2010-07-18

"国家学のすすめ" 坂本多加雄 著

一般的に、国家の存在が民衆の心の拠り所となっているのは確かであろう。ごく稀に、国家という枠組みから外れた人たちもいるわけだが...考えてみれば、この世に生を受けて自動的に所属させられるというのも、奇跡的な仕組みのような気がする。しかも、運命的に出会った国家から無条件に納税を義務付けられるとは...なんとなく理不尽を感じないわけではない。そうした当たり前という意識が、政府の仕事に対して受動的にさせるのかもしれない。
本書は国家学の必要性を唱えながら、日常意識としての国家や国民の意義を問い直そうとする。それは、国家学を体系的に語ろうとするものではない。主権国家としての自立と、それなりの民衆の覚悟を促している。
「国家とは、私たちの外側にあって、他の誰かが適当に面倒を見てくれているような存在ではなく、私たち一人一人の心のなかの問題である。」
ところで、国家学という言葉を持ち出すとちょっと構えてしまう。ナショナリズム的なニュアンスがあるからか?戦時中、軍国主義のナショナリズムと国家とが混同されたために、国家学という言葉を遠ざけてきたのかもしれない。日本の教育では自国の国旗や国歌を尊重することを教えない。それが教育方針ならば仕方がないが、そのお陰で外国で国旗掲揚の際に日本人が無礼な態度をとったとして物議を醸すのも頭が痛い。
政治学は、肝心な「国家とは何か?」という基本的な議論を疎かにして、法律や制度といった政治手法に目が奪われる。経済学は、肝心な価値判断を疎かにして、もっぱら流通量に目が奪われる。本書は、けしてナショナリズムを高揚しようとするものではない。「国家とは何か?」あるいは「国民とは何か?」という素朴な疑問に立ち返ろうとするものである。

人間社会とはおもしろいもので、「民族の誇り」を掲げた独裁者が異文化を迫害する一方で、「世界は一つ」と提唱する平和主義者が多数決的な価値観を押し付ける風潮がある。すべて平等という人権だけで共存を唱えても、往々にして文化や生活様式を差別してしまう。マスコミにも独特な価値観があって、その論調から外れた人々は、あたかも社会の害虫のように叩かれる。まるで人間の多様性を否定するかのように...グローバリズムの流れから、国家の枠組みを排除しようとする理想平和主義を唱える人も少なくない。しかし、現実には経済人的な独特の価値観が優勢のようだ。BIS規制にしても、品質管理の国際基準であるISOにしても、国際会計基準にしても、産業界の利害関係から生じた。かつて軍事力によって植民地化されたが、現在ではマネー力によって植民地化される感覚さえある。自由競争を崇めれば独占形態に行き着く。民主主義の暴走は、独裁政権と同じくらい質ちが悪いと肝に銘ずるべきであろう。
本書は、経済が意味するグローバリズムとは、物、金、人のすべてが地球上を自在に移動することを意味するという。つまり、万人が出身地によるハンディを背負わないということである。現実に、物品と貨幣に関してはグローバル化が進んでいる。だが、人は本当に自在に移動しているのか?どこの地域にも、文化や慣習や言語などの優位性がある。真の意味で自在に世界を移動できるのは、一部の才能豊かな人たちだけであろう。ほとんどの人は、日系企業や、外資系であっても日本に拠点を持つ企業など、日本分化を後ろ盾にしている。はたして、文化の多様性を無視したグローバリズムなんてものが、成り立つのだろうか?そして、本当に国家という枠組みを超えた存在というものがあり得るのだろうか?本書は、こうした疑問を投げかけているような気がする。

