁ...
ところで、我が国では共産党と社民党は仲が悪い。というより、共産党が社民党を毛嫌いしているように映る。その気持ちも分かる。与党であった自民党が選挙に敗れると、まるで社民党が勝利したかのように調子づく理屈が分からん。そして、いつも連立与党に参加しては滅茶苦茶にして去っていく。沖縄基地問題にしても、県民運動にどさくさに紛れて社民党の旗を振る輩がいる。結局、政治利用しか考えてないわけか。

1. 労働組合と個人の自立性
本書は、マルクスとエンゲルスが「共産党主義者同盟の綱領」を宣言したもので、労働者運動の世界的指針を示している。真の価値を勝ち取るために、ブルジョア社会から労働者を解放することが唱えられ、社会運動を煽る。経済活動における価値は、貨幣や資本などの経済要素ではなく労働にあるという。しかも、労働の質を問うている。そのために、急進的な改革が必要だとしている。尚、ここでいう労働者とは、賃金労働者のことである。
ところで、労働者運動は古くからあるが、労働組合は本当に労働者を代表しているのか?と疑問に思った時代があった。そのケースをいくつか綴ってみよう...
むかーし、ある会社の研究所を訪問した時、全体集会があるから講堂に集まるように呼びかけがなされた。なぜか部外者も。すると、連合系が支持する候補者の政治演説が始まりやがる。見事なほどの組織選挙(占拠)だ。労働組合の上層部が政治屋と癒着するケースは珍しくない。可哀想なことに、その候補者はいつも落選するそうな。ちなみに、研究者は革新的な人が多いので、旧態依然の運動に反発する傾向がある。
これまたむかーし、ある中小企業を訪問した時、労働組合が一人の労働者が残業を拒んだために減給、という事件に抗議運動をしていた。会社の正門でビラが配られていたが、通行人は冷めている。現場の話によると、無断欠勤が多い上に勤務態度もけして良くなかったそうな。こういう人を守るために組合費を払っているのか?と愚痴る人もいた。
...このような事例を目の当たりにすると、天邪鬼根性が助長される。伝統的に労働者が弱い立場であったのは事実だけど。もっとも、ベンチャーと称するアドベンチャーな会社に労働組合はない。自由がありそうでも、その自由に責任を持たなれば、却って窮屈になる。ほとんどの人が年俸制だし、そもそも技術系に残業の概念が機能するとは思えない。技術者には職人気質があり、大工さんのように一人親方の制度がよく適合すると思っている。一人一人が会社と契約し、棟上げなど忙しい時に集まり、あとは一人でコツコツと家を建てる。技術レベルを確保するには、ある程度の自立性が必要であろう。サラリーマン形式でも悪くはないが、契約交渉は雇い主と毎年きちんとやればいい。仕事のスタイルが多様化する時代に、契約交渉まで労働組合に任せるとは、まるでアウトソーシング。確定申告(深刻)までも。自分が払っている税区分も把握できないから、目先の消費税だけに目くじらを立てる。目的税やらで、どれだけ余計な税金を搾取されていることやら。我が国には、面倒なことはすべて組織任せという風潮がある。そして、サラリーマン馬鹿に仕立てられる。大企業に所属していた時は、年金手帳までも総務部が保管してくれた。さすがに今は、そこまで面倒を見てくれるかは知らんが。

2. 共産主義の具体像
進歩した国家像とは、こんなものだそうな。

  1. 土地所有を収奪し、地代を国家支出に振り向ける。
  2. 強度の累進税。
  3. 相続制の廃止。
  4. すべての亡命者および反逆者の財産の没収。
  5. 国家資本および排他的独占をもつ国立銀行によって、信用を国家の手に集中する。
  6. すべての運輸機関を国家の手に集中する。
  7. 国有工場、生産用具の増加、共同計画による土地の耕地化と改良。
  8. すべての人々に対する平等な労働強制、産業群の編成。特に農業のために。
  9. 農業と工業の経営を統合し、都市と農村との対立を次第に除くことを目指す。
  10. すべての児童の公共的無償教育。教育と物質的生産との結合。

従来の共産主義や社会主義と何が違うのか?亡命者や反逆者の財産没収とは、まるでボルシェヴィキ!抽象論で終わらせておかないと、ボロが出るものだけど。
プロレタリア社会では、階級差別は消滅し、公的権力は政治的性格を失うという。だから、国家に権力が集中しても問題ないということのようだ。つまり、精神の成熟した連中が政治運営をするということか。少なくとも、政治家やエリート階級は、一般庶民よりも精神が成熟していると自認しているようだけど。そりゃ、スターリンが万能な神様のような人物だったら、共産主義は素晴らしく機能していただろう。批判ばかりの空想的社会主義と一緒にするな!というような事が散々書かれた挙句に、これか?

2012-03-20

gさんに頭が痛い!ブログのドメインがリダイレクトされる!

ブログが、.com から .jp へ、リダイレクトされるようになった。2012.3.16 あたりから。てなわけで、ブックマーク数などの統計情報がチャラにされる。gさんブログによくあるバグかと思ったら...

comバージョンは、xxx.blogspot.com/ncr/ (no country redirect)で参照できるけど。
参考: クリボウさん - "Blogger ブログ(blogpot.com)へのアクセスが blogspot.jp にリダイレクトされる"

これは、恒久的な301リダイレクトではなく、一時的な302リダイレクトだそうな。とりあえず、リダイレクトを抑止している。
参考: DevAchieve - "Bloggerでblogspot.jpにリダイレクトされるのを防ぐ方法"
"Bloggerのリダイレクトによる弊害を回避するための二つの方法の比較"

しかーし、今後のことを考えると、リダイレクトを抑止するのが本筋なのか?悩ましい!
カスタムドメインを検討するか?こういう仕様変更がある度に、乗り換えを考えるのだけど...
まさか、yaさんブログに乗り換えることはないだろうけど...

