2009-06-28

"こころ" 夏目漱石 著

なにを血迷ったか?漱石を読んでる。この手の文学作品は、義務教育の時代に退屈するものというイメージを徹底的に叩き込まれている。ところが!である。今読むと、なんとなく癒してくれるから不思議だ。人間はあまりにも純粋であると苦しむ。もう少し狡賢く、もう少し鈍感ならば、楽に生きられるだろうに。そこには、流れるような文章に古い時代の風景が重なり、忘れかけている何かを思い出させてくれるような、懐かしい風を感じる。そして、この歳になって明治の文豪に感動するという新たな感覚が芽生えたような、そんな気がする。

主な登場人物は「先生」と「私」。そして、「先生」とよばれる人物の自殺をテーマにしている。「私」という人物は、言葉通りに解釈すれば著者自身となろうが、なんとなく著者との距離を感じる。「先生」は師と仰ぐ人物のことで、生き方の師といったところだろうか。ただ、その関係は単なる先生というよりは、もっと緊密な父のようなものを感じる。学校の先生というわけでもなく、偶然知り合ってから奇妙に執着する姿は異様ですらある。「先生への恋愛感情」という表現もあるので、この関係を同性愛と解釈する人も少なくないらしい。この作品に限ったことではないだろうが、漱石を男色文学という見方もある。ただ、本作品で同性愛という感覚はまったく持てない。物語の中で、「先生」は自叙伝とも言うべき長い遺書を残している。これは「私」宛に書かれたもので、妻にさえ隠し通した秘密を、唯一明かすことのできる相手として描かれる。「先生」は、疑心の中で生きた。「私」は唯一信用できる人物で、選ばれた人間ということだろうか?あるいは「先生」への想いが通じたということだろうか?そこには、精神を共有するような、師弟愛だけでは片付けられない異様な関係が見られる。もしかしたら、本物語は実話を元にしているのかもしれない。

人はなぜ自殺するのだろうか?絶望、期待の大きさ、生活苦、それぞれ事情はあるだろう。誰しも淋しい一面を持ち合わせる。本書には、世間に絶望し、他人に絶望し、自分に絶望し、そして、何もかもやる気を失っていく様子が描かれる。他人から騙され、人間が信用できない。しかし、裏を返せば、他人に裏切られた自分は信用に値する人物と言えるのか?親友との関係に目を向けると、まさしく自分が加害者であることに気づく。親友を自殺に追い込んだのだ。この罪を背負いつつ、自らを呪うよりほかはない。人から騙された人間が、一転して人を騙す立場になれば、それを自らの倫理観によって裁かずにはいられない。他人を憎むだけなら、まだ楽であろうに、自分を含め人間そのもを憎む。そして、自分自身の処遇をめぐって思い煩った挙句、自殺する。そこには、愛する妻には秘密を隠したまま、勝手に逝ってしまうエゴイズムがある。
「人間は、いざという間際に悪人になる。」
誰しも自己防衛のためならば善人にも悪人にもなれる。どんなに他人を気遣っても、エゴからは逃れられない。そこには、精神の不自由さを感じる。本書は、倫理的に弱点を持った、あるいは、それを自ら認めた人間の難しさを鋭く抉る。

本物語で興味を惹くのは、自分は淋しい人間であると自覚してから、自殺に至るまでの道のりが長いことである。ここにも隠されたテーマがあるのだろうか?そのきっかけが、乃木将軍を追った殉死と絡めているところに解釈の難しさがある。乃木将軍が死んだ理由が分からないように、自らの死も理解できないだろうといったことが語られる。自殺の本当の理由とは何か?いまいち釈然としない。単なる孤独感で説明がつくのか?それとも、急激に近代化した時代背景に疎外のようなものを感じたのか?生きる意味を探求した結果、死に辿り着いたとでも言っているのか?無理やり、乃木将軍が天皇を追って殉死したことに、結び付けているようにも見える。死に至るまでの時間の長さは何を意味するのか?その間、友人への罪悪感からは逃れられず、常に淋しさが付きまとう。感情的な変化があるわけでもなく、刻々と時間だけが費やされる。こうしたなんとなく歯切れの悪さが、芸術性を高めているのかもしれない。単純な出来事でもベールに包まれると、そこには崇高な哲学を感じることがある。近代化した社会で急速に西洋化が進み、自由と自己独立といった風潮を反映しているかのようでもある。読む時の気分でいろいろな解釈が湧いてきそうな、ややこしい作品である。

1. 「先生」の人物像
「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、... これが先生であった。」
「先生」は自らの人間形成を父親の死に遡る。父親の残した財産は叔父によって横領された。父親の前では善人であった叔父が、父親の死とともに悪人に変貌した。親戚から受けた屈辱と損害を、子供の頃から背負わされる。以来、人間というものを憎むようになる。自ら淋しい人間だと告白し、明らかに人間嫌いな姿がある。なぜ「私」はこんな人間に執着するのか?同種の人間の匂いがするのだろうか?夫婦仲も良く、信頼しあった一対の男女、なのに、なぜか不幸。それも、先生は何もせず遊んで暮らしている。妻によると、書生時代は真面目で希望をもって頼もしくもあったという。それが徐々に何もしなくなった。仕事がくだらないとでも悟ったのか?素っ気無い挨拶や冷淡に振舞う姿は、人を遠ざけようとする不快さが表れる。それは、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値はないと警告するかのように。人間は、欺かれたと知るや残酷な復讐心に燃えることがある。ならば、最初から信じなければええということか?なぜか、被害者であるにもかかわらず、他人を軽蔑する前に自分を軽蔑している。
「かつてはその人の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は、未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は未来の一層淋しい未来を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。」
そして、真相は遺言で明らかにされる。

