2010-07-11

"悲しき熱帯(I/II)" Claude Lévi-Strauss 著

レヴィ=ストロースが亡くなったと大々的に報じられたのは、昨年の秋頃だろうか(2009年10月30日没)。彼の名は、社会学系の書ばかりでなく科学や数学の書でも時々見かけ、その都度「構造主義」という言葉に出くわし悩まされてきた。レヴィ=ストロースは構造主義の祖とされる。民俗学では、伝統的慣習や民族系統などに着目して社会構造を分析するのだろうが、一種の分析論といったところだろうか。
しかし、あらゆる事象を解析しようすれば、構成要素を抽出して構造的に分析しようと試みるであろう。そして、抽象化しながら分類したり系統立てたりするのは、古代から受け継がれる自然な方法に映る。物理学の法則を「質量主義」や「物理主義」などと呼ぶようなものか?何々主義などと高級な言葉を持ち出さなくても、レヴィ=ストロースの研究が色褪せることはない。
ちなみに、コンピュータ業界でも「構造化プログラミング」という言葉があるが、むかーし構造のないプログラムなんてあるの?と皮肉ったこともあったっけか...

本書は、ブラジル探検における調査記録である。そこには、原始的社会から眺めた文明社会への批判が込められる。とはいっても、流れるような文章に魅せられて、むしろ文学作品として楽しませてもらった。悲観主義に色彩描写や音律的表現が絶妙に絡む。痛烈な社会批判も幻想的な表現で包めば、癒しの空間を与えてくれるというわけか。訳者川田順造氏のテクかもしれない。
レヴィ=ストロースは、フランスの社会人類学者で、その名前からしてユダヤ系のようだ。ナチスから迫害された経験が、文明人に圧殺される原住民に共感したのだろうか?あちこちに、インディオ文化を侵略する連中への怒りや道義的感情が現れる。自然に隷従する原始的社会と人間に隷従する文明社会の対比と言おうか、野蛮人は獣のままでいるより奴隷になる方が望ましいという価値観の押し付けへの反感と言おうか。かつて開拓された残骸が考古学上の遺跡のように見える様子では、...再び植物が覆い茂っているものの、もはや原生林の高貴な面影はない...といった現代社会の未来に重苦しさを感じながら、原始的社会の破壊への嘆かわしい描写が連続する。これはヨーロッパ中心主義の批判書と言っていい。いや、思い上がった人間中心主義への批判書と言うべきかもしれない。
文化的水準が高まれば精神的欲求も高まる。芸術や科学は、まさしくそうした精神から発展してきた。だが、同時に脂ぎった欲望を呼び起こす。進化と退化は表裏一体であるかのように。文明は必要以上の狩りを推進してきた。自然原理からすると、人間の欲求は他の動物よりも劣るのかもしれない。現代の地球環境保護といった風潮も、人間が生き残るためのご都合主義に過ぎないのだろう。純粋に宇宙原理の観点から環境問題を意識している人間はいないのだろう。人類はいまだ宇宙原理の正体を知らないのだから。
本書は、原住民の新世界を発見し、それを調査し、挙句の果てに植民支配という醜態が現れるという大航海時代の負の遺産を見せつける。レヴィ=ストロースは言う、「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」と。

著者は親日家のようで、東京、大阪、京都や中国地方、四国地方、能登半島など、各地を訪れたエピソードを語ってくれる。そして、日本人の「はたらく」という意味をこんな風に捉えているそうな。
「西洋式の生命のない物質へのはたらきかけだけでなく、人間と自然のあいだにある親密な関係の具体化ということです。」
また、日常生活に詩的価値を付与して、芸術的意味を与えていると語ってくれる。日本には、豊かな季節があると同時に災害も多いので、西洋人よりは自然の偉大さを身近に感じているのかもしれない。日本文化の現代と伝統の共存から、その先に人間と自然の調和を眺めていたのだろうか?しかし、こう褒められるとくすぐったくもなる。いや!せっかくの環境を粗暴に扱う日本人を皮肉っているのか?ヴァレリーやガウディのように、地中海の自然を崇める態度の方に憧れてしまうが...

