2017-08-06

"囚人のジレンマ - フォン・ノイマンとゲームの理論" William Poundstone 著

数学者アルバート・タッカーが考案した「囚人のジレンマ」は、非協力ゲームにおける、ある均衡状態をよく説明している。それは、合理的な個人の集まりであっても、互いに望ましくない選択をしてしまうというもの。しばしばナッシュ均衡の一例として取り上げられ、ゲーム理論の基礎概念を与えている。
ゲームの醍醐味といえば、際どい選択に迫られるスリリング。どんなに緻密に計算された戦略でも、想定外はつきもので、結局は直感が頼り。これを快感とするかストレスとするかは、プレイヤー次第だ。気まぐれや行き当たりばったりですら、合理的な行動として定義することができれば、数学は人間を凌駕するであろう。
そして、ゲーム理論が人間を研究対象とし、マッドサイエンスとなるのかは知らん...

本書は、ゲーム理論の発展にフォン・ノイマンの半生を重ねた物語である。フォン・ノイマンの功績といえば、プログラム内蔵方式と二進法の論理式で構成されるコンピュータの開発であろう。現在、コンピュータと名のつくものは全てノイマン型と呼ばれ、これ以外のアーキテクチャをおいらは知らない。彼はコンピュータの合理化を目指して人間の脳を研究した挙句、自己増殖するオートマトン理論へと導かれた。コンピュータ科学の巨匠アラン・チューリングもまた、暗号機「エニグマ」と対峙する中で、マシンに対抗できるものはマシンしかない!との信念から自らマシンを完成させた。
しかしながら、自己増殖や自己解決の道には、常に矛盾がつきまとう。その矛盾は、時には自己循環に陥れ、時には自己破壊を強いる。残念なことに、懸念もまた自己増殖するのだ。人間が自己言及を試みるものは、すべてこの罠にかかる。ゲーデルの不完全性定理は、すべての論理的問題が公理化によって解決できるわけではないと言っている。アインシュタインやゲーデルがいるプリンストン大学でフォン・ノイマンは伝説となった。これは、同僚たちが語ったジョークだそうな。
「フォン・ノイマンは人間ではない。人間について詳しく研究し、人間を完全に真似ることができた半神半人だ。」
そして、20世紀最大の天才は、20世紀最大の悲観主義者となり、物悲しい調子で人生を終える。矛盾とジレンマは、よほど相性がよいと見える。天才の人生とは、板挟みの物語であったか...

ナッシュ均衡のような状態を想定することは、それほど難しくはない。例えば、あらゆる外交交渉は、この均衡点の模索と言っていいだろう。フォン・ノイマンは、マンハッタン計画に参加し、ランド研究所にも関わり、核兵器開発に大きな役割を果たした人物の一人。崇高な科学ほど悲しい運命を強いられる。それは、まずもって人間を抹殺するための道具に応用されることだ。これに加担させられた科学者は、概して平和論を唱えることに。
本書は、軍拡競争における核の抑止力という視点からのジレンマを物語る。ここでの対立とは、正しさを競うゲームだ。正しさを争うことが正しいとするなら、既に循環論に陥っている。そのために優秀な政治コンサルタントを雇い、正義をも道具にする。自分が絶対に正しい!自分が正義だ!こうした言動は本当に信念と呼べるものなのか?あるいは政治家どもの性癖か?
今、ラジオから中島みゆきの歌が聴こえてくる... 正しさと正しさとが相容れないのは、いったい何故なんだぁ~ Nobody is Right... Nobody is Right... ♪

