2025-06-29

"物の体系 - 記号の消費" Jean Baudrillard 著

消費とは...
それは、物にかかわるだけの行動ではないという。豊かさを示す現象学でもないと...
では、なんであろう。ジャン・ボードリヤールは、すべてに意味作用を与える行動として定義する。人間の物への意識は、物的存在から記号的存在へ。流行や広告、あるいは社会的規範や慣習もその類い。消費への意識が記号へ向かえば、消費に限りがないことの説明もつく。
彼は、現代人の物への意識がイデオロギー的体系、あるいは、ある種の信仰として働いていることを指摘し、これにマルクス風の疎外論を絡めて論じて魅せる。そして、こう主張する。「消費される物になるためには、物は記号にならなければならない。」と...
尚、宇波彰訳版(法政大学出版局)を手に取る。

貧困層ですら日常生活にスマホが欠かせないとなれば、物は豊かさの基準とはならない。産業のすべてがサービス業化し、消費対象のすべてが、ガジェット化、アクセサリ化していく。現代社会では、物質エネルギーよりも情報エネルギーの方がはるがに強いと見える。
もはや人類は、AI に代表されるような機械の奴隷になることを恐れている場合ではあるまい。すでに物の奴隷に成り下がっていりゃ、世話ない。消費が抑えがたいのは、何かの欠如に依存していからであろうか...

「消費は今や多かれ少なかれ整合的な言説として構成されている。すべての物・メッセージの潜在的な全体である。消費はそれがひとつの意味を持つ限りにおいては、記号の体系的操作の活動である。」

人間の存在意識には、雰囲気の論理や居場所の論理が働く。本来、物といえば、機能性や操作性に注目するのであろうが、それ以上に浮遊的な何かに意識が向く。仮想的実体とでも言おうか。精神や魂と呼ばれるものが浮遊霊じみた存在だから、それが自然なのやもしれん...

「もしも現代の偽善が、自然の猥褻さを隠すものではないとすれば、それは記号の無害な自然性で満足すること、もしくは満足しようと努めることである。」

物を提供する側は、クレジットによる欲望戦略を煽り、毎日が購買のお祭り騒ぎ、購入者の所有意識を麻痺させる。
物を享受する側も負けじと、シリーズものやセット販売に群がり、その理由づけは様々... 時にはナルシス的に、時にはノスタルジックに、時にはコンプレックスを刺激し、あるいは収集癖に酔いしれて、自己に言い訳をしながら生きている。
消費は、物にかかわろうとするだけでなく、集団社会とかかわろうとする積極的な活動でもある。いや、後者の方がはるかに本質的か。こうした集団行動が、文化の基礎を成していることも確か。
そして、物のあり方を通して、自己のあり方を確認する。それで、自己に価値を見い出せない時の失望感ときたら。あとは、存在論的な弁証法にでも縋るさ...

「人間はつねに自分自身に嫉妬する。人間が守り、監視しているのは自己であり、自己を享受しているのである。」

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