クラシック音楽に目覚めたのは、小学生の頃であったか。ドヴォルザークに始まり、ベートーヴェンに、チャイコフスキーに、モーツァルトに、ショパンに嵌った記憶がかすかに蘇る。
しかしながら、バッハとなると、ずっと敬遠してきたところがある。宗教色があまりに強く、そればかりか、ラブシーンまがいの台詞を延々と聴かされた日にゃ...
ヤツは、ルター派教義のエヴァンゲリストか。音符で綴る福音主義者か。説教臭が漂ってやがる。
それでも、バッハに癒やされるようになったのは、三十代半ばを過ぎたあたり。巨匠が奏でる音空間には、音楽を超えた何かがある。信仰を超越した何かがある。卓越した知性が神との対話へと誘ない、救済を超えた何かが...
本書は、マタイ福音書の受難物語を通して、バッハが思い描いたであろう情景を物語ってくれる。
「深沈とした管楽曲の前奏。17小節目から満を持したように湧き上がる悲痛な合唱... マタイ受難曲といえば誰でも、このすばらしい開曲のことを想起せずにはいられないだろう。この冒頭がわれわれのマタイに対するイメージを規定しているのも、理由のないことではない。なぜならマタイ受難曲の開曲は、それまでの受難曲にほとんど前例のないほど大胆なものだから...」
大合唱が終わると、福音書記者が口を開く...
時は、ユダヤ教の大祭、過越祭の二日前、イエスは受難を預言する。信仰厚い女が香油を注ぐ。香油は涙となり、受難曲は懺悔と悔悛へと流れゆく。人間は、罪を背負う定めにあるのか...
十二人の弟子の中に裏切り者が...
ユダの密告。過越の聖なる食事が、最後の晩餐に。パンとぶどう酒は、キリストの身体と血に還元される。晩餐の後の讃美歌、続いてオリーブ山での弟子たちとの語りをコラールで綴る。ゲッセマネの園では、受難を前にしたイエスの深い人間的苦悩を歌う。苦悩の原因はわれわれ自身の中に...
「第10番目のヘ短調は、温和で落ち着いていると同時に、深く重苦しく、なにかしら絶望と関係があるような死ぬほどの心の不安をあらわすように思える。加えてこの調には、並外れて人の心を動かす力がある。ヘ短調は、暗く救いようのないメランコリーをみごとに表現し、ときおり、聴き手に恐怖心や戦慄を感じさせる...」
ついにナザレのイエス、群衆に捕らわる。ユダよ!あなたは接吻で人を裏切るのか...
大祭司邸での審問では、沈黙するイエスにツバを吐きかけ、顔面を殴り。おまけに、ペトロの否認!イエス?そんな人は知らぬ。だが、主を否認したことを悔いる。涙は傷ついた心の血!
そして、イエスの死刑宣告。ペトロの嘆きに憐れみのアリアを歌い、ユダの自殺に憐れみのアリアが続く...
悔い改め、懺悔すれば、すべてチャラ!これがキリスト教の教えか。そして、復活を見据えずにはいられない。
イエスはというと...
他人を助けて自分自身が救えないとなれば、その無力さが死に値するというのか。いや、穢れた人間社会から解放され、自由の身になれたのやもしれぬ。血まみれた十字架を前に、己の愚かさを思い知る人間ども。日蝕まがいの闇があたりを覆う。父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです...
「主の怒りは燃え上がり、大地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。御怒りに煙は噴き上がり、御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。... 本当にこの方は、神の子だったのだ。」
愛とはなにか。周知のものでありながら、疑いなく実感できるものでありながら、その真なるものを知らぬ。自己を愛せぬ者に他人を愛せるのか。他人を愛せぬ者に自己を愛せるのか。自己を知らねば、盲目であり続けるほかはない。永遠に...
人間ってやつは、己の身体を墓とし、己の心で墓標を刻む、そんな存在なのやもしれん。ここに、INRI を掲げた十字架像とともに受難曲の完成を見る...
"IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM"
(ナザレのイエス、ユダヤ人の王)
0 コメント:
コメントを投稿