2009-07-05

"地獄変" 芥川龍之介 著

何を血迷ったか?今度は芥川文学に触れている。精神の泥酔はとどまるところを知らない。この手の文学作品は、学生時代に退屈するものというイメージを徹底的に叩き込まれている。本であれ、なんであれ、受け入れられる心の準備ができていなければ、素直にはなれない。許容範囲を超えた芸術を強いられると、反感さえ芽生える。なにしろ、国語の成績では学年で最下位を争っていたのだ。もし、学校の授業で扱われなかったら、もっと早く芥川文学に触れていたに違いない。

芥川龍之介は代表作を持たない作家と言われるらしい。どれを挙げるかは専門家でも意見が分かれるようだ。彼自身、代表作を意識的に拒んでいた節があるという。一つの作品を代表格とすることで、作家として安住を求めるのは邪道だ!とでも思ったのだろうか?作品の多くは短篇集で、どれを読んでも呼び起こされる精神はばらばらである。したがって、好みによって、あるいはその日の気分によって代表作の入れ替えが起こる。こうした作品群は、浮気性のアル中ハイマーにはピッタリだ!それにしても、この文章の流れはなんなんだ。一つ一つの形容の仕方、長ったらしい表現のわりにはしつこくない、とげとげしいようでまろやか、倦怠感の上にまったり感のてんこもり、そして何よりもリアリズム、精神の複合体の連続とでも言おうか。手も足も出ない芸術には溜息がでる。著者は自殺しているが、死を覚悟した迫力がなければ、素朴な精神に近づけないということか?これが破滅に向かった自我から出現した文体というものなのか?日本は、偉大な哲学者が思い当たらないことから哲学後進国と揶揄されることもあるが、どうしてどうして!日本文学にこそ庶民的な哲学がある。おいらは、言葉で人間の思考を完璧に表現できるとは信じていない。人間の創造した言語の体系で、精神を言い尽くせるとは到底思えない。だが、こうした緻密で隙のない心理描写を見せつけられると、その考えも少し揺らぐ。ここで知りたいのは、著者が自らの文章で、どこまで自分の精神を表現できているのだろうか?ということである。その満足度は作者本人にしか分からない。外面的には、思考の限界は言語表現の限界に等しい。だが、内面的には計り知れない。その限界を意識できるのは、思考自体は言語の限界の境界線をまたいでいることになる。まさに芥川文学は、技巧といったレベルでは片付けられない領域にあろう。

本書は集英社文庫版で12作品を収録した短編集。芥川作品でまず思い浮かぶのは、黒澤映画の「羅生門」である。そのシナリオは「藪の中」に基づく。この二作品が本書に含まれるのはありがたい。「トロッコ」は学校の教材にあった。その頃の退屈な印象しかないので読む気がしないが、一つぐらいは許そう。「蜘蛛の糸」は、幼少の頃、絵本で読んだ覚えがある。アル中ハイマーの芥川文学の知識といえば、所詮この程度のものだ。ところが、いざ読んでみると、そこには、孤独感、神経質さ、繊細さ、懐かしさ、純粋さ、退屈さなどなど、いろいろな心情が錯綜する。「地獄変」や「羅生門」のように物語風のものがあるかと思えば、「蜜柑」のようにとるにたらない光景を題材にしてくる。「藪の中」は推理小説風でありながら、結末は釈然としない。「大川の水」では、精神の拠り所となる原点を探り、「秋」は三角関係をいじらしく描く。「トロッコ」は子供心を懐かしく思い出させ、あまりにも不安定な芥川文学の中に、こういう作品を見つけると安心できる。「奉教人の死」は異色過ぎて消化不良、何度読み返しても理解の範囲を超えている。といった様々な趣向(酒肴)が凝らされる。

1. 大川の水
誰しも、故郷を感じるような精神の原点とも言うべき存在があるだろう。本作品は、そうした子供の頃から慣れ親しんだ故郷の様子を、大人になった視点から眺める。昔の感覚を忘れてしまうということは、精神が成長したことの証なのか?それも懐かしいようで淋しいものがある。そのくせ妙な暖かさがある。時代が移り変われば、今となってはなくなった光景もあろう。本作品の締めくくりは、なんとも印象的だ。
「その後「一の橋の渡し」の絶えたことをきいた。「御蔵橋の渡し」の廃れるのも間があるまい。」

