2009-03-15

"死に至る病" セーレン・キェルケゴール 著

人間は本能的に死を感じながら生きている。精神は、無意識に死までの時間を計測し、死へのカウントダウンの中にある。人間は生まれて死んでいく。人間にとってこれ以上のイベントがあろうか。だが、人間はこの二大イベントの瞬間を自ら意識することができない。人間が死を意識するとは、自らの死ぬ瞬間の前後を意識できるということである。もしかしたら意識できるのかもしれないが。生まれる瞬間も単に記憶が失われているだけかもしれないが。死という得体の知れないものが近づけば、人間は狂乱する。末期患者が死を宣告されて狼狽する姿を曝け出すのも至極自然であろう。最近の社会傾向として、生活保護が受けられずに餓死する例がある。昔は楢山節考のような貧しい時代があった。考えてみれば犯罪もせず自殺もしなかったわけだから、強靭な理性の持ち主なのかもしれない。その一方で、死を目前にした人間が想像もつかない超人的な力を発揮することがある。こうした例は、死に近づくことによって精神の成長がある可能性を示している。それは時間との闘いであり寿命との闘いである。精神という無形化した世界で虚しくも認識の時計だけが刻まれ、やがて肉体が衰え精神が泥酔していく。人間はそれを待つばかりの無力な存在でしかない。人間は死に至るまでの時間を自我と認識しているのだろうか?そういえば、時間(じかん)と自我(じが)には同じ音韻が感じられる。そして、ヅガンも同じ音色に聞こえてくる。アル中ハイマーは、死に際にスーパーヅガンな人生を走馬灯のように振り返るのであろうか?いや!記憶があるはずもない。人間の最高の才能は「忘れる」ことである。だからノイローゼにならなくて済むのだ。この才能は神にも敵わない。おそらく神は慢性的にノイローゼを患っているに違いない。だから魔が差して「人間」なんて不完全なものを創造してしまったのだ。
などと、ぼんやりと考えながら本棚を眺めていると、なんとなく読み返したい一冊に目が留まった。おそらく20年ぐらい前に読んだ本である。
「人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは自己自身が関係するところの関係である。すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている。」
なんだこの難解な言葉の羅列は!狂ったかキェルケゴール!これが当時の印象である。

「死に至る病とは、絶望のことである。」
この病で人は死ぬことはない。この死は肉体的な死をともなわない。絶望の苦悩は死ぬことさえできない。人間は絶望に憑かれてまさに生き地獄の中にある。では絶望とは何か?なぜ人間は絶望に憑かれるのか?本書の答えは、「それは人間が精神だから」である。大デカルトを始めとする実存論者は、人間の実体は精神であり自己の中に存在すると主張する。逆に言うと、固体である肉体にはなんの意味もなさないことになる。実存主義の先駆者とも評されるキェルケゴールは、人間が精神であるがゆえに無意識に自己の病を抱えこむという絶望論を展開する。この絶望を通しての人間心理の考察は鋭い。そこには、絶望を罪として捉え、その救済を信仰との対立の中で弁証法的に論じられる。信仰の攻撃対象はキリスト教界で、皮肉をこめて論述と教化を対立させる。キェルケゴールが生きた時代は、実存主義とマルクス主義の二大思潮に分かれていたという。両者とも自己疎外の問題に言及したことに注目したい。マルクスは近代社会の矛盾から生じる人間疎外や人間分裂を問題にした。キェルケゴールは不安と絶望に悩む人間の姿を暴露する。本書は、絶望の視点から人間心理を考察した歴史的名著と言えるだろう。

セーレン・キェルケゴールは、デンマークの哲学者で、その名は珍しく渾名で呼ばれるという。デンマーク語のKirkeは、ドイツ語のKirche、英語のchurch。Gaardは、ドイツ語のGarten、英語のgarden。つまり、「教会の庭」あるいは「寺屋敷」や「墓地」を意味する。彼の祖先は貧しい部落の百姓で、教会の中の牧師館を借家としていたことからこの名がきているそうな。Kierkegaardは、Kirkegaardの中に無意味な一字eを入れて、固有名詞に転化されたという。彼の父親は厳粛なキリスト教に憑かれていたというから、その反動が現れたことも想像できる。ヘーゲル哲学に強い影響を受けながら、その徹底した批判者としても知られる。彼は主体性こそ真理であるという立場を貫く。その生い立ちでは、彼自身に例外者としての意識が根付いていたという。背骨の曲がる「せむし」という病だったという説もある。知性は群を抜いて卓越していたが、肉体的な欠陥によって精神と肉体の不均衡が見られたという。天才は、なんらかの苦悩を背負う運命にあるのかもしれない。
アリストテレス曰く、「狂気の要素のない偉大な天才は、未だかつて存在したことがない。」
彼にとって絶望は、あくまでも病であって救済との関係にこだわる。絶望こそが最も不幸な境地で、生きる希望の失せた世界を生きるという矛盾を克服しなければならない。自殺によって墓場で安住できるとすれば、それはキェルケゴールの世界では絶望の極致ではない。それは、信仰では救済されないことを訴えているかのように映る。

