2019-01-13

「信者」と書いて、「儲」かりまっかぁ...

何事も信じることが、悟りの第一歩...
人間ってやつは、妄想を満たせば、それだけで幸せを感じられる。それは、精神という得体の知れないものを獲得した知的生命体の性癖であろうか。これはもう、ある種の精神安定剤なのである...

人間が生きていくには、なんらかの信仰や信念の類いが不可欠...
信仰は、モノを考え、根拠を評価する必要性を回避するための絶好な口実となる。つまり、人間は言い訳人生を生きているということか。自己満足感を満たすために...
証拠がないにもかかわず、いや、ないからこそ信じられる。自己を正当化するために...
信仰は、実に都合のいい代物だ。答えを求めても、神はいつも沈黙しているが、その代理人と称する者が答えてくれる。
信仰が必要なのではない。信じ込む自己に陶酔したいだけだ。合目的が必要なのではない。なんとなく目的感が欲しいのだ。人生の意味が必要なのではない。なんとなく意味があるという実感が欲しいのだ。この世に自由なんぞありはしない。だから、自由意志を崇めてやまない。現実に自由を与えられても、責任まではいらない。責任感だけで十分。
真理なるものが存在すると信じるだけで、退屈病から解放される。盲目感には耐えられない。自分自身が盲目であることを絶対に受け入れられない。この世のすべてが空虚などと認めたくはない。だから、自己に意義を求め、自己存在感を求めてやまない。そして、名声欲に憑かれ、肩書に縋る。人間は、意味づけを求めてやまない生き物である。
孤独を感じている人が、社会の手がかりを甚だ主観的な眼を通して見るのは、不思議なことではない。目の前の現象をどう解釈するか、そうやって生きていくしかないだけのこと。しかも、いかようにも解釈できるときた。この能力は貴重である。そうでなければ、矛盾した社会を生きていくことは難しい。
真理を探求できるのも、真理が存在すると信じているから。けして到達できないという無力感に苛みながらも、その無力感に快感を覚える。そして、自己に言い訳できなくなったら、あとは狂うしかない。人間の弱さを素直に曝け出し、自分の弱さを認める勇気を持ちたいものだが、これこそ危険な行為となる。

自己を知ろうとする衝動は抑えられない...
一歩引いて自己を眺めようとするメタ認知的な思考は、確かにある。それは、精神を抽象概念へいざない、自我を曖昧にさせる。それが普遍的な思考と一致すれば、神が看取っていると思い込むことができる、実に幸せな存在ときた。
精神の合理性を否定するなら、合理的な側面も語らなければなるまい。純粋な理性を語るならば、社会にあふれる思惑的な理性を糾弾しなければなるまい。
宇宙の始まりを問えば、始まりの前を問わずにはいられない。そして、宇宙なんてものをこしらえた奴は誰だ?と製造者責任を追求する。完全な絶対者が人間なんて不完全な代物をこしらえたのは、なぜか?と神の意志を問えば、無神論者だって、神を否定するために神の概念を必要とする。
ただし、人間の思考には無意識的な領域が広大であることも、意識しておく必要があろう。無意識の領域に本性が内包されているとすれば、自己を知ることに対して絶望的である。無意識な自己に、どう自己責任を押し付けようというのか。
信じる者は救われる!という単純な原理は、単純だからこそ潜在意識に強く訴える。こんな馬鹿なことを!といったことでも簡単に信じられる。
世界の破滅を予言したカルト宗教は、予言日に何事も起こらないと、詐欺だ!と信者たちから集団訴訟を起こされる。だが、より深いレベルの信者たちは、全財産を捧げたおかげで災いが起こらなかったと疑わない。障碍者を抱える家族では、お布施によって症状がこれ以上悪くならない、と信じる人たちが少なからずいるし、高額なお布施を差し出しても疑わない。それは、自分が騙されたことが絶対に受け入れられないのであって、自分が悪いということが認められないのである。どんな世界にも、不幸事に対してこれ以上悪くならないのは、自分たちのお祈りのおかげだと信じる人たちがいる。
しかしながら、こうした信仰心は人間の本質的なものかもしれない。普段から、自分の行動は正解だった!自分の行為は間違いなかった!などと主張する人がわんさといるではないか。まるで自己を慰めるかのように...
自分が正しいと主張し続けることは、生理学的に依存症と似たところがある。自分の過去を否定することは、自己否定につながる... といった意識がどこかにある。地上で、これほど自己否定を恐れる生命体が他にあろうか。それは、精神を獲得した者の性癖であろうか。だから、説明のつかない領域、信仰の及ばない領域、自己責任の及ばない領域では、神に縋るしかないってか。
目的や意味を失った時、不快となり、どうしよもない不安感に襲われる。人間は、目的感や意味感や信仰感を本能的に必要としている。真の目的が分からなくても、その目的を感じていたい。人生の意味が分からなくても、その意味を感じていたい。
そして、それらを感じている自分自身を信じることに幸せを感じることができる。やはり人間には、神の概念が必要なようである。言い訳を求めながら生きている生き物には特に...

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