2012-03-18

"経済学批判" Karl Marx 著

「経済学批判」は、「資本論」、「共産党宣言」などと並ぶマルクスの代表作の一つ。その内容は、「資本論」の第一巻第一篇に要約されるという。この書の刊行が1859年、対して「資本論」が1867年から1894年にかけて成立していることから、資本論大構想の一環だったことが想像できる。
ただ、「共産党宣言」の成立が1848年とずっと前なのに、本書は共産主義を賛美するどころか、その言葉にもほとんど触れていない。ブルジョア社会と古典派経済学、あるいはヘーゲル哲学やフランス社会主義を批判しているが、共産主義との関係は?結局、共産主義の具体像を描ききれなかったのか?余剰価値の悪魔性や貨幣至上主義への批判、あるいは大量生産における経済活動の同質化による精神的弊害が指摘されるのは、むしろ高度な自由主義を唱えているように映る。マルクスが提唱した共産主義とは、資本主義の延長上に描かれていたのだろうか?疑問はますます深みに嵌っていく。
実は、「資本論」はあまりにも大作が故に生涯手を出すことはないと決めてかかっている。それでもなんとなく意識があって、周辺の書籍に手を出し始める。泥酔者の衝動とは恐ろしいものよ。次に手を出すのは「共産党宣言」か?んー、いまいち気分が乗らない。というのも、粛清のイメージがあまりにも強烈だからだ。スターリンしかり、文化大革命しかり、ポルポトしかり、日本共産党しかり。
まぁ...マルクス思想があまりにも高度な精神を求めるが故に凡人には理解が難しいこと、いまだ真の社会主義国家や共産主義国家が出現していないだけのこと...などと想像すれば拒否反応も薄れる。ちなみに、実際に「共産党宣言」を読んでみると元の木阿弥だけど...それは次回扱うことにしよう。

本書の「序言」は、「唯物史観の公式」を綴ったとして有名だそうな。
「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。
人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。」
なるほど、企業活動における個人的欲望による生産は、やがて個人の意思による社会的生産の段階へと移行し、法律で規定される所有という概念にも疑問を持つようになるというわけか。本書を全般的に眺めても、平等的分配よりも社会的生産を重視しているように映る。受動的な活動ではなく、能動的な精神の解放を経済活動と重ねているような、なんとなくソクラテスの教義「善く生きる」に通ずるものを感じる。
さらに、近代経済は労働を中心に価値が形成されるとしている。
「私的生産物の交換が組織化する社会主義、商品は欲するが貨幣は欲しない社会主義が、根底から論破される。共産主義は、なによりもこの「にせの兄弟」をかたづけなければならない。」
ここでいう労働とは、労働者の活動はもちろん、企業経営や取引など生産に貢献するすべての活動を含んでいるのだろう。金鉱を掘り当てるのも、金融屋が新たな価値で欺瞞するのも、詐欺も、環境破壊も、労働の結果だけど。その目的は、社会貢献のような活動を思い描いているのだろうか?ただ、社会貢献という言葉も抽象的な概念で、人間社会のためを究極に求めれば人間至上主義に陥る。人類の歴史には、高尚な理想主義を凡人が解釈したために、しばしば暴走してきた経緯がある。マルクスは、高度な労働意識や高尚な自由を求めているのだろうか?とても既存の共産主義や社会主義からは想像できない。少なくとも「社会的生産」とは、国有化とはまったく異質に映る。
残念ながら本書を読むだけではマルクスの理想像は見えてこない。だが、資本主義の欠点が指摘される点は大いに参考になる。その分析は、自然学的な様相を見せる。経済学を自然主義的なロビンソン物語に帰する試みとでも言おうか。

歴史を振り返れば、戦争は平和よりもはるかに昔から発達し、戦争経済という形態がある。価値の創出や貨幣の用い方といった経済的手段にしても、プラトンやアリストテレスの時代から論じれられてきた。資本の概念も、土地や奴隷労働を元手にした伝統的な生産の仕組みがある。
18世紀、イギリスで産業革命が起こると、世界的な工業化の波を引き起こし、資本の多様化をもたらした。賃労働や土地の他に、貨幣や有価証券、あるいは機械設備や工場など、生産に向けられるすべての要素が資本となりうる。流通経済における余剰価値の創出は、再投資によって自己増殖する経済システムをもたらした。
しかし、資本のスムーズな流れが産業を拡大するとなると、あらゆる資本が仮想化し流通が煽られることになる。現代の市場では金融派生商品、いわゆるデリバティブが溢れ、必要以上に資金の流れを煽る傾向がある。乗数理論や貨幣供給の仕組みは、貨幣量を増大させるというパラドックスを生む。かつて錬金術師が平凡な金属から金を作りだそうとしたように、金融屋は貨幣を仮想的に増産しようとする。いまや貨幣は政府にも手に負えなくなり、矛盾を創出しながら独り歩きを始めた感がある。政府の思惑に支配されないという意味では良い傾向かもしれないが、別の意味では弊害も多い。マルクスはこうした現象までも予感していた節がある、と解釈するのは行き過ぎだろうか?循環経済における商品は、それ自体の使用価値よりも交換価値が重んじられると指摘しているあたりに、そう感じずにはいられない。
「貨幣流通は恐慌なしにもおこなわれうるが、恐慌は貨幣流通なしにはおこりえない」

