2007-05-27

"暗号解読" Simon Singh 著

「フェルマーの最終定理」に続いて、またもやサイモン・シンと青木薫氏の名コンビである。おいらは、ますますファンになるのである。本書は、暗号の世界に歴史背景を結び付けてくれる。そして、その時代に似合った暗号技術を語っており、素晴らしい読み物に仕上がっている。

暗号演算というとアル中ハイマーは逃避してきた世界である。モジュラ演算は、ぐるぐる回って酔っ払いと周期が合いそうではあるが、DESやらRSAという言葉が出ただけで悪酔いしたものである。しかし、本書を読んで、最初から勉強し直そうかなあ?という意欲が湧くのである。

1. 簡単な転置式と換字式から始まる。
その方式は暗号アルファベットに置き換えるという単純なものであるが馬鹿にはできない。これが基本であり本書でも丁寧に解説されている。現在の暗号方式も思想は変わっていないのである。
換字式の代表はカエサル暗号であり、千年にわたって使われてきた。これを解読したのがアラビア人である。そこには、数学、統計学、言語学が高度に発達しており、神学的要素も必要であったことが語られる。具体的には単語や文字の出現頻度を統計的に解析し、そのばらつきを平文サンプルと照らし合わせて文字との対応をつけるわけだ。暗号の世界は、数学だけではなく、歴史学、言語学、文化との結びつきも語られていくので、全く頭が痛くならず、つい読み入ってしまうのである。

2. 多暗号アルファベットを利用したヴィジュネル暗号
16世紀末、複数の暗号アルファベットを切り替えていく方法が発明される。基本は換字式暗号と同じである。ただ、1つの文字に対応する文字が一つとは限らないので頻度分析による解読も難しくなる。ヴィジュネル暗号は、26種類の暗号アルファベットを用いる。アルファベットを順にシフトしたものなので26種類となる。それぞれの文字にどの暗号アルファベットを割り当てるかは、キーワードで決める。キーワードの文字列が、暗号アルファベットの順番を決めるのである。キーワードが長ければそれだけ使っている暗号アルファベットの種類が多いことになるので複雑化する。この方法は、手間がかかり使い勝手が悪いことから、当初は使われなかったようだ。だんだんエニグマに近づいてきている。アル中ハイマーはワクワクしてくるのである。

18世紀に入ると、ヨーロッパ列強は暗号解読チーム、ブラック・チェンバーを設立するなど、単暗号システムは通用しなくなる。更に19世紀に電信が発明され遠距離通信革命が後押しをする。ここで、ヴィジュネル暗号に挑んだチャールズ・バベッジが紹介される。彼は、現代的なコンピュータの雛型というべきものを作ったことで知られる。多暗号システムは単暗号システムに比べれば格段に複雑であるが、機械装置を使えば解読可能となる。
フランスはドイツとの戦争で苦悩した歴史から、諜報活動の進化した様を語る。第一次大戦時、換字式と転置式を組み合わせたADFGVX暗号をドイツが採用する。ADFGVXは、モールス信号に置き換えた時に区別しやすい6文字である。この時、敵の無線オペレータの癖までも聞き分けていたという。モールス信号の間のあけ方、送信速度、点と線の相対的長さの違いからオペレータを識別し、発信源もわかるのだそうだ。

3. いよいよ暗号機エニグマ(謎)の登場である。
エニグマは、ドイツのシェルビウスが発明した機械式である。その構造を書いてみよう。

  • まず、暗号円盤(スクランブラ)が、1文字に対応した文字を出力する。単アルファベット暗号。
  • 次に、1文字変換した直後に暗号円盤を1文字分回転(アルファベットなら1/26回転)する。同じ文字を繰り返して入力しても、別の文字が現れるわけだ。これだけでは、同じ文字を入力し続ければ周期性が現れるという弱点がある。
  • そして、第二のスクランブラを導入する。第二のスクランブラは第一のスクランブラがある程度回転して初めて一目盛だけ回転する。スクランブラを二つに増やす利点は、第二のスクランブラが出発点に戻るまで暗号化のパターンが繰り返されないことである。
  • 更にエニグマには2点が追加されている。一つは、第三のスクランブラが装備される。26 x 26 x 26 = 17576通り。二つは、レフレクター(反射器)の装備。配線を逆向きにたどる。レフレクタは固定で回転しないので、パターンを増やすことはできない。しかし、暗号化と復号はミラープロセスであり、復号化を容易にする役目がある。

