2018-07-22

"自伝と書簡" Albrecht Dürer 著

先週、馬車旅の車窓を彩る絵画を BGM に「ネーデルラント旅日記」を嗜んだ。今宵、旅の余韻に浸って、虎の子のフィーヌブルゴーニュをやっている。本書は、その姉妹編に位置づけられる遺文集で、ここでも肖像画や風景画、あるいは宗教画が足りない言葉を補っている。飾らない文面の数々、尤も文学作品としての意図は微塵も感じられない。言葉ってやつは、余計なことを喋らない方が重みを与えるものらしい。酔いどれ天の邪鬼には、到底到達しえない境地か。ここには、ルネサンス画家の福音が刻まれる...

アルブレヒト・デューラーは五十を過ぎて、自伝という自画像で何を語ろうというのか。1498年の自画像では派手な服装をまとい、やや斜めにポーズをとる。その歳の充実ぶりを誇らしげに語るように。
とはいえ、若き日に残した尊厳ある容貌が、年老いた自己を慰めるためのものとなっては惨め。過去の栄光に縋るなんぞ御免!後世、自画像に宗教批判のレッテルを貼られてはかなわん。絵画に人類を救え!などとふっかけられてもかなわん。製造者責任を問うなら、鑑賞者責任も問いたい。そんな愚痴も聞こえてきそうな...

ところで、この手の古書を読むと、いつも思うことがある。五百年も前のものを現代語に訳す翻訳者のセンスというものを。当時の光景を完全に再現することは、ほぼ不可能だろう。ましてや外国語だ。翻訳者前川誠郎氏は、デューラーの旅への思いを感じ取るために、この原文を読者に音読してみることを勧めてくれる。

"Dornoch wurd ich gen Polonia reiten vnder kunst willen jn heimlicher perspectiua, dy mich einer leren will. Do wurt ich vngefer jn 8 oder 10 dagen awff sein gen Fenedig wider zw reitten, Dornoch will ich mit dem negsten potten kumen. O wy wirt mich noch der sunen friren. Hy pin jch ein her, doheim ein schmarotzer."

O wy ... からはほとんど鼻歌だとか。デューラーは九月下旬のヴェネツィア書簡で、あと一ヶ月ほどしたらと帰国を仄めかす。だが、なかなか腰を上げる気にはなれず、ニュルンベルクへ帰郷したのは翌年の二月。イタリア・ルネサンスの虜になったか。「ネーデルラント旅日記」にしても、目的が皇帝カルロス5世への請願であったにせよ、芸術家の性癖は隠しようがない。本能の赴くままに...
しかしながら、この自由人の晩年は、宗教改革の機運が高まり、新旧諸派の抗争や農民戦争を経て、17世紀には三十年戦争に至り、欧州が荒廃していく暗い時代の幕開け。自由精神を信条とするルネサンスが呼び水となったことは否めない...

1. 自伝的な点鬼簿
本書には、まず家譜と覚書が綴られる。そのきっかけは、岳父ハンス・フライの死だったという。すべての人間模様をキリスト降臨祭の元で語る点鬼簿は、神に祝福された家系を強く意識していたことが伝わる。戦慄的な臨終記では、自分自身が父の臨終に立ち会うに値しなかったとぼやき、家族の肖像画で物語を補う。
ところで、画家がしばしば企てる鳥瞰図という形式は、自分の作品に天からの祝福を求めてのことか...

2. ピルクハイマー宛とヤーコプ・ヘラー宛の対照的な書簡
ピルクハイマー宛書簡では、ヴェネツィア滞在費を賄うなど、大才を認めて援助を惜しまなかった彼への感謝の念は、気が狂いそうなほどに... と綴り、その息遣いが伝わる。
しかしながら、ヴェネツィア書簡で見せる人間性とは逆に、ヤーコプ・ヘラー宛書簡では絵画製作の経緯を時日を追って綴り、狡猾な商人ぶりを披露する。芸術家だって一人の人間、裏の顔のない人間なんて皆無。別段違和感なし...

3. 年金関係書簡
1512年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は、ニュルンベルク行幸を機に、自己の治績を記念する製作を依嘱したという。「凱旋(トリウンフ)」と総称される厖大な版画作品は、木版画192枚を貼り合わせる「凱旋門」と137枚の「凱旋車」からなるとか。「凱旋門」は、1517年末に完成したそうだが、「凱旋車」は未完に終わったという。
マクシミリアン1世は、画家への報酬をニュルンベルク市税の免除という形で市側に負担を求めたが、市参事会がこれを拒否。デューラーは要人に書簡し、皇帝の説得工作をすすめる。皇帝マクシミリアン1世は、ニュルンベルク市からの年金支給は、国庫の上納金から差し引くよう指示する特権状を発行した。
だが、これもまた延滞し、新皇帝カルロス5世に嘆願することに。それが、「ネーデルラント旅日記」へとつながる。

4. 数学への招待状と理論書への招待
ほとんどおまけにような存在だが、ヨーハン・チェルッテ宛の書簡が興味深い。なにしろ幾何学の命題へ招待しているのだから。
ちなみに、デューラーは、ガスパール・モンジュの画法幾何学にも影響を与えたという話を何かで読んだ覚えがある。あのケプラーの充填問題でも、彼の功績を挙げる人もいる。当時から数学者としても知られていたようで、ユークリッドの幾何学原理をドイツ語に訳したいという人のためのコメントも見られる。
また、著作「人体均衡論」の刊行は、デューラーの死後であったが、出版に至る非難への葛藤が見て取れる。人間五十を過ぎると、理論家になりがち。いや、屁理屈屋になりがち。ただ、デューラーが唱えているのは理論と実践の両方である。そして、理論の書を書いた動機を語ってくれる。
「双方に通じた人、則ち学問を学ぶとともに自ら作品を製作する人たちだけが、彼らの望む完全な目標に到達することができる...」

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