2022-02-20

"西田幾多郎哲学論集 I - 場所・私と汝 他六篇" 上田閑照 編

この大作を II だけでお茶を濁そうとしたが、いつのまにか III に触れ、仕舞に I へ振り出し。最初から順に追えばいいものを。人生行き当たりばったり...


おいらには、難解な書に悶々とそそられる性癖があると見える。
煮え切らない述語の群れ... 「純粋経験」に、「行為的直観」に、「非連続の連続」に、「弁証法的一般者」に、「絶対矛盾的自己同一」に... もうええっちゅうの。
しかし、慣れとは恐ろしいものだ。「自己自身を限定する...」といった言葉を繰り返し読んでいると、やがて呪文に聞こえ、違和感が薄れていく。節度や節制、あるいは、広大な宇宙空間におけるちっぽけな有限性... などと勝手な語釈を与えて理解した気分にもなれる。そして、読破した瞬間のクタクタ感がたまらん!ときた...


ここでは、処女作「善の研究」に発する「純粋経験」の立場を経て、「私と汝」といった自己投影を通して「場所」という概念を提示する。
そして、論集 II の「論理と生命」などで論じる弁証法的な立場に、論集 III の「自覚について」などから導かれる直観の立場を加え、最晩年に見る「絶対矛盾的自己同一」という概念への布石を垣間見る。
まさか!この振り出しで、西田哲学の思考プロセスに出会えようとは...
まさか!この振り出しで、悶々とした言葉の群れがクリアになっていこうとは...
この順で手を出したのは単なる偶然だけど、それが功を奏したか。いや、お茶を濁そうとした副次的効果か。いやいや、最初から順番に追っても、それはそれで違った景色が見えたであろう。何はともあれ、この難物の一群に手を出した偉大なる気まぐれに感謝したい...


尚、本書には、「種々の世界」、「働くものから見るものへ(序)」、「直接に与えられるもの」、「場所」、「左右田博士に答う」、「叡智的世界」、「無の自覚的限定(序)」、「私と汝」の八篇が収録される。


ところで、ここで言う「場所」とは、なんぞや?
キェルケゴールは、こんな言葉を遺した... 人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは自己自身が関係するところの関係。すなわち、この関係には自己自身に関係するものすべてが含まれる... と。関係の... 関係の... 関係の...と、まるで無限循環。いや、無間地獄。狂ったか?キェルケゴール!
相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体が自己を確認しようとすれば、他との関係から導くしかあるまい。そして自己は、関係の中で安住の場を求める。つまりは、居場所を求めて。場所とは、自己を映し出す鏡のようなものか。自分探しの旅とは、単なる居場所を求める旅、すなわち関係を求める旅ということになろうか。いや、関係を清算する旅も捨てたもんじゃない。
この場所を求める旅で、西田幾多郎は純粋経験の立場から、弁証法的な立場や自覚の立場を経て、ついには、「絶対矛盾的自己同一」などという支離滅裂な言葉を発する。
自我と対峙すれば、やはり狂うほかはあるまい。西田哲学の純粋経験に、プラトンのイデアが香り、カントのア・プリオリを見るのも、こうした用語を編み出した彼らが、時代を越えて狂気を共感していたからに違いない。しかも、彼らは狂い方をよく心得ていたと見える。哲学するとは、そういうことなのだろう。狂わなきゃ、理性なんてものも見えてこない。しかも、それを自覚できなければ。そして、自我を支配できなければ、他人の支配にかかる...


「自己に対するものは単なる存在ではなくして自己自身を表現するものでなければならない、広義においてそれは汝というものでなければならない。而して私は私の行為によって汝を限定し、汝は汝の行為によって私を限定する。」


哲学者たちときたら、互いに微妙なニュアンスの違いを新語を編み出して穴埋めをする。それで、議論は成り立っているだろうか。いや、彼らは自由気ままに言葉を発してるだけで、そもそも、そこに議論なんてものは存在しないのかもしれない。
キェルケゴールは関係の中に絶望を見た。カントは理性までも批判に晒した。西田幾多郎は自己否定をも厭わない。いずれも、M でなければ、できない芸当だ。死を拒否しては真の生は見えてこない。死への嫌悪感は、有意義な人生に反比例して増すものらしい。自己否定に陥ってもなお愉快でいられるなら、真理の力は偉大となろう。
それにしても、西田幾多郎哲学論集の三冊を見渡しても、これだけ中庸の哲学を匂わせながら、節度や節制といった用語は見当たらない。ましてや、ちっぽけな有限性などは。おいらの解釈は、著者の意図からはかなりズレていそうだ。それで、ちっぽけな幸せでも感じられれば、ええんでないかい。おいらも M だし...


「私はカント哲学の如き立場において始めて真に自己自身の中に他を見るという自覚的自己というものを考えることができると思う。自然というものが唯一の実在としてすべてのものの底に考えられた時、我々は自覚的自己という如きものを考えることができない。自覚的自己の実在性というものが考えられるには、自然は純我の綜合統一によって構成せられるという如き立場がなければならない、客観性というものが単に自己の外に見られるのでなく内に見られるという意味がなければならない。」

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