本書には、民族学の意義のようなものが、あちこちにちりばめられる。
「感性の領域を理性の領域に、前者の特性を少しも損なうことなしに統合することを企てる、一種の「超理性論」である。」
あらゆる学問でその根源を遡れば、人間の本質のようなものに出くわすであろう。そして、自己を自己のうちに求めながら精神疾患にもなる。哲学で議論される二律背反などは、無意味な言葉の遊戯に過ぎないという。対して、民族学は現実を直視する学問ということらしい。哲学は認識論を進化させてきた。カントからそれほど進化しているようにも思えないが...では、社会学のような現実を直視する学問が、人間認識を進化させているかと言えば、そうとも思えない。認識論にしても価値観にしても、多様性に向かう動きと、それを抑えつける動きの衝突が延々と繰り返される。民族学には、現実社会と人間認識を融和させる性質があるのかもしれない。古代遺跡や歴史建造物が時の流れを止めて人々を誘なうように、時空を超えた体系に自分自身を順応させてみようとする。そうした感傷の場面にこそ、芸術的精神が解放される。だが、本書はそうした芸術的精神への批判もあり、人間存在そのものに悲観的様相を見せる。物語の流れからしてそのように嘆くのも分からなくはない。だが、人間の存在も偉大な自然に従うのであって完全否定することもできまい。

ここで、ある映画のフレーズが思い浮かぶ。
「ジョージ・ウェールズだ。...お前らに敵うもんか。」
「わしはインディアンだが、文明族と言われている。文明化されているから簡単にやられちまうんだ。もう何年も白人にやられっぱなしさ。」
「チェロキー族か?」
「そうさ、白人はわしらに慰留地へ行けと言った。今より幸せになれると言って、わしらの土地を奪った。」
映画「アウトロー」より...

1. 民族学者の弁明
「民族学者が自分の集団に対してめったに中立の態度をとらないというのは、偶然ではない。」
研究対象がエキゾチックであればその価値も高い。魅せられた世界を依怙贔屓するのも仕方がない。民族学者の中に順応主義を主張する人も少なくない。本書は、そうした態度が野蛮人に対する軽蔑や反感といった意識から生じることを認めている。意識の根底には、西洋社会が優越しているという前提があると。また、現実社会への反抗心から、異民族社会への擁護という態度が現れるという。なるほど、好奇心の源泉とは一種の現実逃避なのかもしれない。原始的社会を覗けば、文明に潜む矛盾も目立つ。文明人のおこがましい改良が何の役にも立たず、現地人の工夫の方がはるかに役立つ例を紹介してくれる。文明人の理屈は、その種族が生きる自然の中で育まれる合理性には敵わないというわけか。科学が発達すれば合理性の手段として役立て、客観性の範囲が広がっていく。だが、必ずしも純粋な客観性の構築へ向かっているかは疑わしい。合理性や客観性は、単なるご都合主義の言い訳として利用されているケースも珍しくない。人間精神は、進化と退化の振り子の中で振動し、その振幅が大きくなるだけで、同じ所を揺れ動いているだけなのかもしれない。
民族学者は、自分の生きる社会に批判的でありながら、他の社会に適合する不思議な性質を持っているという。それは、異民族社会を破壊してきたことへの贖罪からきていると指摘している。人口増加にともない社会が複雑化する中で様々な多様化が生じる。だが、社会風潮は多様性を否定するかのようにうごめく。自由や平等あるいは寛容といった価値観を獲得したところで、異民族よりも優越すると認識した時点で、どんな優れた価値観も色褪せるだろう。価値観や宗教観が優れていると自覚すれば、教化がはじまり、文化の押し売りが始まる。

2. 冒険の意義
本書は冒険記であるが、冒頭から「私は旅や探検家が嫌いだ」と始まる。民族学者にとって、冒険は単なる仕事に付随するものであって、格別の意義を持たないということらしい。彼らは、研究対象に到達するために浪費を積み重ね、取るに足らない出来事の連続を体験する。研究者が、多くの距離を移動し、多くの地を訪れれば、それだけで説得力を感じる。しかし、旅行記や探検記、それに付随する写真集などが、読者に強い印象を与えるという意図が目立ち、客観的な検分がなされているかを検証することは難しい。知名度の高い学者という評判だけで、空虚な言葉でも民衆は耳を傾ける。
有識者たちは様々な都市を訪れないと、知識は蓄えられないと脅しやがる。確かに、世界各地を歩きまわった方が見識も深めれらるだろう。旅をすることで、新たな境地を開き、新たな価値観を覚醒させやすくもなろう。だが、そうとも言い切れない例もある。偉大な建築家ガウディは、バルセロナの地にだけ集中して作品を持つ。世界をかけめぐることなく世界を一転させた芸術家というところに凄みがある。中途半端に世界を知るぐらいなら、足元を徹底的に探求した方が得られるものが多いと言わんばかりに。となれば、精神の極みに達する瞬間は、どんな職業でも、どんな生活様式にも現れる可能性があるのではないか。昔の人々は、旅をするのも大変で、それほど移動距離も長くはなかっただろう。だからといって、飛行機で簡単に移動できる現在の芸術家の方が優れていると言えようか?現代人の方が寿命が長いからといって、昔の芸術家よりも精神が進化していると言えようか?近代社会が生産性を格段に向上させたことに疑いはない。だが、創造性が向上したかは疑わしい。経験とは新鮮さという相対認識から生まれる。芸術家は日常生活の平凡な出来事でさえ幸せを感じることができるのだろう。冒険の経験から、新たな精神の解放が見出せなければ、それは単なる経過に過ぎない。尚、これは貧乏人の僻みである。

