物体の存在を強烈に印象づける物理量に、質量ってヤツがある。地上では重さと呼ばれ、女性の忌み嫌う現象とされる。おそらく、人類が意識というもの持った時点から、重力なるものの存在をなんとなく感じてきたことだろう。体調の悪い日には体が重いと感じ、体力が消耗すれば手足が重いと感じる。ガリレオは、著書「天文対話」の中で慣性の法則らしきものを語っいる。だが、いまいち自信がなさそうで、質量についても、おぼろげな認識しかなかったようである。アリストテレスの運動論以来、インペトゥス、モーメント、トルク、エネルギー、フォースなどと用語が乱立するのも、物理学が哲学との境界をさまよってきた歴史がある。
そこで、ニュートンは「力」という概念を持ちだし、質量を万有引力で説明した。だからといって、曖昧さが解消されたわけではない。人間は、あらゆる現象において、本能的に力関係を生じさせる。政治の力、金の力、愛の力などと言っても、幻想にしか思えんが...
はたして、力とは、なんであろうか?
アインシュタインは、あの有名な公式で質量とエネルギーの等価性を示した。ここに、力は質量を通じてエネルギーと結びつく。どうやらエネルギーってやつは、力学的に説明できるものらしい。
では、エネルギーとは、なんであろうか?学生時代、力とエネルギーの違いが分からず、悩まされたものだ。力学的エネルギーは、運動エネルギーと位置エネルギーの和によって構成され、そこには保存則が成り立つとされる。運動エネルギーの存在は、なんとなく分かる。そりゃ、物体が運動を始めるには、なんらかの力を必要とするだろう。実際、質量と速度の関係で示される。
では、位置エネルギーの方はどうであろうか?質量と重力加速度と位置(高さ)の関係で示されるわけだが、位置ってなんだ?物体が存在するからには、空間のどこかに位置するのは当たり前ではないか。つまり、位置とは、他の物体に対する相対的な場所でしかない。位置とは存在を意味しているのか?そうだとすると、存在とは、どんな物理量であろうか?潜在的なポテンシャルってやつか?人は皆、潜在能力を持っている。それを努力によって開花させる者もいるが、ほとんどの者は眠らせたままだ。おまけに、努力したって報われるとは限らない。潜在的な存在では、存在そのものが確実に保障されていると言えるだろうか?物理学は、そんな疑わしい存在までも仮定しないと法則性が導き出せないのだろうか?んー... エネルギー保存則が詐欺に見えてくる。
そもそも保存ってなんであろうか?この世に永久保存されるものがあるのか?少なくとも素粒子レベルでは、宇宙創世の時代から存在するようである。しかし、宇宙空間の変化と共に、物質は原子や分子へと成長し、物体というものを誕生させてきた。物質が成長するということは、そこにエネルギーのやり取りが生じるということ。保存とは、存在を保つと書く。だが、保つものがあれば、失われるものがある。愛は失われると分かっているから、常に確認せずにはいられない。DNAは子孫を残す度に上書きされ、もはや原型を留めておらず、プラトンのイデア論も絶望的な状況にある。
いまや、保存の法則よりも、破壊の法則の方が輝いて映る。より高度な存在を求めれば、物体は成長を望み、創造を試みる。そこに安住すれば、存在そのものが腐敗し、やがて破壊される。宇宙の骨格を成す素粒子以外では、結合体として存在するしかなく、その保存には創造と破壊が生じるとするしかなさそうである。宇宙空間が絶えず変化しているならば、質量とはエネルギーのはけ口としての必然的な現象なのかもしれない。
では、存在を強調するところに破壊が生じるのだろうか?なるほど、政治屋が社会制度を崩壊させ、金融屋が国際規模の経済危機に陥れ、教育屋が教養を偏重させ、愛国者が敵国をでっち上げ、平和主義者が戦争を招き入れ、友愛者が愛を安っぽくさせる。彼らは皆、破壊屋というわけか。いや、破滅屋よ。なによりも精神が、自己存在を意識した途端に絶望へと導きやがる。人間そのものが、自意識過剰な存在屋であると同時に、無節操な破滅屋というわけか...
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