2017-08-20

"神曲 煉獄篇" Dante Alighieri 著

人生の道なかば、ダンテは古代ローマの大詩人ウェルギリウスの導きを得て、地獄、煉獄、天国をめぐる。そしてちょうど、24時間の地獄めぐりを終え、大海の島に出たところ。目前にそびえるは煉獄の山、天国行きを約束された亡者たちが現世の罪を浄める場である。山頂には永遠の淑女ベアトリーチェが待つ地上の楽園があり、二人はこれを目指して登り始める。
待ち受けるは七つの環道。それは、煉獄山を取り巻く幅が三身長ほどの道で、「七つの大罪」を克服するための道だ。ダンテは、これらの関門を乗り越えない限り、自分自身を救えないことを知っている。理性なんてものは、自分の罪を認められるような境地に達しなければ、けして身に纏えないということか。自分の理性に自信を持つようでは、けして!どうりで、酔いどれ天の邪鬼には縁がないわけだ...
尚、平川裕弘訳(河出文庫)版を手に取る。

地獄には希望なんてものがない。だが、煉獄には希望めいたものがある。だから、余計に地獄なのかもしれない。人間は、どんな罪でも自己の中で正当化でき、自己完結してしまう性癖の持ち主で、正義は常に自分にあると信じられる幸せな存在である。地獄では、その言い訳が俗悪人の愚痴で片付けられる。たとえ自分の罪を認めたとしても、誰も構っちゃくれない。
一方、煉獄では、言い訳を優しく包み込み、罪を認める手助けをしてくれる。地獄篇で、永劫の罪に苦しむ無残な魂を強く刻んでおきながら、煉獄篇となると、羞恥や後悔といった情念を控え目な誇りのうちに導いてくれるのだ。
そして、地上の楽園に到達すると、そよ風に頬をなぶられながら、爽やかに草原を逍遥する。それが、逍遥派として知られるリュケイオンの学徒たちのことを指すのかは知らんが、師のアリストテレスも、その師のプラトンも、身体を地獄篇に晒していた。ダンテは、煉獄に来てもなおフィレンツェを呪い続ける。神におべんちゃらを使ってなんになる!と言わんばかりに...

三位一体の神が司る無限の道を、人間の理性なんぞで行き尽くせるなどと信じるは、狂気の沙汰。本当に、マリアはイエスをお生みになる必要があったのか?わざわざ死後の世界に克服の場を用意しなくても、現世に体現されているではないか。道徳心を操ることに優れた者ほど悪徳が巧みで、正義で武装する者ほど叩けば埃が出る。
自由意志を解放したければ、まず何に隷属しているか、何に依存しているかを承知すること。それは、欲望にほかならない。なぜ悪徳を行なうかを承知すること。それは、欲望にほかならない。人間なんぞに欲望を完全に排除することなどできようか。それこそ人間ではなくなる。養分を取る必要のない煉獄の魂となってもなお、痩せ細るとはどういうわけか?五体を脱ぎ捨てても自由は得られない。だから人間なのだ。
有限界の存在が、無限界に魂を売るのは危険である。血を捧げるだけでは足りない。肉体の罪は焼き払えばいいが、魂の罪は永遠だ。七つの大罪は、身体の限界からくる可能智によって認識される。それは、高慢、嫉妬、憤怒、怠惰、貪欲、大食くらい、色欲の七つで、いずれも人間社会の都合で罪とされる。宇宙には、人間には認知できない罪が他にもたくさんあるのではないか。そして、人間の存在そのものが罪ということはないのか。
理性の世界ってのは、よほど退屈と見える。そうでなければ、神が人間を創造したことの説明がつかない。地獄篇は谷へ堕ちていく苦悩、煉獄篇は暗闇を登っていく苦悩、さらに天国篇にはどんな苦悩が待ち受けているというのか。閉所恐怖症から暗所恐怖症へ導き、さらに高所恐怖症へ導こうとでもいうのか。真の目的は... 天国へ行く結果ではなく、天国へ行くまでの過程を存分に味わうこと... これを人生の醍醐味とでもしなければ、泥酔者の魂は救えそうにない...

1. 宗教芸術と地獄絵図

天よりくだり、現身(うつそみ)のまま
正義の地獄と煉獄を見、
生還して神を観照し、
真理の光をわれらにあたえ、....