2. 羅生門
時代は平安朝、京の都で地震や飢饉などの災いが続々と起こった。洛中はさびれ、羅生門には引き取りのない死人を捨てていく習慣さえできた。そこで雨宿りをする一人の下人。主人から暇を出されて行く当てもない。もはや、盗人になるしか生きる道はないが、決心できずにいる。そこには、下人の心の善と悪の葛藤がある。羅生門の楼の上へ出てみると、老婆が死人の髪の毛を抜いている気味悪い姿がある。近寄って問いただすと、死人の髪の毛を集めて鬘にするという。そして、ここで死人になった連中は、それぐらいされても文句の言えない奴ばかり、飢え死にしても仕方ない奴らだと答える。下人は、その話をきいているうちに餓死することが馬鹿らしくなり、仕方なくするのだから、老婆が身ぐるみ剥がされても文句は言えないと、着物を剥ぎ取ってしまう。
芥川作品では、とおして、罪人を一方的に悪として扱うのではなく、善と悪の対比を描いているように見受けられる。人間が生きるとは、善意と悪意の共存の中で葛藤しながら生きているだけのことかもしれん!

3. 鼻
池の尾の僧である禅智内供(ぜんちないぐ)は五、六寸の長さのある滑稽な鼻を持っているために、人々にからかわれた。心ではこの鼻で悩んでいたが、僧侶という立場からもそんな素振りを見せるのはみっともない。飯を食う時も、弟子に鼻を持ち上げてもらわなければならない。この鼻のために妻のなり手もないと噂され、その鼻のために出家したのだろうと言う者もいる。内供は、鼻のために自尊心を傷つけられた。そこに、弟子が医者から治療方法を聞いてきた。それを試してみると、気にならないほど鼻は小さくなった。しかし、他人は、見慣れた長い鼻が短くなって滑稽に見えるのか、おもしろがっている。逆に、内供は世間の評判から鼻が短くなったのを恨めしく思うようになる。ある晩、鼻がむず痒い。そして、再び鼻が長くなり、鼻が短くなった時と同じような晴れ晴れした気持ちが戻る。内供はもう自分を笑う者がいなくなると思った。だが、他人は、自分が思っているほど、その境遇を心配しているわけではない。ただ、おもしろがっているだけである。
人間には二つの矛盾した感情がある。ほとんどの人が他人の不幸を同情する。だが、その不幸を切り抜けると嫉妬もする。自分よりも不幸な人間に同情し、自分よりも幸せな人間に嫉妬する。人間は、幸福という価値観を、自分と対比しながら相対的に判定することぐらいしかできない。所詮、同情心も自分のエゴからは逃れられない。つまり、人間は、幸福の正体を知らずに生きているのだろう。

4. 芋粥
時代は平安朝、摂政藤原基経に仕える五位の話。旧記には姓名が明らかになっていないので、おそらく平凡な男だったという。侍所にいる連中は、ほとんど彼に注意を払わない。ただ、性質の悪い悪戯をされる。五位は、腹を立てたことがなく、意気地の無い臆病な人間だった。五位は、周囲の軽蔑の中で犬のような生活をしているが、ただ一つ芋粥に異常な執着心を持っていた。当時、芋粥は無上の佳味として万乗の君の食膳に上せられたというから、正月にお目にかかるぐらいで、五位のごとき人間の口には滅多に入らない。そんなある日、正月に饗宴を催すことになった。侍が一堂に集まる食事の中に芋粥があった。人数が多いので、いつも五位が飲める芋粥は、ほんの少し。その日は特に少なく、思わず「いつになったら、これに飽けることかのう」と呟いた。その言葉を聞いた藤原利仁が嘲笑う。そして、飽かせてみようということになった。五位は、利仁が酔っていたので、いつものようにからかわれていると思った。後日、なんと!利仁は芋粥を食べさせるために、京都から遠く敦賀の舘へ連れて行った。到着したその晩、いざ芋粥がたらふく飲めることが現実味を帯びてくると不安になる。翌日、館には芋粥がいっぱい用意される。しかし、「飽くほど」というのは、そういう意味ではなく、長々といつでもゆっくり味わえるという意味である。あまり多すぎると興醒めである。
「人間は、時として、充たされるか充たされないか、わからない欲望のために、一生を捧げてしまう。その愚を哂う者は、畢竟、人生に対する路傍の人にすぎない。」
人間は、夢が叶うのを待ち続ける時間こそが、何よりも幸福であろう。ほどほどに満たされるから情緒も感じられる。どんな小さな夢でも、叶ってしまったら、いくらかの喪失感を感じずにはいられない。他人からどんなにみすぼらしく見えても、何らかの夢を胸に抱いて生きられる人は幸福であろう。