ある程度の絶望は自分のためには都合が良いものであろう。自己は、自らを空想の世界に追いやり現実を直視せず、可能性はあらゆるものに秘められると信じる傾向がある。つまり、自己に欠けているものは、現実性であり、自身の限界を認めることである。絶望は、挫折に追い込まれた時に現れ、欠けているものが何かを教えてくれる。女性は、結婚前「夢を持った男性に惹かれるの!」と言いながら、結婚後「子供みたいに夢ばっかり追っかけてんじゃないわよ!」と豹変する。妻は夫の態度で恐妻化し、夫は妻の態度で飼育化される。したがって、一般的に男はMとなる。なるほど、manの頭文字だ。これが家庭円満の法則というものか。その様子を観察すれば結婚は絶望に映る。「女房に逃げられるのを恐れて男が勤まるかい!(じゃりン子チエ、より)」
信頼は絶望と背中合わせにある。絶望に対する解毒剤があるとすれば、実現の不可能性を覚悟し、信頼を裏切る可能性を覚悟することであろう。こうしたことに対抗するには共通した意識が必要となる。それは自己を失わないという意志である。それが理性ってやつか?なるほど、「なぜ結婚しないのか?」と問われれば、それは「理性を失わないから」と答えて独身主義を通すのも優れた選択と言えよう。神はあらゆるものの可能性を示唆しながら、突然運命付けようとしやがる。宗教へ帰依する者は宗教へ恋するが、恋は盲目なのだ。宗教は芸術などの感情の領域にあるかと言えばそうでもない。そもそも、死後の世界を用意している思想ほど胡散臭いものはない。宗教は論理的否定を拒む。宗教の矛盾は神々の言葉によって強制力を発揮するところにある。言葉は人間から教えられるのであって、神からは沈黙しか教えられないはずなのに。その証拠にお祈りの言葉を捧げても、肝心な時に神はお留守をなさる。いったいどんな時に神が現れるというのか?もし、人間が論理的思考の限界に到達することができれば、そこに神を見ることができるのか?凡庸な人間の前には神は永遠に現れないだろう。では、天才の前には神が現れるのか?などと言えば、自ら神と名乗る人間が登場する。神が人間の姿を借りて現れるという思想は永遠に消し去ることができないようだ。こうしてアル中ハイマーは、神の存在と死後の世界を想像しながら夢の中をさまよい続ける。そして、少なくとも生きている間は生きている者同士で付き合いたい...死んだら死んだ者同士で付き合い、生きている者にその眠りを邪魔されたくない...などと金縛りの中で呪文を唱えるのであった。

1. 絶望とは何か?
キリスト教的な意味では、死でさえも死に至る病ではないという。キリスト教の立場では、死とは生への移行であり、死そのものが終局ではない。本書はこの教化が誰も知りえない悲惨へ導いたと指摘する。それが絶望である。絶望には優越と欠陥があるという。絶望の感情に至るのは人間であり、他の動物よりも優越を示す。しかし、絶望する人間は、最大の不幸と直面し、悲惨であるばかりか最大の堕落となる。人が死を体験するには、自らの死ぬ瞬間を意識できなければならない。したがって、人間は永遠に死を体験することができないだろう。ところが、絶望する人間は永遠にその瞬間を体験し続ける。ソクラテスは、肉体は肉体の病によって食い尽くされることがあるが、魂は魂の病によって食い尽くされることはありえないことから、魂の不死を証明した。もし、絶望が自己を食い尽くすことができれば、人間は絶望する必要がないのかもしれない。絶望こそ人間の一番尊い部分を浸食する。そこには、死ぬことのできない終わることのない終局がある。しかも、自らの力で自己から抜け出せない限り、この病からも逃れられない。もし、自己から抜け出せたと思い込んでも、それは幻想に過ぎない。精神は肉体が滅びない限り永遠に存在する。

