Google 社の AI 開発で陣頭に立つレイ・カーツワイル...
彼は、指数関数的に成長を続けるテクノロジーは、いずれ「シンギュラリティ」に至ると予見する。それは、人間であることの意味を拡張させ、遺伝という生物の枷を取り払い、知性が高みに登りつめることを意味するらしい。この指数関数的な進化を「収穫加速の法則」と命名。しかも、その時期は近い!と...
それは理想郷でもなければ、地獄でもない。では、信仰の問題か。いや、理解の問題だ。コンピュータ科学は、もはやコンピュータを研究する分野にとどまらない。おそらく、あらゆる学問がそうなのであろう。つまり、学問する主体自身を理解しようという。そして、人間には人間自身を理解する能力があるのか、が問われる。シンギュラリティは近い。だが、人類には、ちと早すぎる...
シンギュラリティを邦訳すると「技術的特異点」となる...
特異点といえば、数学的なアトラクターや物理学的なブラックホールを想起させる。例えば、周期的に安定状態にあるシステムが、微妙なズレやゆらぎのために周期性を徐々に失っていき、突如、ある種の不動点に嵌ってしまうことがある。そうした状態に一度でも嵌まると、抜け出すことはほぼ不可能。市場価値の歪みから生じる金融危機などは、その典型パターンと言えよう。
しかし、ここでの特異点は、ちと明るい未来を想像させてくれる。人類に明るい未来が相応しいのかは知らんが...
尚、井上健監訳、小野木明恵、野中香方子、福田実共訳版(NHK出版)を手に取る。
人工知能やロボットが人間の能力を超えると、社会のあり方が問われるようになる。そんな状況を想定することは難しくない。現実に、将棋界や囲碁界でそうした事態を目の当たりにする。
しかし、マシンが知性や理性までも人間を超越するとなれば、それはどんな社会であろう。人間足るとは、どういうことか?などと逆にマシンに問い詰められ、憂鬱感を蔓延させた社会となるか、あるいは、マシンが統治者となることを従順に受け入れ、それこそ人類が夢見てきた真の平等社会となるか。いずれにせよ、明るい未来は見通せそうにない。
だがそれは、人間とマシンが別物だと思い込んでいるからそう思うのであって、人間とマシンが融合したハイブリッド型生命体として進化していくとすれば、どうであろう。人間が自ら造り出したテクノロジーと合体する臨界点では、どんな生命体が形成されるだろうか。コンピュータが得意とする記憶量、正確さ、高速性といったものを人間が身にまとえば、最強の生命体となろう。それでも、人間性だけは見失わずにいたい。
ご都合主義の人間のことだ。サヴァン症候群のような天才的な能力のみを寄せ集め、欠点は徹底的に排除にかかる。愛などという微妙な属性を崇め、都合の良い性癖だけは手放せず。人間が思い描く合理性が宇宙の合理性に適っているかは知らんが...
「まず、われわれが道具を作り、次は道具がわれわれを作る。」
... マーシャル・マクルーハン
科学は人間の地位を蹴落としてきた。人間の棲家である地球中心説を放棄させ、人間中心説を放棄させるに至れば、知性や理性なんぞ、人間だけに与えられた特別な性質などとは言ってられまい。
人間には意思がある。少なくとも、そう思っている。マシンには意思がない。少なくとも、そう思ってきた。だが構造的には、人間も、マシンも、同じ原子の集合体。突き詰めれば、宇宙に存在する物体すべてが同じ構成要素で形成され、運動する物体のすべてはエネルギーの燃焼と放出を繰り返す熱機関として君臨する。はたして精神や魂は、人間固有のものなのか?
知的生命体の進化の過程が宇宙の進化そのものだとすると、宇宙空間に充満する原子の集合体が、一つの意思を持っていても不思議はない。カーツワイルは、進化の過程で鍵となる三つのテクノロジーを挙げている。それは、G(遺伝子工学)、N(ナノテクノロジー)、R(ロボット工学)で、GNR 革命と称す...
「シンギュラリティは最終的に宇宙を魂で満たす、と言うこともできるのだ。」
では、シンギュラリティに達した精神は、普遍性に則したものとなろうか...
人類は技術力をムーアの法則に従って進化させてきた。それにともなって精神を進化させてきたと言えるだろうか。いまだソクラテス時代の哲学が輝きを失わずにいる。仮に、マシンの部分だけが進歩し、人間性が取り残されているとすれば、あまりにバランスを欠く。
人間は、環境への適合という意味では進化しているだろう。寿命が延びていることも、その一因と思われる。身体を自己修復機能を搭載したサイボーグで再構築すれば、寿命は限りなく延びていくだろう。
ナノボット・テクノロジーが、病原体を破壊し、DNA エラーを修復し、放射能に強い皮膚をまとい、ニューロンを超高速素子に置き換え、身体を超人的にアップグレードする。血液の酸素を運ぶ効率を大幅に改善したプログラムできる人工赤血球を注入すれば、凡人がオリンピック選手の記録を上回る能力を獲得できる。そうなると、オリンピックの存在意義が問われるであろう。
手も足もいらない。そればかりか、肺は必要か、心臓は本当に必要か。老化や死を限りなく遠ざけることができれば、生の意味を与えてきた死を正当化する必要もなくなる。おそらく人間のことだ!死の概念を遠ざけ、その意識を疎かにすれば、戦争をおっぱじめる。地球最強の生命体は、宇宙戦争を引き起こす史上最悪の生命体になるやもしれん...
宇宙に目的があるかは知らんが、生命体の目的は生存にある。それは、構造やメカニズムの最適化によって成される。はたして非生物的なメカニズムが、生命のデザインを受け継ぐであろうか。やはり、宇宙は合理的にできていそうだ。複雑になり過ぎれば崩壊させられ、原子レベルに分解されちまう。アインシュタインも言っている。「できるだけ単純に、ただし単純すぎてもいけない。」と...
そして、人間の根源とは何か?と問い直さずにはいられない。それで、精神を病んでりゃ、世話ない。まったく精神ってやつは、厄介だ。いや、すべてが合理化されれば、精神も必要なし!今、脳のリバースエンジニアリングに迫られる...
「忘れてはならないのは、未来に出現する知能は、人間の文明の表れであり続けるということだ。その人間の文明が、すでに、人間と機械が融合した文明であってもだ。言い方を変えれば、未来の機械は、もはや生物学的な人間ではなくとも、一種の人間なのだ。これは、進化の次なる段階である。次に訪れる高度なパラダイム・シフトであり、知能進化の間接的な作用なのだ。文明にある知能のほとんどは、最終的には、非生物的なものになるだろう。今世紀の末には、そうした知能は、人間の知能の数兆倍の数兆倍も強力になる。しかし、だらかといって、しばしば懸念が表明されているように、生物としての知能が終わりを告げるというわけではない。たとえ、進化の頂点から追い落とされようとも。非生物的なものの形態ですら、生命の設計を受け継ぐ。文明は人間的なものであり続けるだろう。しかも、多くの点で、今日にもまして、人間的と見なされるものをより典型的に示すようになる。ただし、人間的という言葉は、本来の生物学的な意味合いを超えて使われるようになりはするが...」
0 コメント:
コメントを投稿