2026-07-26

"断絶の時代" Peter F. Drucker 著

1960年代末、かの P. F.ドラッカーは、知識社会の到来、知識労働者の興隆、情報社会の高度化、グローバル経済の出現といった大変革からもたらされる未来像を描いて魅せる。それは、来るべくして来る断絶の時代か...
尚、上田惇生訳版(ダイヤモンド社)を手に取る。

「手動のトロッコは、ゲリラ戦で活躍する。後続の列車のために、レール下の地雷を見つける。本書は、このトロッコである。未来はゲリラ戦である。予期せぬことが脱線の原因となる。本書は、そうならないための警報を発する。まだよく見えないいくつかの断絶が、政治と経済と社会を変えつつあることを、いち早く知らせるために...」

断絶は、主に四つの分野に見られるという。
一つは、新技術や新産業の出現。同時に、今日の重要産業や大事業が陳腐化する。
二つは、グローバル経済の到来。今日でもなお、エリート官僚たちが打ち出す経済政策は、主権国家を単位に言語、法律、イデオロギーといったものを前提にしている。だが、来るべく経済社会は、そんな枠組みの意味をなくすであろうと...
三つは、社会と政治の多元化。現実を支配しているのは中央集権だが、この最大の組織である政府に幻滅が広がり、その能力が疑問視されると...
四つは、これが最も重要なこととして、知識の性格の変化。すでに知識は、資本、費用、資源など様々な意味を含んでいる。労働と仕事、学ぶことと教えること、知識の本質と使い方は変化していき、権力者の知識ある責任が新たな問題になると...
いずれも、21世紀の今、目の当たりにしているところ...

「本書は趨勢を予測しない。非連続の断絶を見る。明日を予測しない。今日を見る。明日はどうなるかを問わない。明日のために今日いかに取り組むかを問う。」

高度な情報テクノロジーが、誰にでも情報や知識を手に入れる機会を与えてくれる。となれば、あとは個人の問題。意欲ある者は、ますます知識を得、偏狭な者はますます偏狭になり、意識格差を増幅させていく。その結果、意識の多元化とはほど遠い、二極化が進む。最も深刻な格差問題は、経済格差よりもこの意識格差であろうか。最も重要なこととして四つ目に挙げている知識の性格の変化は、これに当たるのやもしれん...

発明の時代から起業家の時代を得て、創造する能力が問われる時代、組織のあり方が問われ、マネジメントのあり方が問われ、個人のあり方が問われる。科学や技術のダイナミクス、市場やイノベーションのダイナミクス、そして人間のダイナミックス、ますます知の用い方が問われていく。そうした中でドラッカーは、組織の病や政府の病を指摘する。
まず、組織リーダの責務として、社会に敏感であることと...

「組織とは、自らのために存在するのではない。組織は手段である。それぞれが、それぞれの社会的な課題を担う社会のための機関である。生き物のように自らの生存そのものを至上の目的とすることはできない。組織の目的は、社会に対するなんらかの貢献である。その行動の評価基準は、生き物とは違い、自らの外部にある。」

次に、マクロ経済に特化した近代経済学に苦言を呈す。経済発展の理論でイノベーションを強調したシュンペーター以降、進展が見られないと...
多元化社会では善玉も悪玉も必要だという。いや、善玉の越権行為の方がはるかに危険か。民主主義国家のあり方を再確認するには、権威主義国家や共産主義国家の存在にも、それなりに意味があるのやもしれん。
政治学には、「統治のくもの巣」なる言葉があるらしい。本書は政治の実態をフェルト化現象で説明する。

「歴史上、今日ほど政府が突出した存在になったことはない。1900年頃の最も独裁的な政府さえ、今日最も自由な国において税務署が日常行っているほどには、市民のプライバシーに踏みこまなかった。ツァーの秘密警察さえ、今日当然とされているほどの公安調査は行わなかった。1900年頃のいかなる官僚も、今日政府が企業、大学、個人に記入させているほどの数字の詳細は求めなかった。しかも政府は、あらゆる国において、最大の雇用主となっている。そして政府は、あらゆるところへ進出している。しかし、それは本当に強力なのか。たんに太って巨大になっただけ... まったくのところ、政府は病んでいる... この政府への幻滅こそ、今日の最も深刻な断絶である。」

