2018-07-01

"確信する脳 - 「知っている」とはどういうことか" Robert A. Burton 著

神経科医ロバート・バートンは、大胆な仮説を提示する。
「確信とは、それがどう感じられようとも、意識的な選択ではなく、思考プロセスですらない。確信や、それに類似した『自分が知っている内容を知っている(knowing what we know)』という心の状態は、愛や怒りと同じように、理性とは別に働く、不随意的な脳のメカニズムから生じる。」

"knowing what we know..." というフレーズは、絶対に分かっている!という強いニュアンスを与える。確信の根底には、意志の力では変えられない神経学的要素があるというのである。人間ってヤツは本性的に頑固者らしい。経験を積み、歳を重ねていくごとに頑固オヤジとなっていくのは自然な姿というわけか。考えを新たにするということは、過去の考えを捨てること、すなわち、自分の過去を否定することになり、感情的になるのも道理である。
知っている事をどのように知っているのか?と自問すれば、確かに、論理的な思考よりも感覚的な思いの方が強いような気がする。感覚であるなら、錯覚や誤謬が生じる。感覚であるなら、意識的に操作することも難しい。思い込みってやつは、誰にでもある。学問は、そうした感覚を排除しようとするところに意義を求める。
そこで「客観性」という用語が重視されるが、こいつがなかなか手強い。そもそも思考している心理状態が極めて主観的であり、既に自己矛盾を孕んでいる。
実際、人間社会には感情論が溢れ、原理主義も花盛り、創造説や民族優越説などに盲信する人々が少なからずいる。政治家や有識者にしたって、客観的に語ると宣言してそうだったためしがなく、自己主張に説得力を与えようと数字を提示して客観性を演出する。ちなみに、ベンジャミン・ディズレーリはこんな言葉を残した... 嘘には三種類ある。嘘、大嘘、そして統計である... と。
人間の思考は主観に支配されているからこそ、客観性に焦がれるのか。同じく、「柔軟性」という用語にも、人々は焦がれる。そして、「頑固」という言葉には、「信念」という用語を当てて自己を欺く。
「知識の最も重要な産物は無知である。」... 理論物理学者デイビッド・グロス

本書は、確信と知識の対決の物語である。そして、ニューラルネットワークや深層心理学などでよく見かける「入力 - 隠れ層 - 出力」という思考モデルを提示する。
鍵を握るのは中間層。一般的な思考分析では、時系列や因果関係などの経路を追うが、それは結果論であって、実際の思考過程は並列的である。意図的に思考を促すことはできても、本当に求めているレベルでアイデアが出現する瞬間は無意識的である。逆に、手が付かない心理状態によく襲われ、酔いどれ天の邪鬼の思考回路は極めて気まぐれときた。なかなか仕事に集中できず、夜な夜な掃除を始めることだって珍しくない。こうして文章を書いている瞬間も、手が勝手にキーボードを叩いている。むしろ思考分析は、既に生じた思考を成熟させていく過程で重要となろう。思考するとは、脳が時間を再編成している過程を言うのであろうか...
理性も、知性も、人間の考えるという行為はどれも同格で、すべてが感覚的で生理的と言えばそうかもしれない。確信!とは、どういうことか?そんなものは幻想か?信じたいという単なる願望か?思い込みの強いという生理的な本性を踏まえた上で、確信の力を削ぐことができれば、嫌いな分野や他の学問にも多少なりと耳を傾けることができるやもしれん...
「無知ではなく、無知に無知なことが、知識の死である。」... アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド

