2014-01-19

もしも、まったく記憶力のない夢学者が夢現象を語ったら...

もしものコーナー... だめだこりゃ!

夢には、現実世界で意識的に描くものと、眠りの世界で無意識に見るものとがある。両者の扱いは、天と地ほどの違いがある。意識的な夢が幻想と蔑まれるのに対して、無意識的な心的現象は、そこに霊感めいたものを重ねる。古来、予知夢が英雄伝説を予感させてきた。アレキサンダー大王の誕生秘話では、母オリュンピアスは雷鳴が腹に落ちて辺り一面に火が燃え上がる夢を見たとされ、父フィリボス2世は、妻の腹に獅子が封印された夢を見て、後の息子を恐れたと伝えられる。こうした事例は枚挙にいとまがない。都合の良い夢を勝利の証としたり、悪い夢を警告としたり。現在でも、一富士二鷹三茄子を縁起の良い夢としたり、夢判断で宝くじの当選番号を占う人もいる。
人間には、無意識に生じる心的な超現象を、崇高なものと捉える性癖があるらしい。人間は考える葦である... と語ったパスカルは、たかだが一茎の葦に過ぎない存在でありながら、神をも想像できる能力を崇めた。我思う... と語ったデカルトは、神を思惟できる能力から、神の存在までも証明してみせた。
しかしながら、いくら無意識な領域を意識しようとしても、それを精神の存在によって説明しようとしても、そこには制御不能な自我が立ちはだかる。潜在的な不安や恐怖が、警告夢や死の告知夢を脳に投影することもあろう。予知夢が未来願望の姿だとすれば、デジャブのような現象は過去への回帰願望の顕れであろうか。望郷の念や過去に焦がれるのも、心の拠り所、すなわち帰属意識の再確認から生じるものかもしれない。
夢を見ている間は、眠りが浅いと言われる。熟睡すれば、外界との交渉を断ち、完全に刺激を遮断してくれるが、中途半端な眠りは奇妙な災いをもたらす。金縛りもその類いか。ちなみに、大学時代、講義中に睡眠状態をコントロールしようとして金縛りになり、もがく姿を友人たちに大笑いされたものだ。
眠りは、生理学的には休養であるが、心理学的には何を意味するのだろうか?現実逃避か?永遠の眠りへの不安か?はたまた、熟睡を求めるのは死への憧れか?人間は死を忌み嫌いながら、その正体を未だ知らない。実は、DNAあたりに組み込まれていて、潜在的に知っているのかしれないが。生きる苦痛を実感しているから、その対照に位置づけられる死にも同様の苦痛があると考えるのか?いずれにせよ、夢という現象には何らかの心的意味が隠されているのだろう。理解不能なほどに多義的ではあるが。鈍感で無意識でいられることが、どれだけ幸せであろうか...