組織や政府が当てにならないとすれば、あとは個人のあり方が問われる。一流の人材を育てるには、できるだけ多くの人間に教育を与えることだという。イタリアのルネサンスしかり、日本の桃山時代しかり、オランダのレンブラントやルーベンスの時代しかり... と。
大学は多様な人材を必要とする。博士号を重視し、狭い専門分野を研究することは、知識をないがしろにするという。そのような種類の人間も必要だが、それぞれの分野に少しいればいいと。
多様な人材という意味では、アメリカにその強みがあったが、本書が刊行された時代に知の流出に警鐘を鳴らし、マネジメントの必要性を強調する。それは、組織のマネジメントばかりか、個人のマネジメントも含まれる。
しかしながら、個人は集団の中に埋もれ、ソーシャルメディアに埋もれていく...

「権力を馬鹿にすれば、悪用される。組織の力は使わなければならない。それは現実の存在である。理想をもつ者がどぶに捨てれば、どぶさらいがそれを拾う。教育ある有能な者が責任をもって使わなければ、無能で無責任な者がその座に座り、権力を振るう。社会的な目的に使わなければ、自らの目的に使う者の手に渡る。せいぜいのところ、自らの臆病さのゆえに専制者となる者の手に渡るだけである。」

2026-07-19

"道徳感情論(上/下)" Adam Smith 著

「人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても...」
こう書き下ろすアダム・スミス。経済学の父と呼ばれる彼は、人間の本質に身を委ねる意義や自由な経済活動の意味といったものを論じて魅せる。
尚、水田洋訳版(岩波文庫)を手に取る。

後に、自由放任主義の礎となり、レッセフェール!や、神の見えざる手!といったスローガンに結びつけられるものの、そうした風潮に反発するかのように、自由で平等な個人の平和的共存は可能か、それは権力の介入なしにいかに可能か、と問いかける。そして、いかに利己的な人間であろうと、その根底に道徳原理があるからこそ... 自由とは、自己抑制の能力との調和においてこそ,,, と説く。伝統的な哲学の問題に、人間は生まれつき善か悪か、というのがあるが、スミスもまたそれを問うかのように...

人間が人間足るとは、どういうことか。道徳ってやつは上から目線で論じられるところがあるが、それほど高貴なものなのか。不遇が人を冷徹にするところもあるが、幸せすぎることが人を残酷にするところもある。平和的共存ってやつは、社会の中でしか生きられない個人の集まりから自発的に、しかも自然に築かれるものなのか。それは普遍原理と呼べるものなのか...

スミスの道徳感情論は、経済理論との間で利他心と利己心の狭間をさまようかのように記述される。自由放任主義を唱えれば、欲望を解き放つ議論になりかねないし、現在でも、経済学を学ぶと利己的になる... といった意見を耳にする。欲望のあり方を論じれば野心を増幅させ、どこかで歯止めが必要となる。それを、スミスは自己規制の原理として語る。同感や共感といった利他的情念が、義務の観念を呼び、正義の観念を呼び覚ますと...

古くから、徳は愛に発するとする考えがある。しかしながら、自愛心は利己心と矛盾しない。人のすべての情念が自己愛と結びつくのも事実。人は自己を愛されることを強く望む。
となれば、徳はいかに可能であろうか。知識によるか、忍耐によるか、慣行によるか、自己犠牲によるか、様々な要因や条件が考えられるが、徳や知恵も、悪徳や愚行も、人間が自然に具える本性。人間には、最高善に従おうとする意志が本能的に備わっているようでもある。
だが、善にも、悪にも、あらゆる人間の情念が暴走する可能性を秘めている。行き過ぎた道徳感情が、社会に害をなすこともあれば、行き過ぎた正義や行き過ぎた義務が、個人を追い詰めることもある。

スミスが生きた時代、封建的な道徳観念を批判し、個人の尊厳を唱えることの意味は大きい。同感、共感といった情念を、商品と同じように交換する議論。そこに正義や義務の概念を絡ませ。正義とは、互いの自由を侵害しない、等価の交換価値をいい、この点において経済活動と道徳感情を結びつける。

それにしても、言葉の扱いは難しい。道徳感情を経済学的な交換価値の一つとして捉えれば、道徳そのものが陳腐なものに見えてくるし、経済学用語が人間の本質を陳腐なものに見せちまう。
だが同時に、主観的な感情論から距離を置き、客観的な視点を与えるという見方もできる。本書に、価値交換の原点と自由主義の原点を見る思い...

