2009-07-19

"社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」" Max Weber 著

マックス・ヴェーバーに魅せられて、もう一冊読んでみることにした。本書は、岩波文庫の古書「社会科学方法論」(1936年版)の補訳新版である。旧書はしばらく絶版になっていたが、こうして時折復刊してくれるのはありがたい。本書は、難解な文章で悩ましいところもあるのだが、折原浩氏の補訳と解説はその理解を助けてくれる。にもかかわらず、泥酔した精神は身勝手に解釈するのであった。これもアル中ハイマー病の特権である。

ヴェーバーは、社会学を科学的な観点から捉えようとした。認識論の観点から「価値自由」という概念で迫り、方法論の観点から「理念型」で体系化しようとする。その試みは、宗教、経済、政治、法律など多方面から研究を重ねたが、未完成に終わっている。ただ、その完成に見込みがあったのだろうか?科学的に分析するということは、客観性や論理性を保たなければならない。「人間の客観性」とは何か?と素朴に問えば、それは自然科学とは明らかに違う。人間行動とは、伝統的慣習、宗教や思想による信仰や倫理観、歴史による民族性、個人の経験則など、あらゆる諸条件が絡み合って生じる現象である。協定や契約など社会関係の制約で生じる義務や使命感もあれば、集団意識に扇動されたり、社会的制裁を恐れて心理的抑圧によって行動することもある。稀に、アル中ハイマーのように「気まぐれ」を信仰している人もいるだろう。その多様性には限りがない。人口増加がそれをますます顕著にする。行動の動機は、単純な利害関係だけでは説明できない。というより、個人の理念に沿った利害関係に基づくと言った方がいいかもしれない。奉仕や援助などの人道的行動は、個人の価値観において合理的に作用しているはず。人間はいまだ絶対的価値観を見出すことができない。価値観は個人の中に相対的に育まれるのであって、精神の合理性にはカオスの世界がある。本書も、無限の諸条件の中から法則性を見出すことは不可能といったニュアンスを匂わせる。ただ、個人の環境による諸条件の違いはあれど、条件の因果関係から人間行動の動機が生じるのも事実である。人間は直観的に追体験する能力を持っている。感情移入とはそうした現象の一つであろう。とはいっても、理解不能な行動も多く存在する。主観と客観の双方からアプローチして、最終的に融合することはある程度可能かもしれない。人間のタイプを、抽象化して区分や分類することは可能であろう。これが、社会学における「科学する」ということであろうか?ただ、カテゴリー分析論から社会問題を解決できるところまで学術的に高めることは難しかろう。本書は科学の限界を問題提起しているようにも思える。

一つの命題に対して、論理的な裏付けができたら、そこに安心感が生まれる。人間が客観的論理や体系化を追求するのは、精神が安住の場を求めているとも言えよう。そこで得られる快感も主観で解釈するから、人間とは得体の知れない生き物である。自己責任と他人責任の区別をするためにも、客観的な判断や論理的な説明が必要である。となれば、自己責任の範囲、ひいては精神の縄張りを明確にするために、科学的説明を求めているとも解釈できる。客観的に、論理的に説明できる人を見かければ、憧れてしまう。しかも、冷静な面持ちで渋い声で語りかければ、それだけで世論はいちころだ。ヒトラーのような演説の天才であれば尚更。政治マフォーマンスも政治能力の一つではあるが、大衆も経験を重ねるごとに胡散臭さを感じていくだろう。

以下は、酔っ払った精神が気まぐれで章立てている。なぜかって?そこに泡立ちのいいビールがあるから。本書に関係があるような?ないような?この解釈がヴェーバーの意図するものかどうかは知らんがねぇ!もはや泥酔した精神を諌めることはできないのだから。

1. 社会学で科学する
当初の科学は、おそらく実践的見地から始まったのだろう。リンゴが落ちるから重力理論が誕生する。臨床体験から医学を発展させる。数学の起源は、占星術が宗教と結びついた結果といったところだろう。政治論や経済政策では、理想と実践の立場で論争が繰り広げられるが、最初は実験的な模索から始まったのだろう。実践的方法は、経験的な反省から構築されていく。そこでの問題に対する思考方法は、主観から発生し、客観的な見解が求められることになる。工学は実践的に考察する分野であり、科学と数学に密接にかかわる。社会科学は、理論科学というより現実科学という意味合いが強いように思える。社会政策は、現実政策にならざるをえないからである。社会を分析する時、条件さえ固定できれば、ある程度の体系化は可能である。ただし、その条件が無限に存在するから困ったものだ。無理やり統計的に処理すれば多少の効果はあるが、真理の探求からは程遠い。はたして、人間社会の平均的価値観といったものを計測することができるのだろうか?それでも、本書は、個人認識の「価値判断」と「理念型」を形式化し、計測可能な領域へ持ち込もうとする。学者の立場からすると、真理の探求が不可能であるのと、それを諦めるのとでは違うということであろうか。不可能性を証明したり、科学的認識の限界に迫るのも意義深いはず。少なくとも、くだらない体系化による欺瞞が蔓延ることを抑制する効果はありそうだ。歴史的には、科学的解明が人間中心主義から徐々に離れさせる役割を担っている。

