2019-05-19

"ソロモンの歌" 吉田秀和 著

「かつて起ったこと、それはこれからも起るだろうものと正に同じだ。人間がかつてやってきたもの、それは彼らがこれからもやるだろうことにほかならない。」
... ソロモン

音楽評論家に音楽以外のものを... と勧められて書いたものが、この本だそうな。著者にとって、文学も音楽と同じように心に奏でるものがあると見える。中原中也に宇宙論の啓示を見、吉田一穂に自恃の表出から湧き出る虚無を感じ、荷風に急速な近代化への反発心を共感し、漱石に日本社会の病魔を意識する。その明るい筆の影に、昭和の戦争が深刻化していく様を想像せずにはいられない。
「日本人の最大の特徴は、外国の文物思想の浅薄な模倣をよろこぶ気持ちと、深いところに潜在する排外思想との間の緊張ではあるまいか。その間に調和を求めるものは、どこかに逃避しなければならない。」

芸術は、ある種の社会的反抗から生じるところがある。人間の自由と個人の尊厳こそが、その精神を支える。知性と意志に働きかけ、感情、ことに皮膚感覚に微妙をきわめた音色が聞こえてきそうな...
詩人でなくても、芸術家たちは自己の中に詩を奏でるようである。詩人とは、よほど辛いものらしい。自殺するにせよ、諦念のうちに死ぬにせよ、けして妥協を許さない。自己破滅型人間、いや、自己完成形か。どうしてこんな人種がいるのか、理解を絶する。狂気しなければ到達しえない境地が、確かにある。それは、人生における戦術の問題であろうか。彼らの生き様は滑稽ですらある。いや、あえて滑稽に生きよ!というのか。狂気できない者は未熟児同然というのか。そうかもしれん。彼らは、自分の人生をハッキングしながら生きようというのか...

中原中也との出会いには、こう回想する。
「彼の存在が、私にあきらかにしてくれたことは、一口でいうと、何億という人間の中には、『この宇宙で人間が生きている』という、簡単といえば簡単な事実について、ある意味を、突然、私たちが日常生活ではあまり経験しないような形で、啓示できる人間がいる、ということである。」

吉田一穂については、裸の思想を紹介してくれる。
「だから詩を書くのだ。私は詩人だ。ほかの何者でもない。だが、詩とは何か?詩とは自分の内外にある虚無に向かって、火を放つものだ。詩は、もう一つの宇宙を創る天を低めて自らを神とする術である。」

漱石については、こう語る。
「漱石は、近代百年を通じて、日本人の意識の変化と混乱を最もはっきり意識した人であり、また、その混乱の正体をはっきり意識することに一生を賭けた人であったように見える。その彼が、どんな治療法を示しているか、私にはわからない。彼を読んで私にわかるのは、私たちが病気だということだけである。病気だといえば世界中がそうではないか、と言われるかも知れないが、それなら日本の病気は日本としての非常な特殊性をもっている。」

とはいえ、時事的おしゃべりでは、やはり音楽畑を離れることはできないと見える。カール・リヒターやアルトゥール・ルービンシュタインといった偉大な音楽家たちを、単に音楽の達人としてだけでなく、人生の達人として捉える。バッハがどんな人物だったかは知らない。知る由もない。ただ、音楽に憑かれた人で、探求してやまない人であったことは確かであろう。彼らを語る風景には、ルーベンスやラファエロといった稀代の名画が合いそうだ。そして今宵は、虎の子のフィーヌ・ブルゴーニュをやらずにはいられない...

尚、これはルービンシュタインの言葉として紹介される。
「私は人生をあるがままにうけ入れる。人生とは多くの、より多くの幸福を内蔵しているものだ。たいがいの人は幸福の条件をまず考えるが、幸福とは人間が何の条件も設置しない時、はじめて感じることができるものだ。
... 人生には、より一層の幸福がある。諸君が幸福になるための条件など数えたてず、人生をありのままにうけ入れれば、そこに幸福があるだろう。その時、音楽もきこえてくるだろう。」

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