これは、ミケランジェロが書いたダンテを讃えるソネットの出だし。彼は、フィレンツェを追放され、流竄の半生を送った境遇に共感したようである。本物語には、ヴァザーリ著「ルネサンス画人伝」に描かれる面々が登場する。
ところで、宗教画には天国と地獄の双方が描かれるが、地獄を描くことは罪であろうか?教会だって地獄絵図を大々的に飾り、大聖堂のファザードにも悪徳の寓意を多く見かける。そんなところへわざわざお祈りに行くのは、なぜか?怖いもの見たさか?教会は、天国の入口か?それとも、地獄の三丁目か?
人間ってやつは、目の前の幸せにはなかなか気づかず、心配事や恐怖心に対して過度に反応する。喜びは一瞬のうちに忘れ、恐怖は死ぬまで持ち越し。そして、本当に地獄に憑かれ、地獄へ吸い込まれていくような人生を送る。はたして、すべてを忘却することが幸せへの一歩となるだろうか...
地獄が戒めの役割を果たすのも確かだ。理性は抑制と相性がよく、抑制は戒めの原理に縋る。こうした感覚は、M の証拠!宗教は、この深層心理をついて、何事にも受動的で、無条件に信じることを要請してくる。
もはや魂を救うには、天国を描くだけでは不十分ということか。そのために芸術家たちは、あえて罪を背負おうとするのか。地獄を描く資格とはいかなるものであろう。天国を描く資格とはいかなるものであろう。地獄を描く者は、宗教家にせよ、芸術家にせよ、筆力を存分に発揮し、鑑賞者を畏怖させる表現力に酔う。はたして、自己陶酔が自由意志への一歩となるだろうか...

2. 煉獄の門
ダンテの世界観によると、地獄の谷の真上にエルサレムが位置し、その東九十度にガンジス川、その西九十度にジブラルタルが位置する。煉獄の山はエルサレムの対蹠地にあって、ちょうど日の出が見える。そして、ジブラルタルを通る子午線の上で正午、エルサレムで日の入り、ガンジス河口で真夜中となる。
また、シオンの山と煉獄の山は、それぞれ北半球と南半球に属しているが、同一の視線を有しいてるという。
最初に待ち構えるは煉獄の番人、小カトー。ローマ共和政の自由を守って戦い、カエサルに敗れて自殺した男だ。ダンテは、彼を倫理的な理想人物として尊敬していたという。だから、自殺の罪を免れ、番人としたのか。カトーが威厳ある態度で二人の身の上を問いただすと、案内人ウェルギリウスは、ダンテが煉獄を見るに値する人物であることを示す。
煉獄の入口には三段の石段があり、最上段に天使が腰掛けている。
第一の石段は悔悛を表し、磨きあげられた白い大理石に自分の罪を告白するという。
第二の石段は濃い色をし、心の暗い影を表すという。
第三の石段は燃えさかる鮮血な色をし、悔悛者自身が惜しみなく吹き出す血を表すとも、十字架で磔になったキリストの血を表すとも言われ、解釈は様々なようである。
天使は、剣の先で P の字をダンテの額に刻んだ。罪はイタリア語で "Peccato"、いわば通行手形のようなもの。すべての罪を背負えば、七つの P の字が刻まれ、罪が浄められる毎に一字ずつ消されていく。
山腹には、謙遜の範を示す言葉が白い大理石に刻まれている。
「幸いなるかな、義を求め義に渇く者は...」
天使は、金と銀の鍵をまわして門を開いた。
「マタイ伝」第十六章十九節に「又われ天国の鍵を爾(なんじ)にあたへん」とあり、金の鍵は聖職者の権威を、銀の鍵は学問知性を表すそうな。
尚、「環道」と訳される語は、イタリア語では「girone(ジローネ)」というそうで、「めぐる」という意味がある。

3. 環道めぐり
復活祭の月曜日から火曜日にかけて、ダンテは七つの環道をめぐる。そして、高慢、嫉妬、憤怒、怠惰、貪欲、大食くらい、色欲の順に浄められていく。愛は障害があるほど燃える!というが、煉獄の環道もその類いか。罪は重い方が、悟れるものかもしれない。ダンテは、人間が抱く意識的な愛と自然的な愛を別格に扱っている。すべての悪徳が人間の意識に発するとしたら、それは自然に適った存在なのか?

第一の環道...
高慢を浄めるために、腰が曲げられている。アダムの肉をまとえば、肉体の重みで足取りが鈍り、さらに罪までも背負えば、その分の岩を背負う。歳を重ねていけば、やはり腰が曲がってくる。生きていくとは、罪を背負うことやもしれん...