5. 地獄変
良秀という絵師は高名だが傲慢、とかく評判の悪い人物であった。見た目も卑しく、ケチで欲張り、恥知らずで怠け者、強欲で負け惜しみが強く、なにかと馬鹿にせずにはいられない。御霊の祟りも足蹴にする。良秀が描いた絵は気味が悪い評判ばかり。天人のため息をつく音や啜り泣きする声が聞こえるとか、死人の腐っていく臭気がするとか、絵に写された人間は三年と経たないうちに病死するとか、弟子ですら「智羅永寿」という渾名をつける。しかし、良秀本人はその評判がかえって自慢である。そんな人物でも、一人娘を狂ったように可愛がった。娘は、優しく、親思いで、容姿も美しい。大殿様は、その娘の気立ての良さを気に入って小女房にするが、良秀は娘可愛さのために不服である。子煩悩な良秀であるが、いざ絵を描くとなると娘の顔を見る気もなくなるほど、何かに憑かれたようになる。鎖で縛られた人間を描く時は、弟子をぐるぐる巻きにして、実際に殺すのではないかといった極度のリアリズムを追求する。ある日、大殿様は地獄変の屏風を描くように命じる。良秀は屏風が書けずに涙を流して苦悩する。そして、大殿様に見たものでないと描けないと訴える。地獄変の屏風を描くには、地獄を見なければならない。災熱地獄を描いたのも、先年の大火事を眺めることができたからである。良秀の構想では、檳榔毛の車が空から落ちてくるイメージがある。その車の中には上臈が、猛火の中に黒髪を乱しながら悶え苦しむ姿があるという。大殿様は嬉しそうに望みを叶えてやると言って、車の中で悶え死ぬ女を用意した。車の中には、罪人の女房を縛って乗せてあるという。火をかければ、肉を焦がして苦しみ喘ぐのは必定。すかさず、大殿様は笑いながら観物じゃ!と火をかける。ところが、車に乗っていたのは良秀の娘であった。良秀は思わす車の方へ駆け寄ろうとしたが、火の上がった瞬間、足を止めて食い入るばかりに絵を描き始める。そして、恐ろしいことに娘の断末魔を嬉しそうに眺めている。その一ヵ月後、地獄変の屏風は出来上がった。屏風の出来上がった次の夜、良秀は梁に縄をかけて縊れ死んだ。一人娘を殺してまで完成させた芸術。その前で安閑と生きながらえるのは堪えられなかったのだろう。ところで、大殿様は良秀に恨みでもあったのだろうか?いや、単なる道楽か。

6. 蜘蛛の糸
お釈迦様が極楽の蓮池の縁をぶらぶらしていた。地獄をちょいと覗き込むと大罪人がいた。その大罪人はたった一つだけ善いことをした。小さな蜘蛛を助けたのである。お釈迦様はそれを思い出して、地獄から救い出だそうと考えた。そこにちょうど蜘蛛がいて、蜘蛛の糸を地獄の底へ垂らしてやった。大罪人は、喜んで糸をつかんで上へ登ってくる。あわよくば、地獄から抜けて極楽へ行けるかもしれない。しかし、地獄の底の血の池には他の罪人も多勢いる。しばらく登っていると、他の罪人たちも行列を作って登ってくる。自分一人でさえ切れそうな細い糸。この糸は俺のものだ!降りろ!降りろ!と叫ぶ。その瞬間、糸が切れ、みんな地獄の底へ落ちていった。お釈迦様はこの一部始終を見ていた。自分だけ地獄から助かろうとする無慈悲な心、幼少期に絵本で読むには良い題材であろう。