更に初期設定として、スクランブラの配置や向き、プラグボードによる配線の変更。ああ悪い酔いしそうだ。

第一次大戦が終わって、米英仏は暗号解読不能として熱意は消えた。もはや手足をもがれたドイツは脅威ではないのである。人間は危機感を持つと情熱にかられるのだろう。その時代に危機感を持っていたのはポーランドである。東には共産圏の拡大を狙うロシア、西には領土を取り戻そうとするドイツ。
さて21世紀になった現在、最も危機感のある国はどこだろう?日本は最も危機感のない国かもしれない。第二次大戦は情報戦でもあった。日本はパープル暗号の過信で情報が筒抜けとなる。この反省が生かされていれば良いと願うばかりである。実はとてつもない実力を備えた国であると信じたい。
ポーランドはあらゆる諜報活動の末、エニグマのレプリカを作製する。そのスパイ活動の様が語られる。エニグマへの攻撃は「反復は機密保護の敵」という事実に的を絞って攻め抜いたことが語られる。ドイツ人は、無線の干渉やオペレータの人為ミスを避けるためにメッセージの冒頭で鍵の反復を行った。また、オペレータはメッセージ毎に3文字の鍵をランダムに選ぶことになっている。戦争の最中、疲労した人間がランダムに選ぶエネルギーは残っていない。よってエニグマ機のキーボードに並んでいる隣り合う3文字を使ったり、ガールフレンドのイニシャルなどを繰り返すなど、人為的ミスを繰り返した。こうした手がかりを利用して解読につながる。解読に功績を上げた人物をあげるときりがないが、しいて言えばアラン・チューリングを上げている。極秘裏に活動し歴史に登場できないので「前線に出なかった恥さらし」として痛烈な批判を受けたようだ。英雄伝が語られるまでには何十年を要する世界である。その時には既に死んでいる人も多い。悲しい性である。チューリングは41歳で自殺している。

4. 究極の暗号は考古学かもしれない。
第二次大戦時に活躍したアメリカのナヴァホ暗号が紹介される。これは単純にアメリカ原住民の言葉で、原住民を通信兵として採用した。この暗号は手も足も出なかったらしい。暗号解読には手掛かりとなる文脈を知っている必要があるが、ナヴァホ暗号には、この前提が無い。そして、本書は古代文字の解読へと話が進む。考古学者は究極の暗号解読者かもしれない。古代文字の解読の中で最も魅力的なものとしてエジプトのヒエログリフを紹介している。そして、同じ内容がギリシャ文字、デモティック、ヒエログリフの3通りの文字により刻まれたロゼッタストーンへとつながる。ちなみに、アル中ハイマー語を解読できるのは飲み屋の姉ちゃんだけである。

5. コンピュータ暗号DESの登場。
コンピュータ暗号といっても、その手続きの大半は従来の方法と変わらない。機械式暗号とコンピュータ暗号の違いは、コンピュータは仮想暗号機をまねる。処理速度が速い。スクランブルにかける対象はアルファベットではなく数字である。ということぐらいである。アメリカは、商用暗号の標準化を目指して公募した。その候補である金星暗号(ルシファー)をIBMが開発した。そのスクランブルの操作手順を書いてみよう。

  • メッセージを二進数に変換して長い数字の列にする。
  • 長い数字の列を64bit単位に分割してブロックを作る。
  • ブロック内の数字をでたらめに組替えたのち32bitの2つの小ブロックに分割する。
  • 分割した小ブロックの右側を暗号化関数に通して複雑な変換を行い左側に置く。
  • これに先ほどの小ブロックの左側を加算して右側に置く。ここまでの操作をラウンドと呼ぶ。
  • このラウンドを16回繰り返す。

