2014-12-14

"ラファエロの世界" 池上英洋 著

1520年... 美術の教科書では、この年をもってルネサンス期の終焉とするそうな。なんのことはない、ラファエロが亡くなった年である。彼を盛期ルネサンスとマニエリスムのどちらに区分するかは微妙であろう。既にバロック様式を体現していたとする意見も耳にする。37歳という早すぎる死にも、係わりがあるかもしれない。芸術家として成熟を極めた年齡とは言い難いのだから。いずれにせよ、芸術様式がある年をもって突然変化するわけもなく、歴史における便宜上の問題でしかあるまい。
さて、盛期ルネサンスの三大巨匠といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ。代表作でいえば、レオナルドの「ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)」や「最後の晩餐」、ミケランジェロの「ダヴィデ」とすぐに思い浮かべることができる。
しかし、ラファエロのものとなると、どうであろう。そういえば、ある専門家は、ラファエロ好きなどと発言すると変わり者という目で見られる、と語っていた。三人の中で最も地味な存在という印象もあるが、実は一番好きな画家だ。もっとも美術的な価値は分らないが、動的な物語に惹かれるのである。
あの「アテナイの学堂」には、ネオプラトニズムが存分に顕れている。古代ギリシアの偉人たちが賑やかに勢揃いし、しかも、ルネサンスの著名人たちをモデルにするという洒落が利いている。中央のプラトンのモデルがレオナルドというだけで、その存在感が伺える。階段の下で、のんびりと肘をついているヘラクレイトスのモデルは、ミケランジェロ。右下で幾何学を講義するユークリッドのモデルは、建築家ドナト・ブラマンテ。ラファエロ自身は、右端で遠慮気味に顔を覗かせるアペレスとして描かれる。個人的に見過ごせないのが、階段の中央でだらしなく横たわっている犬のディオゲネス。このモデルは誰であろうか?乞食の代名詞をわざわざ名指しすることもなかろうが...
こうした着想は、古代文化に匹敵するほどの偉大な時代を生きていることへの自負心であろうか。美術オンチの酔いどれですら、いつかはヴァチカンの「ラファエロの間」を訪れてみたいと夢見るのであった...

万能人を多く輩出したのも、この時代の特徴であろう。ミケランジェロにしても、ラファエロにしても、芸術家でありながら建築家でもあった。レオナルドに至っては、科学者、数学者、あるいは発明家とも呼ばれる別格。
ルネサンス時代に古典文化を重ねるということは、多彩な学問の融合が要求されるであろう。そもそも古代ギリシア・ローマ文化は神話的な多神教の世界であり、キリスト教的な一神教の世界とは相反する。そこで、聖書の下で、神話の中に登場する神々の新たな解釈が求められる。おそらく、信仰心を超越した普遍的な抽象レベルにおいて、思想の融合を図るしかあるまい。この時代の芸術家たちが自然科学にも精通していたことは、必然だったのかもしれない。幾何学に精通した様子は、遠近法の作品群が如実に物語っている。信仰的な矛盾を犯しながらも、古典回帰の思想が生まれたのは、よほど宗教の暴走を嘆いた時代ということであろうか...
18世紀になると、産業革命とともに中産階級が台頭し、絶対君主の庇護にあった美術作品は批判の的とされる。ロマン主義の時代には、ラファエロ芸術もアカデミズムの権化として攻撃されたという。芸術作品が、政治思想の象徴として描かれてきたのも事実。ラファエロがルネサンス期の最後を飾ったことも、古典至上主義の代名詞とされた一因であろう。芸術作品に宗教思想のレッテルを貼って、古臭いカノンなどと攻撃を受けたり。偉大な思想は、後世の解釈のされ方によって、ほとんど言いがかりのような批判に曝されることがある。今を生きる人間は、流行の意見に惑わされがちで、純粋な価値が見えないもの。
しかしながら、偉大な芸術は、時代の潮流から切り離されて、純粋に評価させようとする力がある。死後に再評価されるのは、偉大な学芸家の宿命なのかもしれん...