2026-07-12

"経済学原理(上/下)" Thomas Robert Malthus 著

富とは、なんであろう...
ありふれた言葉だけに、きちんと定義したものを見かけない。豊かさとも、ちと違う。物質的な豊かさと精神的な豊かさとを区別するなら、経済学が論じることのできる領域は前者ということになろうか。
ただ、物質的な豊かさを精神的な豊かさで補うことはできても、その逆はできそうにない。結局、幸せとはなんであろう... という問いに帰着する。しかし、幸せという概念も一筋縄ではいかない。経済学に精神的な豊かさまで求めても... 経済学者に、人類を救え!などとふっかける気にもなれん...

トマス・ロバート・マルサスは、富と価値を区別し、生産と分配の側面から経済原理を論じて魅せる。その語り口は、どこか人口論の影を引きずっているような... 地球の限られた資源を暗示しているような...
また、本書には、デヴィッド・リカードの名が散りばめられる。議論の対象として。だが、二人は反目しあってはいない。生涯で本音で議論し合える人物に巡り会えるのは、幸せであろう...
尚、小林時三郎訳版(岩波文庫)を手に取る。

人生の意味を労働に求める考えは、ヘーシオドスの時代から語り継がれる。しかも詩的に。労働や勤勉に価値を求める哲学は、アダム・スミスも、マルサスも継承しているようで、21世紀の今でも散見する。
マルサスは、労働を生産に結びつけ、生産による利潤と非生産による利潤を区別する。あらゆる階級の生産活動を国力に結びつければ、国富論も成り立つ。過剰生産は、かつての経済学者たちが論じてきたように、長期的には相殺もされよう。だが、仮想空間に編み出された価値となると...

資本蓄積のために節約を論じた時代から、資本拡大のために投資を論じる時代を経て、いまや、自然増殖する仮想価値から消費を煽る時代か。地代や労働賃金、あるいは資本の利潤で論じられた時代は、なにやら懐かしい。需要と供給の関係ですべて説明のつく社会は、なんとなく心が落ち着く。

生産や労働の概念も、時代とともに随分と変化したものである。お金に執着すれば道徳観を疑われるが、お金のおかげで安穏と生活できるのも事実。自由とは、その人の能力に依存するというのは一理ある。人間の欲望が、その人間の能力に比例するという見方も...
しかしながら、人には生まれ持つ環境や条件がある。労苦なしに得られる収入や財産など。貯蓄にしても、個人の神聖な義務となるところがある。老後にお金をため過ぎて処理に困るといったことが、本当に豊かなのか。巨額なローンを頼りに欲望を満たす社会が、本当に豊かなのか...

お金持ちほど節約家だったりする。いや、お金の使い方が合理的と言うべきや。人間の合理性には、物的合理性と心的合理性がある。お金との付き合い方のうまい人は双方の按配をよく心得ていると見える。
経済循環とは、分配や再分配を促すものであろうが、節約よりも浪費の方が合理的な側面がある。金は天下の回りもの!実際、金融政策は、消費を煽ることばかり。マルサス風に言えば、「生産という名に値しないもの」があまりに多すぎるのか。
では、生産に値するものとは。少なくとも生産費用に等しい価値を生み出すもの... などとするなら、貨幣価値という幻想を追いかけている気分にもなる。

お金を得る手段ともなれば、利息所得や配当所得、あるいは相続財産ばかりか、貨幣を右から左に流す金融業や情報を右から左に流す広告業など、様々な非生産的形態がわいてでる。いや、生産の仮想化と言うべきや。
権力を右から左に流す政権業まで、すべてがお金と結びつくから、資本主義経済、恐るべし!この経済体系では、投資家が経済循環に大きな役割を担うが、その反面、なんでも資本にしちまう、お化け経済にも映る。人類は、貨幣を自然増殖させちまう巨大な経済システムを出現させちまった。発明者自身が制御不能なほどの。エントロピーの法則に照らすなら、貨幣に始まる仮想価値の暴走は、まだまだ序の口やもしれん...