この暗号はあまりに強力過ぎて、国家安全保障局(NSA)が横槍を入れた。つまり、NSAが解読できない暗号を標準化するわけにはいかないのだ。そして、政治力を発揮され56bitに制限、NSAの持つ世界最大のコンピュータで解読可能とする範囲に弱めた。これがDES暗号である。

6. 公開鍵暗号RSAの誕生。そしてPGP暗号へ。
暗号で永遠のテーマといえば鍵配送問題である。銀行などは秘密のデータを送らなけらばならない。
この配送費用は経営上の問題にもなる。二千年に渡って秘密鍵は送信者から受信者へ渡さなければならないという公理に疑問を持つものはいなかった。従来の暗号化、復号は、双方向関数で成り立っていた。つまり対称性である。ディフィー、ヘルマン、マークルは、一方向関数に注目した。一方向関数をたくさん見つける数学の領域にモジュラ算術がある。そして、暗号と復号には別の鍵が使われるという非対称性暗号システムの概念が誕生する。しかし、まだ概念である。
実用化に貢献したのは、リヴェスト、シャミア、アドルマンの3人である。2つの素数の積を取ることにより一方向関数を手に入れる。3人の頭文字をとってRSA暗号と名づけられる。2つの素数の積が公開鍵で、公開鍵が充分大きければ、二つの素数を発見することは事実上不可能である。専門家の試算で、10の130乗程度の数字の素因数分解に要する時間は、Pentium100MHz, RAM 8MBで50年ほどかかるという。重要な銀行取引では、少なくとも10の308乗ぐらいの公開鍵を使うようだ。

1980年代は、RSA暗号も強力なコンピュータを持った政府と軍部と大企業ぐらいにしか使われなかった。今日の情報化社会では個人情報の保護は当り前でありパソコンにも搭載されている。この貢献にフィル・ジマーマンを紹介している。彼は、冷戦時代に反核運動でも知られる政治活動家でもあった。冷戦が終了して、個人情報の保護を訴えるようになり、PGP(Pretty Good Privacy)システムの構築に尽力した。これは、今日利用されているデジタル署名などの機能が盛り込まれている。PGPについても、安全な暗号システムが構築されると、テロリストや犯罪者の証拠を得ることは困難になるという理由から政府の介入がある。RSAデータ・セキュリティ社は、PGPに"海賊ソフト"のレッテルを貼った。ジマーマンは武器商人として告発され、FBIの追求を受けることになる。現在でも、安全性の高い暗号システムの善悪は論争されている。暗号推進派は、かつて個人情報がこれほど漏洩しやすくなった時代はないと言う。高度なテロリストや犯罪者は政府が規制しても無駄である。政府規制により弱体化された一般市民の個人情報が悪用されるだけである。アル中ハイマーは、どちらの立場を取るだろうか。ネットで買い物をする立場上、保護してもらいたい。今日、暗号の安全性は鍵のサイズにかかっている。アメリカ政府は規制方向だ。日本も同じだろう。日本の場合は、更にぬるま湯の感覚で意識すらもうろうとしている。電子商取引が盛んになれば、当然、暗号推進派を指示する人間が多数を占めることになるだろう。こうした動きはビジネス界の利害と関わるので、産業界も後押しするはずである。最も不安なのは監視側のモラルかもしれない。

7. 量子化暗号の時代か?
本書は暗号作成者と暗号解読者の戦いを物語る。いつかは暗号解読者が勝利する繰り返しであるが、今日では暗号作成者が勝利を収めようとしている。暗号の黄金時代の到来なのだ。PGPで暗号化されたメッセージを解読するには、世界中のコンピュータを導入しても宇宙の年齢の1200万倍の時間がかかると推定されているらしい。しかし、いずれも解読不能とされた暗号システムが解読されてきたのは歴史が示している。
PGP暗号は歴史を繰り返さないというのか?実は解読の目処が立っているかもしれない。歴史を振り返っても、解読に成功した技術が明るみになるのは数十年経ってからである。
暗号は、とうとう数学界の永遠のテーマとなっていた素因数分解にたどり着いた。暗号解読者は、抜本的に新しいタイプのコンピュータを模索している。量子コンピュータである。とうとう光の登場である。原子力発電所で起こっている核反応を計算できるのは量子論だけである。DNAを説明できるのも、太陽がなぜ輝くのかも、CDを読み取るレーザー装置の設計も。
本書は、「量子コンピュータが実現できれば、現在のあらゆる暗号を葬り去り、計算すること自体が新時代へと突入するだろう。」と言っている。1985年ドイチェが、普通のコンピュータと量子コンピュータの違いを論文にしている。「普通のコンピュータは一度に一つの問題しか解けないが、量子コンピュータは同時に二つの問題を入力でき、問題への対応が重ね合わせとなる。」
んー。並列処理とも違うようなイメージで紹介されるが、分かったような分からないような?これを理解するには飲みが足りないようだ。

