2014-01-05

友に捧ぐ

ヤツは、生きようとしていた。忌々しい病に憑かれながらも...
癌は進化する生命体にとって、必然的な病だとする研究結果もある。こいつが何よりも厄介なのは、精神の内側から蝕んでいくことだ。寒々しい現実が、生きる意欲、戦う意志... こうしたものをことごとく挫く。精神安定剤などではどうにもならない。迫り来る痛みと孤独を前に、時折見せる目の奥の涙。ヤツは、笑顔を装う。いや、本心から笑みを浮かべていたのかもしれん。どうしようもない運命に導かれる時、人は本心を曝け出すものかもしれん。
人は時として苦痛に負け、つい身を委ねてしまうことがある。絶望という名の希望に。生きることと、死なないことでは、まるっきり意味が違う。ヤツはそれを目で物語っていた。人は皆、何かに縋らなければ生きてはいけない。そして、いつも生命維持装置となる存在を求めて世間を彷徨う。ただそれだけのことかもしれん。
天国と地獄があるなら、まさにこの世がそれだ。生き甲斐が見つかれば天国となり、見つからなければ地獄となる。病と闘うことが生き甲斐だというなら、そういう生き方があってもいい...

欧米には安楽死ビジネスなるものがあると聞く。悪魔のビジネスと呼ぶ者もいるが、そう言い切れるだろうか。死の誘惑はどこにでも転がっている。その衝動に負けた時、死を処方する闇のプロフェッショナルが、ほんの少し自然死の手伝いをしてくれる。もう充分に生きたからと自らを納得させて... 生きる権利を主張するなら、死ぬ権利を主張してもいいのではないか。しかしながら、充分に生きたとは、どういうことか?絶望を目の当たりにすれば、未練を断ち切ることができるというのか?
人が人を助けられるなんて思っちゃいない。少しでも力になろうとするのは、努力したという証を残し、自分に言い訳をするためだ。人間なんて身勝手なものよ。この世にただの一人、親友と呼べるヤツがいたとすれば、そう思えるだけで意義ある人生だと納得することができるのだから。奇跡の力など信じない。神の力などけして信じない。ましてや人間の力など、どうして信じられよう。だが、この時だけは、何かの力を信じてみてもいい... そう思った。希望なんて安っぽいもので運命は変えられない。友情なんてクソ食らえ!そんなことは、とうに承知していたはずなのに...
互いに遠くにいると、ふと思うことがある。待つ方が辛いのか、待たせる方が辛いのか。いずれにせよ、そんな気遣いはもういらない。それが最も辛いのかもしれん...

生きることの意義とは、なんであろうか。そんなものはないのかもしれん。だからこんなことを書いているのかもしれん。もしあるとしたら、生きている行為そのものに意義を求めるしかあるまい。この世に、尊厳死というものがあるとしたら... それを受け入れるしかあるまい...

自由な人間が、死ほど疎かに考えるものはない。自由人の叡智は、死ではなく生を考えるために在る。... スピノザ

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