「食物にたいする欲望は、あらゆる人の胃の腑にかぎりがありので、それによって制限されるが、建物、衣服、什器および家具というもろもろの便宜品および装飾品にたいする欲望には、なんらの限度もなければ一定の限界もないように思われる。」
... アダム・スミス

2026-07-05

"理論経済学の本質と主要内容(上/下)" Joseph A. Schumpeter 著

物事の本質を問えば、その素となるものを求める。哲学するとは、そういうことか。では、経済学にとっての素とは、なんであろう。
本書は、「純粋経済学」という語を用い、「アプリオーリ」「動学」という語をちりばめる。
カントは、人間の純粋認識として、時間と空間の二つを挙げた。
シュンペーターは、理論経済学の要素として土地、労働、資本は元より、財産の所有と権利といった帰属意識や価値観念を通して、価格理論、貨幣理論、貯蓄理論、分配理論、賃金理論、地代理論、利子理論を論じて魅せる。そして、これらの理論をニュートン力学との類似性に照らし、経済学の運動法則を探る。彼は、こうした視点を「変化法」と呼称し、従来の経済理論を、静学的な洞察から動学的な洞察へ発展させようと試みる。
尚、大野忠男、木村健康、安井琢磨訳版(岩波文庫)を手に取る。

「『すべてを理解するとはすべてをゆるすことである』という格言には、もっともな意味がある。一層適切にはなお次のように言うことができよう。すべてを理解する人には、ゆるすべきものは何もない、ということが分る、と。そして、このことはまた知識の世界にも妥当する。」

プトレマイオスの体系がコペルニクスの体系に屈したように、現代の理論もまた新たに見い出される理論に屈するのであろう。それが歴史というものか。スミスの富みの概念も、リカードの体系も、マルサスの原理も、経済学の発展に意義あるものであった。悪評高きロビンソンモデルにしても、そのまま吐き捨てるのでは、ちと惜しい。古典理論は、その時代背景を十分に考慮せずに先に進むと同じ轍を踏む。それを賛美しようが、非難しようが... 本書は、そうしたことに警鐘を鳴らしているような気がする。

学問の視点は、合理性や効率性を意識しすぎる感がある。それは、経済学に限ったことではない。欲望や利潤の最大化を見積もることは、現実離れしていないか。均衡状態なんてものが本当に存在するのか。経済学では、価格と効用が同義語ごとき扱われる。限界効用とは限界苦痛のことか...

しかしながら、何事も極限を考察することには意味がある。少なくとも学問的には。極限を記述する強力な道具に微分方程式があり、いまや経済理論の組み立てに欠かせない。
但し、これをそのまま鵜呑みにした経済政策は、しばしば弊害になる。それだけ経済状況は、カオス下にあるってことだ。シュンペーターも、「すべての理論は不完全!」とつい漏らしているが、おそらくそれが本音だろう...

そこで本書は、あえて人間性や心理的要件を排除する立場をとり、価格、貯蓄、分配、賃金、利子などの素朴な変動に着目することを表明している。数学的な記述は無味乾燥な議論にも映るが、そうした視点が逆に、人間と経済の棲み分けを暗示する。
実際、自由競争といえば、人間の自由行動に目を奪われがちだが、貨幣や資本そのものが自由に動き回り、もはや人間の手に負えない。人間を介さなくても、現実に交換関係は生じ、取引は成立する。おまけに、AI の参入とくれば、いよいよ人間は無用の産物か...

需要曲線と供給曲線の交差点で均衡状態を論じても、時間とともに曲線は左右に移動し、価値関数はいつも右往左往。享楽曲線や不快曲線も変化に富み、すべての相互依存関係から運動法則を見い出すのは、絶望的ですらある。それは、経済学だけでなく、心理学しかり、社会学しかり、そして、科学しかり。もはや経済学だけに、貧困問題を押し付けるわけにもいくまい...

ところで、「資本」というのも不思議な用語である。あらゆる価値を資本の一言で説明できちまうのだから。
例えば、不動産も、労働も、投資も、資本財となり、人材資本なんてものもある。
金融業ともなれば、他人からの投資まで自己資本として計上しちまう。返済義務が生じなければ、なんでも自分のもの!あとは自己責任で!あらゆる資本の間で依存関係が生じ、なんらかの奴隷制が成立する。
そもそも資本主義とはなんぞや?共産主義という語は分かりやすい。みんなで共に生産経済を発展させよう... などと綺麗事を並べれば、人間の本性をむき出しにするだけのこと。共産主義社会にも資本の概念はある。これに上級官僚や金持ちが群がるって寸法よ。ユートピアは人間にとって悪夢か...