地球は丸い... そんなの当たり前。地動説... そんなの常識。そんなことは小学生にも指摘されそう...
しかし、だ。自分の力でどれだけ裏を取ってきたのか?と問えば、誰かに貰い受けた知識に過ぎない。世間から馬鹿にされないために知ったか振りをし、虚栄を張っているだけのこと。誰かが創作した地球や宇宙の写真を見せつけられ、単に信じてきたとすれば、それは宗教と何が違うのだろう。そして、Xplanet, Stellarium, Celestia といった天体ソフトウェアを眺めながら、プトレマイオス大先生に癒やされようとは...
どんなに優れた知識を与えられても、この酔いどれ天の邪鬼はアリストテレスの世界でしか生きられない。真空では、すべての物体は同時に落下する... なんてガリレオ大先生に教わってもピンとこない。重いヤツの方が速く落ちる... とする方が、やはり収まりがいい。その証拠に、女性諸君は体重計の前で軽い存在を演じようと躍起になっているし、アルコール濃度の重い方が沈むのも速い...
尚、藪内清(恒星社)訳版を手に取る。
クラウディオス・プトレマイオス。このギリシアの天文学者は、二世紀頃、アレキサンドリアで活躍したようである。
"Almagest" という書名は、プトレマイオス自身が名付けたものではないらしい。元々の書名は判明しておらず、現存するギリシア語写本によると、「数学的集成」やら「天文学大集成」やらと書かれているそうな。
後のアラビア語の翻訳時に "kitāb al-majisṭī" という名が与えられ、さらにラテン語の翻訳時に、現在のアラビア風の表題になったとか。
それは、「最大の書」や「偉大な知識」といった意味で、歴史的にはユークリッドの「原論」に通ずるものがある。「原論」は、ユークリッド自身が定理を組み立てたというよりは、古代ギリシア数学の知識をまとめあげた業績が評価される。「アルマゲスト」も、プトレマイオスの独創性も含まれようが、古代ギリシア天文学の知識をまとめあげたという感が強い。本書には、先人ヒッパルコスの名がちりばめられる。
時代は、ローマの支配下にあってギリシア学問の伝統が衰え始め、知の中心はアラビアへ移行しつつあった。この大著は、イスラム世界からヨーロッパへ逆輸入する形で出現し、アラビア語写本からラテン語写本を経て伝えられてきた。
そして、コペルニクス大先生の大著が台頭してくると、だんだん見棄てられていく。おそらく「原論」を読む人が多少なりともいても、「アルマゲスト」を読もうとする人はごく少数派であろう。
しかしながら、宇宙に幻想を抱き続ける衝動は、古代人も現代人も変わらない。どんなに優れた観測データで裏付けされ、どんなに明らかな証拠をつきつけられても、人間の精神宇宙までは変えられない。宇宙空間がどんなに解明されたとしても、精神空間の正体は知らないままでいるし、コペルニクス大先生の教えで地球中心説から解き放たれても、自己中心説からは逃れられないのである。
もし仮に、天空に惑星が存在せず、恒星だけで構成されているとしたら、天動説は不滅だったかもしれない。惑星とは惑う星と書く。planet の語源はギリシア語の "ΠΛΑΝΗΤΕΣ(PLANETES)" に発し、「さまよう者」という意味合いがある。天空で円運動をする恒星たちは互いに安定した位置を保ち、そこに星座を描く。だが、それらの位置をさまよう星たちがいる。星座という規律から外れた異端児たちが。古代神話で語り継がれる神々、マーキュリー、ヴィーナス、マーズ、ジュピター、サターンってやつは、どうやら惑わせる存在らしい。
本書には、「アノマリ」という用語がちりばめられる。つまり、記述の多くは変則性を語っているわけだ。ここで主役を演じるのは、太陽の重力に幽閉された星々。空を眺めて、最も目立つものが太陽、次に月、そして惑星諸君。太陽の道筋に黄道十二宮を見いだして形而上学的な意味を与え、そこに神を見ようとする。古代ギリシア人は、太陽の影を落とすグノーモンという図形に取り憑かれ、直角三角形を崇めた。火星、水星、木星、金星、土星の五惑星の軌道にもそれぞれに個性があり、プトレマイオスはそれぞれに詳細なアノマリ表を提示する。ここに内惑星と外惑星の傾向が見てとれるとはいえ、あまりに個性があり、あまりに複雑。彼は、理論体系を構築することに惑わされるあまり、距離といった概念にあまり関心がなかったと見える。
プトレマイオスの体系で、何よりも崇められる概念が真円であり、楕円軌道は真円の多重構造で無理やり当て嵌める。この思考方法で、惑星運動の順行と逆行という摩訶不思議な現象にも、とりあえず説明がつく。大きな円である従円とその円周上を動く点を中心点とした周転円という見事な古典モデル。そして、円に内接する辺の考察に没頭し、ここにプトレマイオスの定理(トレミーの定理)を垣間見る。その執念には凄まじいものがあり、その緻密さに感動すら覚える。プトレマイオスは真円に神を見ようとしたのか。楕円の作図法は、知っていれば単純だが、これを最初に考えた人は、実は最も偉大な幾何学者かもしれない。
ちなみに、こうした作図法を近似法として眺めれば、コンピュータゲームに登場するキャラクタを表現する方法などに似ている。複雑な物体を表現する時、楕円を重ねて境界線を作ったりと。真円だけで構成できれば、処理速度も上がるだろう...
さらに、地球を中心点に置くと、惑星の軌道が微妙にずれるので、その補正に「離心円」と "Equant(エカント)" という概念を導入している。離心円とは、地球からちょっと離れた点を中心点とする円周上を太陽が運動するとし、エカントとは、その中心点から地球と反対の位置にある点のこと。離心円という概念を考案したのはヒッパルコスであろうか。エカントの導入は、地球を絶対的な地位から少し脱落させていると言えよう。どうやらプトレマイオスにして地球は中心ではないらしい。
自ら輝ける恒星は神に看取られているのかは知らん。他の光でしか輝くことのできない惑星や衛星は悪魔に看取られているのかは知らん。太陽、地球、月の大きさと距離が、ちょうど皆既日食が起こるように絶妙に配置したのは誰か?などと製造責任を問う気もない。ただ、人間ってやつが天空に翻弄されてきた存在で、これからもそうあり続けるであろうことは確かなようである。
また、物理量の観点から眺めると、人間が自己存在を最も認識できる量が重力であることを感じさせる。重力に支配された思考回路では、宙に浮いた存在を想像しにくい。そこで、天空の星々を固定するために支えているものは?と問うた時、アリストテレスはエーテルなるものを提唱した。星々を構成するものが、四元素、すなわち、火、空気、水、土であるならば、宇宙空間を構成するものは第五元素のエーテルで、空間はこいつに満たされているというわけである。プトレマイオスも、このエーテル説を継承している。
だが、歴史はエーテルの存在を否定した。そして今、最先端科学は真空中にも何かが存在することを告げている。巷を騒がせているダークマターやら、ダークエネルギーやらは、実はエーテルのことですか?プトレマイオス大先生!?
2019-03-10
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