本書の表紙には「社会学の泰斗」と紹介される。マックス・ヴェーバーと言えば、しばしば経済学で見かけるが、こちらが本職のようだ。まぁ、社会学的な見地のない経済学者は、単なる統計調査員だと思っているので、違和感はまったくない。本書は100ページと薄っぺらなので立ち読みに絶好と思ったのだが、内容は結構分厚いので買ってしまった。「社会学の根本概念」は、ヴェーバーの死後出版された「経済と社会」の巻頭の論文だそうな。彼は、宗教、経済、政治、法律など多岐に渡って社会研究を重ねたが、その試みは未完成に終わったという。それは残念!しかし、完成する見込みはあったのだろうか?
本書は、「社会学とは何か?」といった素朴な疑問を提示してくれる。そこには、社会学の根本原理が綴られる。それは、科学的に理解することであるが、数学的な解明とは少々意味合いが違っていて、人間的な部分を排除するわけではない。科学と同様に明瞭化しようとするもので、社会科学の分野であることは間違いない。
ところで、あらゆる研究分野で「科学する」とは、よく耳にする。複雑な問題を解決するにあたって、まず、その正体を解明しようと試みるのは自然な思考であろう。そこで、必ずと言っていいほど用いられるのが、区分や分類といった抽象化手法であり、そこに法則性や規則性を見出そうとする。本来、人々が求めるものは、社会問題を解決することである。研究者は科学的アプローチで問題解決に期待をかけるが、人間社会や精神を相手取った問題がそう簡単に片付けられるわけがない。
そこで、「カテゴリー分析論で何が解決できるというのか?」と自問すると、泥酔した精神は「では、それ以外に何ができるというのか?」と返してくる。「思考の試みによって問題解決ができなければ、それは無駄というものではないのか?」と問えば、「人生とは、死までの暇つぶしである。」と答えやがる。
もし、矛盾性と複雑系が宇宙原理の本質だとすれば、物事の解釈は自己の中にしか見出せないだろう。ただ、科学的思考は、客観的で冷静な判断を試みる上でも有効であり、個人の主観的解釈を手助けしてくれる。頭に知識を詰め込むだけの知識至上主義では、答えを先に求めようとする傾向がある。人間は忙しいのだろう。だが、社会学のような複雑系で、体系化した解決策を安易に求めるのは、都合が良すぎる。知識を探求しながら、ある解釈に到達する過程にこそ、人生の醍醐味がある。どんな難問でも答えが簡単に見つるのであれば、人生は空虚なものとなろう。そして、退屈のあまり、くだらない悩みを無理やりでっち上げてノイローゼになるのがオチだ。
ヴェーバーは、人間の意志が自由になればなるほど、学術的に理解しやすくなり科学的な考察が有効になると主張している。つまり、社会学においても、自然法則に従った客観的な考察がしやくすなるという。
しかし、だ!自由意志が拡大すれば多様性が増し、より複雑系に向かうのではないのか?人間社会におけるエントロピー増大の法則とは、人間の凡庸化を意味しているとでも言っているのだろうか?あるいは、精神の成長が、社会の合理性へ向かわせるとでも言っているのだろうか?確かに、現代の政治は凡庸な指導者の登場が甚だしい。ネット社会でうごめく群集の自由意志は、大衆の叡智として平均化され、スーパースターが出現する可能性を低くするのかもしれない。人間が近視眼的に利害関係に基づいて行動しやすいのは事実であるが、歴史的理念や伝統的慣習、あるいは信仰的な倫理観などが、しばしば行動を動機付ける。奉仕や援助といった行為もあれば、名誉や評判に固執する行為もある。人生の目標が金儲けだけではなく、精神の探求といった哲学的思想に頼る人もいる。浪費に命をかける人もいれば、貯蓄に生き甲斐を感じる人もいる。なにがなんでも長生きしたいと願う人もいれば、短い人生でも有意義に生きたいと考える人もいる。自らの不幸な境遇から人道的に目覚める人もいる。協定や契約に縛られて、義務や使命感を強く持つ人もいる。これらすべて個人の利害関係と言えなくはない。生き方の多様性には限りがない。人間行動には、合理性と非合理性が共存する。というより、人間の持つ合理性とは、個人が解釈する価値観であって、個人の論理に支配される。精神には、感情と理性が同居する。これらの要素を区別して分析することは有用であるが、無理やり対立させることもない。そこで、まず客観的な考察から始めて、徐々に主観的な要素を加えていくことになる。
