2014-01-26

"自省録" マルクス・アウレーリウス 著

プラトンは、著作「国家」の中で、哲学者の手に政治を委ねることを理想とした。その理想が、歴史上ただ一度実現した例があるという。第16代ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスは、多忙な政務を果たしながらも自問自答に耽り、自省自戒の備忘録を残した。この書には、構成らしい構成がない。いちおう12章に分けられるものの、その都度、思いついてはメモったのだろう。言葉が立派だから政治家としても立派だった、とは言い切れないが...
その言葉を眺めれば、プラトンやアリストテレスが信条とした四つの徳「智慧、勇気、節制、正義」を基盤にしていることは想像に易い。注目したいのは、ストア派の影響を強く受けていることである。セネカやエピクテトスなどに代表されるストア派が流行した時代でもあり、本書にもエピクテトスの名を見かける。ただ、ストア派と言えば、物理学や論理学を倫理学の中に押し込んだ、頭でっかちの道徳観念という印象がある。いわば宗教の臭いがするわけだが、アウレーリウスの魂に乗り移ると、こうも様変わりするものであろうか。あるいは、まだ道徳の暴走が始まっていない時代であろうか。いや、ストア派に対する偏見かもしれん。
アウレーリウスは、宇宙論的な道徳を探求し、ひたすら不動心を求める。理性によって精神を解放し、真の自由人にならんがために。大ローマ帝国で、しかも皇帝の地位にありながら、ギリシア語で綴ったというから、よほどギリシア哲学に魅了されたと見える。そして、なんとなくストア派の書籍も漁ってみたくなる... 酔っ払いの衝動は、道徳の暴走よりもタチが悪い!

どんなに誠実な人物であっても、政治を行うとなると、それだけでは足りない。
義弟ルキウス・ウェルスと共同皇帝となるものの、ウェルスは怠惰な享楽好きだったという説がある。平和を楽しむことの久しかったローマ帝国にあって、ちょうど多事多難な時代を迎える。ティベリウス河の氾濫、地震、ペストの流行などの災難が相次ぎ、北方のゲルマン人とのいざこざ、さらにはシリアへ侵攻してパルティア戦争が起こる。アウィディウス・カッシウスはシリアで謀反を起こし、アウレーリウスが死んだと言いふらし、自ら皇帝を名乗ったという。彼は生粋の軍国主義愛国者で、アウレーリウスの平和的文化主義者とは正反対だっとか。カッシウスへ寛大な処置をとるようにと、アウレーリウスが元老院宛に送った手紙も残っているそうな。
しかし、歴史は、アウレーリウスを賢明な人物とするために、カッシウスを悪者にしているかもしれない。アウレーリウスの時代にキリスト教徒を迫害している事実もある。彼自身が率先したわけではないらしいが。
本書には、話し合っても通じ合えるものではないが、それでも根気よく対話すべし、といった自らを励ますかのような文面が目立ち、ひたすら道徳や正義に縋るのではなく、実践的な態度が綴られる。そして、戦争は人間性において不名誉であり、不幸であり、生命を有するものはすべて義務を持ち、目的を持ち、人間は宇宙国家の市民であることが語られる。人間は理性的に創られているとし、理性に生きれば自然に義務を果たし、そのために自律自由でなくてはならないとしている。衝動や欲望に惑わされない確固たる不動心へと導くことが、自由への道であると...
一方で、死後の世界に対しては、それほどの執着を見せない。魂が不死でも、無に帰するでも、どっちでもええやん!といった印象すらある。自殺ですら否定せず、道徳的な姿勢を貫くことができなければ、むしろ是認しているようでもある。そうならないために、知性と理性を養え!と自分に言い聞かせているのかもしれない。知性と理性を高めることによって、死もまた自然に覚悟できるということであろうか。まずは、「死ねばこれができなくなるという理由で、死が恐るべきものとなるだろうか」と自問してみよと...

ところで、理性とはなんであろうか?
我が家の国語辞典によると...「物事の道理を考える能力。道理に従って判断したり行動したりする能力。」とある。道理ってなんだ?...「物事の筋道。」とある。筋道ってなんだ?...「物の道理、条理。」とある。おっと!循環論に陥っている。国語辞典ですらまともに説明できないものを、どうして一介の酔っ払いごときが知り得ようか。
有識者どもに理性を持っているか?と尋ねれば、当たり前と言わんばかりに主張する。ならば、いつも憤慨しているのはなぜ?理性の力をもってしても、心に平穏をもたすことができないというのか?仮に理性を実践し、責任を果たしているというなら、その上に何を望むというのか?彼らは本当に自由人なのか?理性の欠片も持ち合わせないアル中ハイマーにとって、こんな言葉はこそばゆい。

