2022-02-13

"西田幾多郎哲学論集 III - 自覚について 他四篇" 上田閑照 編

この大作を II だけでお茶を濁そうとしたが、いつのまにか III を手にしている。アマゾンでは、I も手招きしてやがるし。最初から順番に追えばいいものを。人生行き当りばったり。おいらには、難解な書に悶々とそそられる性癖があるときた。読破した瞬間の脱力感に便乗して自我からの脱皮を試みるものの、ますます自我に縛られていく。もっと縛って!M だし...


II では、西田哲学独特の述語の群れにしてやられた。「行為的直観」、「非連続の連続」、「弁証法的一般者」、「自己同一的に自己自身を限定」といった用語に、身勝手な語釈を与えてなんとか乗り切る。外国語を翻訳するが如く。それで、著者の意図に適っているかは知らんよ...


ここでも似たような述語が鏤められ、「絶対矛盾的自己同一」という用語に翻弄されっぱなし。相対的な認識能力しか持ち合わせていない人間に、「絶対」とはどういうわけか。すでに自己矛盾を孕んでいる。だから、精神は矛盾からは絶対に逃れられないってか。
まず、人間の知覚器官が外部環境から何かを感じ取ると、それを脳がなんとなく処理する。それが自己にとって善いか悪いか、差異を感じながら少しずつ情報を蓄積していく。経験を積み重ねていくと、善と悪の振幅が徐々に大きくなり、やがて道徳観念なるものが浮かび上がる。善悪などという対称的な価値観は、精神の内で同時に目覚めさせていくのだろう。この振幅が大きくなりすぎて極端な道徳で抑圧しようとすれば、同時に極端な背徳が解放され、自我はますます肥大化する。善も悪も自我の本性。これを自己が統一するのは至難の業。つまりは、自己同一とは、自我を支配するってことか。あるいは、自己を超越した自己を求めよ!とでも。だとすれば、「絶対矛盾的自己同一」とは、なんと大きな問題を課すことか...


尚、本書には、最晩年の六年間に書かれた論文より、「絶対矛盾的自己同一」、「歴史的形成作用としての芸術的創作」、「自覚について」、「デカルト哲学について」、「場所的論理と宗教的世界観」の五篇が収録される。


まず、自己に何を求めるか。そこには自覚の問題がある。自己を知るには勇気がいる。覚悟がいる。だから、「自覚」と書く。自覚とは、自己の投影。自己を欺いて、自己同一は覚束ない。自己を暴くには、主観的な目と客観的な目が向けられる。
外から観察するには、一旦、自己否定してみるのも必要であろう。健全な懐疑心を離れて、科学はありえない。悲観主義に陥ることを恐れることもあるまい。自己は意識的であり、自律的であり、理性的な面を持ち合わせ、定言的命令風でもある。むしろ、無知な楽観主義よりはましであろう。
カントは理性までも批判の対象とした。理性を崇めれば、理性に奢り溺れる。自己を超越した人間は、神を見るのか、それとも悪魔を見るのか。天の邪鬼な魂には、メフィストフェレスがほくそ笑む...


しかしながら、巷では自己肯定感を煽ってばかり。そのためのハウツー本も大盛況ときた。デカルト風に、ひたすら思惟すれば、自己の存在を確認することはできるが、それだけでは足りない。カント風に、ひたすら主観の声に耳を澄まして自己を探求するのもいいが、それでも何か足りない。ヘーゲル風に、自己存在を弁証法という論理の天秤にかけてみるのもいいが、どうも踏み込みが甘い。
そこで、西田幾多郎は、あえて自己否定を試みる。絶対矛盾的自己同一という世界観は、自己否定から導かれるものらしい。自己否定に陥ってもなお愉快でいられるなら、それこそ真の自己肯定と言わんばかりに...


「生命の世界というのは、物質の世界と異なり、自己自身の中に自己表現を含み、自己の内に自己を映すことによって、内と外とを整合的に、作られたものから作るものへと動き行く世界... 即ち自己自身によってあり、自己自身によって動く世界である。自己自身の中に自己否定を含み、自己において自己を映すことによって、否定の否定、即ち自己肯定的に、無限の自己自身を形成する。此の如き方向が時の方向である。矛盾的自己同一世界は、自己の中に自己焦点を含み、動的焦点を中軸として、無限に自己自身を限定して行くのである。」

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