「人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても...」
こう書き下ろすアダム・スミス。経済学の父と呼ばれる彼は、人間の本質に身を委ねる意義や自由な経済活動の意味といったものを論じて魅せる。
尚、水田洋訳版(岩波文庫)を手に取る。
後に、自由放任主義の礎となり、レッセフェール!や、神の見えざる手!といったスローガンに結びつけられるものの、そうした風潮に反発するかのように、自由で平等な個人の平和的共存は可能か、それは権力の介入なしにいかに可能か、と問いかける。そして、いかに利己的な人間であろうと、その根底に道徳原理があるからこそ... 自由とは、自己抑制の能力との調和においてこそ,,, と説く。伝統的な哲学の問題に、人間は生まれつき善か悪か、というのがあるが、スミスもまたそれを問うかのように...
人間が人間足るとは、どういうことか。道徳ってやつは上から目線で論じられるところがあるが、それほど高貴なものなのか。不遇が人を冷徹にするところもあるが、幸せすぎることが人を残酷にするところもある。平和的共存ってやつは、社会の中でしか生きられない個人の集まりから自発的に、しかも自然に築かれるものなのか。それは普遍原理と呼べるものなのか...
スミスの道徳感情論は、経済理論との間で利他心と利己心の狭間をさまようかのように記述される。自由放任主義を唱えれば、欲望を解き放つ議論になりかねないし、現在でも、経済学を学ぶと利己的になる... といった意見を耳にする。欲望のあり方を論じれば野心を増幅させ、どこかで歯止めが必要となる。それを、スミスは自己規制の原理として語る。同感や共感といった利他的情念が、義務の観念を呼び、正義の観念を呼び覚ますと...
古くから、徳は愛に発するとする考えがある。しかしながら、自愛心は利己心と矛盾しない。人のすべての情念が自己愛と結びつくのも事実。人は自己を愛されることを強く望む。
となれば、徳はいかに可能であろうか。知識によるか、忍耐によるか、慣行によるか、自己犠牲によるか、様々な要因や条件が考えられるが、徳や知恵も、悪徳や愚行も、人間が自然に具える本性。人間には、最高善に従おうとする意志が本能的に備わっているようでもある。
だが、善にも、悪にも、あらゆる人間の情念が暴走する可能性を秘めている。行き過ぎた道徳感情が、社会に害をなすこともあれば、行き過ぎた正義や行き過ぎた義務が、個人を追い詰めることもある。
スミスが生きた時代、封建的な道徳観念を批判し、個人の尊厳を唱えることの意味は大きい。同感、共感といった情念を、商品と同じように交換する議論。そこに正義や義務の概念を絡ませ。正義とは、互いの自由を侵害しない、等価の交換価値をいい、この点において経済活動と道徳感情を結びつける。
それにしても、言葉の扱いは難しい。道徳感情を経済学的な交換価値の一つとして捉えれば、道徳そのものが陳腐なものに見えてくるし、経済学用語が人間の本質を陳腐なものに見せちまう。
だが同時に、主観的な感情論から距離を置き、客観的な視点を与えるという見方もできる。本書に、価値交換の原点と自由主義の原点を見る思い...

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