物事の本質を問えば、その素となるものを求める。哲学するとは、そういうことか。では、経済学にとっての素とは、なんであろう。
本書は、「純粋経済学」という語を用い、「アプリオーリ」と「動学」という語をちりばめる。
カントは、人間の純粋認識として、時間と空間の二つを挙げた。
シュンペーターは、理論経済学の要素として土地、労働、資本は元より、財産の所有と権利といった帰属意識や価値観念を通して、価格理論、貨幣理論、貯蓄理論、分配理論、賃金理論、地代理論、利子理論を論じて魅せる。そして、これらの理論をニュートン力学との類似性に照らし、経済学の運動法則を探る。彼は、こうした視点を「変化法」と呼称し、従来の経済理論を、静学的な洞察から動学的な洞察へ発展させようと試みる。
尚、大野忠男、木村健康、安井琢磨訳版(岩波文庫)を手に取る。
「『すべてを理解するとはすべてをゆるすことである』という格言には、もっともな意味がある。一層適切にはなお次のように言うことができよう。すべてを理解する人には、ゆるすべきものは何もない、ということが分る、と。そして、このことはまた知識の世界にも妥当する。」
プトレマイオスの体系がコペルニクスの体系に屈したように、現代の理論もまた新たに見い出される理論に屈するのであろう。それが歴史というものか。スミスの富みの概念も、リカードの体系も、マルサスの原理も、経済学の発展に意義あるものであった。悪評高きロビンソンモデルにしても、そのまま吐き捨てるのでは、ちと惜しい。古典理論は、その時代背景を十分に考慮せずに先に進むと同じ轍を踏む。それを賛美しようが、非難しようが... 本書は、そうしたことに警鐘を鳴らしているような気がする。
学問の視点は、合理性や効率性を意識しすぎる感がある。それは、経済学に限ったことではない。欲望や利潤の最大化を見積もることは、現実離れしていないか。均衡状態なんてものが本当に存在するのか。経済学では、価格と効用が同義語ごとき扱われる。限界効用とは限界苦痛のことか...
しかしながら、何事も極限を考察することには意味がある。少なくとも学問的には。極限を記述する強力な道具に微分方程式があり、いまや経済理論の組み立てに欠かせない。
但し、これをそのまま鵜呑みにした経済政策は、しばしば弊害になる。それだけ経済状況は、カオス下にあるってことだ。シュンペーターも、「すべての理論は不完全!」とつい漏らしているが、おそらくそれが本音だろう...
そこで本書は、あえて人間性や心理的要件を排除する立場をとり、価格、貯蓄、分配、賃金、利子などの素朴な変動に着目することを表明している。数学的な記述は無味乾燥な議論にも映るが、そうした視点が逆に、人間と経済の棲み分けを暗示する。
実際、自由競争といえば、人間の自由行動に目を奪われがちだが、貨幣や資本そのものが自由に動き回り、もはや人間の手に負えない。人間を介さなくても、現実に交換関係は生じ、取引は成立する。おまけに、AI の参入とくれば、いよいよ人間は無用の産物か...
需要曲線と供給曲線の交差点で均衡状態を論じても、時間とともに曲線は左右に移動し、価値関数はいつも右往左往。享楽曲線や不快曲線も変化に富み、すべての相互依存関係から運動法則を見い出すのは、絶望的ですらある。それは、経済学だけでなく、心理学しかり、社会学しかり、そして、科学しかり。もはや経済学だけに、貧困問題を押し付けるわけにもいくまい...
ところで、「資本」というのも不思議な用語である。あらゆる価値を資本の一言で説明できちまうのだから。
例えば、不動産も、労働も、投資も、資本財となり、人材資本なんてものもある。
金融業ともなれば、他人からの投資まで自己資本として計上しちまう。返済義務が生じなければ、なんでも自分のもの!あとは自己責任で!あらゆる資本の間で依存関係が生じ、なんらかの奴隷制が成立する。
そもそも資本主義とはなんぞや?共産主義という語は分かりやすい。みんなで共に生産経済を発展させよう... などと綺麗事を並べれば、人間の本性をむき出しにするだけのこと。共産主義社会にも資本の概念はある。これに上級官僚や金持ちが群がるって寸法よ。ユートピアは人間にとって悪夢か...

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