1. 協調性と利己性
囚人のジレンマに介在する人間心理は、協調と裏切りの駆け引き。利害関係の生じる場では、いつもメフィストフェレスが耳元で囁いてやがる。裏切れば楽になれると。騙すより騙される方がいい... とも言われるが、それは本当だろうか?非協調ゲームといえども、利害が一致すれば、しばしば協調ゲームと化す。だからといって、協調を正当化するには心許ない。お人好しが馬鹿を見るのは、いつの時代でも同じ。あなたを信じています... あなたは正直だから... なんて言葉を浴びせられれば、なんとなく負い目を感じる。やさしげな言葉が暗示にかけ、強迫観念に囚われ、ここに奇妙な仲間意識が現れる。そして、少しでも期待を外せば、裏切り者呼ばわれ...
他人に同情を寄せる度合いは、自己の幸福度によっても左右される。散々大儲けをし、散々競争相手を破滅に追い込んでおきながら、巨額な富を獲得した途端に慈善団体を設立するとは、どういうわけだ?過去への償いか?善人への憧れか?それとも、強欲に飽きたのか?徳を唱える修道士が最も残虐な行為に及ぶとは、どういうわけか?そうでもしないと、徳を知ることはできないというのか?
とはいえ、道義も捨てたもんじゃない。自分の命を犠牲にしてでも、相手を助ける方を選ぶかもしれないような状況は実に多い。子供の方が先が長いという理由や、愛する人のためにだったり、職務的な義務だったり。実際、それほど裕福でなくてもボランティアに励む人は多い。大災害を目の当たりにすれば尚更。おまけに、盗賊にだって仁義はある。
人間にとって利己性と協調性は、双方とも本性的なもの。進化論風に言えば、種の存続のためには互いに啀み合っても得るものはない。
一方で、種が形成する社会の中で優位性を確保するためには相手を出し抜こうとする。その場合、適者生存という用語は弱肉強食と混同される。種の危機の度合いによってもどちらが選択されるかが左右され、人類絶滅の危機ともなれば協調性が優勢となろう。つまり、共通の敵をどの範疇で見い出せるかにかかっている。概ね人間社会では、協調性は正しく、利己性は悪とされる。そのために協調を崇める人は多く、しばしば不平等条約や不条理な関係を強いられ、理不尽な義務までも背負わされる。イジメは、こうした類いの動機から発するのだろう。ならば、協調にも逃げ道があっていい。理性にも、義務にも、愛にも、逃げ道があっていい。そうでなければ息苦しい社会となろう。互いに監視の目を気にしながら生きるのは辛い。社会全体が協調し、ルールを完全に守っているという状態も異様だし、不気味ですらある。もちろん、裏切りの蔓延る社会も同様に厄介だ。双方とも人間の本質の何かを抹殺しようとしているようなものか...
そもそも人間は不合理な存在であり、理性そのものがジレンマにある。理性とは、抑制する力だ。自分の自由が暴走するのを食い止める力だ。理性者が自分の理性に自信を持つようなら、自ら神を名乗るようなもので、既に理性は暴走を始めている...

2. 公平原理とミニマックス定理
平等の原理の一つに、選択のためのルールの決定権を有する者が、最後に選択するというものがある。例えば、子供たちにケーキを切って分けるアルゴリズムで、切る者は残り物をとるというルールを加える。ここでは、すべての子供が一番大きいケーキを欲しがるという価値観を共有している。そして、ケーキを切るところはみんなが見ており、何等分されるかもみんな納得の上。ここには、公平性は情報公開という透明性が担保されるべきだ、という原則がある。ただ、こうした原理は、既にカントのような哲学者が唱えており、なにも数学を持ち出さなくても説明はできる。
現実世界では、もっと複雑な条件が加わる。胃袋の小さい子もいれば、近年、子供の糖尿病患者が増える傾向にあり、小さいケーキを欲する子もいるかもしれない。そして、余ったケーキを他の子供に分けるとなると、仲良し順ということにもなり、私が一番大切な友達だよね!なんて、見返りの世界へと突入する。公平であったはずのアルゴリズムも、恨みや妬みを買い、仲間割れを助長するかもしれない。人間の価値観は、数学では計り知れない多様性を孕んでいるもので、人間関係もまた実に醜いものを見せつけるものである。
結局、公平原理も妥協に応じるしかない。そこで、最悪を避けるという戦略が考えられる。それが「ミニマックス定理」だ。想定される最大の損失から最小の損失に食い止めようとする選択であり、これがゲーム理論の根幹をなす法則となる。この定理は、利害が完全に衝突する二人の間の正確に定義される対立には、必ず合理的な解があると言っている。双方が、これ以上のことは期待できないと納得できれば、それが合理的な解というわけだ。こうして見ると、ゲーム理論の処方は、極めて保守的だと言わざるをえない。ただ、妥協とはそういうもの。人間は、こうした合理性からは程遠い存在だというのか。そうかもしれん。特に、権威や名声を気にする人間は... フォン・ノイマンが悲観主義者となったのも分かるような気がする。