1. アテナイの学堂
階段を使った見事な遠近法の中に古代ギリシアの偉人たちが勢揃いする作品で、「署名の間」に描かれたフレスコ壁画。ただ、人物にばかり目がいっていたが、本書はその構造上の解説を加えてくれる。
聖堂の象徴的なアーチの奥に、二体の巨大な大理石像が配置され、左側がアポロン、右側がミネルヴァ(アテーナー)で、芸術と知識のシンボルが描かれるという。ルネサンス芸術とギリシア知識の融合というわけか。神話の神々は多神教、いわば、異教徒の神だが、これらが教会支配下の中心、つまりは聖堂において集約されるってか。どんな異教であろうがキリスト教の下で一元化できるというのも、ちと無理があるけど。なるほど、パトロンは戦争好きのレッテルを貼られた教皇ユリウス2世か...
ところで、この作品には昔から考えさせられることがある。それは、階段が何を意味しているかということ。最上段では、自著「ティマイオス」を脇に抱えるプラトンと、隣で語り合うアリストテレスも何やら著作を抱え、二人で共に歩きながら、やがて階段を降りるであろうことを想像させる。最上段が最上の哲学の原型であるイデアだとすれば、階段の下へ行くほど現世に近づき、どんな叡智もやがて庶民化していき、下っていく... と解するのは行き過ぎであろうか?階段の下でヘラクレイトスが肘をついているのは、現世で諦めの境地に達したようにも映る。階段下の右側で民衆相手に講義しているユークリッドは、幾何学と現実空間の親和性を物語っているのであろうか。ラファエロ自身をアペレスに重ねて、幾何学のグループに属しているのも興味深い。
犬儒学派ディオゲネスが階段の中央で横たわり、まだ階段の下に足が到達していないのは、この狂えるソクラテスはまだ救いの領域にあるとでもいうのか?あるいは、昔を懐かしんで階段を登ろうとし、疲れきっているのか?はたまた、形而上から形而下への格付けなんてものは、所詮人間が編み出した価値観に過ぎないと蔑んでいるのか?
尚、この作品には、女性数学者ヒュパティアも描かれるが、別の作品「天体の起動」に描かれる天使に祝福される女性もヒュパティアではないかと想像してしまう。映画「アレクサンドリア」でも描かれた彼女は、狂信的なキリスト教徒に八つ裂きにされる運命を辿る。「天体の起動」もまた「署名の間」に描かれたフレスコ画だそうな...

2. 女の達人!?
「美術家列伝」の著者ジョルジョ・ヴァザーリは、ラファエロの早すぎる死の一因を過度の女好きに求めたという。神々しい女性を描いた作品群が、親しみやすい雰囲気を漂わせているのは、実存する女性を描いたためだとか。しかし、派手な女性関係を噂されながらも、特定の女性との交際を裏付ける資料はほとんど残っていないという。証拠を残さないとは、よほどの達人か!
パトロンの枢機卿メディチ・ビッビエーナから、姪マリア・ビッビエーナを紹介されて婚約したのは確かなようである。だが、婚礼に至らぬまま、彼女は1514年に急死したとか。彼女への遠慮からか、あるいは、枢機卿の推挙で聖職者としての重職に就く可能性があっためか、表向きは生涯童貞を宣言したという説もあるそうな。一夫多妻を拒否するハーレム主義者は、結婚しなければ矛盾しない。愛はホットな女性の数だけあるとすれば、独身貴族こそ純粋な平等主義者となろう。実際、彼は生涯独身を通したという。
この時代の肖像画は、男性像であっても、人物の角度といい、色彩の用い方といい、レオナルドの「モナ・リザ」がかなり意識されているようである。
作品「ラ・フォルナリーナ」には、腕輪に「RAPHAEL VRBINAS」と銘記され、ラファエロの「秘めたる花嫁」という伝説が生まれたという。パン屋の娘という意味だが、日本流であれば、ラファエル命!と腕に入墨をやるところであろう。シエナ出身のマルゲリータ・ルーティがモデルとされ、高級娼婦との説もあるらしいが、実在人物かも定かではないらしい。
作品「ヴェールをかぶった婦人(ラ・ヴェラータ)」に描かれる女性もフォルナリーナと同じ人物とする説もあれば、花嫁特有の仕草から、婚約者マリア・ビッビエーナと考えられるむきもあるという。
さらに本書は、ちと興味深い指摘をしている。それは、作品「システィーナの聖母(サン・シストの聖母)」のマリアにも酷似していること。愛する女性を理想化し、聖母として神格化させることは、男の深層心理としてありがちな話である。ましてや、女性の死が早いとなれば、若く美しいままの姿で記憶に留めることであろう...

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