1. 地金主義論争
デヴィッド・リカードら地金主義者に対する批判は興味深い。
1810年頃、商品価格の騰貴と金の鋳貨価格の下落についての原因分析で、地金主義者たちは1797年以来のイングランド銀行の兌換停止に基づく銀行券の過剰発行に原因があるとした。対して、反地金主義者たちは不作続きと国際収支の悪化に原因があるとした。本書の立場は後者で、地金主義者は銀行券や信用貨幣の流通を、単なる価値表章の流通と混同していると指摘している。そして、取引は信用から成り立つので、必要以上の紙幣は発行されないとするアダム・スミスの理論を支持している。ちなみに、アダム・スミスは反地金主義の側にいるようだ。
確かに、信用が機能すれば銀行券の過剰発行が起こらないだろう。機能すればだけど。イングランド銀行の兌換停止とは、銀行券と金との兌換が停止できるということである。伝統的に銀行券はいつでも金と兌換できるはずだが、それを銀行が停止できる権限を持つとなれば、許容量よりも多く発行する誘惑に駆られるだろう。本来、金の保有量に対して発行されるはずの銀行券は、流通を煽って手数料を儲ける道具となる。現代風に言えば、自己資本比率との関係に似ているように思える。
銀行券が過剰発行されればインフレになるのも当然で、リカードの言い分も分かる。しかし、当時のイギリスの経済状況からすると、反地金主義者たちの見解の方が説明がつくのかもしれない。国際的な貨幣流通は、イギリスとヨーロッパ大陸との貿易でもわずかで為替相場に影響するほどではなく、むしろ政治色の強い時代だったという。リカードの貨幣理論を評価するのに難しい時代であったことは、マルクスも認めている。
また、商品価格や貨幣価値が、一国に存在する貨幣の総量によって規定されるというのは間違いだという。実際、貨幣は流通されている場合もあれば、貯蓄されている場合もある。貨幣価値を考察するならば、流通する貨幣量と商品を結びつけるだけではなく、現存する貨幣量全体を考慮する必要があろう。更に支払い手段の多様化により、商品流通と同時に貨幣流通が起こるわけでもない。一括払い、分割払い、仮払いなんて手段は古くからある。決済方法の多様化に時間変数が加われば、商品流通と貨幣流通の関係は単純には規定できないだろう。要するに信用の拡大であり、その計測を誤れば不良債権が生じるリスクを高める。すべてのリスクを金利で吸収できるとも思えない。マルクスがここまで予測していたかは分からないが、少なくとも支払い手段の多様化と時間の役割を指摘している。

2. 経済学の方法論
一国の経済を考察する場合、人口や階級、輸出と輸入、生産と消費、あるいは商品価格などから始めるだろう。社会分析で人口や社会階級から始めるのは正論に見える。
しかし、立ち入って考察するうちに、人口は大した要素ではなく抽象概念に過ぎないことが分かってくるという。階級にしても、基礎である賃労働、資本、交換、分業、価格などとの関係を論じなければ、単なる抽象論に終わると。それでも、人口という混沌から、具体的な要素を考察して、再び人口という抽象概念へと到達するのが筋道だとしている。そうすることによって、多くの規定と関連とを持つ豊富な総体としての人口の像が描けるという。経済学は、具体的な要素を考察したところで、いつも終わっていると批判している。
抽象概念から経済政策が導けないのも確かだ。だから、具体的な要素を検討する。だが、再び抽象概念に立ち返り、哲学的な思考が試せないのであれば、本来の目的を見失うことになろう。理論と実践のバランスとは最も難しい課題であるが、それを避けていては学問を志すことにはならない。あらゆる分野で偉大と呼ばれた学者たちが、同時に哲学者であったことは驚くに値しない。
また、学問における自己批判の寛容さを求めている。
「キリスト教は、その自己批判がある程度まで、いわば可能的にできあがったときにはじめて、それ以前の神話の客観的理解を助けることができるようになった。こうしてブルジョア経済学も、ブルジョア社会の自己批判がはじまったときにはじめて、封建的、古代的、東洋的諸社会を理解するようになったのである。」
自己を客観的に理解できるようになるには、自己批判がその第一歩というわけか。そして、自己嫌悪になり、人間嫌いに陥る。どうも自己理解となると、絶望的にならざるを得ない。悟りの境地とは、自己否定を受け入れられるほどの寛容さに到達するということであろうか?やはり、夜の社交場でホットなお姉さんにチヤホヤされながら、自己存在を満喫する方が幸せだ。そして、いつも金を毟り取られ、財布に八つ当たりする。これがアル中ハイマー流経済学の方法論というものよ。

2012-03-11

"政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年" Gerald L. Curtis 著

ジェラルド・カーティス氏をもう一冊。知日派ともなれば政界との関係も親密となり、日本にとってもアメリカにとっても危険人物と目されることがある。ときーどき見かける時事対談では、旧自民党議員と団欒する印象もある。なので、あまり関心が持てなかった。
ところが、著書「代議士の誕生」(1971年刊行)に偶然出会って、その緻密な観察力に感服した。技術論文としても参考にできる点が多い。ただ本書は、40年前のパワフルな印象とは違い、網羅する範囲も広く濃密さに欠けるのが、やや惜しい。日本での生活を総括した回想録だから仕方がないか。ちなみに、写真も別人か?
「代議士の誕生」は、アメリカ人向けの論文を山岡清二氏が翻訳したものであった。本書は、日本人向けに直接日本語で書くことにこだわっている。英語ではニュアンスが正確に伝わらないからだという。知日派としてのプライドもあるのだろう。「郷に入れば郷に従え」の実践はタイトルにもよく表れている。ちなみに、肉料理よりも魚料理の方が好きだそうな。
カーティス氏は、民主政治の基本は「説得する政治」だと主張する。それは、政治家に対する説得、政党に対する説得、そして、なによりも国民に対する説得である。癒着でもなければ寄り添うことでもなく、論理的なビジョンと将来設計による説得である。これが前提されなければ、国家サービスの根幹である増税議論なんてできるはずもない。政界の論理は数にばかり囚われ、政策的な論理から掛け離れ過ぎている。だから頭が痛い!

