2019-05-05

"ウィトルーウィウス建築書" Marcus Vitruvius Pollio 著

何を建て、何を築くか...
「建築」という概念も、二千年もの月日が流れると、随分と変質してきたようである。原題 "De Architectura" は、現代語の "architecture" で認知される建築術の範疇に収まりそうにない。それは、建築技術や土木技術はもちろん、音楽論、機械技術、造兵技術にまで及び、都市計画から国家防衛論までも視野に入る。ガウディは、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となって、建築をあらゆる芸術の総体と捉えた。建築家という人種は、五感を存分に解放できる空間を求め、その空間のみが五感を超越した六感なるものを生起させる、かのように考えるものらしい。真の自由は、まさに空間にあると言わんばかりに...
「学問なき才能あるいは才能なき学問は完全な技術人をつくることができない... そして願わくば、建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである。」

時代は、アウグストゥスの時代。建築様式ではドリス式やイオニア式は廃れ、コリント式に取って代わっていたという。にもかかわらず、この建築書は、ローマ帝政時代に好んで用いられた様式にはあまり触れず、ドリス式やイオニア式に多くのページを割く。ウィトルウィウスは、古き様式に何を求めたのだろうか。人間社会ってやつは、繁栄の度が過ぎると、やたらと流行り建造物を乱立させるものだが、ローマ帝政時代にもそのような傾向があったと見える。この書は、時代への苦言と解するのは行き過ぎであろうか...
ちなみに、公共浴場については、ローマ時代に thermae(テルマエ)と呼ばれたが、ここでは、balneae(バルネアエ)という語を用い、この分野でも建築の地位が確立されていたことが見て取れる。

技術の進化が抽象的な概念を具現化していく。学問の進化が学問分野を細分化していく。各分野で専門性を高めれば高めるほど専門バカを量産し、門外漢を閉め出す。それで、哲学的な論点を見失うとしたら、それは進化なのだろうか。知識の総体を眺める立場と、より深い知識を探求する立場のバランスは、いつの時代も問われてきた。
技術の進化が大いなる利便性をもたらしてきたのは確かだ。今日、続々と出現する電子機器によってユーザたちは達人レベルに飼い慣らされ、もはや道具を使っているのやら、道具に使われているのやら。そして今、巷を騒がす AI ってやつは機械なのか、道具なのか。それとも、人間の方が...
AI は情報を集積し、学習し、そのデータを元に機能する。高度な計算や状況分析の分野では非常にありがたい代物である。となると、人間らしい知識とは、どんなものを言うのであろう。文明が高度化するほど、人間は人間自身を見失わせるのか。人体を構造的に眺めれば、原子や電子の集合体でしかないし、人間もまたオートマタに過ぎないのかもしれない。心臓の鼓動が、ゼンマイ仕掛けのオルゴールと何が違うというのか。精神の正体は、単なる自由電子の集合体なのかもしれない。純粋な意志が集まり過ぎると、脂ぎった意志に変貌するらしいことは、人間社会という集団性が示している...

さて、本書は建築のバランス感覚を成立させる要素として、「オールディナーティオー」、「ディスポシティオー」、「エウリュトミア」、「シュムメトリア」、「デコル」、「ディストリブーティオー」という用語を持ち出す。現代語で表現するなら、数学的な対称性やシンメトリーな美、調合性や均衡性といった感じになろうか...

「オールディナーティオーとは、作品の肢体が個別的に度に適っていることであり、全体的比例をシュムメトリアに即して整えることである。」

「ディスポシティオーとは、物をぴったりと配置することであり、その組み合わせによって作品を質を以て立派につくり上げることである。」

「エウリュトミアとは、美しい外貌であって、肢体の組立てにおいて度に適って見えることである。」

「シュムメトリアとは、建物の肢体そのものより生ずる工合よき一致であり、一定の部分が個々の部分から採られて全体の姿に照応することである。」

「デコルとは、建物が是認された事物によって権威をもって構成され、欠点なく見えることである。」

「ディストリブーティオーとは、材料や場所を工合よく配分することであり、工事の際の費用の計算によって細かく割り振ることである。」

ウィトルウィウスは、こうした用語に数学を結びつけ、当時、基本物質とされた四元素(気、地、火、水)を体現する場としての空間論を唱える。それは、神の宿る場としての、あるいは、魂の居心地の良い場としての宇宙論という見方もできよう...
「建築術の理論とコンパスの作図を通じて宇宙における(太陽の)挙動が見いだされる。宇宙は自然万物を総括する最高のものであり、星群と星の軌道で形成された天空である。それは、軸の両端を中心として、絶えず地と海のまわりを回転している。実に、ここで自然を支配する力は(宇宙を)このように建築的に組立て、中心としての両端を、一は地と海から天頂にあるいは北斗七星そのもののうしろに配置し、他は反対に地中を通って南方に配置した。」

人間は、その本性において模倣的である。技術の習得も、芸術の習得も、その鍛錬において似たところがある。何を師範にするか、それを作品に求めるか、師匠に求めるか、はたまた書に求めるか...
それにしても、本書の図柄を眺めていると、数学と芸術の相性の良さを感じずにはいられない。理念においても、表現においても、ヘレニスティックな香り漂う。この酔いどれ天の邪鬼ときたら、この大技術書を美術図鑑として眺めている...











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