本書は、物理現象を数学で捉えようとする試み。それは、教科書や解説書といったものではなく、あくまでも副読本に位置づけたものだという。音楽でいえば、楽譜のようなものだとか。楽譜は演奏者に次のイメージを開かせるための補助手段に過ぎず、演奏者は読者に過ぎず... と、いささか挑発的。
とはいえ、客観性では他を寄せ付けない数学を、人間の認識、すなわち主観性の側面から物語ってくれるところが、いかにも愉快。それだけ、毒しているとも言えるのだけど...
「数学者と物理学者と哲学者とを、凝り深さという性質で序列をつけるとすれば、哲学者が一番凝り深く、数学者がそれに次ぎ、物理学者が一番凝り深くないということになると思われる。しかし、人間は人間であるかぎり根源的に哲学するものである。誰しも小中学校の頃に 1 + 1 はなぜ 2 なのか?などという素朴な疑問にとりつかれたことがあるはずだ。」
数学者とは、自然数に内包される論理性以外は真実と認めない人たちを言うそうな。
物理学者とは、空間概念のみならず、時間、質量、力、電荷量、熱量、温度、エネルギーといった概念を疑いようのない正当なものと信じる人たちを言うそうな。
となれば、物理学者は数学者よりも現実主義者と言えそうか...
物理量は、数学的には実数、ベクトル、行列、関数といったもので記述され、単位記号が付随して物語となる。その意味で、数学の記述は無味乾燥な道具に過ぎない。しかも、具体的な記述法は、最初に考案した数学者に委ねられる。純粋な定理なのに難解な記述を強いるとは、このエゴイストめ!
いや、純粋だからこそ、人間が理解できるように記述することが難しいのやもしれん。本書には、こんな文句が散りばめられる。
「神がそれを好むからではなく、人間がそれを好むからだ!」
数学を学ぶには、直感とイメージが大切である。だが、直感がついていけくなると、奇妙な圧迫感が生じる。別の直感を磨く必要に迫られるあまり、却って直感を鈍らせることに。やはり何かを学ぶには、面白くなくっちゃ!楽しくなくっちゃ!
さて、力学と微分幾何の物語は...
まず、ユークリッド空間において曲面上に幽閉された束縛運動の考察に始まる。束縛力は、接平面に垂直に働く。その支点において、接ベクトルで記述される第一基本量と、法線ベクトルで記述される第二基本量から、曲面の曲がり具合を行列で定義し、距離的に最も効率的な測地線の運動方程式を探る。こうした考察を眺めているだけで、リーマン多様体を予感させる。
ちなみに、等距離図法の不可能性についての考察は興味深い。つまり、地球上のある領域において、二点間の距離がどこでも正確な縮尺率で地図を作ることが可能か?という問題である。その不可能性をガウスが証明したとさ...
次に、微分形式ってやつが、熱力学や電磁気学といかに相性がいいかを味わわせてくれる。熱力学の第一法則と第二法則が一次元的な運動として、一次形式や線積分での記述を容易にし、電場や磁場、あるいは電磁誘導が曲面的な運動として、二次形式や面積分での記述を容易にする。
そして、ガウスの発散定理とガウスの法則で二次微分形式との相性の良さを外観し、マクスウェル方程式が二次微分形式によって簡単な記述となる... といった流れ。
ちなみに、おいらは学生時代、ガウスの法則で赤点をとっちまった!
こうした空間概念が無限次元に拡張されると、自然に多様体の世界へと導かれる。支点を記述する微分と運動を記述する積分の関係は、次元に束縛されないとさ。
しかし問題は、微分可能性にあり、それが極めて確率的に低いことにある。方程式ってやつは、記述できりゃええってもんじゃない。微分方程式が厄介なのは、そこだ。
次元数が無限へと解き放たてると、陰関数定理ってやつが役立つ。陰関数定理は、多項式を多変数の式と見なすことができ、解析学では近似的に見ることもでき、重宝される。
そして、ニュートン力学は、ラグランジュ系で再定義され、ルジャンドル変換を通してハミルトン系へと導かれる。
ただ、ニュートン力学にしても、ラグランジュ系にしても、ハミルトン系にしても、乱暴に言えば座標系が違うだけ。それは、観測者の慣性系が違えば運動の見え方も違うと告げる相対性理論の考え方にもつなり、一般相対性理論の運動方程式がハミルトン系で記述できるのも頷ける。演算を簡単にするために力学系を変換していると見るなら、やはり人間のご都合主義か...
さらに、時間を想定した時、これも慣性系に幽閉されることになる。
では、ビッグバンのような宇宙の始まりを論じようとすれば、何か基準となる時間軸が必要になりそうだが、それで絶対時間のようなものが存在することになるのだろうか。
いや、時間のみならず、標準や常識、さらには価値観や世界観、おまけに宇宙論なんてものも、記述できるものすべてが人間のご都合主義なのやもしれん。
少なくとも人間が編み出した学問は、何らかの記述ができなければ成り立たない。それで言語体系の限界に挑んでは新たな専門用語を編み出し、その定義で悩まされてりゃ、世話ない。これは、ある種の病理学か。おそらく人間の認知能力は、言葉や記号で表せない領域が思いのほか広大なのであろう。微分不可能な領域のように...
「自然法則は、『A という原因が起これば、必ず B という結果が生じる』という形の因果関係を記述するものが多い。これを『A ならば B である』という数学の命題と同義とみるためには、どうしても時間は一次元的でかつ循環せず線形的に発展するものと約束してしまわねばならない。」