2015-07-19

"ロビンソン・クルーソー(上/下)" Daniel Defoe 著

童心に返りたいという願いは、ガリヴァーの冒険物語(前々記事)を試してもダメ!アリスのファンタジー物語(前記事)に縋ってもダメ!いまや魂は根腐れを起こし、悪臭を放ってやがる。そして、ロビンソン物語でダメを押すことに...
とはいえ当初から、政治的、経済的、宗教的な意味合いが強いことは承知していた。多くの経済学系の書で扱われ、ロビンソンの人物像を経済人の特徴と重ねているのだから。実際、無人島から生まれる経済観念は、偉大な哲学者たちが唱えてきた「自然状態」から生起する人間学を物語っている。おまけに、ジャーナリストらしい社会風刺を効かせ、精神破綻者には却って心地良い。ロビンソン物語は、ダニエル・デフォー自身を経済人の原型になぞらえ、彼自身の倫理観、社会観を語った作品と言えよう。
尚、本書は平井正穂訳版(岩波文庫)であり、第一部「ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険」、第二部「ロビンソン・クルーソーのその後の冒険」が収録される。さらに、第三部に「反省録」というものがあるそうな。ほとんど研究者しか読まない代物らしい。そこには、こう綴られるという。
「物語があってそこから教訓が作られるのではなくて、教訓があってそこから物語は作られてゆく...」

人間の知は、好奇心に支えられている。自分自身が素直に劣っていることを認められるからこそ、何でも問いかけられる。子供が最も素朴な哲学者と言われる所以だ。好奇心のないところに知識を詰め込んでも、思考の柔軟性が失われる。こうした原理に大人も子供もないはずだが、大人ってやつは実に脂ぎった社会の生息物で、虚栄心や羞恥心の塊と化す、ある種の変異体とでもしておこうか。報酬や名声といった見返りがなければ、何もできないのだから。それでもなお差し迫った危機に遭遇すると、緊迫感の中から好奇心を覚醒させることがある。好奇心と緊迫感は、冒険にはどちらも欠かすことのできない情念だ。最も大事なことは人生を楽しむこと、その過程において希望も絶望も欠かすことはできない。そして、放浪癖旺盛なロビンソンの人生訓がこれだ。
「それ自体として当然必死になって避けようとする災がある、もしそれに陥ったがさいご、命取りにもなりかねまじき災だ。ところが、じつはそれがまさしく救いの道であり、現在の苦難から抜けでる唯一の手段であることが、人生途上、いかに多いことか...」

どんなに飢えようとも、どんなに窮地に追い込まれようとも、けして人間としての誇りを忘れない... ということが如何に困難であるか。飢餓や蛮人の恐怖に晒されると、何をしでかすか分かったもんじゃない。異民族や異教徒を野蛮人やバルバロイなどと呼ぶ習性は、どこの社会にも歴史的に見て取れる。はたしてどちらが野蛮なのやら。恐怖心という盲目的な感情は、臆病どころか、敵対心を煽り、ますます攻撃性をます。あらゆる残虐行為は、恐怖心の慰めから発すると言ってもいい。
ロビンソンは、宗教に頼ることなく自然な信仰を発し、神なき孤独から神ある孤独へと導く。そして、神の意志に従うことで義務を生起させ、そこに慣習が生まれる。孤島の生活では時間は余るほどあり、ゆっくりと人生の意義を考えることができ、根気のいる仕事も徹底的にやれる。天文に通ずるもよし、聖書を究めるもよし。天の配剤とは、退屈病から発するものであったか。哲学とは、まさしく暇人の学問!そして、人生の意義を、自給自足、自立、自律に求めずにはいられない。これが自由精神の源泉であろうか。
また、日記をつけることにも、大きな意義を与える。過去の記録が自分を慰めるための手段となるならば、歴史を残すのも人類の慰めであろうか。こうしてブログを書くのも、自慰行為に過ぎない。
ロビンソンは、あらゆる仕事や経験、あるいは人間関係や人間的成長など、すべての貸し借りを対照的に記録していく。そして最後に、自分の人生はプラスであったかマイナスであったかを問い続け... 72歳にしてようやく放浪癖がおさまり、平和裡に生涯を閉じることの有難味を知ることができた... と締めくくる。なるほど、貸借対照表とは、人生における善悪の総決算、すなわち、神の審判を仰ぐための報告書であったか。帳簿の誤魔化しは自分自身を欺くことであり、なによりも人間的成長を妨げることになる。これが帳簿の意義というわけか。
では、人間社会で義務と呼ばれるものは、自然の義務に適っているだろうか?社会で常識とされるものは、自然の常識に適っているだろうか?はたまた宗教が唱える神は、宇宙論的な存在と言えるだろうか?近現代社会は、経済的合理主義を旺盛にしてきた。しかしそれは、人間的合理性に適っているだろうか?人間の不幸のほとんどは、自然が定めた境遇に満足できないことにあるのでは... 本物語は、こうした問題をつきつける。
「私にとっては神とか摂理とかいうものはまったく問題にはならなかった。そしてただ自然の理にしたがい、常識の命ずるがままに一個の動物として行動したにすぎなかった。それさえも、はたして常識といえるものであったかどうか怪しいものであった。」