1. 既知感 "feeling of knowing..."
本書には、「既知感」という用語が散りばめられるが、翻訳者岩坂彰氏が訳語として選んだ造語だそうな。この語には、既視感との類似性を感じさせる。知識のデジャブか。いや、感覚や情動のデジャブか。岩坂氏はこう書いている。
「翻訳に起因する弱点を超えた強さが、本書には確かに感じられる。それは、私の神経系の隠れ層の委員会で、理論面への不満票よりも、著者の真摯な問題意識への共感票が多かったからだろう。」
合理性には、人間を超えたレベルでの合理性と、個人における精神的な合理性とがある。物事を知っている!と感覚的に捉えることが、いかに安心感を与えてくれることか。逆に、知らない!ということが、いかに不安にさせることか。
人がモノを知っている時、それは知識と呼ばれる。何かを知っていると自覚できる状態とは、知識と既知感が合わさった状態で、知識と既知感は別物というわけか。実際、知識を持っていても、それに気づかないことがあれば、知識を持っていなくても、知っていると思い込むことがある。既知感なしに知識を有する場合の例では、盲視現象を挙げている。
生きていく上で、確実に判断できるものがなくても、時には確信して行動することも必要であろう。不確実性に不快感を覚えても、これに耐えることを学ぶことも...
とはいえ、無意識の領域に、自己の本性が内包されているとすれば、自己を知ることに対して絶望的である。無意識の自己に、どう自己責任を押し付けようというのか。意識的思考は、認知の氷山の一角なのかも。
神経心理学では、情動知能(EQ: Emotional Intelligence Quotient)という用語をよく耳にする。心の知能指数と呼ばれるやつだ。この指標が、どれほどの客観性を担保できるのかは知らない。
ただ、思考の性質が、理性ではなく感覚で認知するとすれば、おそらく理性も感覚で認知するのだろうが、心のどこかに歯止めとなる感覚が必要となる。そして、心のモニタシステムもまた感覚ということになろう。自分の限界を認知できることも自己の能力ではあるが、この能力もまた感覚ということになろう。知識を身にまとうだけでは不十分だということか...
「無神論を唱えるある知人に、実はかつてペンテコステ派の再生運動(情緒的、神秘的、超自然的な宗教経験を重視するキリスト教内部の宗教運動)のメンバーだったと、こっそり打ち明けられたことがある。彼の再生運動と無神論的な思考とが、同じような遺伝的要因から生じて、どのように正反対の結論に至ったかは、さほど想像力を働かせなくとも理解できる。」

2. 確信という依存症
本書は、人間の本能には、信仰感、目的感、意味感が必要だという。世間では、正確性よりも正確感が重んじられる。人生の意味や目的が本当に必要なのではない。意味感や目的感に浸りたいだけだ。真理を求めるのは、それがないと生きられないからではない。盲目感に耐えられないだけだ。本当に自己存在に意義を求めているのではない。存在感を噛み締めたいだけだ。正義感に燃えては批判癖がつき、高い倫理観を求めては意地悪癖がつき、理性や知性までもストレス解消の手先となる。人間ってやつは、まったく感覚依存症ときた。おまけに、これらの感覚は、いつも見返りをねだってやがる。
思考が感覚に支配されるからには、そこには必ずバイアスがかかる。自己存在を正当化しようという意志のバイアスが。このバイアスが無意識の領域から発しているとすれば、やはり制御不能ということか。確信するという心理状態は、これらの感覚を後ろ盾にしなければ、ありえないということか。
本当の自由なんぞ、この世にありはしない。あるのは自由感だけだ。あるのは自己満足感だけだ。そして、この感覚が精神的合理性となり、これに客観性がほんの少し加わった時、確信という強い心理状態へ導かれる。確信への自問は、自我を相手取るだけに手強い...
「自分が正しいと主張し続けることは、生理学的に見て依存症と似たところがあるのではないだろうか。遺伝的な要因も含めて。自分が正しいことを何としても証明してみせようと頑張る人を端から見ると、追求している問題よりも最終的な答えから多くの快感を得ているように思える。彼らは、複雑な社会問題にも、映画や小説のはっきりしない結末にも、これですべて決まり、という解決策を求める。常に決定的な結論を求めるあまり、最悪の依存症患者にも劣らないほど強迫的に追い立てられているように見えることも少なくない。おそらく、実際そうなのだろう。知ったかぶりという性格特性も、快い既知感への依存症とみることはできないだろうか。」

3. プラセボ効果とコタール症候群
プラセボ効果は、手術をしたことにしたり、効かない薬を与えたりで、治ったと思い込ませる偽りの治療法である。実際、絶望的な病状に対して何も施していないのに、患者は完全に治ったと信じて劇的に回復させる事例もあると聞く。すべては気の持ちよう... と言うが、そこまで確信できる根拠とは。信じる者は救われる!というのもあながち嘘ではなさそうだ。ちなみに、「信者」と書いて「儲かる!」となる。
コタール症候群は、何も現実的に感じられない死人も同然といった精神状態に陥る、ある種の否定妄想である。自分を死人も同然と定義付け、死んだ人間を治療しても意味がないとして、あらゆる治療を拒否する。心臓の鼓動を感じても、それだけでは生きた証にならないというわけである。そして、ある患者の言葉がなんとも印象的である。
「死んでいるということのほうが、生きていることを示すどんな反証よりも、現実的に感じられる...」

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