言葉のニュアンスというものは、個人や文化によって微妙に違うものである。にもかかわらず、だいたい意思疎通ができるのだから、人間の直感も捨てたもんじゃない。いや、意志疎通ができていると勝手に信じているだけのことかもしれん。
例えば、「体系化」という言葉は、学問分野によっても体系レベルがまったく違う。数学の体系化では、方程式に完全に嵌ることを要求する。対して、社会学など人間精神を相手取る分野での体系化は、せいぜいカテゴリーに分類するぐらいなもの。こうした認識の違いは、集団に属す文化的感覚の違いから生じるのだろうか?
人間の犯罪意識ほど、個人差のあるものはないだろう。どんな残虐な行為も宗教的観念から聖域と解釈する者もいれば、理性の持ち主と自負する者が法律スレスレならばなんでもありと解釈したりと、節操がない。天才たちに、自殺する例を多く見かけるのは、人間が生きること自体を罪と認めた結果なのかもしれない。
となれば、言語の体系化は、認識の体系化から組み立てなければならなるまい。つまり、精神の体系化である。しかし、それは人間の認識能力では、自己矛盾に陥り不可能であろう。こうした絶望的な事情であるにもかかわらず、めいめいが勝手な解釈を与え、議論を戦わせながら相手を罵りあえるのだから人間という存在はおもしろい。まるで自己の存在を固守するかのように。おまけに、人間自身が人間認識のアルゴリズムを明確に説明できないでいる。
スイスの言語学者ソシュールに始まる言語学を、「構造主義言語学」と呼ぶそうな。レヴィ=ストロースあたりにあやかった用語であろうが、物事を構造的に分析しようという試みは自然な分析方法に映る。なにも大袈裟な用語を持ち出さなくても、ソシュールの研究が色褪せることはないだろう。
言語学の構造分析では、単語と単語の関連性や文法を解析することになる。文に構造がなければ、共通認識を辿るのも難しくなり、言葉は伝達能力を極度に失うだろう。完璧とは言えないにしても、現実に翻訳が成り立っているのは、そこに文法という手掛かりがあるからである。言葉や文章を解析するには、品詞などの要素に分解して、要素の性質を調べる必要がある。文章構成を解析するには、階層的な関係や並列的な関係など、立体的な視点も必要となろう。したがって、人間が認識を合わせようとするところには、なんらかの構造的要素が存在するものと思われる。
素朴に「言葉の役割とは何か?」と問えば、それは伝達する手段ということになろう。では、何を伝達するのか?社会の出来事や人間の行動といった様々な現象の伝達であるが、中でも厄介なのが精神の内にあるものの伝達である。言葉で伝達するからには、ある程度の公的な立場で客観的に表わす必要がある。だが、精神の内にあるものは極めて情念的なので、完璧に表わすことは難しい。いまだ人間は、誰もが使える言語としての普遍的原理を見つけられないでいるのだから。したがって、言語学は非常に危機的な状況にある。それを言いだしたら、人間精神を相手取る学問は、すべて危機的状況にあると言わざるを得ないが。最も厳密性の高い数学ですら不完全性に見舞われながら自己矛盾と対峙しているし、人間認識を介在しない学問は人間社会には存在しないわけだが...
