2026-06-28

"ピュロン主義哲学の概要" Sextus Empiricus 著

真理の探求には、三つの立場があるという。それを見つけたと主張する者、それは永遠に見つけられないと主張する者、そして、結論を急がず、探求し続ける者とが...
人間の認識能力が不完全であることを認めれば、客観的な考察までも疑問視する。常に悠然と構え、何事にも疑いの目を向ける態度は、巷では懐疑主義と呼ばれる。それは、探求と考察を継続することから探求主義とも、あるいは行き詰まり主義とも...
この世には、判断を保留せねばならぬ事柄で溢れている。懐疑主義の第一の目的は、ドグマに毒されぬよう注意を払うこと。だからといって、すべての知識を否定するような独善的懐疑主義にも御用心!健全な懐疑心と啓発された利己心こそが、知の原動力となろう。しかしながら、この態度を保ち続けることは至難の業...

おまけに、人間のあらゆる認識や判断は相対的である。善や悪も、理性や正義も。人間は、万物の尺度を相対的にしか把握できずにいる。そのことを、常に心得ておくべし!これが、「ピュロン主義」というやつか。
この呼称は、古代ギリシアのピュロンという人が、懐疑的な考察に専心し、慎重な言い回しに徹したことに由来するという。そこには、無知を自認してこそ思考は深められる... というソクラテス哲学にも通ずるものがある。
古代ローマの叙述家セクストス・エンペイリコスは、自らの経験主義的立場から古代懐疑主義を物語ってくれる。エピクロス派やストア派を批判する立場をとりながら、アカデメイア派とも一線を画し...
尚、金山弥平、金山万里子訳版(西洋古典叢書)を手に取る。

なにゆえ哲学をやるのか。平静や節度ある態度で真理に挑むも、真偽の判断を下したがために動揺し、善悪を決定づけたがために抑制を失い、正義を掲げたがために横暴となるのでは、何をやっているのやら。
理性にも、二つあるという。内にある理性と言葉で表される理性とが。理性は、徳と結びつき、正義とも結びつきやすく、それだけに言葉で操られやすい。プラグマティストは、どうあるべきだ!こうするべきだ!と声高に唱える。だが、理性とは、自制心によって支えられるもの。自分の理性に自信満々でいられるのは、すでに理性が暴走していると見るべきや...

宇宙の摂理は完全かもしれない。が、人間が知りうる摂理は不完全!古代の哲学者たちは、そのことに思いを馳せ、人間は人間自身を知りうるか?と問い続けた。プラトンが、人間は羽のない二本足の動物と定義した時、それで人間の正体を確信したわけではあるまい。アリストテレスが、人間は社会的動物であると定義した時、それで人間社会の正体を確信したわけではあるまい。パスカルが、人間は考える葦であると定義した時、それで人間の存在意義を確信したわけではあるまい。はたまた、言葉でうまく説明できないからといって、それをまったく知りえないということにもなるまい。
デモクリトスが、原子論を唱えた時、そこに実存と空虚の共存を見る。存在とは、虚像と結びついて成り立つ概念か。精神や魂も、理性や真理も、徳や正義も、そして、神も。神が不敬虔者のみを罰するなら、神にも悪意があると言わねばなるまい。

人間が常に平静を保ち、自然体でいることは至難の業。それゆえ、時として説得力のない議論に耽り、思い上がりや性急さを鎮めるために、あえて答えの得られない問答を繰り返す。真に理性を得ようとすれば、何事も自問自答を繰り返すしかなさそうだ。結論も控えめに...
しかしながら、人間社会には、自信満々に断言する者ほど目立ち、これを大衆が支持するという構図がある。二千五百年もの年月を経ても尚、懐疑心と批判精神を科学することは難しい。あの世で、ピュロンは愚痴ってるやもしれん。私はピュロン主義者ではない!と...