7. 奉教人の死
御降誕祭(クリスマス)の夜、「ろおれんぞ」という少年が飢えそうに倒れていた。伴天連の憐れみで奉教人衆(キリスト教信者)が養うことになり、「しめおん」という人が「ろおれんぞ」を弟のように可愛がった。「ろおれんぞ」が元服の頃になると、仲良くしていた傘張り屋の娘との関係が噂になる。その関係を伴天連や「しめおん」が問いただすと、「ろおれんぞ」は否定する。そのうち娘は身ごもり、腹の子は「ろおれんぞ」の子だと言ったものだから、「ろおれんぞ」は破門された。「しめおん」は欺かれたと腹を立て「ろおれんぞ」を殴った。やがて、傘張りの娘は女児を出産する。一年後、長崎の町の半分を焼き払った大火事があった。幼子が火の中の家に取り残されてしまう。その時、突然「ろおれんぞ」が現れた。火をもろともせず無事幼子を助けるが、「ろおれんぞ」は瀕死の重傷を負う。世間は、さすが親子の情愛は争えぬと罵った。しかし、傘張りの娘だけは跪いて、幼子は「ろおれんぞ」の子ではないと懺悔する。娘の行為は「ろおれんぞ」を恋い慕ってのことだった。奉教人衆は涙を流しながら哀れな「ろおれんぞ」を救い給えと祈る。ところが、驚いたことに、瀕死の「ろおれんぞ」の破れた衣の隙間に乳房が見えた。なんと!「ろおれんぞ」は女だったのである。なぜ、女であることを隠し通したのか?最初から打ち明けていれば破門されることもなかったものを。娘の一途な心を大切にしたいということか?それとも、作者のキリスト教への特別な思いでもあるのか?この作品には、さり気なく、禅宗の無我の境地とキリスト教の友愛とが対比されている。結局、人間の精神は宗教に依存するものではないということか?
「なべて人の世の尊さは、何ものにも換へがたい、刹那の感動にきわまるものじゃ。暗夜の海にも譬へようず煩悩心の空に一波をあげて、いまだ出ぬ月の光を、水沫(みなわ)の中に捕えてこそ、生きて甲斐ある命とも申そうず。されば「ろおれんぞ」が最期を知るものは、「ろおれんぞ」の一生を知るものではござるまいか。」

8. 蜜柑
披露感と倦怠感の入り混じる中、ぼんやりと汽車の発車を待つ。客車には一人しかいないどんよりとした光景。いよいよ出発という時に、慌しく一人の小娘が乗ってきた。田舎臭く下品な顔立ちが気に入らない。おまけに、三等切符で二等車に乗り込んでくる愚鈍さに不快感を持つ。巻煙草に火をつけて、その存在を忘れようとする。夕刊を読んで気を紛らわす。夕刊には平凡な記事ばかりで憂鬱を慰めるほどではない。トンネルの中の汽車、紙面に埋もれる汚職事件、おまけに小娘への不快感、なにもかもが「不可解な、下等な、退屈な人生の象徴」と表す。いつのまにか小娘が隣にきて、重い窓ガラスを開けようとする。まさに、汽車がトンネルに入ろうとしている時に。汽車がトンネルに入ると、煤煙がなだれ込み咳き込む。頭ごなしに小娘を叱りつけようとした、その時、汽車は貧しい村の踏み切りにさしかかった。踏み切りの向こうには、頬の赤い三人の男の子が立っていた。町はずれの陰惨たる風物と同じような色の着物を着た男の子たちは、いっせいに喚声をあげる。小娘も窓から半身を乗り出して喚声に答える。そして、男の子たちへ蜜柑を投げる。そこで、はじめて奉公先に向かう小娘が、見送りにきた弟たちに蜜柑を投げて答えていることを知る。すべては汽車の窓の外で起きた一瞬の出来事。得体の知れない朗らかな気持ちが湧き、別人を見るような気持ちで娘を見つめる。娘はあいかわらず3等切符を握りしめている。
「私はこの時始めて、言いようのない疲労と倦怠とを、そうしてまた不可解な、不等な、退屈な人生をわずかに忘れることができたのである。」

9. 舞踏会
17歳の令嬢明子は父親と一緒に鹿鳴館へ向かう。初めて舞踏会に臨む彼女の心境は、愉快な不安と形容すべきか、落ち着きが無い。鹿鳴館に入ると、彼女はその不安を忘れるような出来事に遭遇する。フランスの海軍将校が踊りを申し込んできたのである。踊った後、二人はバルコニーに出る。将校は静かに星空を眺めている。明子は将校の顔を覗き込んで「御国のことを思っていらっしゃるのでしょう」と甘えるように尋ねる。将校は、ほほ笑みながら首を振る。そこに、ちょうど花火があがる。将校は、「私は花火のことを考えているのです。われわれの生(ヴイ)のような花火のことを」と答えた。
ここで突然!舞踏会の風景から老婦人の場面に切り替わる。今では老婦人となった令嬢が面識のある青年小説家と汽車で乗り合わせる。青年が持っていた菊の花束を見て、老婦人は菊を見るたびに思い出す話があると言って、鹿鳴館の舞踏会の思い出を話して聞かせた。青年は話を聞き終えると将校の名をご存知ですかと聞く。ジュリアン・ヴィオとおっしゃる方と答える。青年は、あの「お菊夫人」を書いたピエル・ロテイですねと興奮する。老婦人は不思議そうな顔をして、ロテイという方ではなく、ジュリアン・ヴィオという方ですと呟く。
本作品は、ほとんどが舞踏会の様子を細かく描くために紙面が使われ、老婦人の様子は1ページという奇妙な構成。にもかかわらず、最後の1ページにインパクトがある。自分だけで素晴らしい思い出に浸る時というのは、時間の流れをも忘れさせてくれる。なんとなく忘れかけていた感情を思い出させてくれるような作品である。