本書もふれているが、ここで上がった有名人の他に匿名で活躍した人々の功績は大きい。秘密を重要とする分野であるだけに、匿名の人間の方が凄い人物がいるのかもしれない。この分野に限らず世の中を本当に支えているのは、そうした無名の人物の功績が大きい。当然であるが、暗号の世界をリアルタイムに公表できるわけがない。一般人には歴史を振り返ることしぐらいしかできない。表面化した政治力や、マスコミによる扇動・流布に対抗する手段はあるのだろうか?どうやらアル中ハイマーには世間の波に揺られて酔っ払うしかないようだ。
読み終わって第一声は、「さすがサイモン・シン!」である。
すっかり気分を良くしたアル中ハイマーは、映画「エニグマ」でも観ながらもう一杯やることにしよう。
ああ、@#$%^&*!!!(アル中ハイマー暗号)

2007-05-20

"フェルマーの最終定理" Simon Singh 著

思わず著者のファンになってしまった。きっと翻訳者の青木薫氏もうまいのだろう。本書の凄いところは、それほど数学の知識を必要とせずに数学のロマンを語り、読みものとして充分成り立っているところである。なによりも酔っ払いに読ませるところが凄い!そこには、数々の数学者が、一見簡単そうに見える難解な定理に挑み失敗し、ついに解き明かすまでの歴史ロマンが語られる。また、日本人や女性の活躍も取り上げられ、人種や差別の枠を越えている点も感銘を受ける。これはあとがきにもあるが、翻訳者の意見と一致するところである。

ここでフェルマーの最終定理を紹介しよう。
X^n + Y^n = Z^n (nは2より大きい整数) において整数解をもたない。
n = 2 であれば、ピュタゴラスの定理である。
フェルマー自身は証明により確信していたらしいが、証明したものがどこにも残っていない。彼は自分が証明した問題を他人に出して困らせるような冗談が好きだったようだ。本書は、フェルマーから350年、数学者は失われた証明を再発見しようと挑んだがことごとく失敗した。そしてワイルズにより終止符をうつ。という物語である。

1. まずはピュタゴラスから始まる。
時代は古代ギリシャ。ピュタゴラス教団は宗教集団で、その崇拝物の一つが「数」である。数と数の関係を理解することで、宇宙の霊的神秘が明らかになり、神々に近づけると信じていた。約数の和がそれ自身と同じになる数、完全数は宗教的意味合いとも関わりが深い。例えば、神が天地創造に6日かけたと主張するのは、6が完全数だからである。また、完全数は常に連続した自然数の和で表現できることや、2のべき乗数との関係を考察するなど、エレガントな性質に気づき、完全性の概念に魅了されるのである。ピュタゴラスと言えば「万物は数なり」。例えば、音の調和と数の調和から、心地よい音程の規則を追求し和音の原理を発見する。こうして自然界には必ず数が潜むとされ、規則性を探すようになっていく様が語られる。
数学的証明と科学的証明との違いについて以下のように述べられる。
「典型的な数学的証明は一連の公理から出発する。そして論理的な議論を積み重ねて結論に達する。公理が正しく論理が完全であれば得られた結論は否定できない。こうして得られた結論が定理である。数学の定理は、この論理的プロセスから成り立っており、一度証明された定理は永遠に真である。一方、科学的証明は、ある自然現象を説明するために仮説をたてる。その現象が仮説と合致していれば、その仮説にとって有効となる。更に、その仮説は他の現象も予測できなければならない。この予測を試すために実験が行われる。実験で成功すれば、更に仮説を支える証拠となる。こうして収集された証拠が圧倒的になった時に、この仮説が科学的理論として受け入れられる。」
つまり、数学的証明は絶対であり、どこか神に通するものを感じる。数学は究極の宗教かもしれない。逆に、科学理論は完全に証明されているわけではない。理論が正しい可能性はきわめて高いと言えるだけで真実の近似でしかないというのである。ピュタゴラスの最大な貢献は「数学は、他のどんな学問にもまして主観を排した学問である。」と語られる。