どんな政治形態にせよ、そこには何らかの安全保障体制がある。それは国内外の圧力に向けられる。国内では行政サービスや警察行動によって秩序が維持され、国外に対しては国防力を保持する。君主が統治した時代では、権力者の保全のために国防軍を備え、秩序を維持するための掟が存在した。民主国家では、基本的人権を守るための安全保障の機能が働かなければ、税金を納める意味を失うだろう。しかし、平和主義を唱える中には、ことなかれ主義のもとで拉致被害者を黙認してきた輩がいる。おまけに、不景気からくる愚痴からか?救出された拉致被害者が優遇され過ぎるという風潮すらある。拉致被害者たちはずーっと基本的人権を侵害されてきた。だが、この件で国家反逆罪に問われた政治家を一人も知らない。拉致問題は、まさしく「国家とは何か?」を問い直すのにちょうどよい題材であろう。
世界には、いまだに独裁形態の国家が数多くある。しかも、民主国家たる先進国は、彼らを陰ながら援助してきた歴史がある。そもそも民主国家が独裁国家を容認できるのか?相手国の民衆運動と結び付く方が現実的であろう。ところで、日本と台湾は正式な国交がないにもかかわらず、国民レベルでは良好という不思議な関係がある。政治レベルの国際関係と、国民レベルの国際関係が、これだけ乖離している例も珍しいだろう。ならば、国家とは矛盾を創出するだけの無用な産物と思われても仕方があるまい。
本書は、日本は敵対国に対して知恵と勇気を持って共存に努める心構えが必要だと語る。それは、武力衝突はあり得ないと信じるのではなく、万が一にも可能性があることを前提にすべきだということである。安全保障制度とは、こうした覚悟の上で成り立つという。これは戦争の準備ではない。ただし、戦争という最悪な状況を想定しないような呑気な政府もないだろう。東アジアに脅威を残しているのも、アメリカの戦略と考えることもできるわけだが...国家は個人以上に利己的に振舞う可能性が高く、国家間の関係は個人相互間の関係よりも不安定であるという。

1. 国家の正統性
そもそも、国家という存在が人間社会にとって必要なのか?という議論もあるだろう。レヴィ=ストロースは、その著書「悲しき熱帯」でブラジル原住民の生態系から首長の存在意義を考察していた。彼は、政治リーダは集団形成に必要という観点から存在するのではなく、むしろ集団に先立って存在するように思えると語っていた。その説は、リーダ的存在は集団社会の必然性から生じたという一般的な見解に、別の視点を与えたという意味で興味深い。実際には、どちらが先だっているというのではなく、双方にとって必然性があるのだろうが...
本書は、国家が社会の他の諸団体に優越するわけではないと指摘している。しかし、政治家や政府高官たちは、歴史的に背負ってきた権力者による抑圧的態度を継承しているように映る。社会的には、法的な制限があるにせよ、国家が暴力の独占団体ということになるのだろう。警察行為は、犯罪行為に対して、敢然と撲滅する態度を取らなければ、国民からの信頼が得られない。だが、一部の既得権益者のために制度が活用されるのであれば、まさしく国家レベルの暴力と化すであろう。
昔々、国家が民衆の抑圧機関として存在した時代があった。君主制の時代から様々な規定が設けられ、官僚機構が発達すれば、官僚統治の基盤である法律の運用は欠かせない。次に、民衆が政治に参加できる仕組みが生まれると、政治家と民衆が癒着し、民衆は国家へ無限の期待をかけるようになる。そして、国家権力を制限するための監視機構が必要となる。その前提になるのが、情報の透明化と国民意識であろうか。立憲主義が民主主義と共存する必要を感じるのは、まさしくこの点であろう。
現代の風潮は、政府は国民を監視するために存在すると誤解し、国民はあらゆる自由が保障されると誤解しているように映る。過剰な国家権力を抑止するのは、裁判所の役割ということになろうか。だとしても、もはや三権分立が機能していると信じる人も少数派であろう。国家の正当性を認めているから無条件に法律に従う。警察行動には国家権力の代行者としての信頼が前提される。
「近代国家は、治安の維持という主権の原理、基本的人権の保護のために政府機能に制限が与えられる立憲主義の原理、民衆の意向が反映されるための民主主義の原理、この三つの正当性原理によって成り立つ。」