2. 自己の放棄
全く健康な人などいないだろう。全く不安を感じない人などいないだろう。おまけに、全く絶望したことのない人などいないだろう。人間が精神であるならば、これは普遍的に逃れられない。自らが絶望していることすら意識できない形態もある。逆に、自ら絶望を感じていても、必ずしも絶望の極致にあるとは限らない形態もある。人間を単に霊と肉との総合と考えれば、健康が直接的な規定となるだろう。だが、人間が精神によって規定されることを自覚していないと、そこには絶望が現れるという。いかなる人間も自己を持つことが使命である。しかし、他人を怖れるあまりに自己を放棄することがある。自己が信じられず、自己であろうなどと考えず、他人と同じであると考える方が楽な場合もある。この時、自己は群集の一部でしかなくなる。こうした状態も、自己を放棄しているという一種の絶望状態であるという。だが、人々はそれに気づかない。彼らは単に生活に不都合をきたさなければいい。しかし、その安易さが絶望を招き寄せる。人生の冒険には失敗の可能性が付きまとう。したがって、冒険しないのが賢明であるという考えがある。失敗すれば、あたかも何かを失うかのように誇張する風潮がある。確かに、物質的に失うものがあるかもしれない。だが、自己を失うことは決してない。あらゆる冒険を避けて利益を得たとしても、それは自己を失うだけである。

3. 欲望と意識
「意識の度が増せば増すほど絶望の度も増す。」
自己は感性が知性よりも優勢である。どんなに冷静に装っても、そこには自己を押し込めた感性が潜む。そこに絶望があろうとも、希望によって優勢を保ち不快な立場から目を背ける。人間には虚栄心があり自惚れが強い。本書は、絶望に対する無知は不安に対する無知と似たような事情にあるという。精神的に安定しているようでも心の奥底には不安が潜む。錯覚の魔法が解かれ、自らの存在が動揺する時に絶望が現れる。絶望に気づかない人は、気づいている人よりも、真理と救済から遠ざかっているという。真理に近づくには、あらゆる否定を受け入れなければならない。だが、真理に近づけば、それだけ絶望を認識することになるではないか?という疑問もわく。絶望がゆえにますます絶望へと導かれ、絶望の無間地獄に嵌るではないか。だから死に至る病ではないのか?したがって、真理から遠ざかるのも一つの救済法と考えられるではないか。ただ、救済先が宗教となると、結局地獄へ引き戻されることになる。しかも絶望すら感じない。これは一種の麻薬である。これが幸福かどうかは酔っ払いの知ったことではない。哲学的弁証法で粗探しをしたら切りが無い。したがって、哲学の良いところは解釈の仕方が読者に委ねられるところである。ちなみに、宗教的論理には粗しか見当たらないが。本書は、絶望の反対は信仰でもあるとも語っている。人間の欲望こそが絶望を招くように映る。諦めの境地にも、絶望が潜んでいるように映る。自分自身でありたいと願う欲望によって絶望が生じるならば、自分自身でありたくないと願うのも欲望であって、そこにも絶望が生じるであろう。

4. 孤独と強情
「孤独への衝動は精神の徴候であり、精神のありかたを量る尺度である。」
かつて、人間は孤独を求め、その意味するものに尊敬の念を抱いていたという。それが社交の時代になると、孤独に怖れを感じるようになる。まるで孤独は犯罪者に対する刑罰であるかのように。近代社会では、精神を所有することが社会的な罪とされるのか?ここには、著者の生きた時代で自己が大衆に呑みこまれてステレオタイプに押し流されていく様子がうかがえる。社会に絶望し、政治に絶望し、地上のあらゆるものに絶望するかのように。そして、自己の中に閉じこもり、永遠の自己と対峙する。自らの弱さによって自らの傲慢さを言い訳し、絶望がその度を強めると強情になるという。しかも、この状況で迫ってくる危険は自殺であるという。そこには絶対的な秘密がある。閉じこもった人の秘密を理解する者がいれば、自殺から免れるかもしれない。しかし、沈黙を破った瞬間に絶望することもありうる。ここには秘密を明かす衝動との戦いがある。強情とは、自己自身であろうと欲する絶望であるという。自己の中に絶対的な支配者である自己が現れ、あらゆるものに向かって狂暴となり、全世界から不当な扱いを受けている人間のままでありたいと願う。自分の意見が、正しいかどうかの検証もできないので自らを納得させることもできない。独自の世界で自らの不安を永遠に抱き続ける。その強情自体が本人にとって快楽であり享楽となる。強情は、自らに向けられる抗議や反論といった相手を、永遠に確保しておかなければならない。