2. 里帰り
父親から「卒業できてまあ結構だ」と祝福されると、「私」は卒業なんて毎年何百人もするのだから、それほど結構ではないと反発する。そこには、田舎臭さい父親と、高尚な思想を持った「先生」との比較が表れる。息子から見れば、卒業など志半ばで、大したことではないのだろう。だが、大学に行くのも珍しい時代である。また、その「結構」には意味がある。父親は死の迫った病、生きている間に息子が無事卒業したことに安堵している。父親は、自分の身勝手な立場で「結構だ!」と言っていることを告白し、死を覚悟した姿を曝け出す。これには、一言も反論できない。学問をすれば理屈っぽくもなろう。ましてや若い頃は、照れ隠しもあって、家族が赤飯を炊いて祝うことに素直になれないものだ。だが、そこに理屈などない。誰のために祝うというものではなく、皆で祝うという習慣があるだけ。こうした光景は、おいらが大学に入学した頃を思い出す。ずっーと前に亡くなった田舎の祖母から小遣いをもらったりと。受験戦争と巷で噂される中、受験勉強などほとんどしてこなかったが、祖母の世代からすれば大変なことに映るのであろう。祖母の行為は、孫の祝福というよりも、自らの喜びを表している。その喜ぶ笑顔が好きで、嬉しそうに演じたものだ。本書には、そうした懐かしい香りを思い出させてくれる。

3. 遺書
「先生」の遺書には、延々と卑怯で煩悶した姿が綴られる。自分には義務といったものがない。義務に冷淡だからではない。むしろ鋭敏過ぎて堪えるだけの精力がない。そして、消極的な日々を送ることになったことを打ち明ける。両親の死後、上京して軍人の未亡人とその娘の家に下宿する。「先生」はその娘に惚れる。そこに精神を病んだ親友を一緒に住まわせる。高尚な思想ゆえに神経衰弱でもあるので、心配になってのこと。親友のことを、僧侶のような人物で、偉大な友人と評している。ただ、我慢と忍耐が違うことを理解していないことも指摘する。人間の精神や能力は、外からの刺激によって発達もすれば破壊もされる。いずれにせよ、段々強い刺激を求めるようになるだろう。そこで、我慢と忍耐を取り違えると精神は病んでいく。親友は「精進」という言葉が好きだったという。書物で城壁を築き、くだらない時に笑う女を蔑むような人物。そこに下宿の娘を近づけて、だんだん人間味を回復させようとする。親友が、今まで通り全く女性に関心を持たず学問一筋であるならば、そこに利害関係は存在しなかったはず。しかし、やがて好意を持つようになり、「先生」は嫉妬する。ついに、親友は「先生」に娘への想いを打ち明けた。そして、批判でも求めるかのように、恋に落ちた自分をどう思うかと尋ねた。親友は、自らが弱い人間であることを恥じている。摂欲や禁欲は無論、恋も志の妨げになるというのが親友の信条。そこに「先生」は、復讐以上に残酷な言葉を浴びせる。「精神的向上心のない奴は馬鹿だ!」と。親友は正直で善良な人格なので、彼の信条に付け込んで利害の衝突を避けようとした。「先生」も娘のことが好きなら、堂々と打ち明ければ済む話である。しかし、卑怯にも親友の知らないところで事を運ぶ。気まずい事があっても、親友は「先生」に以前と違った様子を見せない。「先生」はその態度を立派だと思う。
「おれは策略で勝っても人間として負けたのだ。」
そして、親友は自殺してしまった。葬式では、なんで自殺したのか?という質問があちこちから飛んでくる。それが、早くお前が殺したと白状しちまえ!という声のように聞こえる。その後、「先生」は娘と結婚する。外面では幸せそうに見えても、いつも暗い影がつきまとう。妻には真相を隠したまま、そうした空気が自然と妻に伝わる。こうした不安定な精神が、職を求めなくなり、無気力となった原因であると告白する。当初、親友の自殺の原因は失恋によるものだと考えていたが、だんだん分析していくうちに、淋しさにあるのではないかと考えるようになる。それは、同じように自分が淋しい人間だと感じたからである。淋しさが無力感と結びつく。自らの心境を楽に遂行できる手段は、もはや自殺しかないと考える。死こそが、自らの精神を自由にできる。「先生」は長く綴った遺書を残して死ぬ。ただし、妻には真相を知らせないように頼んでいる。恋愛は、時には残虐でかつ利己的である。それを罪悪と解釈するならば、人間の存在そのものを否定するほかはないだろう。

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