1. デフォーの描く理想郷
ここには、普遍的な宗教観を共有した理想郷が描かれる。無人島には、やがて蛮人、スペイン人、イギリス人が次々に来訪し、人間社会が形成されていく。あまり信仰的でなかったロビンソンが信仰に目覚めていき、その統治下で、異教徒、カトリック、プロテスタントが共存するという構図。宗教の本来の姿は、寛容性と言わんばかりに...
実際、デフォーはカトリック的な高教会派(ハイチャーチ)に対する批判分子で、民権派として投獄された。さらに、メキシコやペルーにおけるスペイン人の残虐行為について、世間が何と言おうとも、ここのスペイン人たちは行儀よく控え目な連中と語り、あえてイギリス人に悪役を与えている。人間の横暴さは、民族に関係ないと言わんばかりに...
その一方で、この時代にあって西洋中心主義が強いことも確かで、その性格は第二部でより鮮明となる。改宗されたアメリカ大陸の蛮人は、馴染みやすい、いや扱い易いってか。対して、改宗されないシナ人を無知な奴隷、軽蔑すべき群集に過ぎず、そうした連中しか治める能力のない政府に隷属するとしている。後に、中国大陸が列強国の切り取り自由とされるのを、予感したような記述である。
さらに、植民地政策を批判しながら、植民地主義の正当性を唱えている。つまり、やり方次第ってか...

2. ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険 (第一部)
三男坊で自由気ままなロビンソン。父親が法律家にしようとしたが、反発心旺盛で、おまけに、放浪癖に憑かれている。ロビンソンは船乗りになって海外へ渡航。そして、海賊船に襲われ、ムーア人の港サリー(モロックのサレ)に連行される。ムーア人の主人は、度々魚釣りにロビンソンをともない、隙を見てボートを盗んで、奴隷の少年ジューリと共に逃亡。黒人奴隷を買いにギニア方面へ向かっていたポルトガル帆船に出会い、助けられる。ロビンソンは、ジューリを船長に譲る。ブラジルに到着すると、船長から農園と製糖所の経営者を紹介してもらい、未開墾地を買い込んで農園経営を始める。
呪われた航海は、1659年のこと。農園経営を拡大するために奴隷を求めてアフリカを目指す。ところが、大暴風に見まわれ遭難。ブラジル北部のオリノコ河近辺に流され、浅瀬にのりあげ航行不能となる。船員たちは積んでいたボートに乗り移るが、大波で転覆し、ロビンソンだけが助かり陸地に漂着。座礁した船は沈まなかったので、船内の食糧や武器などを陸揚げする。
ロビンソンは、この島を「絶望の島」と呼ぶ。だが、不幸な境遇を悲しんでも仕方がない。神は臆病者が嫌いだ。猛獣に喰われるか、蛮人に殺されるか、それとも餓死するか、そんなことは知らんよ。今を生きるために運命なんぞにかかわっている暇はない。
まず、生活圏を確保するために柵をこしらえる。不毛な無人島であることを知れば、そんな必要もないが。人間ってやつは、外敵に対する恐怖心と緊張感によって、あらゆる知恵を絞り出そうとする。雨に濡れれば屋根を作り、洞窟などの自然の要害を探し、獲物を得るために生息の特徴を調査し、野生の動物を飼いならし、火を焚くための燃料を求めたり。何もないということは、究極の自由を謳歌する材料が整っているという見方もできる。あのお笑い芸人が口にする、生きてるだけで丸儲け!とは、こうした境遇を言うのであろうか。
ロビンソンは、良い点と悪い点を整理していく。借方と貸方の概念は損得勘定を基盤にしているが、なにも金勘定に囚われることもあるまい。
「どんな悲境にあってもそこには心を励ましてくれるなにかがあるということ、良いことと悪いこととの貸借勘定ではけっきょく貸し方のほうに歩があるということ、これである。」

船の積荷には、ペン、紙、コンパス、製図器械、日時計、望遠鏡、海図、航海術の本、聖書など、これらがどう役に立つかは分からないが、少なくとも希望の材料となる。ロビンソンは、すっかり聖書研究者となった。途方もない時間の中で労力と辛抱が試され、その試行錯誤の末、到達できる境地というものがあるのだろう。
「理性が数学の本質であり根源である以上、すべてを理性によって規定し、事物をただひたすら合理的に判断してゆけば、どんな人間でもやがてはあらゆる機械技術の達人になれる。」
仕事をやっていれば、なにかしら不足しているものが見えてくる。話し相手がいなければ、動物や神が相手となる。自分を生かしてくれた神の思惑とは何か?これを問い、その有り難さに感謝の念が生まれる。狩猟で獲物に出会えれば大地に感謝し、穀物の栽培がうまくいけば天空に感謝する。信仰の源泉とは、自然や偶然に対する感謝からきているようだ。ただ、自然に対する感謝が神に対する感謝へと変貌した途端に、人間の願いは横暴となる。神を自然の代理人に仕立て上げ、おまけに万能者とするから、いくらでも都合のよい形に想像を膨らませる。
ここにあるものすべてが自分のものだ!自分は島の王だ!所有権とは、自信のない所有物に対して主張するものであろうか。他に所有権を主張する者がいなければ、そんな概念は不要だ。所有や権利ってやつは、自己満足に過ぎないというわけか。
そして、一年が過ぎる。雨季と乾季があることを知り、太陽の位置を定めて季節に応じた準備をする。大麦と米の穂を保存し、種まきの適当な時期を調べ、穀物の栽培にこぎつける。食糧の安定確保が、まずもっての課題である。刈入れ、貯蔵、運搬、脱穀、籾殻をとるための道具をこしらえ、パンの作り方を忍耐強く会得していく。経済状況が常に右肩上がりであれば、どんなに絶望しても、希望を持ち続けられる。