本書は、知日派のアメリカ人が語る日本観である。カーティス氏は、「謙遜の美学」は世界でも珍しい特徴で、むしろ誇りに思うべきで、広めてほしいと指摘している。広めるということは、自己主張を強めることであり、謙遜と反するところもあるのだけど。こういう文化は、あまり欧米にはなく、やたらと自分の能力を宣伝する風潮があると嘆いている。どこの民主国家でも政治ショー化する傾向にあるのだろう。日本人自ら日本の美を否定して、文化を崩壊させることを懸念しているようだ。近年、日本の政治もパフォーマンスを重視する傾向がある。いまや「西洋化」という言葉も死語になりつつある。「美しい国」なんて掲げた首相もいたが、もはや美しくないと主張しているようなものか。「失われた10年」と言われる状況下で、政治家が抽象論を持ち出しても混乱させるだけ。そして、失われた20年となった。
カーティス氏は、政治においても欧米かぶれする必要はないと指摘している。日本の民主主義は、なにもアメリカに強制されたものではなく、土着の文化から育まれたものであるという。GHQのおかげで加速したのは事実だけど。
それにしても、「代議士の誕生」では、中選挙区制を悪魔のような言いようであったが、本書では小選挙区制を悪く言い、むしろ日本人文化には中選挙区制の方が向いているとまで言っている。小選挙区制は、政権交代を促しやすいダイナミックなシステムだと言われた。アメリカのような多民族国家ではまとまりを欠くので、二大政党に集約できる仕組みがあると政治運営上ありがたい。だが、日本のように単一民族国家では価値観が似通っているので、二大政党になってもその違いが現れないとしている。確かに、自民党と民主党の違いはよく分からん。どちらがバラマキ度数が高いかぐらいの違いか。ムラ社会的体質の方が、選挙制度よりもはるかに優勢ということであろう。実際、中選挙区制に戻せ!と叫ぶ議員も少なくない。
しかし、小選挙区制を評価するのは時期尚早であろう。地方選挙に目を向けると、いまだ中選挙区制であり、癒着議員が大勢いる。新聞に、与党大敗!などと見出しが踊ったところで、2,3議席失っただけ。確かに、得票数を見れば大敗なのだけど、議席に反映されないのが現実だ。
法律にどんなに立派な条文を持ち込んだところで、慣習に従うことになる。政党間の癒着は相変わらず。選挙に勝利したわけでもない万年野党が、政権交代したというだけで大きな顔をする理屈が分からん。党首が落選した政党が大臣ポストまで手に入れるとは、これいかに?政党同士で選挙協力するのもおかしい。政策競争を放棄しているではないか。
おまけに、55年体制が崩壊してもいまだ国対が存続する。憲法第41条に「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」と謳われているにもかかわらずだ。一昔前は、大臣ポストよりも重要視され、国対族が暗躍した。いまだに国会が政策立案の重要な場になりきれず、パフォーマンスの場となる。どうせなら国対委員会を国会に昇格させて、他の国会議員をリストラしてはどうだろう。
さて、あと何回政権交代すれば...民主主義への道は遠い!さらに20年ぐらいは軽く失われそうか。

1. やり直しのきく社会
アメリカ社会は、遅咲きのタイプに教育であれ、企業であれ、寛容だという。大学を変えることも、専攻分野を変えることも、大学院で学部と違う分野を専攻することも珍しくない。他の大学で取得した単位も、無効にならない柔軟なシステムが整備されている。成績が良く、推薦状と、希望する大学院で勉強したいというエッセイが面白ければ、二流大学からでもハーバードやプリンストンやコンロンビアなどの名門大学に入ることも可能だという。これがアメリカ社会の高等教育の柔軟性と強さか。著者自身が、ニューヨーク州立大学音楽部から、ニューメキシコ大学へ編入して社会科学一般を専攻、そしてコロンビア大学院政治学部に進学している。もともと日本と縁があったわけではなく、学者を志したわけでもないらしい。
いろんな事に挑戦してみなければ、自分を虜にする専門分野に出会うこともできない。いろんな経験ができれば、卒業した時に大人になっている可能性も高い。日本社会では専攻分野を変えることも難しく、いつまでたっても大人になりきれない。いや、冒険心は子供心から始まる。最初からレールの敷かれた人生というのは、非常に視野を狭めるだろう。それでも近年は、終身雇用と年功序列の二枚看板は崩壊し、おまけに就職難を招いている。新人研修で海外旅行がセットだったバブル時代よりは、今の若者の方がはるかに真剣に考えているだろう。博士号を持った卒業生が、居酒屋でアルバイトしているのをよく見かける。就職したくてもできない社会は、多くの潜在的能力を持った人材を失っているに違いない。正規雇用と非正規雇用の格差を問題にする政治家や識者も多いが、正規社員では得られない自由を求めている人も少なくない。エリート官僚社会では、フリーターのような存在は不真面目で堕落者にでも映るのだろう。
ちなみに、おいらも最初に入社した会社で生涯勤めるつもりでいたが、いつのまにか転職をし、いつのまにか独立していた。周りには、社長や取締役という肩書きを持った連中が多い。その実態は、みんな似た者同士でプータローのようなもの、と言ったら怒られるか?結婚して子供がいるから自由に行動できない!とぼやく人もいるが、周りの多くは既婚者で子供もいる。離婚慰謝料を払っている人が約1名、ゴホゴホ!挑戦したいことがあれば会社を辞め、人生をやり直す。そういう価値観を持った人が増えているような気がする。忍耐が足らない!という見方もできるけど。従来の教育や財界の慣行に失望した人々が、若年層だけでなくあらゆる世代に拡がりつつあるということは感じる。人間というものは、年齢に関係なく、突然何かに目覚めることがあろう。晩年に開花する人もいれば、死後に開花する人もいる。中学校では高校進学で人生が決まると叩きこまれ、高校では大学進学で人生が決まると脅された。だが、社会にでてみると、そうでもないことが分かってくる。もちろん、反社会的行動をとればリスクも大きい。もともと日本社会には異端児に冷たい風潮がある。だが、成功者のほとんどは異端児である。
アメリカでは、大学を卒業してすぐに就職せず、いろんな冒険をするのが普通だという。視野を広げるために、海外へボランティアに出かけたり、長期滞在したりと。自分のやりたいことを決めかねている若者たち、あるいは職業を変えてみたいと考える青年たちは、潜在的にたくさんいるだろう。そういえば、突然、稲作をやる!と宣言して修行に行ったエンジニアがいた。
本書は、日本では平等と公平の違いがよく分かっていないと指摘している。公平とは、平等にお金をばらまくことではあるまい。

