随筆はいい。達人の書く随筆はいい。小説や詩のような枠組みに囚われず、気の向くままに筆を走らせる。まさに自由精神の体現。書き手にとって、これほど愉快なジャンルはあるまい。奴らの無造作な書きっぷりときたら、まるで浴衣を袖まくりした湯上がり気分。読み手だって負けちゃおれん。純米酒をやりながら、喜びのおこぼれを頂戴するまでよ...
しかしながら、自由に書くということが、一番の難題やもしれん。自己を思うままに吐き出せば、自ら心の中をえぐる。まるで自殺行為。自己を糾弾すれば、自己言及の群れが次々に押し寄せ... 自己陶酔に自己泥酔、自己欺瞞に自己肥大... そして、自己嫌悪に自己否定とくれば、ついに自我を失う。自己から距離を置き、自我を遠近法で眺めたところで同じこと。自我を覗くには勇気がいる。それを曝け出すとなれば覚悟がいる。体裁なんぞ、クソ喰らえ!良識なんぞ、クソ喰らえ!羞恥心への負い目から、まず凡人にはできない芸当だ。
九鬼自身も、小説のような形式の方が書きやすいかも... みたいなことを言っている。小説の中なら、架空の人物に自分自身を重ねることも、大袈裟に演出することも、嘘八百を並べることも、なんでもあり。厚顔な自己正当化までやってのける。自己に囚われないという意味では、むしろ小説の方が自由なのやもしれん。
いずれにせよ、自由に生きるには才能がいる。自己を自由にできるのは、自分自身でしかないのだから...
尚、本書には、「根岸」、「藍碧の岸の思い出」、「外来語所感」、「伝統と進取」、「偶然の産んだ駄洒落」、「祇園の枝垂桜」、「書斎漫筆」、「青海波」、「偶然と運命」、「飛騨の大杉」、「一高時代の旧友」、「東京と京都」、「自分の苗字」、「故浜田総長の思出」、「回想のアンリ・ベルクソン」、「岩下壮一君の思出」、「音と匂」、「小唄のレコード」、「上高地」、「かれいの贈物」、「秋」、「秋の我が家」、「ある夜の夢」、「岡倉覚三氏の思出」の24篇が収録される。
1. 地中海の浜辺を逍遙するがごとく...
本書は、コート・ダジュールへの思いに始まり、明治から昭和にかけて西洋かぶれしていく風潮を皮肉り、偶然と運命の板挟みになった無常な人生に思いをめぐらし、岡倉天心との親交やベルクソンとの対話を回想する、といった具合で、まるで逍遙するがごとく。
九鬼は、コート・ダジュールに「藍碧の岸」という言葉を当てている。この地には、冬でも空と海とが藍碧の色を見せているところに、名前の由来があるのだとか。ニーチェは、「ツァラトゥストラ」の一部分をニースやマントンで書いたという。ギュイヨーが逍遙しながら「将来の無宗教」の幾項を書いたという浜辺もあるそうな。
なるほど、地中海の地に思いを馳せる芸術家は多い。ガウディはバルセロナを聖地とし、ヴァザーリはトスカーナに格別な心情を告白し、ヴァレリーは地中海に宿る精神ついて熱く語ってくれた。
「人間存在の構造契機としての風土性を生の哲学者の中に目撃しようとするならば、その風土性は恐らくは藍碧の岸の官能を帯びたものであろう。」
2. 哲学者とは...
九鬼周造は、哲学者として知られる。ウィキウィキ百科にも、そうある。ただ、彼の印象となると、著作「いきの構造」で感じ入った春風駘蕩たる文人とでも言おうか。どこか風流な、情緒あふれた、心の余裕を感じさせるような... そんな文章に、粋に生きたい!などと刺激されたものである。これほど小説家のような風情をまといながら、小説のような作品を一つも書いていないのは、ちと意外。詩や短歌の方は、数多く残しているそうな。そして、この一句にイチコロよ...
「灰色の抽象の世に住まんには濃きに過ぎたる煩悩の色」
そもそも、彼は哲学者か?それに、哲学者ってどうやってなるの?単に自称すればいいの?少なくとも、文才がなくては哲学者にはなれまい。真理の探求プロセスでは、言語に頼らざるを得ないであろうから。論理的な思考アルゴリズムも要求され、自問に耽ればナルシシストな一面も覗かせる。
九鬼は哲学科を専攻したらしいが、真理の探求に専門も糞もあるまい。むしろ、科学者や数学者、社会学者や心理学者、芸術家や音楽家など、学際的な知識人の中に哲学者を見かける。一流のスポーツ選手やバーテンダーが一流の哲学を披露することだって珍しくないのだ。哲学とは、生き様のようなもの。九鬼は、ベルクソンの言葉を引く。
「哲学とは、人間的状態を超越するための努力に外ならない。」
3. 苗字コンプレックス!?
九鬼は、苗字に対してコンプレックスのようなものを匂わせる。珍しい名ではあるが、信長時代の戦国武将に見かけるので、それほど違和感はない。
西洋人は、よく名前の由来を聞いてくるらしく、そのエピソードを紹介してくれる。そういえば、おいらも外国人によく聞かれる。おいらの苗字も珍しく、子供の頃、学校でよくからかわれたものだ。生徒だけでなく先生にも。おかげで、馬鹿にされることに慣れちまい、天の邪鬼な性分がすっかり身についちまった。外国人にも馬鹿にされる。そこで、テトラクテュスに看取られた名だ!と反論すると、逆に感心され、今では話のネタにしている。
まぁ、それはさておき、「九つの鬼」というのも、不気味といえば不気味。「クキ」という響きもよくないようで、"Cookie" などと駄洒落も飛び出す。九は、一から数えると終端。それは終極としての死を意味し、不幸不運の数とされる。
一方で、ピタゴラス学派は、3 x 3で権衡を保ち、平等を表すとして正義の数と見做した。要するに、いかようにも解釈できるわけだ。
そして、九鬼の解釈もなかなか。3 の自乗は弁証法とも深く関わり、「九」も「鬼」も形而上学的な色彩を帯びているという...
「鬼神は往来屈伸の義なり。故に天なるを神といい、地なるを示といい、人なるを鬼という...
人死ねば精神は天に昇り、骸骨は土に帰する。故にこれを鬼という。鬼は帰なり...
鬼に三種あり、謂はく無と少と多との財なり。三に各々三を分つ、故に九類となる。」
0 コメント:
コメントを投稿