3. 攻撃は最大の防御!... これは本当に黄金律か?
神秘論者としても知られる偉大な数学者バートランド・ラッセルは、フォン・ノイマンと同じく、戦争と平和について多くの時間を割いたという。もともと帝国主義者だったらしいが、ボーア戦争の体験から平和主義者に変わったと自伝に書いているとか。彼は、ゲーム理論の専門家ではないが、「チキン・ジレンマ」という造語を編み出したという。核兵器による軍拡競争を詰った言葉だ。核のボタンを押すか押さないか、このギリギリの選択もまたチキンレース。
ラッセルは、「戦争のための戦争」という予防戦争論を唱えたという。予防と言えば聞こえはいいが、実は核戦争が起こる前に敵の核施設を破壊してしまえ!という発想である。攻撃は最大の防御!という戦略は古くから唱えられ、最も古い戦記物語でも奇襲攻撃の価値は論じられている。
しかしながら、孫子の兵法は、そうは言っていない。戦わずして勝つ!を信念とし、自国の防衛力を整え、相手に攻撃しても無駄だと思わせることが肝要だとしている。また、孔子は、政治とは、食、兵、信であるとした。兵がなくても食がなければ、人は生きられぬ。だが、信がなければ、食をめぐって争いとなる。ゆえに、優先順位は、信、食、兵の順になると。さらに、信の上に兵をなせば、安全保障の概念と結びつき、防御の姿勢となる。
こうした考えは、リデル・ハートや J.F.C.フラーのような戦略家、あるいは、ハインツ・グデーリアンのような将軍も唱えており、概して優れた軍人はこうした戦争哲学に落ち着くようである。
確かに、ガンマンなら早撃ちの方が圧倒的に有利だ。だが、相手が凄腕だと知っていたら、わざわざ喧嘩を仕掛けるだろうか。勇気と無謀は紙一重。防御姿勢は兵法で広く用いられる戦略であり、剣法にも、格闘術にも、見て取れる。隙をおおっ広げにしながら、実は隙が見いだせないという姿勢だ。武士道の王道は、相手に剣を抜かせないこと。先手必勝とは、先に備えるという意味で必勝となる。
人間ってやつは、どんなに平和ボケしていようと、不当な先制攻撃を受ければ、悪魔のように怒り狂い、悪魔のように戦える。正義に反する行為は、世界世論も黙ってはいない。逆に、正義を掲げられなければ、民衆を団結させ、導くことも叶わない。そのために、正義はあらゆる政治屋に利用されてきたし、今後も続くだろう。正義にもジレンマがつきまとう。
そして核の時代、本国を無力化するだけでは不十分である。核弾頭搭載の潜水艦は世界の海で暗躍しており、どこからでも反撃を喰らう可能性がある。そして、人間が人間を抹殺するリスクを高め、核は事実上使えない兵器となる。ならば、わざわざ持つまでもあるまい。開発にも維持にも膨大な費用はかかるし、経済的損失は大きい。むしろ、いつでも作れるとという技術力を見せつける方が合理的であろう。核兵器を保有しても国が貧しければ、いずれ息切れする。ただ人間ってやつは、追い詰められると、何をしでかすか分からない。理性的に振る舞っている政治指導者が、政権の危機に直面すれば本性を剥き出しにし、最低限の理性までも放棄しかねない。だからこそ、より冷静な防御態勢が重要となる。攻撃力を盲信し、防御力を疎かにして招いた悲劇は、既に経験済みだ。
人間は大きな誤ちをしでかさない限り、自分の理性に自信を持ち続け、誤ちを認めた時に哲学者となりうる。ではラッセルは、一度、世界が放射能化してしまえば、それに気づくとでも言うのか?これが予防戦争だというのか?人類共通の危機を目の当たりにすれば、利害関係を超えた根源的な哲学が必要となる。原子爆弾の登場が戦争の様相を変え、知識人の間で世界政府構想を加速させた。アインシュタインは原子力を管理するための世界組織の必要性を訴え、オッペンハイマーもこれを支持した。冷戦時代、最悪の悲劇は避けられたという意味では、ミニマックス定理が機能したのかもしれない。いや、運が良かっただけのことか...
「予防戦争の理論とは、『自分に向けられたら恐ろしいと思うことを相手に対して行なう、つまり相手より先に攻撃をする以外の方法はない』というものだ。しかしこれは、弱者や臆病者の発想である。ギャングの言い分だ。」