10. 秋
姉妹と従兄の三角関係の物語。姉は将来作家として文壇に立つことは間違いないと言われる逸材だった。姉と従兄は誰もが認める仲。しかし、姉は女学校を卒業すると別の男と結婚したので、妹が従兄と結婚した。姉の心には未練が残っていた。姉は小説の制作に取り掛かかるが、夫から嫌な顔をされる。姉と夫の仲は決して悪いわけではない。妹は、自分の従兄への気持ちを姉が察して別の男と結婚したと思い込んでいる。姉はその妹をいじらしく思う。はたして、姉の結婚は犠牲的なものだったのだろうか?姉自身も未練の原因が分からない。秋に帰京した姉が妹夫婦を訪れる。姉妹は互いが幸せではないことを感じとったのか、探りを入れ合う。妹は、従兄が自分と結婚した後も、姉のことを思っていることを知って嫉妬する。姉は、妹夫婦が素直に幸せになれないことを、内心喜んでいる自分を認識する。そして、妹とはもう他人という意地悪な心まで湧き上がる。
この作品は、特に女性が自分の気持ちを素直に表すのが難しい時代を表しているような、そんな社会風潮を語っているような気がする。

11. 藪の中
藪の中で発見された一人の男の死骸について、検非違使が真相を究明しようとする。主な登場人物は、盗人と、殺された男の妻と、もう殺されたので物の言えない死霊の三人。本作品は、推理小説風に始まるが、まったくの異色である。おもしろいのは、三人の言い分が全く矛盾するところであるが、よくもまあこんなシナリオを考えつくものだ。
まず、盗人が白状する。女を手ごめにするために男を縛り上げたと。そして、女を奪われた男はどうせ死ぬ運命にあると。世間の言葉やらで殺されることもある。盗人は手ごめにした女に妻にしたいと申し出た。これは色欲なんぞではないという。女も男を殺さないと踏ん切りがつかないだろう。しかし、卑怯な殺し方はできない。そこで、縄を解いて堂々と太刀打ちをしたという。その結果、殺したのは俺だ!どうぞ獄刑にしてくれ!というわけだ。
次に妻が証言する。手ごめにされたところまでは同じ。ただ、手ごめにされたからには、もう夫とは一緒にいられない。そこで、木に縛られていた夫を刺して、すぐに後を追うつもりだったが、死に切れなかったと懺悔している。
最後に、殺された男の死霊が語る。もちろん死霊の声は人間には届かない。その話によると、盗人が女を手ごめにした後、女を慰めた。一度肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合わないだろう。盗人は大胆にも、どうせなら自分の妻にならないかと持ちかける。妻もその気になる。妻は、気が狂ったように、夫を殺してくれ!と叫ぶ。死霊は妻を呪う。どうせなら妻も殺して欲しいと。妻は藪の奥へと走り去った。盗人は太刀や弓矢を取り上げて、一箇所縄を切って藪の外へと去った。そして、二人が去った後、夫が自害したという。
この作品は、盗人に弓も馬も何もかも奪われたあげく、藪の中で木に縛られ、妻が手込めにされる様子をただ見ていただけの情けない男の話ということのようだ。自殺を無理やり殺人事件にしようとしているのか?

12. トロッコ
冒険心と心細さといった子供の純情心を、昔を懐かしみながら振り返る様子を描いている。三人の子供が土工がいない隙にトロッコを押して遊ぶ。そこへ、土工がきて怒鳴られる。ある日、二人の親しみやすそうな若い土工がトロッコを押していた。子供は一緒に押すと言ってトロッコに乗せてもらう。夕方、薄暗くなった頃、土工たちはここで泊まるから、帰りな!と言われ途方に暮れる。随分遠くへ来たものだから帰るのも大変、線路沿いに走って帰る。幼い子供が、見知らぬ世界を必死に走りぬけ、家近くに着くと安堵して泣き出す。こうした8歳の頃の思い出を、26歳になって懐かしんでいる。ただ、本作品から、学校教育で叩き込まれた退屈なイメージを払拭することは難しい。

0 コメント:

コメントを投稿