身長 2 メートルを超える経済学の巨人ジョン・ケネス・ガルブレイス。この書の立ち位置が異端とはとても思えないが、彼自身はそう言っている。不確実な世界を論じれば、時代的な欠点が含まれるのも仕方があるまい。人間社会を問うた学問において、すべての現象を完全に説明できた学派は、いまだかつて存在しないのだから。ただ、異端と聞くと天の邪鬼の性癖がうずく。
ガルブレイスは、経済学的思考に疑問を投げかける。労働に明け暮れた古典的な生活から脱皮し、人生を謳歌する生活へ転換されつつある時代に、なにゆえ所得を最大限にするような議論を続けるのか?と。財貨はますます豊富になり、緊要性が低下しているというのに。彼は、ゆたかさの指標を誤れば、ゆたかさ自体を脅かすと警告する。いまや人生の意義を求めるような進歩の設計ができていると。それは教育であり、教育のあり方である。
とはいえ、人間社会には、働かざる者食うべからず... という風潮がいまだ根強い。経済的なゆたかさとは、金の使い道を心得ているということであろうか。それは、自己投資、自己啓発、そして自己実現への道。投資が経済循環の原動力であるという考えは変わらないにしても、従来の物的資本から真の意味での人的資本へ比重を移すべきだというわけである。どうやら経済学理論の陳腐化は、ゆたかさの度合いに比例するらしい...
尚、鈴木哲太郎訳版(岩波現代文庫)を手に取る。
「私はあえていうが、ここで述べた思想は、むしろ専門外の読者にとって、もっともで合理的と思われるのではなかろうか。
... しかし通念体系の高級な上層部では、このような目標は極度に望ましくないと思われるであろう。専門的な経済学者のうち高名だが鈍感な人たちまでもがこの反対論に加わっているのは遺憾なことである。」
原書の初版が刊行されたのは、1958年。いくつか改訂を繰り返し、本書は四十周年記念版に当たる。ガルブレイスの「ゆたかさ」という経済指標の考えには、執念のようなものを感じる。経済学が本格的に稼働を始めたスミス、リカード、マルサス、ミルの時代、価値の指標はもっぱらい生産に向けられ、それは貧困モデルから出発した一学科であった。人類の歴史を紐解けば、その大部分は貧困の歴史である。大衆が富を獲得するようになったのは、封建社会から解放され、資本主義や自由主義が生起する近代社会になってからのこと。
貧困や困窮をテーマにすれば、陰気な学問とあだ名される。リカードが貧乏は避けえない現象と論じれば、マルサスは喰える人間の数を論じ、やはり暗いイメージがつきまとう。マルクスの目には、政府はブルジョアジーの手先にでも見えたか。労働者を産業予備軍のごとく言い放ち、階級闘争を煽る。マルクス主義者の宗教性は常軌を逸しており、反対論者は誤っているばかりでなく罪人扱い、異端者は道徳的にも否定される。
ただ、ガルブレイスのマルクスの見方は少々違うようである。マルクスは、マルクス主義者にも、反マルクス主義者にも誤解されているという。当時のイメージは、経済学者の代表であるリカードは冷血な株屋の傍観者、対して、マルクスは熱血漢の正義漢。つまりは、労働者の代表である。失業率の増減、すなわち産業予備軍の存在が、経営に柔軟性を与え、企業体を安定化させるのは確かである。マルクスは、社会階級、経済行動、国家の本質、帝国主義、戦争などを体系化し、経済学というより社会科学として確立した。その業績はあまりにも偉大すぎて、マルクス主義者はこれを信仰するしかなかったということであろうか。
マルクスという人物は、この酔いどれ天の邪鬼にとっても、なんとなく気になる存在ではある。これほど影響力を持った偉人はいないと、世間が言うものだから。ただ、「資本論」という大作にはいまいち踏み込めないでいる。「資本論」の序説に当たる「経済学批判」に触れた時はなかなかのものだと感じ入ったものだが、「共産党宣言」に触れた途端に距離を置きたくなる。万国のプロレタリア団結せよ!... などと叫ばれた日にゃ。これも、ガルブレイスの指摘する誤解であろうか...