第二の環道...
嫉妬を浄めるために、瞼が針金で縫いつけられる。見なくてもいいものを見るから嫉妬に身を焦がす。肝心なものを見る目は心眼だけで十分。愛は盲目に支配され、愛憎劇は嫉妬の渦巻く中にある。見返りを期待しては、裏切り者呼ばわれ。神の愛に、見返りは禁じ手だ。だが、なんでも神のせいにできれば、神も本望であろう。歳を重ねれば、やはり近くが見えにくくなる。目先のことに惑わされぬよう、自然の力が働いているようだ。
「およそ愛と呼ばれるものなら、それ自体でみな称賛に値すると主張する人の目には真理は隠れ、真相は映じていない...」

第三の環道...
憤怒を浄めるために、朦々たる煙の立ち込める中、ひたすらお祈りをしている。嫉妬の環道では、盲目と同じこととして瞼を縫いつけられたが、憤怒の環道では、目を開いていても何も見えていないのと同じこととして視界のない煙の中をさまよう。世の中が見えなければ、ひたすら祈るしか能がない。人間とは、そういう存在か。盲人の国では片目の男が王様だ!... とは、後のフィレンツェの要人マキャヴェッリの言葉だ。

第四の環道...
怠惰を浄めるために、同心円状をぐるぐる回っている。自然的な愛を怠って意識的な愛に溺れし者ども、誠意を欠いた者ども、不純な目的に目を奪われ悪に手を貸した者ども... 隣人を踏み台にし、知識はすべて他人から授かるばかりで、失敗すればすべて人のせいにできる実に都合のいい奴ら、不幸の理由を自分で知ろうともしない輩... 彼らは永遠に周り続け、自らの眠りを妨げる。それで、自己嫌悪に陥ることがなければ、幸せであろう...

第五の環道...
貪欲を浄めるために、腹這いになって涙を流している。すべての欲を地に伏せようと。ダンテの夢の中には、小悪魔セイレーンが現れる。貪欲、大食くらい、色欲という感覚的快楽の権化として。もはや欲望から逃れるために地に伏せているのやら、小悪魔にひれ伏すのやら...

第六の環道...
大食くらいを浄めるために、果実を目の前にしながら痩せ衰え、目が凹み、骨と皮の姿を晒す。貪欲と表裏をなす浪費の罪もまた、小悪魔系の誘惑か。目の前に好物があれば、やはり喰っちゃう...
「幸いなるかな、神の恵みに照らされし人々、その人々の嗜好はかつて過ぎたる望みの火を胸中に点じたることなく、その人々の飢餓はかつて度を失したることなし」

第七の環道...
色欲を浄めるために、肉体が猛火の中に投げ込まれる。一群の人々が「ソドムとゴモラ」と叫ぶと、別の一群が「パシパエ」と合言葉のように答える。好色多淫であった人々は、互いに駆け寄り、抱擁しあって慰めあう。
尚、「ソドムとゴモラ」は男色の罪を犯した人々で、「創世記」第十九章には、この二つのパレスチナの悪徳の町にエホバが天より硫黄と火を降らして、住民をことごとく滅ぼしたことが記されるそうな。これに答えて、職人ダイダロスがこしらえた人工の牝牛の中に入って、牡牛と望みを遂げた女パシパエの名を呼ぶのである。

4. 地上の楽園
「その愆(とが)をゆるされ、その罪を蔽(おほ)はれし者は幸いなり」
時は、復活祭の水曜日。七つの環道を登り尽くし、七つの大罪を克服した者たちを七人の天女が迎える。ハレルヤ!ハレルヤ!
ダンテは、天上の女性ベアトリーチェに身を捧げようと、必死に登りつめた。そして、ようやくの思いで自己の過ちを懺悔する。信仰、希望、愛、あるいは、正義、力、思慮、節制を寓意する天女たちとの戯れ。そして現世を呪うかのように、ローマ法王庁の腐敗堕落とアヴィニョン遷都もまた憤怒によって寓意が示される。神は、けして物事を直接見せようとはしない、まったくチラリズムのお好きなお方よ...
ところで、懺悔すれば天女たちが微笑み、これを拠り所にして地上の楽園を目指すとすれば、鏡の向こうで赤い顔をした紳士が通う夜の社交場と何が違うというのか?地獄では小悪魔に誘惑され、地上の楽園では天女にイチコロ!酔いどれ天の邪鬼には、小悪魔と天女の違いが分からん。
そして、救いは忘却の果てにあるというのか?浄めるとは、チャラにすることなのか?そもそも地獄から救われようと目論むことが、間違いの始まりである。人間の根っこは、プラトンが言ったような清浄無垢な存在なのかは知らんが、ただ確実に言えることは、生きているうちに悪徳を知り、悪徳を身に着け、悪徳をやっちまうってこと。ならば、辺獄(リンボ)を徘徊するプラトンやアリストテレスの方がましやもしれん。地獄の運命を受け入れた亡者たちの方がましやもしれん。自由とは、実に息苦しいものらしい...

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