本書は、合理主義という言葉で苦悩する姿をちらつかせる。これを合理主義と呼ぶかどうかは知らん!ただ、客観的合理性だけに着目するのではなく、個人の理念に着目するところに共感を覚える。当時は合理主義という言葉が高い地位を得ていたのかもしれない。いまだに経済学者は合理主義という言葉がお好きだ。経済学者には、ヴェーバーを見境なく合理主義と解釈する人がいるらしい。
以下は、アル中ハイマーの勝手な御託を並べてみた。それは酔っ払いにとって本書の文章が難解だから。この解釈がヴェーバーの意図するものかどうかは知らん!単に、酔っ払った精神が社会学を気まぐれで綴りたくなっただけのこと。難解な文章がBGMのように流れる中を、思考を解放させながら読み続けた結果に過ぎない。偉大な哲学書を読んでいると、しばしばこうした心境に陥る。本書にもそうした感覚を覚える。
1. 社会学とは
本書は、人間あるいは人間行動が社会に及ぼす影響について語る。これは、個人の行動を理解するという最も基本的な考えに基づいている。しかし、個人の目的や価値は、経験則に従ったり、主義思想に基づいて思考されるので複雑極まりない。更にやっかいなのは、人間の意識は集団行動や集団意識に極めて敏感ということである。人口が急激に増加し、人間社会はますます複雑化する。おまけに、煩雑な情報が群集心理を気まぐれにする。もはや、人間社会を解釈するには、統計的手段を用いるしかないようにも思える。そこで、民主主義では効率的な手段として多数決を用いるが、この方法が万能なわけではない。そもそも、群集を平均化や近似化できるものだろうか?集団的人格なるものが存在するのだろうか?極右と極左のまん中を取ると、社会はとんでもない方向へ行きそうだ。また、うまい言い回しで扇動すると、多数派を勢いづけてしまい、もはや個人の意志なのかも疑わしい。では、個人の行動を解釈するには、どうすればいいのか?体験することが意味解釈の絶対的条件ではない。人間は疑似体験する能力を持っているから感情移入もする。とはいっても、個人の行動には、理解可能な部分と理解不能な部分が混在する。生物学的な解釈では、個人を細胞の結合や化学的反応の複合と見ることもできる。しかし、そうした視点で行動様式や心理的要素まで解明できるのも、ずーっと先のことであろう。となると、社会学の分析は絶望的にも思えてくる。しかし、解明できないのと諦めるのとでは意味が違う。人間は、人間自身を理解するために、永遠に思考をめぐらす運命にあるようだ。したがって、「社会学とは、人間を理解しようとする永遠の努力である。」という帰結を得るのであった。
2. 主観と客観
本書は、まず主観と客観を区別して考察を進め、後でこれらを融合して理解しようと試みる。そして、合理的な領域では、知的な情報を素直に受け入れながら数学的、論理的な考察で迫り、体験できない領域では、感情移入など追体験的に迫ると語られる。とはいっても、感情移入は、個人の持つ経験則にも影響されるので、客観的な解釈だけでは満足な結果は得られないだろう。純粋な客観性を議論することも難しい。人間は、ほとんど主観性に支配されながら、それにも気づかず客観性を主張する。客観性を求めるために、宗教思想に頼る狂信者がいたり、伝統的慣習に無条件に従う人もいる。道徳観や倫理観にも個人差があり、人間の動機に大きな影響を与える。少なくとも、慣習的動機は、安定性を求めリスクを避ける方向に働くだろう。
人間の精神は、知性と感情の葛藤の中にある。一般的には、知性を合理性と、感情を非合理性と結びつける。しかし、知的な解釈が必ずしも合理的とは言えない。知性から得られる論理には不完全性が潜むからである。また、感情的な解釈が必ずしも非合理とは言えない。科学には直観から合理性を導いてきた経験がある。主観の領域には、その人にしか理解できない理念とも言うべき動機がある。
3. 集団行動