一方で、陰気とは言えない事例も多々見られる。スミスが大著「諸国民の富の性質と原因に関する研究」と題したのは、彼が富に希望を持つ楽観主義者という見方もできよう。陰気な部類とされるリカードにしても、おいらが「比較優位論」に出会った時は、まるで経済学の相対性理論と、この明るい説に感服したものである。なにしろ、自由貿易の力学が単純な国力差だけでは機能しないことを示し、弱小国にも得意分野があれば生き残れる希望を与えているのだから。
そして現在、生産量の指標に多少の改善がなされたものの、消費量や需要量などの指数と絡めて議論される。政治家のお好きなケインズ的財政政策は、生産物に対する総需要が経済の総生産を決定するという考えが中心にある。政策立案者は相も変わらず、設備投資や物価指数、あるいは公共投資といった計測可能な指標に目を向けるばかりか、消費を煽る方策しか打ち出せないでいる。反対論者は反対論者で、インフレ論やマネタリズムの金融政策を旺盛にしていく。そりや、「生産こそ社会の進歩の公認の尺度」と皮肉られても仕方があるまい...
しかしながら、経済学という学問は、測定不可能な目線で存在しうるのだろうか?個人的には、経済学は社会学に属す一学科として捉え、その意義の一つは社会学に数学的な視点を与えることだと思っている。だが実際の経済学は、社会学からますます乖離していくように映る。
そこで、ガルブレイスは「ゆたかさ」という指標を提案してくれるが、数値的な度合いや段階的なレベルまでは踏み込んでいない。
また、生産過程で生じる不平等や既得利益、貨幣への幻想や社会への不安、さらには社会保障から安全保障に至るまで、依存効果の観点から論じている。依存効果とは、「欲望は欲望を満足させる過程に依存する」というもの。
こうした見方は行動経済学の領域にあるが、人間の依存症は生産や消費に絡む問題だけでなく、むしろ生理的な問題であろう。人生の意義を求めて知識に執着すれば、やはり知識依存症となる。おそらく哲学者という人種は真理依存症なのであろう。金銭依存症や権威依存症よりはましか。
人間の満足には二つある。他人がどうであろうと自分自身が欲する絶対的な満足と、何かを得ることで他人よりも優越できる相対的な満足。人間ってやつは、なにかを心の拠り所にし、なにかに依存しなければ生きてはいけない存在である。
したがって、ゆたかな社会とは、より高度な依存社会ということになりそうだ。ガルブレイスは、社会がゆたかになれば余裕ができ、ゆたかさの恩恵にあずかれない人々も救われると楽観視していたのか、現実はそうではなかったことを嘆く。現実社会は欲望が欲望を呼ぶ世界で、依然として何百万、何千万もの飢えた人々がいる。ゆたかな社会だから福祉が拡大するという仮説は妥当しない。実際、助成金の類いはタカリ屋を蔓延らせる。
それでもなお、「ゆたかさ」という指標に希望を持ち続けたのは、陰気な学問を陽気な学問へ変えようとしたのだろうか。現在、この路線を継承するかのように、「幸福度」といった尺度があるにはあるが、科学的な信憑性も疑わしいし、却って政治利用されてもかなわん。そうした指標は改善の余地が大いにあるにせよ、現時点で経済学の主流に取り込まれていないことは、まだしも健全かもしれない。
とはいえ、ゆたかさの度合いによって貨幣の存在感は変わるだろうし、何に価値を求めるかの多様性はますます広がるだろう。ゆたか過ぎても、貧困過ぎても、どちらも不幸な社会になりそうだ。前者は問題が分かっていないから誤った解決策しか施せないでいるし、後者は問題が分かっていても手の施しようがない。ゆたかさの温床が人口減少へ向かわせるのか。ロボットや AI が肩代わりすれば、労働人口を必要としなくなる。それは、人間不要論の布石か... などと言えば、経済学に失望し、陰気な学問に引き戻される。救いは、ガルブレイスが四十周年という記念碑的行為に対して語ってくれる。やはり学問は陽気でなくっちゃ...
「長い年月が経ったあとで自分の書いたものを再検討することは、決して不愉快な仕事ではない。人は自分自身の労作の同情的な批判者である。正しいとわかったことから得られる喜びは、間違っていたと判明したことについての後悔より、常に大きい。」
2018-11-25
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