2. 数々の偉大な数学者が挑んで失敗した。
数学者は、フェルマーの時代には数の愛好家である。そして、18世紀にはプロの問題解決人となる。これはニュートンの自然界への応用による功績が大きい。その時代にオイラーが登場する。
オイラーは、三体問題をアルゴリズムをフィードバックし、これを繰り返すことにより近似していく手法を編み出した。オイラーのこの定理への取り組みは、背理法の一つ無限降下法を使った。それは、まず解が一つ存在すると仮定して、それが無限の下降階級まで解を求めていく。そして、これが整数であることに矛盾があるとして証明した。
これは n = 3 の時に成功する。n = 4 に拡張するのは虚数の概念を取り入れる必要があった。
それでも n = 3 までしか証明できなかった。こうして、世界一の難問に最初の突破口を開いた功績者として紹介される。
女性の数学者を認めない差別背景に苦悩しても、この定理に取り組んだソフィー・ジェルマンが、n = 5 の場合において貢献したことを紹介している。本書はフランスが生んだ最も知性ある女性に対する政治的扱いを嘆いている。
「彼女の業績を踏み台にして羨むべき栄誉の殿堂入りを果たした人々は恥じるべきである。」
現代では知識人やマスコミによる論調に流され、何が真実かわからないことが多い。いつの時代も歴史学者は論調に流される傾向にあるようだ。

これだけの問題に対して、史上最も優れた数学者と言われるガウスが挑んでいないのも不思議である。E.T.ベルは、フェルマーを「アマチュアの大家」と呼び、ガウスを「数学者の王」と呼んでいる。ガウスはこの定理に対して何の興味も湧かない主旨のことを述べている。
「このような肯定も否定もできない命題なら私はいくらでも作ることができる。」
現代の情報化社会にあってアマチュアとプロの境界線が難しい。ただ、当時からそういう状況はあったようだ。本書では、ガウスがこう述べるのはプロのプライドなのか?実は挑戦して成果が得られなかったのではないか?と疑問の目で記述される。

更に読み進み、話が論理学に及ぶと酔いも最高調となる。
ゲーデルの不完全性定理の登場で、フェルマーの最終定理も決定不可能かもしれないと示唆する。実は数学者とはただの酔っ払いではないのか?と仮説を立ててみるとアル中ハイマーには親しみを感じる。しかし、この天才連中は宇宙人のようである。やはりアル中ハイマーだけが、ただの酔っ払いであるという虚しい証明に辿り着きそうなのでこれ以上考えないことにしよう。

3. いよいよアンドリュー・ワイルズの登場。
彼は、現代数学が共同研究という文化を持つ中、あえて時代を逆行するがごとく孤独を選んだ。まずは、楕円方程式の研究から始める。ここで楕円方程式はモジュラー形式と関係づけられるという谷山=志村予想の貢献が語られる。おいらはモジュラー形式と聞いただけで頭がグルグルになる。ちょっと一息して純米系に変えよう。
ところで、26とはすげー数である。25 = 5^2, 27 = 3^3 つまり、平方数と立方数に挟まれる数字はただ一つなのである。ああええ気持ち!