2. 政権交代
アメリカの政権交代のできるダイナミックな政治は、閉鎖的な日本から見れば魅力的だった。少なくとも、高度成長期の負の遺産として政界、官界、財界の癒着構造を完成させた時代には、そう映った。
しかし、アメリカの政治システムにも、日本に負けじと短所が多い。選挙戦で異常なほどカネをかける。大統領の意思はいつも議会に邪魔され、日本の「ねじれ国会」と似たような状況が慢性化している。民主主義とは、本質的に揉めやすい社会体制なのだろう。社会が多様化し多くの意見が混在してくると、政治の動きも鈍くなる。世論もしばしば間違いを犯す。
そんな状況にあっても意思決定できるのは、政治家の判断力の違いであろうか。政治理念や政治哲学において、政治家の教育レベルの違いも浮き彫りになる。そもそも、代議士一人一人が判断するのであれば、チルドレン戦略が機能するのは奇妙である。アメリカでは、政党に所属していても最終的には代議士個人が判断するので、一人の抱える政策スタッフの数が、日本のそれと比べものにならないほど多いという。政党が抱える政策組織も半端ではないようだ。ただ、政策を作る人が共和党と民主党で違うために、外交政策の継続性で一貫性が保てない恐れがあるという。
一方、日本では、官僚が政党のシンクタンクの役割を担っているという。うまく官僚を使えば一貫性の点で有利となるはずだが、「政治主導」を履き違えて官僚を締め出せば、日本の政治システムは簡単に崩壊すると指摘している。選挙戦略の秘書は多いようだけど。付け加えるならば、「脱官僚」を叫ぶ政治屋どもの最大の問題は、彼ら自身が官僚体質に陥っていることに気づいていないことであろう。
政治家は、あらゆる分野への影響を考慮しながら一つ一つの案件を決定しなければならないので、総合的な知識と視野が要求される。だが、一人であらゆる分野の知識を得ることは不可能である。となれば、抱える専門スタッフを統合する能力が求められる。それを自覚して立候補している代議士がどれだけいるだろうか?問題は、政治の勉強をしない人が政治家になっていることであろうか。やはり、余計な議員数を思いっきり削るのが、政治改革への近道のような気がしてならない。
野党時代の民主党は、自民党が政治情報を公開しないから、実態が把握できず正確な政策が立てられないと批判してきた。そして、いざ政権担当することになると、それをマニュフェストを修正する言い訳にする。本当に実態が分からなかったのか?民主党の多くが元自民党議員だし、大臣や重要ポストを経験しているはずだけど。となると、再び自民党が政権に返り咲いても、またもや正確な政策が立てられないということになるのか?政党間で情報が共有できないとすれば、政策論争自体が無意味となる。もはや政党政治の崩壊を意味しているのか?

3. 政界のドンたち
著者は、佐藤栄作氏から福田康夫氏までの20人の首相のうち19人と面識があるという。芸者スキャンダルの宇野宗佑氏以外は。
優れた政治家は、自分が置かれている立場から離れて、状況分析を客観的にできる才能を持っているという。著者が知っている政治家は、政治状況を話すとき、第三者のように自分の名字を使って話したそうな。「三木は」とか「竹下は」という具合に。時代が変われば、人の価値観も変わり従来の政治手法が通用しなくなる。竹下登氏は、自分が過去の政治家になったことを自覚している感じだったという。佐藤栄作氏や田中角栄氏から学んだ派閥政治の行き詰まりを感じていたそうな。結局、暗躍することになるけど。
この時代は、政治とはなによりも権力闘争という時代であったという。政策は官僚任せ、政治家は権力闘争に専念する。しかし、消費税導入のような国の舵取りで重要な政策では、政治生命を犠牲にする覚悟もしていた。彼らは、権力ゲームを話す時が一番イキイキしていたそうな。
竹下氏の話で最も印象的だったのが、田中角栄氏と金丸信氏の政治資金の配り方の違いだという。選挙出陣の時、封筒に300万円を渡す慣習がある。金丸氏の場合、代議士たちがその場で封筒の中身を確認して、「確かに300万円あります」言って退出する。一方、田中角栄氏の場合、その場で中身を確認しようとすると、まあまあと言いながら封を開けるのをやめさせ、自宅で確認すると100万円ほど上乗せされていたという。田中派の固い絆は、こういう気配りからきているそうな。これが昔流の政治か。お代官様の時代と変わらんなぁ。で、今は違うの?

4. 国会対策委員会と非公式な調整メカニズム
55年体制は、万年野党という構造を完成させ、国対という奇妙な産物を育んだ。単記投票で複数定員の中選挙区制では、一つの選挙区から3ないし5人の候補者が当選する。野党の中心は社会党だが、現実路線から酷く逸脱していれば、勝敗は見えている。そして、与党と野党で表向きは批判しあっていても、当選数の縄張りが形成された。票が分け合えたのも中選挙区制のおかげ。国体委員の得意技は、根回しと裏取引で、建て前と本音を使い分けながら国会運営を円滑に行う。国対副委員長に指名されたある議員が、梶原静六国対委員長に助言を求めたところ、「唄を30曲覚えろ!」というものだったという。国対委員の仕事は、料亭での食事、二次会のカラオケなど野党と非公式に付き合うこと。
社会党の中からも、マルクス・レーニン主義から脱却して、現実路線に方向転換すべきだという意見が聞かれた。民主政治のために健全な野党が必要だと、政権を放棄した野党に価値はないと、深夜の討論番組でも盛んだった。社会党の存在が、自民党の独走を許したのも確かだ。当時の選挙スタイルでは、自民党を批判したくても他に選択肢がなかった。仕方なく共産党に投票するぐらい。なぜ、社会党と共産党は一緒にならないのか?とよく思ったものだ。反対するだけの似た者同士なのに、なぜか仲が悪い。今でも共産党が社民党を思いっきり嫌っているように映る。気持ちは分かるけど。いつも平等と友愛を掲げ、政権交代するたびに与党にくっついては散々混乱させるだけで去っていく。与党側もいい加減学習しても良さそうなものだけど。
与党と野党で非公式な調整メカニズムが機能しなくなったのは、小選挙区制の一定の成果であろうか?いや、いまだに国対は健在か。