2026-06-21

"芸術とは何か" Susanne Katherina Langer 著

S. K. ランガー女史には、人間が物事を表象的に捉える認識過程からシンボル哲学なるものに魅せられた(前記事)。ここでは、芸術哲学とやらに魅せられる。
シンボル化という感性は、人間の思考プロセスに根源的に組み込まれているらしい。それが意識的であるにせよ、無意識的であるにせよ...
尚、池上保太、矢野万里訳版(岩波新書)を手に取る。

「感覚的形式を通しての表現能力は、着想力の必要に応じて成長する。芸術の目標は洞察であり、感情の本質的生命の理解である。だが、すべての理解は抽象化を必要とする。... シンボル化を伴わないところに理解はなく、抽象化を伴わないシンボル化もない。... 実存をまったくそのままに伝達しようと努めるのは無意味である。経験自体さえ、そのようなことはできない。私たちは理解する事柄を観念するのであり、観念作用は常に定式化、表示、抽象化を伴うのである。」

芸術とは、SM の世界か。芸術家たちは極めて独断的に仕掛けてくる。しかも、独善的ですらあり、S のなせる業!
しかしながら、鑑賞者の側に感じるものがなければ、そこに芸術は成り立たない。素直に感じたければ、M にもなるさ。もはやカノンの虜よ!
人間の認識力には、事物を抽象的に捉える機能がある。これを具現化する技術が芸術ということになろうか。その技法の極地は、美的啓示と至高の芸をもたらすが、巧妙な欺瞞の芸にもなりうる...

「芸術は技術である。だがそれはある特別な目的、すなわち、表現形式、つまり本然の人間的感情を打ち出して、視覚、聴覚、または、想像力を通して知覚できる形式を創造することを目的とする技術である。」

芸術は哲学でありうるだろうか。無論学問分野として、芸術と哲学は別物。
しかしながら、どんな事物であれ、そこに哲学的思考を見い出せないものはない。その意味で哲学とは、摩訶不思議な学である。存在意識が絡むから、そうさせるのか。存在という意識があやふやである以上、いかようにも解釈できる...

人間の思考は、言語を通じて強化され、概念となる。人間は思考段階を登っていく上で、その場その場で表象的な何かを求める。内面を投影する仕掛けとして、シンボルやイメージ感覚のようなものを。空間とは何か、時間とは何か、そして、そこに存在するものとは、自己とは... などと問うだけで哲学的思考へ導かれる。

芸術は、内面と強く結びつくだけに、実に多くの哲学的問題を提起する。芸術家は表象を超えた何かを創造し、鑑賞者も負けじと表象を超えた何かを想像する。それが、芸術の意義というものか。
芸術空間は、一つの仮象であり、空想的幻影であり、虚空間であり、それでいて純視覚的空間で覆い、その全体がヴィジョンを提示する。そして、実在と概念を結びつける思考過程で、その思考そのものが哲学的であることを知らしめる。
芸術作品に癒やされるのは、それが真理へ導くからであろうか。おそらく、真理そのものが重要なのではあるまい。真理へ近づこうとする過程こそが...

「科学は普遍的表示作用から緻密な抽象化に進み、芸術は緻密な抽象化から、普遍性の援用をまつことなく、生命的内包作用に進む...」

2026-06-14

"シンボルの哲学" Susanne Katherina Langer 著

人間の思考は、物事を象徴的に捉えるところがある。それは、どこに発するのか...
最も顕著なものに、言語現象がある。それは音声に発し、記述の仕方を経て概念と化し、記号論や構文論に至る。言語は、人間が思考する上で極めて重要な役割を担う。それはコミュニケーション手段だけでなく、自己意識や存在認識などにも寄与し、おかげで、より多くの知識を得、学ぶ意欲を高める。その反面、欺瞞に惑わされ、感情が煽られることもしばしば...

こうした意識過程をより抽象的に捉えると、シンボルという概念が浮かび上がる。美術や音楽も、祭典や儀式も、人間は認識できるものすべてをシンボル的に捉えているところがある。
S. K. ランガー女史は、言語の論理的機能と感情的特性、聖礼や神話の発生源、音楽や芸術の意義といったものを、シンボル化という根源的な意識に照らしながら論じて魅せる。
尚、矢野万里、池上保太、貴志謙二、近藤洋逸訳版(岩波書店)を手に取る。

「哲学史上、どの時代にもそれ独特の先入見が存在する。各時代の問題は、政治的理由とか、社会的理由などの一目でわかる実践的な理由のためではなく、知性の発達に伴なういっそう深遠な理由のために、各時代に特有なものとなっている。」

人間は、認識できるものすべてに意味を与えようとする。まずは、一個人が生きる意味とは何であろうか... と。自己を象徴的な存在とすれば、自我を肥大化させるばかりか、無意味なものには拒絶反応を示す。精神そのものが非合理的な存在でありながら、認識をとりまく存在となると、そのすべてに合理性を求めてやまない。これぞ人間の性癖か...