背理法によるアプローチにより道筋が示される。谷山=志村予想を証明できれば、フェルマーの最終定理の証明につながるという道筋だ。更に、帰納法による証明を試みる。ある命題が、nで成り立つことを証明し、n + 1 でも成り立つことを証明できれば、無限の世界を証明できる。また、ガロアの群論を利用する。ここで、ガロアについては悲劇の生涯を紹介してくれる。
そして発表!
その証明に対する検証期間、待機している時の心境が語られる。そして問題発覚。なんと些細な問題と思っていたものが重大欠陥だったのだ。発表から6ヶ月が過ぎようとしていた時、証明は風前の灯火となりつつあった。数学の証明は、途中の苦労よりも、最後に完成させたものに勲章が与えられる。どうしても、レフリー以外の数学者に論文を見せる気になれなかったようだ。功績を独り占めしたかったのもあるだろう。誰しもある意識である。
そうこうしていると、ノーム・エルキースがフェルマーの最終定理に反例を挙げた。彼はオイラーの予想に反例を示した人物である。数論界では、谷山=志村予想が成り立つと仮定して証明されたものが何十もある。これは大事件である。しかし、この電子メールの発信は4月1日、回りまわって遅れて広まった。エイプリルフールというオチだ。
そろそろワイルズ自身、敗北を認める覚悟をする。最後の1ヶ月と決めて、失敗した原因を検証しているうちに、突然、欠陥の修正の足がかりを掴む。そして、楕円方程式の世界とモジュラー形式の世界が統一。数学の大統一である。これは、古代ギリシャ時代からの楕円方程式の古典的な未解決問題を、モジュラーの道具で再調査できるという快挙である。

4. 今後の数学界。
さて、次の難題はなんだろうか?本書はいくつか紹介してくれる。
素数の問題も、摩訶不思議な世界である。全ての偶数は素数の和で表現できるか?という問題はオイラーをもってしても証明できなかった。
ケプラーの球体充填問題の中で、ウーイー・シアンがケプラー予想の証明を発表した。これもまた欠陥があり、修正の修正を繰り返し混乱しているがシアン自身誤りを認めない。本書は、数学界がいかに自己管理制度に依存しているかを露呈している。
「トップクラスの大学に終身在職権を持つほどの教授がインチキな主張をするはずがなく、欠陥を指摘されれば、すぐに主張を撤回するだろう。という風習がある。」
実に明確で、自己理性の効いたすばらしい世界であるが、こうも述べている。
「自己管理制度を逆手に取る者は、長引く混乱を引き起こすことができるだろう。その人物の後をついてまわって、インチキな主張をするたびに化けの皮を剥がして回るほどの暇な人間はいないからである。」
現代は、これにマスコミが加担するなどの社会的問題があるものの、真の数学者は相手にしないのだ。真の有能な人物とは、無駄な事柄には関わらないのかもしれない。人生は短いのである。

ワイルズが純然たる論理を武器にしたのに対して、今後はエレガントな論証ではなく、力ずくの方法に頼ることになるだろう。これが「数学の堕落」と言われている。これはコンピュータ時代を反映しているのだろう。大まかなプログラムを数学者が作ると、遺伝アルゴリズムにより突然変異を起こし子プログラムが作り出される。これを繰り返し問題解決に至るように進化していく。目先の現象を数多く入力することで定理が得られると語られる。定理に対する真偽は答えられても、証明できない時代がくるのかもしれない。アル中ハイマーは、もう少し数学は芸術の領域に留まってほしいと願うのである。

さて、こうなると、フェルマー自身が本当に証明できていたのか?という疑問は残る。ワイルズにしても結局20世紀の手法に頼らざる得なかったわけだ。本当に17世紀の手法で解決できていたのか?そもそも350年前の証明は存在したのか?今も、オリジナルの証明法を発見して地位と名誉を得ようとしている数学者は多勢いるらしい。歴史ロマンは終わらない。酔っ払いの旅はまだまだ続く。すっかり気分を良くしたアル中ハイマーは、映画「ビューティフル・マインド」を観ながらもう一杯やることにしよう。