2. 理念型
複雑系を分析するプロセスとして、まず現実から遠ざかった単純化モデルから始める。科学的手段として、抽象化レベルを変化させながら考察する方法はよく用いられる。単純モデルでは、資本主義的な私的資本の増殖という利害関係だけで支配される社会を想像することはできる。その一方で、思想的に理想像でまとめあげたユートピアのような社会モデルを想像することもできる。人間の行動様式をある条件で縛ることによって、特定の理念をモデリングすることは可能である。本書の主旨は、こうした理念型を集めて、多様な実体へ少しずつ近づこうとすることである。そして、階級や身分によって理念型を言及し、売春婦というカテゴリーからも一つの理念型が構築できると主張している。とはいっても、一つの理念型に属す人々の行動も様々であり、時代が変われば区分そのものに見直しが迫られるだろう。自然主義的な理論と歴史とを混同すると本質を見誤る。やっかいなのは、価値観や理想像は時代によっても違うことである。
「思想が人間をもっぱら論理的に強制する力が、歴史上いかに巨大な意義をもったにしても、マルクス主義はその顕著な一例であるが、人間の頭脳にある経験的、歴史的事象は、通例、心理的に制約されたものと理解されるべきであって、論理的に制約されたものと理解されてはならないのである。」
本書は、マルクス主義の特有な法則や構成が、理論的に欠陥がない限り、理念的性格をそなえていると語る。だが、これはマルクス主義の科学的見地を皮肉っているようだ。いや!誉めてんのか?いずれにせよ、ヴェーバーはマルクス主義とは違う立場にあると主張している。理念型の概念は、その型に嵌る人々から見れば、それ自体は矛盾のない宇宙となるはず。しかし、すべての人間を理念型に当てはめるには、抽象度を上げなければならない。厳密な分析を求めれば理念型は無限に枝分かれし、下手すると人間の数だけ生成されることになりはしないか?もはや、社会学で人口論を無視することはできないはずだ。人口論のもとでは、戦争は奇妙な論理で成り立つ。世界恐慌時代、雇用を創出するために軍備を強化して帝国主義へと邁進した。しかし、大量に兵隊が死ねば、その補充で子供の量産が求められる。雇用の創出と子供の量産は、若年層の大量死によって相殺される。寿命の短い時代もそれなりに均衡されていただろう。少なくとも人口比に対して地球資源が無限に見えている間は。では、現在は?若年層の失業問題がある一方で、少子化問題を訴えながら子供をたくさん産むことを奨励する。まるで老後の面倒を押し付けるかのごとく。おまけに、地球資源の枯渇という問題が絡む。もはや、人間の遺伝子を突然変異させて、地球環境外でも住める生物に進化しなければならない段階にきているのかもしれない。

3. 集合知
集合知は、正しい方向へ、あるいは自然法則へ導くという意見もある。それも一理ある。ネット社会では「大衆の叡智」と賛美する人も多い。だが、人間の集団力には偏向を助長する危険性が高い。驚異的なベストセラーが発生する一方で、出版業界が揺れ動くのも、そうした現象の一つであろう。「口コミ」や「おすすめ商品」でいくら星印が並んだところで、その影には購入を誘導する思惑が透ける。匿名性は紳士をも凶暴化する。SPAMを送りつける連中を抹殺したいと思う人も少なくない。人間社会がどんな形態をとっても、コミュニティが形成されるところには必ず醜態を曝け出す。容易に拡がりを見せる社会ともなれば、その醜態を助長するのも自然であろう。
ここで、いったん政治に目を向ければ、各党派の行動が集合知として真理へ近づいていると思っている人は少数派であろう。政治屋が目論む意見の調停が、科学的客観性に基づいているとは到底思えない。むしろ、既得権益の維持に必死で、思いっきり主体性の中でうごめいている。おいらは、昔、政治家は理系出身者でなければならないと主張していた時期がある。社会システムを構築する上で、理系的な分析が必要だと考えたからである。しかし、ある知人から未納三兄弟で一世風靡した某元党首は理系出身者だと指摘されると、その考えはあっさりと崩れ去った。論理的思考に、文系や理系という枠組みに囚われることに、なんの意味もなさそうだ。政治家は、しきりに国益のために行動すると発言する。では、国益とは何か?既得権益のことか?グローバル化が進むと国益という概念も怪しい。一国の事情だけで経済動向を見極めることなどできはしない。情報化社会では、ある現象が自分の理想と矛盾すると、それに関心を持った人々で集まりやすい。彼らは、だいたい似通った理想像を持ち、親和力によって結束する。そして、客観的意見で集まったはずが、いつのまにか同士となり、科学的な思考も偏ってしまう。人間関係は、濃厚であってもドライであっても善し悪しがある。