夢ってやつは、見ている間は妙にリアリティがある。絶対にありえないシチュエーションなのに、見ている間はいとも簡単に信じ込む。現在と過去の人間関係がごっちゃになったり、仮想的な人物や歴史上の人物までも登場したり、まったく支離滅裂の世界!不安や願望で説明できる単純な夢もあれば、わざわざストレスを求める夢まである。自分の笑い声で目覚めることもあり、そんな時は笑いこけている余韻だけが残っていて、内容はまったく覚えていない。はっきり覚えている場合ても、ホットなお姉さんといいところになると必ず目が覚めやがる。続きを見ようとして二度寝すると今度は熟睡よ。一方で、最大の願望であるハーレムの夢を見たことがないのはなぜ?せっかくの夢の世界なのだから、思いっきりエゴイズムを発揮してもよさそうなものだが...
単純な夢では、むかーし、よく落下する夢を見た。突然、身体が空中に放り出されて、恐怖におののく。こういう原始的な夢は、人間の祖先が猿である名残りで、木から落ちる感覚の延長だとする説もあるが、かなり疑わしい。
あるいは、ゴジラ風の怪物やヤクザ風の怖い人たち、あるは軍隊に追い回されて、狭い空間に隠れている夢を見ることがある。何事もなく通り過ぎるのを祈りながら、悪魔に見つかった瞬間に必ず目が覚める。結末が分かっているのだから、気づいてもよさそうなものだけど。
また、熱があると、必ず見る夢がある。歪んだ空間に肉体が放り出され、身体中がねじれそうになるのだが、その現象を言葉で表そうとすると、うまくできない。
未だに、留年する夢を見るのはなぜ?留年はしなかったはずだが。学生時代に戻りたいという願望があるなら、明るい設定にしてもらいたい。
最近の夢では、尊敬していた先輩たちに叱り役を演じさせる。仕事の質には厳しかったが温厚な方々で、とても叱るようなタイプではなかったはずなのに... だから余計に応える。ちなみに、酔っ払うと謝り上戸になるらしい。普段からよほど悪い事をしているのか?叱られ願望があるのか?M系であることは否定せんよ。
これだけ矛盾だらけの世界に何の疑問を持たず同化できるということは、論理的に物語を感じ取る神経と、リアリティを感じ取る神経は別モノとしなければ説明がつかない。だとすると、目の前の現実が、どうして夢でないと言い切れるだろうか。精神そのものが不確実性に満ち満ちているのだから、夢もそうなる運命なのかもしれない。理不尽な夢に憑かれた自我に疲れ、精神病を患うのも、道理というものか。夢日記をつけるだけでも退屈しのぎになりそうだが、自我と喧嘩することになって気が狂いそうな気がする。もともと狂っているから問題ないのだけど。
もはや、夢の内容を解釈しようなんて思惑は絶望的である。夢現象とは、記憶の中で時間軸が再構築されている感じ、とでもしておこうか。そりゃ、記憶がいい加減なのも仕方があるまい。なのに、現実世界の法廷では、人の証言が判決の切り札とされる。人間社会とは、なんと恐ろしい世界であろう。プラトンはこう言った... 善人とは悪人が現実にしていることを夢にみて満足している人間である、と...

ところで、現代人の多くはカラーで夢を見るという研究報告がある。日常の映像情報に、これだけ色彩が溢れていれば、そうかもしれん。しかし、おいらには、はっきりしない。カラーを意識できる場面もあるにはあるが、目が覚めるとよく覚えていない。普段から物事を色の印象で感じていないのだろうか?最近、崇高な光が差す夢を見る。なのに、その光がカラーかと言えば、それすらはっきりしない。色彩系の神経が分裂しているのだろうか?おいらの記憶脳には色という属性がないような気がする。
また、夢とは、ある種の暗示の状態とも言えそうである。睡眠状態は、催眠状態と似ている。眠っている耳元で誰かが嫌な事を囁けば、うなされそうな。夢現象を、神経系の遮断効果と捉えれば、快感だけを感じ取るような覚醒状態とも似ている。神経系を制御できれば、人間の意志なんて、いかようにも誘導できるだろう。人体が量子力学で裏付けられた機械的構造をしている限り、ありえそうな話である。それどころか、既に洗脳状態にあるのかもしれん。
そこで、ある物語が頭に浮かぶ...
ある日、目の前に一匹の犬が現れると、「あっ、カンガルーだ!」と叫んだ。犬は、自信満々に、「おらぁ、カンガルーじゃねぇだ!」とつぶやいて去っていった。次の日、別の人の前にその犬が現れると、またもや、「あっ、カンガルーだ!」と叫んだ。犬は、いぶかしげに、「おらぁ、カンガルーじゃねぇだ!」とつぶやいて去っていった。そんなことが何度が続くと、ついに犬は、「おらぁ、カンガルーかもしれねぇだ!」と言って、ピョンピョン跳ねていったとさ...
この主役が犬だったか?猿だったか?はたまた、この物語が何のネタだったか?暗示にかかりやすい酔っ払いは、どうしても思い出せず... 既に二十年が過ぎたのだった...

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