5. 官僚バッシングの後遺症
官僚と政治家の対立構図は、日本だけの現象ではなく、先進民主主義国ではどこでも悩みの種だという。アメリカだって、日本人が思うほど官僚機構が弱いわけではない。三権分立がはっきりしているので、立法府と行政府はけして弱くない。どこの民主国家も権力は政治家が握っていると自覚しているので、「官僚が反対するから政策を実行できない」なんて恥ずかしいことは言わないらしい。
日本では官僚バッシングが盛んだが、官僚機構に対して自信と勇気を持って指導できる政治指導力を持った政治家がいないことの方がはるかに問題だと指摘している。
また、官僚バッシングによって、優秀な学生が官僚になろうとしなくなったことも問題である。あるいは、優秀な官僚はチャンスを求めて民間企業や大学に移る。結局、官僚体質に染まった官僚ばかりが残る。こうした現象は、民間企業にも見られ、構造の空洞化が囁かれて久しい。

6. 外交と交流の乖離
それにしても、我が国の首相交代劇は尋常ではない。諜報機関による陰謀説も噂されるけど。社会の実態が把握できない政治家が、官僚を締め出せば政治は社会と乖離するしかない。政治家は本当に政治を勉強しているのだろうか?選挙運動の勉強はお盛んのようだけど。政治塾って何を教えてるんだろう?
外交と交流の乖離も甚だしい。民衆同士の経済交流や文化交流は効果があるが、政治家が顔を出した途端に逆効果となる。どこの国も政府が存在感を強調した途端に破談する。お隣りの台湾とは正式に国交がないにもかかわらず、民衆レベルでは良好な関係にある。実際、大震災時の台湾からの義援金の規模には驚くものがある。
ちなみに、義援金全体の規模も驚くものがあるが、その使い道が不透明か。赤十字をはじめ義援金を募る各団体は、その使い道を明確に説明すべきだろう。あるいは情報公開を要求すべきだろう。報道機関もチェックすべきだろう。大手報道屋は、箝口令でも出ているかのように肝心なことを報道しない。ネット社会に情報が広がると、後追いで伝えるぐらいなもの。これでは情報格差を煽るだけの存在でしかない。義援金に対して使い道を公開することは、世界各国への礼儀であろう。言葉だけの感謝が意味がないとは言わないが。まさか、子供手当や高校無償化など他の政策に回されているわけではないだろう、と思いたい。

2012-03-04

"代議士の誕生 日本式選挙運動の研究" Gerald L. Curtis 著

ときーどき、テレビでも見かけるジェラルド・カーティス氏。ちと古いが、選挙の仕組みから派閥の構造までの実態を、これほど見事に暴いた書を他に知らない。本書は、元コロンビア大学教授が1967年の衆院選で大分県の自民党候補者の家庭に居候し、日本の選挙運動を研究分析した博士論文である。
現在、一国の政治や経済の仕組みを分析する場合、マクロ的なアプローチがなされる風潮がある。確かに、社会の多様化が進む中で、ミクロ的なアプローチにどれほどの効果があるかは疑問である。
しかし、だ。統計の利便性が発達する情報社会で、逆に統計情報の虜になる傾向があるのは否めない。社会分析の基本は、多くの事例に触れてみることであり、あくまでも地道な作業の積み重ねであろう。皮相的な観察では、物事の本質から遠ざかる。本書がこだわっているのは、まさにこの点である。そして、日本のムラ社会的性格から、国会で最も割合を占める中小都市出身の代議士を観察することの意義と、その典型例を見出そうと試みる。外国人が研究対象とするのはほとんど首都圏であろうが、あえて地方を題材にした眼力に感服する。

本書は、政党内の派閥抗争を激化させ、政治資金を高騰させている原因は、複数定員選挙区単記投票制と日本固有のムラ社会的体質にあると指摘している。すなわち、政治活動で派閥と代議士が癒着し、選挙運動で地域社会と代議士が癒着する構図である。
当時は中選挙区制で、その制度的問題が多く指摘されてきた。その結果、1996年から小選挙区制に移行する。比例代表制が同居するという、やや偏重した形ではあるけど。だからといって、政治資金の高騰が抑えられ、派閥抗争が解消されただろうか?なにも派閥が悪いわけでもあるまい。政治理念や政策論議上で意見が一致した集団ならば機能するかもしれない。だが、政治とはまったく関係のないところで結びつくから頭が痛い。しかも、派閥を利かせたチルドレン戦略がまかり通る。もっとも彼らはグループと称しているが。
政治家は、官僚体制の悪性を訴える。ごもっともだ!しかし、それは政治家どもの官僚的体質も含まれている、ということに気づかない。民主主義は意見を戦わす自由競争の社会であるはず。なのに、連帯行動をとることが統制のとれた良い組織だと評価される。政党内で議員たちが派閥ごとにまとまって行動する光景は、異様としか言いようがない。
また、相変わらず、様々な任意団体による固定票の勢いは衰えない。創価学会、日教組、連合、医師会、歯科医師会、青果業組合、スポーツ団体など...政治理念や政策を掲げて堂々と戦う候補者ほど、選挙の勝利が遠のいていくとは、これいかに?
どんなに選挙技術が進化しようとも、いかに民衆を欺瞞し、いかに洗脳するかという戦略は、アリストテレスの時代から変わっていない。弁論術と修辞法は永遠に廃れることはないだろう。これが人間社会の宿命であろうか。ただ、民衆の側にも、論理的思考と客観的観察が加わると、そんなに悪い社会にはならないのかもしれない。現時点では政治ほど、これらの思考から遠くに位置するものはないように映る。

