哲学書ってやつは、なかなかの難物である。アリストテレスの形而上学にせよ、ヘーゲルの弁証法にせよ、カントの批判哲学にせよ、体系的に書かれたものを読むのに、プラトンの饗宴のようにはいかない。しかしながら、なにやら悶々とそそるものがある。怖いもの見たさのような。おまけに、読破した瞬間のクタクタ感がたまらん。M だし...
なにゆえ、これほど難解なのか。なにゆえ、これほど難解にする必要があるのか...
その理由の一つに、用語の扱いや独特な表現の仕方がある。真理に立ち向かうには、まず、思惟・思考する自己と対峙することになる。なにごとも、自分自身で感じとれなければ始まらない。だが、あらゆる矛盾が自己言及に発する。不完全性定理は告げる。形式的体系の中から、その体系の無矛盾性を証明することは不可能である... と。
そもそも、精神の持ち主が精神の正体を知らずにいることが問題である。自己にとって自我ほど手に負えないものはない。人間にとって得体の知れない精神ってやつを、人間自身が編み出した言語で記述しようとするところに無理がある。真理を探求し、それに言及するということは、言語機能の限界に挑むということ。
但し、この広大な宇宙に、真理というものが本当に存在するのかは知らん。その空間の住民が、どう認識するか、どう感じるか、どう解釈するか、ただそれだけのことやもしれん。その心理過程において、物理的合理性と精神的合理性との間で折り合いをつけようと、もがいているだけのことやもしれん...
さて、難解な書を読むコツとして、おいらはよく用語や表現の置換を試みる。なにも哲学書に限ったことではない。自分の言葉に置き換えてみる行為は、外国語の翻訳に似ている。それで、作者の意図に沿っているかは知らん。が、少なくとも分かった気になれる。分かった気になれることが幸せの第一歩。凡庸な読み手が、それ以上に何ができよう。
とはいえ、「ア・プリオリ」という語を置き換える気にはなれない。「先天的」や「先験的」とするのではイマイチ。無理やり置き換えるぐらいなら、そのままにしておいた方がいい。このような語を編みだす哲学者たちの文学センスには感服する。彼らが表現主義的になるのは理に適っているのかもしれん...
本書には、「行為的直観」、「非連続の連続」、「弁証法的一般者」、「自己同一的に自己自身を限定」といった述語が鏤められ、「行為的自己の立場」、「弁証法的一般者としての世界」、「論理と生命」、「行為的直観」、「人間的存在」の五篇が収録される。
尚、以下は、酔いどれ天の邪鬼が勝手気ままに翻訳したものであり、西田先生が意図したものかは知らん。おそらく、まったくの的外れ。勝手な解釈を加えることによって、この難物が格段と読みやすくなる、ただそれだけのこと...
「行為的直観」とは、なんぞや?
直観ってやつは極めて主観的な領域にある。だが同時に、様々な経験の積み重ねから自己の中で知識が再構築された感がある。主観と客観の協調によって生じるような...
これに、「行為的」という語をくっつけると、能動的な意思が印象づけられる。自由意思にも、能動的な意思と受動的な意思があろう。能動的な意思は、自立的や自己組織的、あるいは、自己実現や自己啓発といったものを駆り立てる。
一方で、受動的な意思は、諦めにも近いものがあるが、運命論に身を委ねるのとも、ちと違う。自然に身を委ねるとすれば、それはむしろ能動的に状態を受け入れるという態度にもなろう。
こうしてみると、能動的と受動的の境界もなかなか微妙である。主観と客観の境界もしかり。そして、自己陶酔に自己泥酔、自己欺瞞に自己肥大、おまけに、自己嫌悪に自己否定とくれば、自我を失う危険をともなう。自己を知るには勇気がいる。巷では「自己責任」という語が渦巻いているが、自我に責任を持てる人間がどれほどいるというのか。こんな語は、既にお前が悪いという意味で使われているし...
「我々が知的自己の立場に立って考える時、主観と客観とは何処までも対立する、我の世界と物の世界とは何処までも対立する、ノエマとノエシスとは単に相反する方向と考えられる。しかし我々の行為ということは主観が客観を主観化することであり、逆に客観が主観を客観化することである。行為的自己の立場というのはいわゆる主観客観の対立を越えた立場でなければならない。」
「非連続の連続」とは、なんぞや?
自由意思ってやつは、個人が持っているものだが、歴史という時間軸で眺めると、なにか共通の伝承的な意思が働いているような気もしなくはない。それが、DNA や遺伝子によって受け継がれているのかは知らんが...