1. 魂と死体
エピクテトス曰く、「君はひとつの死体をかついでいる小さな魂にすぎない。」
生とは、魂と肉体が一体となっている状態であって、魂が肉体をかつぐのをやめた途端に腐敗が始まる。魂は煙のごとく消えゆき、死後の名声ですら忘却に埋もれていく。これが人生というものであろうか。ならば、人を導きうるものとはなんであろうか?アウレーリウスは、唯一、哲学することだと答える。哲学するとは自らの思考によって知性や理性を高めること。ただそれのみが死を安らかな心で待ち受けることができると。能動的に自己の自由を制することこそが、真の自由へ導き、真に自己の所有を実現することができるということらしい。享楽や欲望に隷属すれば、自分の進むべき道も分からず、死体をかついで生きているに過ぎないというわけか。人生において、いつ死のうが大した問題ではないのかもしれん。
「ランプの光は、それが消えるまでは輝き、その明るさを失わない。それなのに君の内なる真理と正義と節制とは、君よりも先に消えてなくなってしまうのであろうか。」
歳を重ねたからといって、智力が増し、精神が成熟するとは限らない。もしそうなら、寿命の延びた現代社会では、より人間性を発揮するはずだ。却って生への執着が横暴になるのか?引退の道すら自分で見つけられず、地位は惰性的となりマンネリな権威で威圧し、他人の目ばかり気にして余生までも消耗してしまう。むしろ、死と隣合わせに生きる方が、生と正面から向かい合っているだけに、自己の腐敗にも気づきやすいのかもしれない。
自己を見つめるには、自問の原理に縋るしかあるまい。生涯を通して真理の探求を怠るわけにはいかない。芸術的な感受性を磨く上でも、自然を観察しないわけにはいかない。これが、神から授かった試練というものであろうか。
しかし、泥酔しきった肉体は、悪臭を放ちながらだんだん重く感じ、やがて引き摺りながら生きるであろう。ますます短気になり、嫌味やら、皮肉やら、愚痴やら、駄々をこねずにはいられなくなるのだ。
「いったい何にたいして君は不満をいだいているのか。人間の悪にたいしてか。つぎの結論を思いめぐらすがよい。理性的な動物は相互のために生まれたこと、互いに忍耐し合うのは正義の一部であること、人は心ならずも罪を犯してしまうこと。また互いに敵意や疑惑や憎悪をいだき、槍で刺し合った人びとが今迄にどれだけ墓の中に横えられ、焼かれて灰になってしまったかを考えて見るがよい。そしてもういいかげんで心を鎮めたらどうだ。」

2. 指導理性
「全体の自然は自己の衝動によって宇宙の創造に向かった。ところが現在は、すべての出来事は因果律に従って生ずるか、もしくはすべて非合理的であって、宇宙の指導理性(ト・ヘーゲモニコン)が自己の固有の衝動を向けるもっとも重大なことでさえも例外ではない。多くの場合においてこのことを思い起こせば君ももっと平静になるであろう。」
指導理性ってなんだ?
他人の指導を当てにせず、自ら先導して理性へ導け!ということのようだ。悟りというやつか。他人の行動を見るより、まず自己の行動を見よ!まっすぐ宇宙の真理を見よ!自然の摂理を見よ!...ということであろうか。
しかしながら、魂ってやつは、自然の意に反して真理から目を背ける。いくら自己に指導理性を求めたところで、社会制度に隷属し、組織に隷属する方がはるかに楽よ。論理を並び立て、詭弁や屁理屈を言っている方が楽よ。そんなアル中ハイマーには、この言葉が重くのしかかる。
「宇宙がなんであるかを知らぬ者は、自分がどこにいるかを知らない。宇宙がなんのために存在しているかを知らぬ者は、自分がなんであるかを知らず、宇宙がなんであるかをも知らない。」
とはいえ、自己の正体を知る人間なんか、この世にいるのか?理性を獲得すれば、それを知ることができるというのか?どうりで理性ってやつはこそばゆい。永遠に獲得できそうにないのだから...

3. 自然的な義務
義務とは、なんであろうか?組織の命令に従うことか?世間では、仕事を持つことが義務とされる。だが、仕事ってやつの定義が難しい。いくら商売とはいえ、誇大広告で欺瞞するのであれば、押し売りの類いと変わらない。悪徳商法だって仕事なのだ。今、自分のやっている仕事は、義務と呼べるほどのものなのか?生活費を稼ぐことを、義務と呼んでいるだけではないのか?下等とされる動物たちは、必要以上に獲物を食さず、自然に自制が利く。なのに、理性の持ち主とされる人間どもは、限りない豊かさを求める。常に将来に不安を抱き、なんでもいいから欲望を抱いていないと落ち着かない。名声を欲し、称賛を求め、けして虚栄心を捨てられそうにない。享楽や欲望のために働いているとすれば、手加減しなければなるまい。
「適当でないことならば、せずにおけ。真理でないことならば、いわずにおけ。その決断はあくまでも君の一存にあるべきだ。」
一方で、知性や理性に対しては遠慮はいらない。知識は無限にあり、道徳に無限に近づこうとしても到達できない。人間の欲望が、無限に解放できる唯一の領域が、ここにあろうか。ただ、知識を詰め込んでも、知性を獲得することは難しい。道徳を叩き込んでも、理性を獲得することは難しい。もうそんな努力は必要ないという人がいれば、既に精神の崩壊を招いているだろう。知性や理性の正体は一向に見えてこない。自然的な義務も一向に見えてこない。真理を探求する学問ですら、金儲けの手段となっているではないか。
「名誉を愛する者は自分の幸福は他人の行為の中にあると思い、享楽を愛する者は自分の感情の中にあると思うが、もののわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである。」
アウレーリウスは、自然に適った存在であれば、自然に義務が果たせるとしている。そのためにもまず、自分に嘘をつかず、自己を誤魔化さないことであろうか。しかしながら、自己に欺瞞された状態で、自分の嘘を見ぬくことが出来るだろうか。せいぜい心掛けることぐらいであろうか。欺瞞されていないことを信じて...
「もういい加減で自覚するがいい、君の中には、情欲をかもし出して君を木偶のごとくあやつるものよりももっと優れた、もっと神的なものがあるということを。私の心には今なにがあるか。恐怖ではないか。疑惑?欲望?その他類似のもの?」

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