日本では、いまだ民主主義が始まっていないという意見も少なくない。選挙が民主主義のすべてだとは思わないが、多数決が実践的な解決法であるのも事実だ。政治体制の健康診断をする上でも、選挙制度を検証することは意義深いであろう。
ただ、日本社会では、多数派からはみ出すと、極端に怯える心理が働く風潮がある。後援会もどきはどこからでも忍び寄り、ヘタをすると町内会自体が後援会と化す。うちのような零細業者にも、商工会関係から入会を勧められることがある。むかーし横浜市民だった頃、町内会の集まりに参加したことがあった。町内会が支持する候補者が落選すると、裏切り者がいる!などと発言する爺さんがいた。二度と出席するもんか!と決意したものだ。親父の田舎ともなれば、選挙は一大イベントである。誰を支持するかは農協様から御達しがくる。知り合いでもなければ政策論議もないのに、一致団結して候補者を支持する姿は異様だ。普段は優しくて良い人たちなのに、集団化するとこうも豹変するものか?新品のYシャツに身を包んで農作業を手伝えば、汚れた服を見るだけで素朴な人々はイチコロだ。選挙運動となると自転車で這いずり回るパワー溢れる連中が、大震災となると沈黙する。露骨すぎる奴ほど選挙に強いわけか。
民主主義という看板を掲げているくせに、選挙がまったく自由競争の原理をなしていない。これが現実だ。そもそも、ムラ社会と民主主義は相性が悪いのだろうか?そう悲観しなくても、浮動票は全国的に広がりつつある。あと百年ぐらいすれば日本社会も捨てたもんじゃないかもしれない。あるいは、情報社会の進化がなんらかの変革をもたらしてくれるかもしれない。中選挙区制から小選挙区制に改正したところで、大した変革をもたらさなかった。いや、別の弊害を曝け出す。総理大臣がころころ変わるのは相変わらず。政権交替したところで元々旧式の自民党連中。それも過渡的現象として仕方がないのかもしれない。小選挙区制は少数政党には不利で、二大政党制になりやすいと言われた。そのために政権交代の機会が増え、権力の自由競争が促進できるという目論見があった、はず。なのに、議席数を減らした少数政党が、政権交替したというだけで大きな顔をする。おまけに、党首が落選した政党がキャスティングボートを握るとは、これいかに?政界の論理はとんと分からん。法律がどんなに立派に整えられようとも、慣習とならなければ効力を発揮しないというわけか。少なくとも、選挙制度を変えただけで、半世紀以上も蔓延ってきた後援会宗教が抹殺されるとは到底思えん。

1. 中選挙区制の時代
単記式の複数定員という仕組みが、与党と野党で定員を分け合うような馴れ合いを生じさせた。さらに、同じ選挙区から同一政党の候補者を複数当選させることが、暗黙のうちに派閥の縄張りを形成する。当時はまだ、自由党と民主党が統合された余韻が残り、両者の勢力争いも絡んでいる。現職者は後援会組織によって地元との癒着を強め、後継者は派閥の息のかかった現職に近い者が指名される。いわば、血のつながりのない世襲制だ。血のつながりがあれば、そりゃ濃ゆい!
政治屋は政治活動を資金を集めることだと勘違いし、後援会組織は選挙運動を票まとめをすることだと勘違いする。そして、異端的な行動をとると村八分にされる。選挙活動は、政策論議よりも後援会を回って握手する方が、はるかに合理的だ。また、一つの選挙区には公認候補の数だけ派閥の後ろ盾がある。固定票が大きいほど公認の力が信頼できる。当選回数が増え入閣の可能性が高まれば、それだけで現職の公認が有利に働く。
そんなところに新人候補が割って入ろうものなら、締め出しを喰らうのがオチだ。そこで、対象選挙区でまだ縄張りが形成されていない派閥を頼り、そのボスと新人候補は義理で結ばれる。政界の義理とは、選挙資金を意味する。そこには派閥に属すしか政界の門は開かれないという図式があったとさ。本書のモデルである元自民党議員の佐藤文生氏は、村上派の新人候補として大分2区から出馬したのだった。

2. 大分県の新人候補を選んだのはなぜか?
代議士のタイプは、中央型と地方型に大別できるという。中央型代議士で優勢なのは中央官僚出身で、他には全国紙の記者、大企業経営者、全国的利益団体の代表など、いずれも中央官庁や政党幹部とのパイプがある。一方、地方型代議士は圧倒的に地方政治経験者が多く、中小企業や地方利益団体や地方新聞との関係が強い。官僚出身議員は、地方出身者を粗野で田舎者と侮り、自分たちは高度に熟練した行政官のエリートだと自認している。地方政治家は、官僚出身議員が傲慢で、自分たちこそ民意を最も反映できると考えている。
自民党では全国本部と都道府県連の双方で候補者を決定するが、中央型議員と地方型議員によってどちらに肩入れするか、その戦略も変わってくるという。佐藤文生は、典型的な地方型で、大分県議員として地方政治に費やしてきた。だが、彼の場合は少し偏重していて中央型議員の戦略を用いている。当時、大分2区では、保守系が2人、社会党が1人という当選率が繰り返されていた。こうした安定地盤で、新人が3人目として公認を受けることは難しい。実質の競争相手は自民党の現職議員2人というわけだ。そこで、大分県の有力者だった岩崎貢氏を通じて派閥の一つ村上勇氏と交流するが、1963年の衆院選で際どく落選する。
さて、次の衆院選では、ちょうど政界のスキャンダル沙汰で佐藤栄作内閣に批判が集まり、1966年12月「黒い霧解散」に追い込まれた。中曽根派をはじめとする反主流派は、党に対する忠誠心が欠けているとして公認が減らされる。佐藤文生も例外ではなく、大分県連からも激しく公認に反対される。しかし、村上派の支援で公認される。二度の佐藤栄作改造内閣で村上派から誰も入閣できなかったので、その代償として村上派の候補者を全員公認するように求めたというわけだ。そして、スキャンダルの波に乗って、新人候補の若さと保守派の清浄化を訴えてトップ当選する。佐藤文生は、中曽根康弘氏との交流も知られ、中曽根内閣では郵政大臣に就任している。
ここで新人候補者を選んだ理由は、組織づくりや運動戦略の作成過程を観察するためだとしている。常勝候補では、組織体制もマンネリ化しているだろうから。更に、都市と農村の双方の要素を具えた準農村地区に注目している。準農村地区とは、15歳以上の労働人口の20ないし40%が、第一次産業に従事している選挙区のことを言うそうな。当時、人口動態の変化に選挙区割りの再編成が追いつけず、準農村選挙区の衆院議員の数が分不相応に多いと指摘している。ついでに、あまり方言が強くない、著者の日本語が通じるあたり。これらの条件を踏まえて、中曽根康弘氏に面会して推薦してもらったそうな。