2007-05-13

"ディジタル数値演算回路の実用設計" 鈴木昌治 著

本記事はゴールデンウィークのネタの続きである。
今年は、のんびり過ぎて気合が入らない。忙しい時には、やりたい事が次から次へと湧いてくる。暇だと何もする気が起きないとは、悲しい性である。やはり連休は仕事をしている方が性に合っているようだ。遊びに行こうにも、混雑に立ち向かう勇気などない。逆に、とことんぼーっとするのもおもしろいかもしれない。そして、朝から酒を食らい、どこまで眠れるか?実験するのである。おかげで腰やら肩が痛くて悲惨であるが、さわやかな連休であった。さて、前置きはこのぐらいにして本題に入ろう。

今回の連休テーマは「基礎を見直す」である。よって、ディジタル回路についても眺めてみることにした。いつか乗算器や除算器などの設計経験をまとめておこうと思っていたら、ちょうど良さそうな書籍があった。おかげでアル中ハイマーの出番は無くなった。これで安心して飲めるというものである。本書はディジタル回路設計の基礎編といったところだろう。やや数学的な厳密性は欠けるものの、イメージ的に捉えやすいので幸せな気持ちにしてくれる。

本書では、初等超越関数に逆数関数、正弦関数、対数関数を扱っている。
一次補間から二次補間、三次補間と級数展開をイメージしやすく記載されている。関数をテーブルを用いた直線補間で近似するなど、酔っ払いの題材としてはちょうどよい。
一次関数とは、さしずめ、ジャックデンプシーといったところだろうか。二次関数は、デンプシーに勝利した時の祝勝会で飲むノックアウトといったところである。三次関数は、アースクエイクということにしよう。おいらは"アブちゃんスキー"と呼んでいるやつだ。
級数展開とは、アル中ハイマーに近似されていく様を表している。

また、浮動小数点演算とIEEE754の意義を説明してくれるのも、流れ弾ではあるが、ありがたい。符号付の乗除算や浮動小数点演算など、できれば避けて通りたい領域でもそれほど抵抗感が無くなるのではないだろうか。こうした内容は専門雑誌を購読すれば断片的に拾えるが、一冊にまとまっているところも助かる。ただ、実装イメージを優先しているため、厳密な数学的解釈は別の本を読む方が良いだろう。このような基本書を読む事は馬鹿にはできない。特にアル中ハイマー病にはありがたいことである。

本書のおかげで、関数をテーブルで近似して遊んでみる気になった。
本書では、逆数関数を直線補間により、テーブル近似する方法が述べられているが、おいらは正弦関数で遊ぶことにしよう。まったく同じやり方ではおもしろくないので少々ひねってみるか。ついでに、octaveを使ってみるのも悪くない。実用的かどうかは別にして、このように手軽に遊べる材料を与えてくれた書籍に感謝するのである。
尚、お遊びの詳細は酔っ払いディオゲネスのページに任せることにしよう。

2007-05-06

"これなら分かる最適化数学" 金谷健一 著

例年連休は忙しいものであるが、今年のゴールデンウィークはゆっくりできて幸せである。よって、「基礎を見直す」をテーマに過ごすことにした。とりあえず数学でも味わうのである。
本書は「これなら分かる応用数学教室」の姉妹書である。前書を読んだ時はウェーブレットを理解させてもらったので感謝を込めて本書も購入した。本書は「これなら分かる応用数学教室」ほどのインパクトは無かったが、それなりに理解した気になれたので幸せなのである。

おいらは学生時代から数学は嫌いである。授業となると大嫌いだった。こと科学分野は暗記教育であり、体感できる気がしないからである。試験となると公式のオンパレード。おいらは記憶できないからその場で公式を求めるところから始めなければならない。時間がかかるので大きなハンデである。
どうせ試験用に覚えた知識などリフレッシュサイクルの短い記憶領域にしか留まらない。よって身につくわけがない。こうして成績が悪いことを言い訳するのである。

物事の理解とは、ある程度の素人にでもくだいて説明できることを言うのではないかと思う。数学の先生は、実は数学を理解していない人が多いのではないかと疑問に思うことがある。少なくとも今まで受講したものは言っていることがよくわからないので質問すらできない。しかも、やたら公式で片付けられる。これは、しばしば見かける専門用語をやたら並べて難しく説明する評論家連中のようである。
そもそも理解できないのはアル中ハイマーが馬鹿だから仕方がない。しかし、最近理解させてくれるものもあるから不思議である。アル中ハイマー病の治療として、最初から数学をやりなおすのも悪くないと思う今日この頃である。ただ、少々遅すぎたようだ。フィールズ賞の年齢制限にひっかかってしまうのだ。アル中ハイマーは夢と現実の境界をさまようのである。

