レコードをコレクションし、自己満足に浸る。それは三十年ぐらい前のこと。今ではレコード針を求めるのも一苦労で、プレーヤーが健在でなければ再生もできない。もはや蓄音機か。そして、CD でコレクションをやり直すも、ハイレゾ音源の出現でまたもや迷走する。
とはいえ、デジタル化によって音質が保たれるということは、幸せな時代を生きていると言わねばなるまい。テクノロジカルに精神が同化した時、ノスタルジアやデジャヴといった感覚へ導かれる...
芸術は、極めて人工的な行為でありながら、自然な感覚に強く訴える。騒々しい日常から逃避するかのように...
おまけに、芸術は、自己主張の強い世界。ことクラシックでは、演奏家たちは誰もが作曲家の意図を忠実に再現していると、その正統性を主張してやまない。そのくせ、ちっとも強制的でなく、威圧的でなく、機械的でなく、鑑賞者に人間味のある自由な空間を提供してくれる。音楽は、心が平静であり続けることを許さない。音楽家たちは無責任にも、絶えずも心をかき乱すよう仕掛けてきやがる。圧倒的な才能たる腕力で無力感に苛ませ、これが心地よいとくれば、M性にはたまらない。
本書で紹介される演奏家たちの音楽哲学も様々で、即興的な天才演奏家あり、およそ考えられる限り完璧な域に達しないと披露しない者あり、一つの曲だけを徹底的に究めるスペシャリストあり... これほどの多様性をドレミファソラシドだけで体現できるとは。音符に魂を吹き込むとは、こういう仕事を言うのであろう。但し、最高のものばかり味わうのでは、ちと疲れる。駄作の存在感も噛み締めなければ。時代、時代に達人が登場し、そのたびに古典は新たな力を得て蘇る。古典ほど長く愛される新作があろうか...
さて、レコードには、作曲家と演奏家がセットになって刻まれる。そして、生涯でこの一枚!となるとなかなか手強い。選曲だけでも大変なのに、演奏家が絡むとほぼ無限に広がる。ベスト 10 を選ぶだけでも葛藤が収まりそうにない。
吉田先生ほどの音楽評論家ですら、「一枚のレコード」と題しておきながら、二十枚じゃ済まない。バッハのカンタータに宇宙論を求め、シューベルトのピアノ書法に清澄な光景を見い出し、はたまた表現主義的なネオバロックに惹かれるかと思えば、トロイメライにスラブ的な憂愁を感じ入り、エロイカシンフォニーに誇りをくすぐられ、魔笛に音楽のアルファとオメガを見るといった具合。音楽の思い出や音楽とのふれあいを風景画のごとく描いて魅せる。
ちなみに、α(アルファ)とΩ(オメガ)はギリシャ語アルファベットの最初と最後の文字で、聖書には神が最初から最後まで看取るという形で、これらの文字が刻まれる。音楽もそういう感覚で刻まれていくのであろう。
吉田先生にとっても、やはりモーツァルトは特別な存在と見える。
「魔笛とは何たる音楽だろう!! この音楽をきいて、胸を打たれない人は、音楽を必要としない人だ。こんなに美しくて、しかも冷たい水が歯にしみるように胸に沁みてくる音楽はほかにない。タミーノの恋心、パミーナの悲しみ、夜の女王の誇り高き怒り、パパゲーノの嘆きと有頂天、ザラストロのくそまじめな説教とモノスタトスの黒い欲望。三人の侍女と三人の童子の、奇妙に無量感を脱した呼びかけ... この中の、そうして、これ以外のすべての一つ一つが、何の作為もなしに、透明な矢のように私たちの胸にまっすぐに走ってくる。この音楽は、私にはほとんど涙なしにはきき終えられないものだが、さてその涙は悲しみから生れたのか、それとも喜びからのものかときかれても、わかったためしがない...」
1. オーマンディの一枚
無理やりにでも「一枚のレコード」とするならば、最初に出会ったものを挙げることはできよう。どんなに美味いラーメン屋に行っても、結局、地元のラーメンの味が忘れられないように...
そして、おいらが美少年と呼ばれていた小学校低学年の頃、曲名も分からず、テレビで聞いた記憶を頼りにレコード屋に連れて行ってもらった記憶が蘇る。それが何だったのか?結局分からず、ジャケットのオーケストラの見栄えだけで選んだ一枚が... 「新世界交響曲」、ユージン・オーマンディ + ロンドン交響楽団... であった。レコードの解説には、こうある。
「かつて... フィラデルフィア管弦楽団という天下の銘器は、ストコフスキーによってつくられ、オーマンディによってかき鳴らされる... といわれたものだ。」
おかげで、おいらの音楽鑑賞人生はオーマンディに始まり、コレクション人生はフィラデルフィア管弦楽団に始まったのだった。
本書にも、オーマンディのエピソードが綴られる。彼はこう言ったそうな。
「フィラデルフィア管弦楽団の音ということがよく言われるが、あれは私の音であり、オーマンディ・トーンと呼んで欲しい。」
2. 魔王に惹かれて
シューベルトにはデモーニッシュな面があり、魔王には何がしら不思議な力が宿る。国粋的で、大衆動員的な気配。志賀直哉は、この音楽を「子供を持ったことのない男の無思慮な残酷さ」と言って酷評したそうな。だが、この深く食い入ってくる悪魔性にどことなく惹かれるのは、吉田先生とて同じようである。
3. バロックな自由のエチケット
「十七世紀から十八世紀のバロックの音楽では、楽譜の書き方が近代のそれと違っていて、演奏されるべき音のすべてを、一つ一つ克明に書きつけておくというのでなく、楽譜に書かれたものを実際の音として現実化するに当っては、演奏家の判断、つまり彼らの趣味と手腕、音楽的教養と知性といったものに任せる部分が少なからずあった。特に、当時はまた、描写的標題音楽では、ソリストに最大限の自由を保証することがエチケットとされていたのである。」
2019-05-12
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 コメント:
コメントを投稿