日本語にきわめて曖昧さが残るのは、単一民族という特徴から暗黙に通じる共通認識なるものがあるのだろう。多民族間の意思疎通という意味では、厳密性の強い西洋語の方が有効なのだろう。欧文で、やたらと人称代名詞を使ったり、未来形や過去形あるいは現在完了形や過去完了形といった時制をしつこく使うのも、厳密性の表れであろう。しかし、精神を微妙に表現するには、民族固有の言語を捨て去ることはできない。言語は社会慣習や民族文化と密接にかかわる極めて経験的なものであって、厳密性だけでは精神の内にある芸術性を表わすことは難しい。翻訳にしても、だいたいのニュアンスを伝えることができても、完璧に単語をあてがうことは難しい。多くの民族で似たような言葉が見つかっても、微妙にニュアンスが違ったりする。口の動かし方にも民族に違いが見られる。音素のLとRの周波数の違いは、日本人には舌を噛むか噛まないかぐらいの違いにしか認識できない。言葉の多様性を扱うことは、人間の多様性を扱うぐらい難しい問題である。
となると、これだけ複雑でありながら、「なぜ言葉は通じるのだろう?」という素朴な疑問がわいてくる。本書は、まさしくこの疑問と対峙する。著者は、言語学は数学のような抽象的概念ではなく、「現実の尊重」であると語る。これは、純粋科学というよりは経験科学の領域にある。数学の一般的な考察は、公理から出発して定理が演繹されることによって進化してきた。対して、言語学の考察は、まず現実から出発して、帰納法的方法で定理を発見していくことになろう。そして、どんな言語にでも当てはまる普遍的な言語法則や文法法則が見出せるのか?これが、言語学の抱える根本的な課題のようだ。
「西欧で流行している学説を、時代性を考慮せずに無批判に取り入れてもてはやすことの好きな日本人は、構造主義などもう古いと思ってしまいがちです。しかし、言語学という学問の本質にとって、構造主義が最もふさわしい方法を提供してくれる学説であることに疑いはありません。」
人間は、集団社会の中で自分たちだけが認識できるような合言葉で、互いの意識を認め合うところがある。仲間意識の誇張と言おうか、縄張り意識による自己存在の防衛意識とでも言おうか。人間には孤独を恐れる習性がある。流行語には、時代に遅れていないかの自己の存在位置を確認する役目がある。ある集団が他の集団よりも優れているという勝ち誇った共通意識を持とうとすれば、彼らにしか理解できない言葉で優越感にも浸る。人間は、他人よりも優勢であると認識したいがために、知識や言葉を身に付けようと努力するのかもしれない。
世界中で普遍的な共通認識が持てるような世界共通語なるものがあれば、意思疎通という意味では便利である。だが、意思疎通が曖昧だからこそ、精神の高まりを呼び起こし、そこに芸術性が生まれる。言語は、合理性の作用で今後も変化し続けるだろうが、歴史的背景を消し去ることはできない。あらゆる学問において人間にかかわる事象を科学的に解明しようとし、ことごとく人間精神の壁に阻まれてきた。言語学も同じ運命を辿るであろう。
1. 音声と意味
本書の特徴は、言葉の音声と、言葉の意味を関連付ける議論に終始するところであろうか。そういえば、とっさに言葉が思いつかない時に、とりあえず擬声語のようなものを発することがある。静かな様を「シーン」とか、鋭い様を「スパッ!」とか、非常に寒い様を「うぅー寒ぅ!」とか、身ぶりを付けながら。ちなみに、アル中ハイマーは、いちころな様を「もうメロメロ!」と呟くそうな。なるほど、人間が言葉を使う時、まず音に頼っているのかもしれない。いや、象形文字のように形をイメージする場合もある。いずれにせよ、言語は、聴覚や視覚といった人間の知覚能力から発達したと考えてよさそうだ。ただ、音声と意味が関連付けられるのも、慣習や文化などの経験的なものであって、動物の鳴き声を表わすにしても、民族によって様々な違いを見せる。
本書は、言葉が成立するための必要な要素は、単語の意味と、意味を表すための音だとしている。意味を表すための音を「聴覚映像」と呼ぶらしい。これは、音から意味をイメージする認識能力といったところだろうか。また、音声と意味は異質な要素であるにもかかわらず、そこに結びつきを求めること自体が不思議なことだ!とも語っている。音声は音波という物理的現象で説明できるが、意味は頭の中で解釈されるものであって、なんとも説明し難い。ソシュールは、音によって意味を伝達するという基本的な性質を出発点にして、言葉の仕組みを解明しようとしたという。音声から分析するにしても、人間の顎の形はある程度決まっており、発せられる音も限られる。音声を聞き取る耳にも周波数の限界がある。人間の持つ入出力装置の能力によって、ある程度言葉も決まる。
おまけに、同音異義語まである。「とうさん」の会社は「倒産」しちゃった。なので「当分」酒も飲めずに「糖分」控え目。なんのこっちゃ?