ここに住みついて18年にもなるが、人影を見たことがない。だがある日、人間の裸足の足跡を見つけ、愕然とする。あれほど孤独を嘆いていたのに、今度は恐怖に駆られるとは。慣習とは怖ろしいものである。
「恐怖心にかられると、人間はなんと馬鹿げたことを考えるものであろうか。一度恐怖心にかられると、万一に備えてかねてから理性が考えていた救いの手段はまったく用をなさなくなってしまうのだ。」
23年目のこと、海岸に焚火の灯りが見える。やはり人間がいた。望遠鏡で見ると、裸の蛮人たちが饗宴をやっている。ロビンソンは、人肉を料理するための火に違いないと殺意に憑かれる。未知の人種を見れば野蛮人と決めつけ、恐怖し、勝手に敵対心を抱く。それは、自分自身が野蛮である証拠だ。しかも、奇妙な暗示にかかっていることにも気づかない、おめでたい存在ときた。ロビンソンは、蛮人たちを撃退するが、同胞が欲しいとも考えている。蛮人の一人ぐらいなら奴隷にして、意のままに使いこなす自信もある。
ところが、今度は丸木舟が五隻もやってきた。敵は、20人から30人ってところか。蛮人たちは火を焚いて、野蛮な踊りを始めた。二人の男が引きずられ、早々一人が殺される。もう一人は、一目散にこちらへ向かって逃げ出した。蛮人たちが弓矢を射かけようとすると、発泡して撃退。ロビンソンは25年もの間、人の声を聞いておらず、感慨に耽り、彼にフライディと名づけた。金曜日に出会ったという意味。そして、言葉を教え、宗教を教え、フライディは忠実な従僕となる。彼から島の周辺情報を聞くと、二人で丸木舟を造って島から脱出を計画する。
そんな時、6隻の丸木舟がやって来た。蛮人たちは捕虜の肉を喰っている。二人はマスケット銃で奇襲して、撃退する。丸木舟にはスペイン人の捕虜の他に、なんとフライディの父親が捕まっていた。フライディは感慨深さに浸る。
こうなると、もはや無人島ではない。絶対的支配者ロビンソンの下に、プロテスタントに改心させた従僕のフライデイと異教徒の父、カトリックのスペイン人という社会構成。そう、プロテスタントを最高位に置いた理想郷というわけだ。彼らの情報から、本土で白人が囚われていることを知ると、フライディの父とスペイン人に命じて救出に向かわせる。

二人の帰りを待つロビンソンとフライディであったが、ちょうどイギリス船が近づく。イギリスの貿易路はかなり離れているはずだが、なぜこんな所に?フライディが密かに探ると、乗組員の叛乱にあって、船長ら三人が捕虜になっている。一人は航海士、一人は船客。そして、ロビンソンらをイギリスまで無料で乗船させることを条件に、君らを助けようと持ちかける。この事前取引は、いかにも経済人らしい。そして、船を乗っ取ることに成功し、叛乱者を投降させる。イギリス人の叛乱者たちは、このまま故国に連行すれば死刑になるは必定。しかも、大勢の捕虜を抱えたままの航海は危険。そこで、叛乱者たちを自由の身にし、スペイン人と共に孤島へ残していくことに。ロビンソンは、狩猟や穀物の栽培など、島での生活方法を伝授する。
ロビンソンがイギリスに帰国したのは、1687年のこと。既に父も母も亡く、他の家族も死に絶えていた。もう死んだものと思われていたので遺産もない。船長が船主たちに、命を救ってくれたことを感動的に語ってくれたおかげで、資金を提供してくれた。アフリカ沿岸沖で助けてくれたポルトガルの船長とも再会。ブラジルの農園管理者は既に亡く、収益は改宗者の施設や慈善事業にあてられていた。今度こそ故国に定住しようと決意するが、やはり放浪癖は治らない。孤島に残してきたスペイン人や悪党たちは、どうなったかと...