2. 日本固有の平和主義
本書は、理想化した、いや空想化した日本の平和主義者への批判書という様相を見せる。太平洋戦争における戦死者の多くは、戦場に向かう途中で輸送船が撃沈されての海没死であったり、劣悪な補給による餓死や戦病死であったりと、武勇による華々しい死とは程遠いものだったという。生活基盤も徹底的に破壊され、敗戦の体験は戦の悲劇ではなく、人間の尊厳そのものを失うような惨めなものだったと...
日本は民族抗争や亡国の歴史的経験がない。ほんの一瞬だけアメリカ軍に占領された経験があるだけだ。正義の戦争と信じた結果が惨禍と悲劇で終わるのであれば、非条理としか言いようがない。
本書は、戦後の実存を合理的に説明しようとすれば、反省にすがるしかないのではないか、と分析している。そして、憲法九条の平和主義を擁護することで、戦後を生きるための出発点にするしかなかったと...少なくとも、太平洋戦争は間違いだったという精神に立ち返らない限り、前には進めないほど徹底的に社会が破壊されていた。ただ、明治維新以降からの戦争で、太平洋戦争だけを悪とする風潮があるのには疑問が残る。当時の国民は、太平洋戦争も含めてすべての戦争を正義であると信じていただろう。どんな戦争だって、それぞれの国で言い分があり、正義だと信じられるから残虐行為もできる。自国の戦争が不正義だと思えば、そんな行為を世論が許すわけがない。当時の日本は、それほどの立憲国家であったはず。現在では、その反動からか?国際紛争から目を背け、日本だけ平和を謳歌する風潮が蔓延する。「平和国家日本」というスローガンは、アメリカの軍事力が後ろ盾になっているだけのことで、日本が自立して平和を維持しているわけではない。にもかかわらず、日本の平和論は、平和国家であることを自慢しながら、ますます自己イメージを膨らませる。確かに、「戦争のない国」という言葉には心地良い響きがある。だが、日本だけ理想主義を信じたところで幻想でしかない。目の前で戦火と対峙する国々とは違い、空想的な思考に憑かれるのも仕方がないのかもしれないが。日本の平和論は、「世界平和」と「自国平和」を混同しているように映る。これが、戦後から育まれてきた平和ボケと言われる日本固有の平和主義ということだろうか...

3. 非武装思想
憲法九条の非武装思想は、世界が平和であるという前提から成り立つという。その通りであろう。現実に、世界各地で紛争が続き、平和なのは日本をはじめとする特定の地域だけである。そもそも世界中が平和だった時期は、原始時代にでも遡らないと見当たらない。第二次大戦後、むしろ紛争の数は増している。その流れからすると、近い将来、日本においても平和の幻想が覆されることになるかもしれない。
本書は、憲法九条は日本国憲法の原案作成者である占領軍当局の国際認識に由来すると指摘している。第二次大戦は、全体主義と民主主義の戦いだった。ただ、ソ連や中国を民主主義と呼べるかは疑問であるが。憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義の信頼」というのは、民主主義の防衛を表しているという。つまり、「平和を愛する諸国民」というのは連合国を指しているのであって、その監視下にある日本を牽制するということらしい。その意味ではベルサイユ条約のような性格が強いのかもしれない。国連を創設したのも、枢軸国の復活を抑止するための連合国の機構であったことは想像できる。当初の国連の意義がどうであれ、現在ではその意義を多少は高めてきたのかもしれない。ただ、まともに機能しているとも思えんが...
戦後まもなく、アメリカは日本の非武装化思想を覆して、自衛隊の設置を要求した。要するに現実路線への転換である。冷戦構造において同盟国の中に完全に武力放棄した国があっては迷惑するだろう。しかも、日本は経済大国になった。無思考で金だけ出してくれる方が有難いかもしれないが...
冷戦構造が終結すると、アメリカは軍事力を後ろ盾に世界の警察官を自認してきた。そして、民主主義の旗を掲げながら、あらゆる紛争に介入してきた。その理想主義はある意味美しい。その反面、暴走とも言える戦争も多く引き起こしてきた。結局、一つの国家の意思による警察行動は国益に左右される。そこで、国連軍の役割が強調され、各国の国防軍が国連の傘下に入ることになろう。日本の国防は自衛隊が担う。となれば、今後、自衛隊の役割も世界的に拡大する方向なのだろう。しかし、日本では憲法上の解釈から、自衛隊の存在すら否定する風潮がある。基本的人権を守るという観点から、国防は政府の義務であるはず。中立や不戦という理想を掲げたところで、現実に大規模な犯罪組織もあれば、国家規模の侵略者も存在する。自衛隊すら認めない平和主義を自称する連中は、国防すら他国に委ねるということか?非武装が真の意味で平和を意味するのか?国内で警察を必要としないという論調がないのに、なぜ国防軍が必要ないという論調になるのか?どちらも、安全保障、ひいては基本的人権にかかわる問題ではないのか?自衛隊が国際的に活躍する機会を得れば、自衛官が銃撃戦で死亡する可能性も出てこよう。警察官が犯罪者の追跡中に殉職する可能性があるように。自衛隊を派遣する場合、非戦闘地域ならばOK!という理屈も奇妙である。安全ならば民間支援でええではないか。真に平和を願うならば、自国の犠牲を甘受できるかが問われるだろう。実際に政府が自衛隊へ防衛出動を発動できるのかも疑問である。
「仮に国際法上国家として認められた場合でも、その国が自主的な対応を行うだけの力量を備えていない場合は、その国は、強大な国家の様々な動きに弄ばれるだけになる。たとえば、中立を宣言しても、それに関する国際法に則した対処をしないと、各国からは中立国と見なされない。」

