2019-01-20

悪魔と和解を...

迷える子羊にさえ、いつも沈黙をなされる神様よりも、お喋りな悪魔と和解する方が得策やもしれん。生きたいか、死にたいか、それが分かるまで、生きてみるしかあるまい...

「生ある限り、全てが試練である。」... ニーチェ

悪魔との和解が急務...
宗教に疎いおいらは、昔からプロテスタントという用語の扱いが微妙だと感じてきた。ルター派もあればカルヴァン派もあり、反カトリックという意味では英国国教会を含む場合もある。カトリックからの分裂派という意味で、東方教会やロシア正教会までは含まないようだけど...
人間の思考を遡れば、だいたい同じところに辿り着く。信仰心は人類にとって普遍的な存在なのだろう。無宗教者で無神論者の酔いどれ天の邪鬼といえども、なんとなく絶対的な、宇宙論的な存在を感じる。それが宗教の唱える「神」とは異質なものに見えてならないというだけのこと。
実際、キリスト教徒を称しても、科学的な見地から教会とは距離を置き、独自のキリスト教を構築する人たちがいる。彼らは布教という行為にはあまり興味がないと見える。人間の信仰心は実に多種多様で、精神を宗教団体などという枠組みで画一化できるものではないし、ましてや強制できるものでもあるまい。
ユダヤ教はエジプトの神から派生し、キリスト教はユダヤ教から派生し、イスラム教にしてもこれらの影響を受け、源泉は同じところに発する。これら三つの主教はアブラハムの宗教と呼ばれ、共通した人物を崇める、いわば兄弟のような間柄。なのに、なぜこうもいがみあうのか。古代ギリシア時代には、ゼウスを中心とした実に個性的な神々が共存していた。一神教となった途端にそうさせるのか...
人々を救済するはずの宗教が、寛容性を失い、排他主義に憑かれ、悪魔と化す。どんな大罪人でも懺悔すれば救済されるというのに、異端というだけで害のない人々までも抹殺にかかる。しかも、紛争は近い地域や近い思想の間で生じやすいときた。血の濃い関係ほど憎しみの根も深いと見える。人間ってやつは、本性的に差別好きで、縄張り意識が強く、自己存在を強調せずにはいられない存在である。いまや神に縋るより、悪魔と和解する方を優先せねば...

役に立つという視点...
成功より失敗から多くを学ぶように、幸福より不幸から多くを学ぶ。五体満足で幸せに生きる人より、身体的な障害を抱え苦悩して生きる人から多くを学ぶ。有識者たちの道徳感たっぷりな言葉よりも、知能的に障害を持つ人が純粋に曝け出すものに人間の本性を学ぶ。古代都市スパルタでは、そうした人たちを遺棄したが...
となれば、「役に立つ」という概念も違って見えてくる。役に立つと自認している人ほど、大して役に立っていないのかもしれないし、役に立たないと思っている人ほど、思ったより役に立っているのかもしれない。まずは、自分の価値観や世界観を見直してみることだ。常に、検証を怠るな。これが、ソクラテス流の「よく生きる」ということであろう。
相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体が善を認識する方法は、悪との比較においてのみ。これが悪との和解である。善悪は、ただ情念にのみ依存する。真偽もまた、偽を意識した上で真が薄っすらと見えてくる。となれば、真理ではないものも、それなりに存在意義をもってくる。
必要悪というものは、確実に存在する。どう生きればいいのか。それが明確に見えてこないから、人生は退屈しないでいられる。いまや善や徳を唱える前に、メフィストフェレスの言い分に耳を傾けなければ...

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