3. ロビンソン・クルーソーのその後の冒険 (第二部)
もう61歳、すべてに満ちた平和と幸福な生活を7年間ほど過ごす。唯一放浪癖を鎮めてくれるのは妻の存在だったが、妻に先立たれれば、心の拠り所を本性に求めるしかない。一度知った自由の味は、麻薬のごときもの。島の残酷な様子を夢で見れば、現実を見るまでは、心の中ではそれが真実となる。
ついに、フライディをともなって航海へ。カナダから故国へ向かうフランス商船が遭難しているのを発見すると、かつてポルトガル船に拾い上げられた境遇を思い出す。今度は、自分が助ける番だ!親切心の源泉は、お返しという本能的な義務感のようなものであろうか。だが、親切心が行き過ぎると、押し付けがましい宗教に変貌するから御用心。
救出した人々を無事退船させ、いよいよ西インド諸島へ向けて出航したのが、1694年。今度は、イギリス船が遭難しているのを発見。飢えきって、衰弱しきって、完全に自制力を失っている。死の断末魔の苦悶にあえぐ者あり、ほとんど錯乱状態にある。飢餓ほど人間を残酷なものにするものはないのかもしれない。そして、あの島に到着したのが、1695年。懐かしいスペイン人やフライディの父の姿を見る。

島に遺された連中は、その後の様子を語った...
老フライディとスペイン人の二人は、本土で仲間を助けだし、島に戻ると、悪党どもがいるのに驚愕する。イギリス人の悪党どもは、ロビンソンの命じた通り、手紙と指示書を託し、それをスペイン人に渡した。当座は、仲良く過ごす。リーダ格のスペイン人と老フライディが協力して、万事をうまく処理していた。
ところが、イギリス人たちは怠け者で、夕食の時間に戻ってくるという有り様。やがて喧嘩を始め、イギリス人の悪党どもは残忍な行為に及ぶ。悪党どもは、俺達が総督から島を譲り受けたと主張する。だから、他の者は土地を利用する権利がないと。家を建てるなどもってのほか、地代を払えというわけだ。互いに生きてはいけない境遇にあれば協力し、少しでも余裕ができれば紛争の種となる。人間の悲しい性よ。真面目に働く者が収穫を得る毎に、嫉妬が膨らみ、敵対心となる。悪党どもは、荒削りの船乗り気質をむき出しにする。子供は問うだろう、地球はみんなのものなのにどうして土地は地主のものなの?と...
人間は、なんでも自分のものと勘違いした時に横暴となる。所有権とは、人間社会が生み出した反自然的な概念であろうか。となれば、力づくで自分のものにするまでよ!
ある日、大勢の蛮人がやって来た。リーダ格のスペイン人は、気配を感じさせないように潜むことを命じる。この島の伝統は、ロビンソン以来、蛮人たちが自然に去っていくことで解決してきた。蛮人たちは、二つの集団で戦争をしていた。イギリス人の悪党どもは、捕虜を捕まえ、奴隷にする。ロビンソンがフライディにしたのとは逆に、知識を教えることなく、理性の原理で導くこともしない。再び島に危機が生じても、奴隷が味方になるわけもない。
ついに、その横暴さに我慢ならないスペイン人たちと乱闘になり、イギリス人たちを捕まえた。さあ、処分をどうするか?一人を見せしめに殺すという意見が多数だが、リーダ格のスペイン人はそれを許さない。猶予を与え、誓いをたてさせ、今度、農場や家や柵を荒らし、横暴な行為をすれば、即刻射殺することで同意。そして、彼らと縁を切り、追放した。
ある日、女性たちを捕虜にしたイギリス船が到来。彼女らを助け、妻にするために物色する。今度は妻という名の奴隷か。
やがて、この島に人間が住んでいることが、本土の蛮人たちの知るところとなり、50人の大勢で上陸してきた。鉄砲で応戦すれば、姿が見えない敵に対して、銃声だけで人が死んでいくのに、蛮人たちは混乱する。魔術か!蛮人は、すっかり意気喪失。老フライディが捕虜に交渉を持ちかけ解き放つ。危害を加えないと保証すれば、穀物やパンを提供すると約束して。蛮人たちは、丘の斜面にとどまるように命じると、その区画からけっして出ない、約束を忠実に守る連中であった。
生活方法を伝授し、小枝細工の作り方などを教えていくうちに、平穏な社会へと導かれ、すっかり改宗させていく。イギリス人の悪党どものリーダ格までも、勤勉で、働き者となっていく。仕事に生き甲斐を見つければ、つまらぬ粗暴に走ることもない。宗教的な教義よりもはるかに効果があるようだ。
... その話を聞いて、島の父と崇められるロビンソンは、ある種の共和国が完成したことを知ったのだった。

