2012-09-30

"饗宴" プラトン 著

お馴染みのソクラテスが登場する対話篇の一つだが、ここでは、ちと違った趣向(酒肴)が凝らされる。それは、多重間接談話という形式に、およそ哲学とは思えない筋書きである。又聞きの又聞きという語り話の中で、酒盛りには欠かせない酔っ払いが乱入し、対してソクラテスは飲んでも飲んでもけして酔わないという構図。しかも、この物語には、愛を題材にした「無知の知」の奥義が秘められる。その酔っ払いの能書きがこれ!
「理知の視力は、肉眼の視力がその減退期に入ると、ようやくその鋭さを増し始めるものだ」
知への愛求こそが、盲目から解放される唯一の方法というわけか。これを開眼というかは知らん。それにしても、知識とは奇妙なものよ。知れば知るほど分からなくなるのだから。それどころか、自分の無能ぶりを簡単に暴き、疎ましくもある。
さて、「酔っ払い + 愛」とくれば、夜の社交場の図式である。知的なボディラインを求めて繰り出すとしよう。そして、「酒にけして酔わない。君に酔っているだけさ!」という口癖を持つ酔っ払いの噂話を又聞きするのであった。

原題「シュンポシオン」とは、「共に飲む」ぐらいの意味だそうな。シンポジウムの語源でもある。なるほど、有識者どもの討論会が、千鳥足で迷走するのも道理というものか...
悲劇詩人アガトンの祝宴に招かれた識者たちは、ワインの盃を重ねながら、右廻りにエロス(愛)の讃美を語っていく。そして真打登場、ソクラテスは最高愛について語り始める。しかも、巫女ディオティマに聞いた愛の説を報告するという形で。ソクラテス自身は、無知を自覚する者というわけだ。
いつもの対話篇ならば、ここで終わるのだろうが、更に酔っ払いが乱入する。酒宴に招かれていないアルキビアデスは既に泥酔状態。このソクラテス敬愛者は、どうせ自分を愛してくれない!と絡み、ソクラテスの右に座る。すると、次はアルキビアデスが語る番。彼はソクラテスを妬みながらも、この人物を讃美する演説を始めた。プラトンは、ソクラテスを最高愛の具現者として、第三者に語らせている。酒はしばしば本音を吐く道具とされるが、この酔っ払いに正直者という役割を与えている。
おまけに、全体構成がややこしい!酒宴の様子をアポロドロスが、酒宴に列席したアリストデモスから話を聞き、ある友人に語るという設定。アポロドロスとアリストデモスもソクラテス敬愛者。敬愛者が、列席した敬愛者から、敬愛者が語った演説のことを聴き、それを友人に語って聴かせる。おそらく、この友人もソクラテス敬愛者であろう。ソクラテスが何を語ったかを教えてくれと熱心に頼んでいるのだから。まるで敬愛者たちの伝言ゲーム!つまり、二重、三重...の間接談話という構成。話がだんだん大きくなって、やがて無条件の信仰に達する。崇拝とはそういうものかもしれん。
ちなみに、アポロドロスは、ソクラテスの臨終に際し、弟子の中で最も烈しく泣き、弱気男と渾名されたそうな。尚、「ビブリオテーケー(ギリシャ神話)」の編纂者と時代が違うので別人。プラトンは、この激情家をもってソクラテスの愛を語らせていることになる。
遠近法というものは、事実関係を浄化させ、平凡なことも意義あるものに見せるところがある。人物を讃美するにしても、第三者に語らせる方が説得力を持つ。こうも構成がややこしいと、凝り過ぎに感じそうなものだが、不思議とそうでもない。むしろ複雑な間接談話が、崇高な文学作品に仕上げている。他の登場人物にしても、悲劇詩人や喜劇詩人、あるいはソフィストや医者といった当時の識者たちの風潮をよく表している。プラトン文学の中でも、技巧の結集された白眉ものか。

ところで、エロス(愛)をテーマにしているのはなぜか?ソクラテスといえば最高善を説く者、その背後に徳なるものの存在がちらつく。
まず、当時の社会的風潮を五人の識者の演説によって明らかにされる。古代ギリシアには、ヘシオドスやホメロスの宇宙観に立脚した倫理的なエロス観があったようだ。ヘシオドス著「神統記」は、カオス(混沌)から永久に揺るがないガイヤ(大地)とエロスが生じたとした。つまり、エロスは最古に属する神で、両親というものがない。最も勇敢とされる軍神アレスですらエロスの虜になれば、最勇敢者はエロスということになりそうなもの。これほど原型的で偉大な神なのに、有識者や教育者たちはエロスを教えることを避ける。確かに、エロスには赤面する行為をともなうし、性教育はタブー化されやすい。ただ、愛という情念は美しさから発する性質がある。なぜか?あらゆる知覚の中で美だけが特権を得ている。自然美、芸術美、数学の美、宇宙法則の美といったものが崇高とされる。一方で、美女に憑かれた途端に小悪魔の虜となり、美体(びたい)はたちまち媚態(びたい)へと変貌する。これほど、善悪の双方において人間精神に取り憑く情念も珍しい。人間どもが神々に直接触れるなど恐れ多いことだが、エロス神だけは向こうから近づいてくる。半神のごとく人間と神の間を行き来しながら、神々との仲介役を進んで演じてやがる。俗人の愛といえば、およそ家族愛、友人愛、隣人愛、恋愛といったものであろうか。こうした愛は個人の価値観で解釈され、愛情劇が愛憎劇となるのに大して手間はかからない。
そこで、プラトンはこの厄介な愛に対して最高愛の存在を唱える。天上の愛と万人向けの愛を区別し、肉体美から精神美へ、更にフィロソフィア(智慧の愛)にまで精神を高めよと。智慧の愛求をもって、霊魂浄化できるということらしい。そして、美のイデアは、愛のイデア、善のイデアへと昇華し、原型的な存在を直観できる境地に達するとでも言うのか?理論上の知識が実践上の知識とならなければ、不完全たるを免れない。よって、哲学は、生きる術(すべ)、すなわち生き方となるはず。しかし、これが至難の業!
ソクラテスは、最後の一人が酔い潰れるまで会話に付き合い、ただ一人乱れることなく立ち去る。なるほど、霊魂浄化された者とは、浴びるほどのアルコール濃度にも耐えうる肉体と精神を併せ持つというわけか。

