「人間は神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。」... ニーチェ
自然哲学者たちは、楽天的な認識論を神の誠実さという構想の上に築いてきた。しかしながら、神が人間を欺くなどありえないと、どうして言えよう。無知は、自らの力に謀られて、無知の状態のままにしておこうと企てる。無知は精神を毒し、虚偽で満たす。神が欺いているのか、人間が欺こうとしているのか。
いずれにせよ、神のせいにして生きて行ければ楽になれる。神への責任転嫁は、神も望むところであろう。誤謬に陥る人間の能力も、神がこしらえたのさ。こんな不完全な存在をこしらえる必要がどこに。神の気まぐれときたら、ゼウスの女たらしっぷりで証明されている。なにしろ女神連に飽き足らず、人間の女にまで手を出すのようなヤツだ。
あらゆる人間は、自己の中に自分自身の神を造る。偶像崇拝に励み、何か正体が分からないものに権威を与える。正体が明確になれば、有難味も感じられない。だから、権威主義に陥るのか。人間社会における権威もまた偶像崇拝の類いか。形式や常識に縋るのも、その類いか。現実に絶望すれば、得体の知れないものに縋る。ただ、それだけのことやもしれん。つまりは、気分の問題よ。
「神は存在する!」とした方が、なにかと都合がよい。なによりも精神衛生上よい。少しばかり大きすぎる自我を控えめにさせるためにも。科学者は、それを宇宙論的な存在とみなす。この世に神がいるかどうかは知らん。もしいるとしても、それは人間のためにいるわけではあるまい。もし人間のために、とするならば、人間がこしらえるしかない。だから偶像をこしらえずにはいられないのだ。かくして神の存在理由は、人間の存在においてのみ説明がつく。人間が生まれ出たことが無知の起源であったか...
「私が神から特別に保護されていないという証拠はあるのか。」... アドルフ・ヒトラー
人間は、「人間原理」とやらを求めてやまない。神に看取られていると信じては宗教に縋り、きっと救われると切に願う。宇宙法則を知れば知るほど、人間都合のデザイン論を思い描かずにはいられない。地球の絶妙な大きさと重力、太陽からの絶妙な距離、月という絶妙な付属品、公転や自転の絶妙な周期... こうした偶然性は何を意味するのか?誰かが意図したというなら、それは神なのか?
おまけに、宇宙法則には、様々な物理定数が介在する。光速、重力定数、プランク定数、ボルツマン定数... これらの数値を眺めていると、人間が誕生するように調整されているかのように思えてくる。電磁気力の強度法則をちょいと変えるだけでも、生命は誕生しないだろう。α粒子の結合力をちょいと弱めるだけでも、トリプルアルファ反応のような核融合は起こらないだろう。物理法則には、人間が宇宙の観測者という特別な存在であると信じるに事欠かない。宗教が、神が人間を創造した... と唱えれば、科学も負けじと、神は人間を創造するように宇宙を設計なされた... と唱える。
人間が生きるには、信念や信仰を必要とする。知的生命体に概して備わる性癖なのかは知らんが。精神ってやつを持ち合わせ、かつそれを実感でき、しかも精神の正体を知らないとなれば、それも致し方あるまい。すべての現象をいかようにも解釈できるおめでたい存在となれば、やはり神の仕業か。
そして今、巷を騒がせているダークエネルギーは、人間にとって都合のよい物理量なのだろうか。おそらく、究極の物理法則が編み出された時には、その方程式の中に定数といった数値は現れないであろう。宇宙の仕組みが、物理法則に支配されているとすれば、神に選択する余地はないはず。だが、神が物理法則を超えた存在ならば、神にも選択の余地はありそうだ...
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