民族間で音に対する感情の違いが見られるにしても、現実には世界的にヒットする音楽がある。となれば、言葉の音声に普遍的な原理が見つけられないにしても、ある程度の共通した性質を見出すことはできるのだろう。ソシュールは、その普遍性に挑んだというから、その試みは壮大である。
2. 会話と共通認識
会話は、話し手と聞き手の役割分担があって、互いにその役割を交換することによって成立する。これは、言葉の共通認識があるからこそ、成り立つメカニズムである。
本書は、言葉から共通認識が得られるということは、そこに社会性があることを意味するという。もっと言うなら、社会性には暗黙の認識のようなものがあって、他文化を研究するとは、まさしくこの点を解明することであろう。言葉は一種の記号を示すが、それだけの機能にとどまらない。人間は、言葉によって自由に恣意する。したがって、言葉のニュアンスが違ってくるのも自然であり、人間が精神を獲得した時点から持つ自然な性質である。時代が変わるということは社会環境が変化することを意味し、時代とともに言葉に変化が見られるのも自然である。
厳密で客観性を持つはずの専門用語でさえ、組織文化の違いによって微妙にニュアンスの違いを見せる。ずっーと一つの組織に依存していると、組織文化に染まっていることすら気づかない。そして、当り前のように文化を押し付けて、言葉が通じないと馬鹿にすることもある。こっちが馬鹿だから仕方がないのだが。近年登場するネット関係の用語は、専門家ですら明確に説明することが難しい。客観性を帯びるはずの専門用語は、ますます曖昧になって雲の上に登っていくかのようだ。これがクラウド化の正体か?実体が見えないからこそ、集団心理を煽りやすく、安全性や利便性を強迫観念にまで押し上げやすい。そして、人間社会の実体は、ますます仮想化へと向かう。いや、そもそも実体なんてものは幻想だったのかもしれない。
3. 言葉の合理性と経済性
言葉が、伝達の手段であるならば、そこに一種の合理性が現れるだろう。口語体は、時代の変化に応じて合理性に基づいて変化してきた。明治から大正デモクラシーにかけて、急速に西洋化が進み、欧文かぶれの口語体が出現した。現在の日本語は、国際感覚が混入しながら合理的に育まれた結果と言えよう。しかし、人間の価値観には多様性があり、合理性にも多様性が現れる。どんなに、グローバリズムの波が押し寄せようとも、精神の合理性にはおよぶまい。
ところで、口語体には、できるだけ労力を使わずに単純に表現したり、効率的に表現するという傾向がある。あらゆる技術や手段は、利便性を求め、合理的に使えるように発明されてきた。人間の思考は楽をするために様々な工夫をするもので、言語の発達もその過程の一つと言えよう。人間の脳は、なるべく多くの情報量を効率良く合理的に処理したいという願望から進化している。日常生活やあらゆる学問で、用語の短縮形が見られるのも、一種の合理性である。熟年夫婦ともなれば、「あれ」やら「それ」といった代名詞で意思疎通ができるようだ。若年層の間では、合言葉のように独特の省略形が用いられる。ネット社会で使われる顔文字も、合理性から育まれたと言えよう。言葉が伝達の手段だけならば、経済性の原理だけで説明ができる。しかし、文学作品では、わざわざ回りくどい表現を使ったり、読みにくい表現を使うことで、精神の働きを呼び起こそうと仕掛けてくる。これも、精神を呼び起こすための合理性と捉えることもできるのだが。となれば、合理性にも多様性があり、合理性を単に情報量だけで判断することもできまい。
4. 表示部と内容部
構造主義的な立場からすると、文は記号であり、記号は表示部(音素列)と内容部(意味)が備わっているという。本書は、言語学にとって表示部と内容部をと独立させて分析することが重要だと語る。
だが、音素列は物理量として分析できるにしても、意味だけを分析するとはイメージし辛い。名詞であれば、その音素列が指すものは明らかであるが、既に意味を含んでいるような?文章はそれぞれ違った性質の単語が連結されて一体化して意味をめぐらすような性質がある。文章を分析するには、全体を見渡すような立体的な感覚も必要である。内容部を無視した表示部の分析って可能なのだろうか?現実に、要素として摘出できるのは、表示部だけのような気がする。本書も、内容部の存在は幻想のようでもあると語っている。そもそも、言葉は表示部で成り立つもので、意味を表わすための手段じゃないんだっけ?音素列と意味を独立させるとは、言語学が自己矛盾に陥っているようにも映るが...んー?よく分からん!ただ、疑問を持ったところで、ソシュールの著書を読む勇気は持てないような気がする。
2010-08-15
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