ここで取り上げる最適化手法とは、ある状態を最大あるいは最小にする設計手法である。この手法は、利益や損失を求めてリスク管理する場面などで使われているので少々興味がある。本書の前書きにもあるが、「オペレーションズリサーチ(OR)」という分野で用いられる。計算機が発達すると、複雑系を数値化し体系化する様々な手法が栄えるのだろう。プロジェクトマネジメントや戦略論など、その分野は多岐にわたる。最近では、情報通信技術の設計などにも使われる話をよく耳にする。

本書は、例題を用いた丁寧な解説がなされているものと思われる。酔っ払いにでも理解した気になれるからである。なによりも、まず数学的な基礎知識である曲線の法線ベクトルや固有値問題から始まるところがうれしい。
関数の極値を求める問題では、関数の移動方向に対して収束するまで繰り返す反復解法が基本であるが、その代表であるニュートン法を、また、関数を当てはめる問題では最小二乗法などを、前半部で取り上げてくれるのは、アル中ハイマーにでも少しは数学の記憶があることを認識できてうれしい。後半部では、生産ラインの運営効率や、ネットワークの経路解析、文字列の検索解析のような例を体感できるところがうれしいのである。しかし、うれしいことばかりではない。高度な数学的解釈もある。おいらには到底理解できないので読み飛ばすのである。アル中ハイマーは不幸な領域には近寄らないのである。

本書とは関係ないが。。。
複雑系の数値化と言えば、昨日ちょうど将棋チャンネルでコンピュータ将棋の解説をやっていた。3月に行われた渡辺竜王 vs. ボナンザである。チェスではコンピュータが勝ったようだが、将棋では竜王の圧勝だろうと思って大して気にもかけていなかった。しかし、なかなかの内容でおもしろい。
竜王もみっともない姿は見せられないというプライドがあったのだろう。きっちり対策してるように見える。上手く誘いながら予想通り圧勝かのように見えた。
そして妙なボナンザの指し手。実はこれが凄い読みの入った手だったのだ。それを、きっちりと読んで対応するあたりはさすが竜王である。なんて馬鹿馬鹿しい指し手だと思って、うっかり指すとやられてしまうような局面がいくつか見られた。
今回のボナンザは8CPU並列対応。竜王対策に全検索からポイント検索などアルゴリズムの改良もなされているという。いまや、現在のソフトウェアに、ハードウェアの進化で人間を凌駕できると開発者は言う。実際は、最初から予想されていた戦型通りになったり、終盤の評価などまだまだ問題点はありそうだが、少なくともプロ棋士がいつでも勝てるという内容ではない。
番組ではアルゴリズムの紹介も少なからずあった。形勢を評価する時は全ての駒の価値を数値化する。その駒のポテンシャルはもちろん、その駒の位置関係、動ける範囲、駒同士の連携のバランス、などなどを対象としている。そして、総合点で形勢判断するのだが、人間では予想もつかない評価をする。誰が見ても竜王が優勢だろうと思っている場面でも、ボナンザは互角とみてるところなど、現在の形勢評価をログで確認できる。しかも、その判断が絶妙であり、馬鹿馬鹿しい手に見えても、その奥の深さを教えてくれる。更に、ボナンザの読みをその場で対応してのけた渡辺竜王の凄さは感動ものである。ちなみに、渡辺竜王は小学生の頃から見た目が生意気そうだが、まあ棋士はそうした人が多いのだが、ブログを見ていても人間性が出ていて、おもしろく鋭い解説をしてくれるなど、なかなかの紳士で好感が持てる。最近は好きな棋士の一人である。
いまや、新手の発見手段としてコンピュータが使われる時代がきたのかもしれない。羽生世代が登場した頃は定跡破りで衝撃が走ったものだが、現在はコンピュータの登場による衝撃が走る。