5. 罪の意識
「絶望は罪である。」罪とは、弱さの度や強情の度の強まったもので、絶望の度の強まったものである。そこには、宗教的な詩人のような特質があるという。それを「詩人的実存者」と表現している。キリスト教的には詩人的実存者はすべて罪であるという。一般的に詩人は、存在する代わりに詩を作り、空想の中で真理と関わるだけで現実逃避した世界を創造する。だが、詩人的実在者は、なみはずれて弁証法的で、しかも漠然としているので、意識の中でも混乱するという。意識の中では、神の観念が一緒にされ、ひたすら信仰に頼り、自らの苦悩を自分で引き受けることができない。まるで不幸な恋愛のために詩人になった者が、恋愛の幸福を霊妙に賛美するかのように。そして、朦朧とした意識の中で自己を失う。詩人的実存者は、神の前でしか自己を持たないから利己心が現れるという。もはや、罪を犯したという意識すらなくなり絶望的な無知に陥るわけである。「神が見ておられるから悪行を犯してはならない」という宗教的な教義をよく耳にする。そこには、「神の前」という絶対的な思想がある。逆に、神が見ていなければ何をしてもいいのか?ここに宗教と倫理の境界がある。人間は罪を犯しながら生きていく。罪の意識の規準は個人の意識の中にある。ほとんどの人間は、自己の中では善人である。しかし、その境界線を超えた時に罪を意識し絶望に苛まれる。罪の意識を背負ってのみ生きるのは辛い。したがって、信仰すれば救われるという宗教的な教義も理解できなくもない。しかし、信仰すればどんな罪も正当化できるという矛盾が生じる。宗教心の強い地域ほど紛争が多いというのも想像に易い。

6. ソクラテス的な罪の意識
ソクラテス的定義では、罪は無知である。ソクラテスの立場は裁判官として神と人間の間に立って監視した。本来、罪は無知ではない者に根ざすであろう。ということは、意識のないところに罪は存在するのか?宗教は罪を意識するために神という絶対的な第三者を登場させた。これは倫理の実践的方法とも言える。ソクラテスの時代は、知性があまりに幸福で素朴だったために、罪の規定を明確にすることはできなかった。古代は、罪の規定すら必要なかった良い時代だったのかもしれない。それゆえに、この時代で倫理を理解できた者などいないと批判する者も多い。では、近代では明確な倫理を必要とするということか。倫理が主張される時代とは、醜い時代の証なのかもしれない。キリスト教はそうした時代背景で生まれたのだろう。キリスト教は、ソクラテス的倫理を発展させ、罪は意志の中にあることを示した。では、罪はどうして始まったのか?それは知識の進化とも言える。人間は善の知識を持ちながらも、あえて不正を行う。正しいと理解していても、それを行うことを放棄する。境遇によって仕方なく罪を犯す場合もあれば、知識があるがゆえに罪を犯す場合もある。罪は消極的にも積極的にも存在する。

7. 牧師の教化
「もう二度としません」「反省しています」とは、よく見かける台詞である。本書は、自分を許さないという心があるならば、自らを許す雅量があってもよいはずだと語る。心の懺悔とは、ほとんどが逆であり、むしろ自らの正体を暴露するという。罪の度に一層強められた性格となり、ますます悪魔の絶望へと向かう。こうした人間の絶望は極めて利己的である。ここに、再犯の原理が見てとれる。彼らに与えられる牧師の処方箋は、むしろ病気を悪化させてしまうと指摘している。本書は、キリスト教界を罪の許しに対して絶望している状態とし、これに属しているというだけで前進していると妄想し、優越感に浸っていると揶揄している。しかも、牧師たちが教会員にそれを保証し、キリスト教の教説ほど神と人間を近づけた宗教はないという。なるほど、大衆に広めるためには馴染みのあるものにするのが効果的であろう。キリスト教の堕落は、教説者を神の地位に近づけてしまい、相対的に神の力が失墜させた結果であるという。
人間は精神である。デカルトの「我思う、故に我在り」とは、そういうことであろう。だが、本書はこの言葉も虚偽かもしれないと疑う。人間もまた固体であり、その個体性こそが最高なのかもしれないと。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。これは、罪を固体化して罪人を概念に押し上げる。人間尊重の思想が、人間を神に近づけるとしたら、人間は固体であると蔑んだままの方がいい。罪は固体であり、また人間も固体である。したがって、罪人は罰せられるべし。ここに人間の地位を巡っての論争がある。宗教は人類の地位を高め神に近づけたくてしょうがないようだ。実は、神を冒涜しているのは宗教ではないのか?神に近づいて冒涜を犯すぐらいなら、まだしも無神教の方がまともである。

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