4. 経済に関わる現象
本書は、「経済現象」、「経済を制約する現象」、「経済に制約される現象」を区別する。「経済現象」とは、取引所や銀行など、経済制度に直接関わるもの。「経済を制約する現象」とは、宗教や歴史などによる信仰や倫理観などから生じるもの。「経済に制約される現象」とは、不景気や経済危機によって、人間行動に制約が生じるもの。また、国家が法律で経済を制約する場合もあれば、逆に、経済動向が国家の行動を制約する場合もある。不景気下では、政府は無闇に税金を上げることもできず、節約方向の政策を取らざるを得ない。こうしてみると、直接経済制度に関わるものを除けば、あらゆる文化事象にまで拡大されることになる。経済現象には、政治、宗教、風土、その他無数の要因から様々な反応が起こる。所詮、直接経済に関わる制度やシステムだけを考察したところで、経済動向を見渡せるものではない。にもかかわらず、経済の専門家は、直接経済に関わる現象ばかり追いかける。

5. 偶然性の評価
歴史事象には無数の偶然性が潜むが、はたして偶然性を演繹する方法はあるのだろうか?自然科学の発展が、社会現象の合理的考察と密接に結びついているのは事実である。個人の価値観から解放されたい、あるいは偶然性からも解放されたいという願いから、概念の体系化は進む。ここで、「ナポレオン言行録」の中に偶然性について語った一文があったのを思い出す。
「軍学は、好機を計算し、次に偶然を数学的に考慮することにある。しかし、こうした科学と精神の働きを一緒に持っているのは天才だけである。創造のあるところには、常に科学と精神の働きが必要である。偶然を評価できる人物が優れた指揮官である。」
貨幣経済は法則的に把握できるという見解があるが、それも仕方がない。貨幣量は計測できるからである。しかし、経済は貨幣量だけでは計測できない。人間行動をも計測する必要がある。人間行動は精神を相手取った心理学の領域にある。経済学者たちは偶然性ですら統計情報に基づいて無理やり定式化する傾向がある。学説というものは、統計情報で武装されると、なんとなく説得力を感じるものだ。人間の精神は、規則性に支配された世界でないと安住できない性質を持っているのだろう。ただ、無理やり定式化すれば誤謬を犯す。現象と真理の違いを見極めるのは困難な作業である。「歴史は繰り返す」と言われるが、何も歴史が繰り返されるわけではない。諸条件はいつの時代も異なる。ただ、歴史を学ばなければ同じ過ちを犯す。事実認識を経験的妥当と混同するのは、人間の深層心理にご都合主義がつきまとうからであろう。

6. 国家という奇妙なシステム
人間が生まれると国家に自動的に、あるいは強制的に編入される奇跡ともいうべき社会システムがある。そこには理念の強制がある。幼い頃からの教育によって、その強制に疑問を感じることすらない。国家は歴史的に育まれたもので、国家観は自然に植え付けられる。では、この奇跡のシステムから逃れることはできるのだろうか?巧みな法律術を駆使すれば可能かもしれない。自由にどの国家にも属さないという身分保障があってもいいような気がするが、物理的には難しい。もし、そんなルールを作ろうものなら猛反対されるだろうが。人間には、どこかに所属して安住の地を求める性質がある。だが、現実には、生まれながらにして孤独という境遇を持ったほんのわずかな人々も存在するだろう。あらゆる社会に認識されず、アウトローに生きる人々もいるだろう。日々を無人島で魚を釣って過ごすような世界、電子メールや携帯電話の煩雑さから解放され世界、俗世間から離れた世界、こうした世界に憧れる。おまけに、ホットな女性に囲まれれば完璧だ!ここで、アル中ハイマーは理想の理念型を見つけた。これをハーレム型と定義しよう!

0 コメント:

コメントを投稿