3. 供託金
公職選挙に立候補するのは、技術的には簡単だ。立候補の意思を明示した文書に添えて供託金を差し出せばいい。当時の供託金は30万円(1969年から)だったそうな。
現在は、高騰を続けて小選挙区で300万円、比例区で600万円も供託しなければならない。宣伝などの不正な目的から、むやみに候補者が乱立するのも困るが、国民主権の観点からすると高額という印象は拭えない。ちなみに、供託金の国庫への垂れ流しなんて噂も聞こえてくる。資金のない者が立候補するには、暗躍するボスの目に留まるように振る舞うのが手っ取り早い。チルドレン戦略を助長するように映るのは気のせいか?

4. 固定票と浮動票
本書は、浮動票の位置づけにおいて、欧米的と日本的の解釈に微妙な違いがあることを教えてくれる。浮動票は固定票との対立概念としてあるわけだが、日本では農村部の票に対して都市部の票という感覚が強いと指摘している。日本の伝統文化では、固定票を投じる者が尊敬され、地域社会の合意と村の調和に適切な関心を示した人物と見なされるという。んー、時代が違うとはいえ、ちと引っかかる。
欧米社会では、浮動票や自主票なんてものは普通で、これらの用語が使われるのは、「連続二回の選挙を通じて同一政党を選択しない」といった場合に使われるのだそうな。浮動票というと、私的、個人的な結びつきから解放された票ということになるのだが、日本社会では町内会や所属する団体などの影響力はあまり考慮されないという。だから、「保守党系浮動票」なんて表現も、少しも矛盾しないという。どこぞの大手新聞がこのように表現したそうな。欧米からは宗教新聞と呼ばれ、東の方から昇るらしい。
固定票は、必然的に「票まとめ」という概念に結びつく。固定票の概念は、なにも日本固有のものではない。むしろ部分的には、欧米の方が宗教的な激しさがある。だから、議論にもなりやすい。一方、日本では、満遍なく全国的に広がっているので、周りに疑問を持つ人が少ない。特に農村部では、町内会や農協などの交友関係、あるいは親戚関係の結束力が強いので、票まとめが容易に行われる。対して、都市部では核家族化が進み、それほど結束力があるように見えないが、宗教団体、企業体、商工会、労組などの影響力が強いのは、むしろ都市部の方だという。それでも近年は、無党派層が広がり、本当の意味で政治家の人格や政策で投票する人も増えているのではなかろうか。マスコミに影響されやすいことも確かだけど。バラエティー番組が選挙運動を助けるなんて現象もあるけど。

5. 後援会は何でもやります!
当初、後援会は政治家個人のために組織されたが、継承されていくうちにタカリ屋と化す。アメリカでも似たような後援会はあるが、選挙資金を集める目的が主だという。日本では逆で、慰安旅行やイベントなどに招待するという形で資金がばらまかれる。その資金は、大会社の会長報酬や顧問料、あるいは派閥のボスからの資金提供など。政治家は、会社役員や校長とも親しい。となれば、就職や進学の世話から結婚相手の紹介まで。秘書は、冠婚葬祭、ご祝儀、弔電の手配など隅々までに手を伸ばす。最近は、老人クラブや老人施設が狙い目か。政治家は、サービスを拒否して、ケチという悪評が広まることを恐れているという。
佐藤文生が協力を求めたのは、理髪師組合、美容師組合、ホテル経営者協会、バーテン協会、助産婦協会、マッサージ協会、調理師会など... 人脈は同窓会やOB会などなんでも利用する。文生の名を掲げる「文調会」なんてものもあるそうな。政党ごとに縄張りがあるのは周知の通り。例えば、日教組がどこで、創価学会がどこで...一応、敵の縄張りにも声をかけるようだが、まず効果はない。
自民党代議士の後援会の会員数は驚異的だという。茨城県の後援会は会員数が4万人を超えるとか。大阪三区も3万人を擁する後援会があるとか。群馬県のある選挙区では、福田赳夫氏の後援会が5万人いたとか。中曽根康弘氏も同等の規模だとか。中でも最大の後援会は、大野伴睦の「睦友会」で、公称15万人の会員を擁すると伝えられたという。当時の自民党全体では、優に1千万人を超えるものと推測されるという。
政治団体は、婦人会、青年会、登山クラブ、音楽愛好会といった文化団体を巧みに装い、政治資金の流れを隠蔽する。その秘密主義はまるで秘密結社!趣味的な性格を強調すれば入会するのも気楽だ。後援会活動では、みんなで一緒にポスターやパンフレット作りに励んでいると一体感が生まれる。学校のクラブ活動や文化祭活動のように。候補者はピラミッド組織の上から通達が降りてくるだけなのに、会員同士の仲間意識を育んで必死に支持する。そこに政策論議などない。表向きの政治集会や事前運動のための政治教室を開くものの、喋る事は間違いなく地元を重んじる内容だ。
そして、当選という結果と結びつくと、達成感という快感を与える。その心理的特徴は自主的に活動していると自認していることだ。だから、選挙違反のような行為が発覚しても末端で処理される。ある意味、宗教よりも質ちが悪いかもしれん。