離散的に点在する個々の意思が歴史空間において連続性を保つような、人類の見えざる意思というものが働いているような。それが、人類の普遍性というものかは知らんが...
アリストテレスは言う、人間はポリス的動物である... と。ポリスってやつは、最高善を目的とした共同体のようなもので、素材因、形相因、作用因、目的因で構成されるらしい。つまりは、因果関係によって。それは、空間的にも時間的にも。空間的には社会の一員として、時間的には歴史の経過の中で。そして、西田は言う、自己は社会的・歴史的でなければならない... と。
「私が考える故に私があるのではなく、私が行為するが故に私があるのである。考えるということが既に行為の意義を有する故でなければならぬ。而して行為的自己と考えられるものは社会的・歴史的でなければならない。社会的・歴史的限定として私と汝というものが考えられるのである。」
「弁証法的一般者」とは、なんぞや?
人間の生きる意義というものを論じ始めたら、社会的意義とは?歴史的意義とは?などと大袈裟な問題になる。自分自身の存在意義を問えば、ちっぽけに感じ、自虐的にも、自暴自棄にもなろう。そして、心の中で矛盾との葛藤が始まる。論理的に物事を捉える眼を成熟させるほど、矛盾の渦に引き込まれていく。まさにブラックホール!
だが、矛盾という概念が存在しなければ、人類が弁証法なるものを編み出すことはなかったであろう。精神の持ち主が自己について思惟すれば、論理的に組み立てようとする。その論理体系が、なにもヘーゲルやマルクスが定式化したものである必要はない。むしろ、自分自身で定式化したものでなければ...
弁証法的一般者とは、個人が独自に論理体系を構築し、社会的に生きる意義を考え、それを求める意識の高い一般人... などと解すれば頷ける。だが、なんと高尚な社会であろう。むしろ、理想高すぎ感は危険である。矛盾を素直に受け入れて生きていくのは難しい。屁理屈でもなんでも理由付けして生きてゆかねば、やってられんよ。哲学に、人類を救え!などと吹っかける気にはなれんよ...
「自己同一的に自己自身を限定する」とは、なんぞや?
まず、自己同一とは、主体の統一を言うのであろうか。いや、主体だけでは心許ない。精神内に生じる矛盾を統一するには、主客が対立している場合ではない。だが、その意識的統一にはよほどの修行がいる。自己を取り巻く空間は、どこまでも矛盾がつきまとう。それは、精神を獲得した知的生命体の宿命であろう...
主体を外部から観察すれば、自己否定は避けられない。第三者の目は自己に容赦ない。自己が自己に容赦ない心境とは。自己は、自己矛盾と自己否定をともなって自己を形成していく。知が不完全であることを自覚させ、さらに無知を自覚させるのは、自己自身でしかない。
しかしながら、無知を知ることは、ソクラテスの時代から問われてきた難題中の難題である。自己の中に自己矛盾の存在を認めた時、そこには自己を超えたものが働いている。合理的に生きようとすれば、まず自己の内にある性癖、悪癖の類いを知らねばなるまい。自己の悪魔性を知らねばなるまい。そして、弁証法的に自己の内で統一的な見解を見い出し、妥協で終わるか、あるいは、答えが見つからないまま問い続けるか。この問い続ける行為が、歴史的に継承されてきたということか。自己自身を限定するとは、答えが見つからないことを謙虚に受け入れ、それでもなお問い続けるってことか。それを自覚した上で節度ある中庸の哲学を目指すってことか...
だとしても、自己を超越しなければ、自己同一なるものを発見することはできないであろう。主観と客観の調和だけで、自己を超越することができるのだろうか?哲学者という人種は凡庸な読み手に、随分と酷な要請をしてきやがる。そりゃ、素直に挫折感を喰らう方が幸せやもしれん。巷で忌み嫌われる悲観主義だって捨てたもんじゃない。悲観主義的な思考は、危機を敏感に察知できる能力でもあり、無知な楽観主義よりもはるかにましであろう。自己否定に陥ってもなお愉快でいられるなら、真理の力は偉大となろう...
「世界は何処まで行っても自己矛盾的である。...(略)... 理性とはかかる現実の自己媒介作用である。...(略)... 論理が生命の媒介となる時、それが弁証法的である。しかし生命は論理によって弁証法的となるのではない。生命は固(もと)、弁証法的なのである。論理が弁証法的であるのは、それは生命の媒介となるが故である。」
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