一般的に、集団分析に統計的手法は有効とされる。しかし、人間社会がパニックを起こせば、それも無力であることは経済現象が示している。比較社会学も有効ではあろうが、複雑化が増せば効果は薄いように思える。知識を解釈せずに、ただ曝け出したところで何も解決しない。そこで、暫定的な解釈が横行する。その余計な解釈が混乱を招くことも多い。しかも、それが集団意識となった時、社会全体を誘導するから恐ろしい。個人の解釈が複雑な要因に依存するのであれば、多様な考えがあってしかるべき。にもかかわらず、集団意識として一方向へ向かうのは矛盾しているようにも映る。しかし、人間の心理には、同じ思考をめぐらすことで不安を解消するという性質がある。一人に不幸が訪れると、なぜ自分にだけ降りかかるのかと理不尽を感じずにはいられない。ところが、多勢で不幸を共有すれば、同志という感情で慰められる。集団意識では、論理的思考よりも、不安を避けようとする防衛本能が勝っているように映る。そこで、論理的思考で集団意識から遠ざかろうとする人々が現れる。これも同じように、論理的な理由付けをして不安から逃れようとする防衛本能が働いているわけだが。集団意識では、悪行は多数派によって正当化され、「赤信号みんなで渡れば怖くない」となる。では、規制強化すれば社会秩序が守れるかというと、そうはならないから困ったものだ。規制する側も人間だからである。やっかいなのは、規制する側が理性を持っていると自我自賛しているところである。自らの理性や道徳に自信を持っているところに、傲慢さが現れるのは自然法則であろう。人口増加で社会が複雑化すれば、悪行も複雑化する。これもエントロピー増大の法則に従っているのかもしれない。集団意識に、平均的意識といったモデルが構築できると便利であるが、それも難しい。集団意識の恐ろしいところは、特定の扇動者がいるわけでもないのに、情報の流布によって群集行動が自然発生するところである。個人に意志がなくても集団意志に感化され、群集の一部となって思考停止状態に陥る。ウォルター・リップマンは、その著書「世論」の中で、ジャーナリズムの本質は人間の理性に頼るしかないと悲観的に語った。政治支配力によって秩序が形成されるよりも、集団意識によって秩序が形成される方が望ましいが、人間社会はそのような自然法則の流れに乗っているのだろうか?
4. 秩序
古代では、秩序を守るために伝統主義があった。祟りや迷信めいた恐怖心によって心理的ブレーキをかけた。予言者の神託もこれに当たる。現代では、慣習的な価値観に論理的合理性が加わった。というより、論理的合理性の方が勢いがある。それも、社会制度に科学的見地が加わった証であろう。その結果、様々な自由が誕生した。行動様式が衝突すると競争も生じる。そして、自由競争によって社会的に淘汰されるといった現象もある。結局、人間社会は、長い歴史の中で多数派に落ち着くようにできているのだろうか?古い時代、議論は満場一致が原則であった。現代では、多数決の登場で民主主義社会に効率性をもたらした。その分、論争に遺恨を残し、次の選挙で勢力分布が塗り替えられると、一度決まった制度が簡単に覆される。民主主義を主張する中に、多数決至上主義に陥る人も少なくない。それも仕方がないだろう。大方そのように教育されているのであるから。しかし、多数決にも多くの欠点がある。少数派の弱者を強制することでもある。自己主張がなければ、自己防衛のために多数派に鞍替えすることで、多数派を助長させ、少数派に平和的暴力を強いる。民主主義の本質がどこにあるのかは難しい問題である。もはや、全ての人間が幸せになれる万能な社会体制は存在しないだろう。もし存在するとすれば、善悪の基準を全ての人間で共有できなければならない。つまり、人間社会における絶対的価値観の構築である。これは絶望的である。ならば、最初から諦めて、柔軟な社会体制を築く方が現実的である。民主主義が優勢な現在では、これをベースに社会主義や他の体制を融合してみるのも一つの方策であろう。どんな方法を用いたところで、すぐに限界にぶつかり妥協点を模索することになるだろうが。自由の概念は難しく面倒である。相手の自由を認めれば自分の自由を阻害するという矛盾を抱える。自由を崇め過ぎれば、競争が激化し敗者が生まれる。それも、少数の勝者と多数の敗者に分かれるからやっかいだ。そこに、多数決が機能すれば、多数派の敗者が勝利して均衡されるのかもしれない。となると、勝者と敗者の境界線にいる人間は、有利な方が選択できる絶好の立場と言えるだろう。善悪の規準がはっきりできなければ、とりあえず極端な悪行を取り締まるという現実的な発想が生まれる。では、「極端な」とは誰の規準なのか?現実路線は不公平を招くことになろう。結局、善悪の基準は右往左往するしかないのかもしれない。
2009-07-12
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