1. 五人の演説
最初の演説者は、ファイドロス。プラトン著「パイドロス」では、高名な弁術家リュシアスの心服者として登場し、リュシアスの愛に関する演説に傾倒したとされる。エロスとは、最大福祉の源泉、全生涯の指針となるべきものと主張する。
二番目の演説者は、パゥサニヤス。プラトン著「プロタゴラス」では、アガトンの愛者とされるが、ここではソフィストの代表のような存在であろうか。愛の女神は二種類あると主張する。一つは天上の子、ウラノスの娘。二つは万人向けのもの、ゼウスとディオネの娘。天上の愛とは、精神的なもの、万人向けの愛とは、衝動的で肉欲的なもの。愛は、正しく行われた場合には美しく、正しからぬ場合には醜くなり奴隷根性を生じさせる。有徳の意に従うのは美しく、放縦に従うのは恥ずべきこととしている。
三番目の演説者は、医者エリュクシマコス。医術の面から説き起こす。
「医術とは、約言すれば、充足と排泄とに関して体内に起る愛的現象(エローティカ)の知識である」
飲食は健康のために善とも悪ともなりうる。実際、人体は善いものを吸収し、悪いものを排泄する。しかし、そうとも言い切れない。消化能力を超えて栄養を摂取すれば、脂肪が増え、悪玉コレステロールが蓄積される。となれば、精神の消化できない領域で知識を詰め込めば、悪知恵になるかもしれない。
四番目の演説者は、ギリシャ最大の喜劇詩人アリストファネス。ギリシャ神話から性の原始的本性に立ち返る。もともと人間の性には三つあったという。男性と女性、そして両性の結合。男性は太陽から、女性は地球から、両性は月から形状を成したという。だが、三つ目の性は罵詈の言葉として残される。ギリシャ語では太陽は男性を表し、月はオルフィック教的に、男女両性という考えがあるそうな。男と女が出会わなければ子孫も残せない。両輪が揃って完全を成すとなれば、人間は割符に過ぎないという。エロス神だけが、男女を合体させ、原型に戻そうとするわけか。失われた半身を求めるのは、もはや本能!これには逆らえまい。しかし、どんなに愛しあって合体しようとも、心が一つになることはけしてない。けしてだ!プラトンよ!この矛盾をどう説明するのか?
五番目の演説者は、悲劇詩人アガトン。伝統的神話に立ち返るが、ファイドロスの捕捉的な位置づけか。

2. ソクラテスの演説
人は、何かを所有していれば、それを求めたりはしないだろう。したがって、愛を獲得した者は、愛を求めたりしないはず。しかし、金持ちがさらに金持ちになりたいと欲求し、健康な人がさらに健康を欲求するのはなぜか?既に所有しているからといって、それを失わないとは限らない。結局、人間は永遠に所有したいと願うのではないか。そして、究極の永遠が、不死ということになろうか。子孫を残そうと願うのも、肉体の不死を継続したいがためかもしれない。
さて、ソクラテスには魂の不死という基本思想がある。そして、婦人ディオティマに愛について質問した時の話を始める。それによると、エロスは知恵と無知の中間にある神だという。善でもなければ、美でもないことを自認した神。正しき意見を抱いて、その根拠を示すことができないのは、知識でも無知でもないという。エロスは善悪の中間にあるらしい。
知恵のある者は、知恵を求めようとはしないだろう。また、無知者も知恵の存在を知らなければ、それを求めることはない。無知者が甚だ厄介なのは、この点にあるという。ただ、無知を知るとなれば話は変わってくる。知恵に欠乏を感じることができれば、愛智者になれるかもしれない。
では、愛は人間にどういう利益をもたらすのか?エロスは美を求める。ここで美の代わりに善をおくとしよう。善から何が得られるのか?と問えば、それは幸福であるという。幸福者が幸せでいられるのは、善きものを所有するからであると。
では、愛は万人にとって共通のものか?万人が共通なものを永遠に愛求するならば、どうして特定の人を愛し、他の人を愛していないなどと言うのか?人々は、愛の中から特定の種類のものだけを取り出し、総括的な名前を付けて、愛と呼んでいるに過ぎないという。愛という言葉は、なんとなく心を癒してくれる。しかし、愛の正体を知る者はおらず、個人が都合よく解釈しているに過ぎない。エロス的欲情によって、創造欲や独占欲を掻き立て、仕事の活力となるのも事実。英雄色を好む!とは、そういうことであろう。何人をも愛せよ!と唱える聖職者が誰とでも愛を育むとなれば、自ら生殖者へ変貌する。
しかしながら、最高善とは、最高美を観ることだとしている。美しき肉体から美しき活動へ導かれ、美しき学問へと進み、美そのものの学問にほかならぬ学問へ到達し、美の本質を認識するに至ると。美の本質を観るに至ってこそ、生き甲斐なるものが観えてくると。地上にも天上にもないものが、直観においてのみ存在を認識できると...

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