4. 公民としての国民
本書は国民が公民として自覚することを促している。そして、今日の政治不信の根底には、公的論理の貧困化があると指摘している。ちなみに、マックス・ヴェーバーの言葉に、「政治のために生きる人」ではなく、「政治によって生きる人」というのがあるらしい。
現実に、すべての政策や制度が利害関係だけで成り立っているわけではない。政策や制度の形成に関わる動機が私的なものであっても、それを実現するための論理は公的なものになるだろう。だが、公的な論理は、正義、公平、平等、自由、友好、人権、安定、平和といった癒し系の言葉を巧みに操り、宣伝の道具にされる。政策や制度を普及させる上で、マスコミの役割は大きいが、実際には世論操作の道具にされ、民衆は客観的に観察することが難しい。
また、国会が必ずしも公の議論の場とはなっていない。与野党が国会対策委員なるもので、談合によって議論が進められ、その結果を演じているかのように映る。ちなみに、欧米では、しばしば国会対策委員という例が、日本の民主主義の未熟さの象徴として取り上げられるらしい。ここで手腕を見せれば出世もする。いわゆる、国対族の暗躍である。長らく裏方の国対族が政府を牛耳ってきた。外国の首脳も、首相よりは黒幕と直接交渉する方が意義が大きいと考えてきた。現在はどうなんだろう?いまだに怪しい香りがプンプンするにもかかわらず、国会対策委員という形態そのものに、疑問を呈する議論をあまり聞かない。だからといって、欧米のシステムが健全というわけでもないだろうが...

5. 民族と国家の概念
他民族と接することによって、新たな価値観に目覚めることもあろう。こうした思考は、日本人が世界にどのように位置するかを確認する上でも重要である。民族という概念は厳密な定義が難しい。それでも、本書はなんとか定義してくれる。
「言語、宗教、習俗といった個別的に同定できる客観的属性に還元できるものではなく、それら諸々の要素を取り込みながら成立した共通の文化 = 生活様式を共有するところの、主観的な集団的同胞意識である」
民族的意識やアイデンティティーは、何らかの基盤がないところに突然沸いて出るような概念ではないという。そういえば、グローバリズムを煽ると、同時にナショナリズムが高揚されるという現象があるように思える。文化の破壊された歴史を持つ民族では、無理やり伝統的文化を創るケースもある。これは、民族固有の意識が消滅することへの恐れか?あるいは実存への願望か?移民を受け入れる国々では、民族間の摩擦が大きな社会問題となる。いずれ、日本も同じような経験をする時代が来よう。そうなると、日本人という民族的概念も拡大するのかもしれない。よく日本人は同胞意識が強いと言われるが、いずれ民族が共存する中で同化していくのかもしれない。だとしても、突然湧いて出る価値観ではなく、新たな日本人の民族概念が構築されるのだろう。簡単に伝統や文化的慣習を超えることはできそうにない。
本書は、異なった歴史的、地理的環境のなかに形成された外国の制度や文化の都合の良いところをつまみ食いして合成したところで、真の国家像を形成することはできないと指摘している。

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