確かに、言語では表記できない領域がある。しかも、それは思いのほか広大ときた。無意識の領域がそうであるように。そんな領域にまで意味を与えようとする意識が、シンボル化の原動力になっているのだろう。実践的なヴィジョンは行動のための指針を与えるが、これもまた心の中でシンボル化される。ある種の依存症か。となれば、人間にとって物資の欠乏よりも、シンボルの欠乏の方がより深刻なのやもしれん...

シンボル化という抽象的な意識が具体的な言語で記述され、芸術やら科学やらに投影されると、明確な定義を与える前に何らかの解釈を施さずにはいられない。やがて、解釈という行為は義務と化し、学術的な権威をまとうことに。仮説の有用性とは、そうしたものであろうか...

芸術や音楽は、居心地の良さを提供してくれるばかりか、自己の居場所を与えてくれる。人間は意味のある場所が与えられると、心が落ち着く。それが幻想であろうと、幻想だと知りつつも...
人間の有意義説に縋る性癖は、抑えられそうにない。人間は生涯を通して、意味と解釈の狭間で無意味の充満する世界を有意味で充填させようともがく。ただそれだけのことやもしれん...

「自由の本質は目的の実現可能性なのである。人類は、自己の主要な目的の挫折のために、種としての人類の定義そのものに属しているような目的さえも挫折したために苦悩してきたのである。シンボル的過程のどんな失敗も、われわれの人間的自由を廃棄させるものである。」

2026-06-07

"マキャベリの名言" 矢島みゆき 編訳

「君主論」に触れたのは十五年ほど前。そして、共和国に焦点を当てた「フィレンツェ史」やディスコルシこと「ローマ史論」にも触れてみたが、未だ消化不良!マキャベリの政治思想に少しでも近づけるよう名言集を手に取るも...

名言の効用とはなんであろう。行動指針の一つに、言葉で説明できるか、ということがある。言葉は動機を明確にし、やるべきことも明らかにし、名言はそれを後押ししてくれる。

「言葉で表現できる行動をせよ!」

おいらは、完全に一貫性を持った著述家を知らない。どんな著述家も、どこか多面性を具えている。偉大な著述家ともなれば抽象レベルが高く、それゆえ勝手な解釈や誤った解釈を招き入れる。
だとしても、彼らの著作はそんなものまで呑み込んじまうから、そりゃ、飲まずにいられない。まぁ、理解からは程遠くても、偉人の言葉というものは生きてゆく上で励みとなる。凡人ばかりか、凡人未満にも... 愉快!愉快!

「ともかく現在に生きよ。過去の豊かさから学ぶことを忘れず...」

こと政治の世界では、理想郷を掲げると、逆の形が出現する。憎悪ってやつは、悪行からだけでなく、善行からも生じる。どんなに優れた政体を打ち立てようとも、どんなに高尚なイデオロギーを掲げようとも...

「ダンテは言う、過去の歴史を学ぶことこそが科学であると。また、学んだ歴史について人と語り合うことも科学である。」

古くプラトンは著作「国家」の中で政治指導者に哲学者を据えた理想像を描き、マキャベリは著作「君主論」の中で政治に必要な力量と決断力を持つ君主像をちらつかせた。
しかし、どんなに優れた政治指導者が出現しても、これに続く者は愚人ども...

古くアリストテレスは、最高の政体は君主政で次が貴族政、そして最悪な政体が民主政と愚痴めいたことを弟子たちに漏らした。マキャヴェッリもまた、「フィレンツェ史」や「ローマ史論」を通して共和国の欠点を炙り出した。
現実に、君主はすぐさま僭主に成り下がり、貴族は贈賄の類いにまみれ、民衆とて移り気が激しく暴徒の群れと化す。人間が人間を統治するには、善だけでは不十分!善も悪も人間の本質であり、やはり社会には法というものが必要なようだ。統治する側にも、統治される側にも...

「時の経過がもたらす各種の恵みを楽しむと良い。時はあらゆる種類の出来事をもたらしてくれる。悪に似た善や善ともまごう悪を...」

どんなに善良に生まれつこうが、どんなに優れた教育を受けようが、人はやすやすと堕落しちまう。自らの野心に踊らされ、他人の悪徳に誘われ、やすやすと悪事に手を染める。人間とは、そうしたものだということを心得ておく必要がありそうだ。偉人たちから何を学ぶか。それは、善行だけでなく悪行からも...

「卓越した人物は、どのような環境に置かれても常に変わらない。運命が彼らを高い地位に就かせたり、あるいは虐げさせたりすることがあっても毅然として変わらず、常に不屈の心を持ち続けることができる。」