ロビンソンは、島の所有権を主張するつもりもなければ、住民を統制せず、自然のまま放置して立ち去る。だが、島の繁栄に安堵してもなお満足できず、再びブラジルへ航海する。その途中126隻もの丸木舟に遭遇し、フライディは蛮人の矢を浴びて死ぬ。
「生涯におけるある特定の境遇を自分独力で選びうるといわんばかりに、自らの判断力に自惚れることは、賢い人のとるべき道ではない。人間は目先のきく存在ではなく、眼前僅かの所までしか見ることをえない。情念は人間の最善の友ではなく、特定の感情が最悪の相談相手となることも多い。」
さらに、喜望峰を通って東インド諸島へ。まずは、マダガスカル島に寄港。当初、原住民は休戦協定を結び友好的だったが、ちょっとした挑発行為で戦闘に巻き込まれる。黄金が出るというデマに踊らされた夢想の輩が群がり、船員たちは悪鬼へと変貌。個々では理性的に振る舞うことができても、集団性が人間を悪魔とさせる。しかも、それに気づかない。異教徒、野蛮人と呼称するだけで、どんな残虐行為も正当化できるとは。ロビンソンは、この出来事を「マダガスカルの虐殺」と記す。
「オリヴァ・クロムウェルがアイルランドのドローエダを占拠して、男や女や子供を殺したことはすでに聞いていた。ティリー伯がマグデブルグ市を劫掠して男女あわせて二万二千人を殺戮したことも本で読んでいた。だが、この時まで、そういったことが果たして事実か思いもつかぬことであった。」
ペルシャ港へ寄港すると、マダガスカルの出来事で船員たちと口論となり、一人置き去りにされる。数人の貿易商と友好を温め、船を入手し、船員を雇い入れる。そして、スマトラ島からシャムへ行き、商品の一部と阿片やアラック酒と交換。阿片はシナで非常に高価で取引され、大儲けする方法を知る。さらに、フィリピン、モルッカ諸島を往来して大儲け。もはや麻薬行商人というわけだ。後の阿片戦争の火種がくすぶる。ヴァタビア、マラッカ海峡、ベンガル、このあたりは、オランダ、ポルトガル、イギリスの商船が入り混じり、現地の海賊船が絡む無法地帯。商船といえども武装しており、互いに海賊と罵り合う。ロビンソンの船は、コーチシナ人の船に拿捕され、台湾方面へ北上し、さらに中国大陸に上陸。大都市北京の様子は、ロンドンとパリを合わせても及ばない活気ぶりで、シナ人をキリスト教へ改宗させることの難しさを記す。

さらに、駱駝と馬の一行で内陸部へ進出し、韃靼(タタール)人とシナ人の間の緊迫した国境を越え、モンゴルを横断。シナ人が要塞化したナウムの街を蒙古人が襲撃した歴史を、案内人が説明する。モスクワ帝国のツァーリに隷属する最初の街アルグンに到着すると、やっとキリスト教圏に入ったことに安堵する。しかし、生贄を捧げる野蛮人よりも野蛮な行為を見る。ギリシア正教に属すキリスト教と称しているが、その実は迷信の威風を数多く留め、妖術や魔法と区別ができない。ロシア正教会の風刺だが、偶像崇拝が悪魔礼拝よりもましかは知らん。そして、エルベ河を渡って帰還。
「今まで経験したあらゆる旅よりももっと長途の旅に出る準備をしている。私は七十二年という、さまざまな波乱にみちた生涯をおくってきた。そして、隠退するということの価値も、平和裡に生涯を閉じるということの有難味も充分知ることができたつもりである。」

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