4. 社会のジレンマ
本書は、人間社会で生じるジレンマを四つに分類している。まず、ゲームとして成り立つ最も単純な形は、プレイヤーが二人いて、二つの選択肢がある時。その選択肢は、協調(C)と裏切り(D)で定義され、とりうる利得パターンは、2 x 2 の状態をとる。二人が協調した場合の利得を CC、二人とも裏切った場合の利得を DD、一方が裏切った場合、協調した側の利得を CD、裏切った側の利得を DCとする。すると、利得の大小関係によって、四つの基本パターンに分類できるという。

  DC > DD > CC > CD = 行き詰まりゲーム
  DC > CC > DD > CD = 囚人のジレンマ
  DC > CC > CD > DD = チキンゲーム
  CC > DC > DD > CD = シカ狩りゲーム

行き詰まれば、D が優勢となり、ただちに裏切りが蔓延する。囚人のジレンマとチキンゲームは、裏切った方が得をすることになるが、相手の出方次第では協調した方が得な場合もあり、互いに妥協点を模索して、左から二番目の状態に落ち着くかもしれない。シカ狩りでは、共に協調した方が得となろうが、相手が嫌いだったら、わざわざ狩りの邪魔をするかもしれない。チキンゲームでは、一度怯むと、臆病者の汚名をかぶせられることを恐れる。臆病者ほど相手に臆病者のレッテルを貼りたがるものだ。権威や名声を気にすればするほど、そうなるものらしい。そして、勝利の快感を味わうために、相手に議論を仕掛ける。
したがって、チキンゲームは弱虫同士で成り立つ論理ということになる。それで均衡点が見い出せるならば、そんなことは政治家たちに任せておけばいい。賢明な一般人は、政治そっちのけで、経済交流や文化交流で戦争リスクを相殺させている。
ルソーは「人間不平等起源論」の中で、人間の諸悪は社会から生まれたとした。社会とは、相手との関係から生じるもので、相手がいなければ嫌悪感もわかない。関係の生じない原始の時代には、そんな感情を持つこともなかったことだろう。人間社会では、何も悪いことをしていなくても、ただ幸せに生きている人だって、恨まれることがある。自分より幸せな人を妬んだり、人の失敗を喜んだり。
逆に、目の前の人々が不幸のどん底にあるのに、自分だけが幸せになっても素直には喜べないところがある。政策論争では、自分が手柄を立てられる立場ならば賛成し、他人が成功しそうならば抵抗勢力になって邪魔をしたりする。
ただ良心によって、協調の方にややバイアスがかかっているのも確かであろう。そうでなければ、人間社会がこれほど繁栄することはなかっただろう。利己的な人間であっても、いつも裏切るとは限らない。協調すれば物事がうまくいくからといって、単純に正当化できないところが、人間社会のややこしいところである。

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