3. 文明批判
「西洋の秩序と調和は、今日地上を汚している夥しい量にのぼる呪われた副産物の排泄を必要とする。」
原始的社会の方が、まだしも節度を保っていたという。西洋文明が、科学を発展させ近代工業をもたらし、人間社会を豊かにしてきた貢献は大きい。ただ、人間には、自分が良いと思う思想や手段を、他人に啓蒙したがる性質がある。これは一種の自慢であろうか?少なくとも、自分の優位性を意識している行為と言えそうだ。有難迷惑が行き過ぎると信仰的怨恨を残す。どんな社会を比較したところで、ある部分では優れていても、別の部分で劣っている部分があるだろう。そこには、自然から育まれる合理性が存在するのだから。説教される人は、いずれ説教する側に立つ。それは、人間社会の循環法則とでも言おうか。
現代では、グローバリズムによる西洋的市場価値が優勢だ。市場は、人間のできない価値判断を自然法則に委ねる形で創設された。だが、市場に参加するのは、特有な価値観を持った経済人たちである。原始的社会に西洋的価値観を押し付ける様子は、経済人の価値観を市場原理を通して民衆に押し付ける様子に似ている。産業革命期に確立された現代資本主義が招く失業と投機、そして、市場の餌食となった貧困層、この構図は昔から変わっていない。文明の恩恵で得られる優れた道具は、犯罪の利便性を高める。情報化社会が高度化するにつれ、利便性の背後に情報犯罪が巧妙化し、セキュリティ対策に無防備な人々を蔑むような風潮が現れ、自己責任という社会意識が強迫観念にまで高められる。人口増加で複雑化する社会では、人間は生き残るためにニッチな市場を求め、犯罪も社会の隙間に入り込む。まるで、文明の発達によって、人口増加を煽り、無理やり仕事をつくるかのように。人間社会は、自らの文明の利便性によって自殺するのだろうか?

4. 野蛮人
人間は、自分の価値観では推し量れないものに対して不気味さを感じる。日本でも、西洋人を野蛮人と呼んだ時代があった。当時の西洋人が、原住民を野蛮人と呼ぶのも、異物に対する恐れや軽蔑があるからであろう。排泄の様子や恥じらいのなさを観察すれば、目を背けたくもなる。だが、それは生活水準から必然的に生じるのであって、むしろ自然と同化した姿と言える。となれば、自然から逸脱した姿を曝け出す文明人の方が野蛮と言えるのかもしれない。
イエズス会は、インディオたちを野蛮な生活から引き離し、自治体を形成した。その名残が、ブラジルの人口現象に奇妙な特徴を与えるという。そして、絵画や美術品の目利きができても、民族的な観察力の欠如は精神上の欠陥であると指摘している。自然の醸し出すどんな粗野な風景であっても、そこには人間の入り込む余地のない秩序がある。人間が土地を支配し他所へ移動すると、そこには自然を傷つけた痕跡だけが残る。
「人間が未知の土地に敢然と立ち向かったこの戦場に、次第に無秩序のうちに一つの単調な植物相が再生したが、その無秩序は、偽りの無垢の表情の下に戦いの記憶と経過を保っているだけに、なおのこと人を欺くのである。」
このフレーズには、人間の感傷が、いかに一方的な解釈で成り立つかが込めらているように思う。
人間社会は、多くの職業や生活様式といった分業体制によって成り立つ。だが、個人の役割は、人間社会における都合上の役割であって、自然法則で説明することができない。自分の居場所を追い求め、一旦居場所が見つかれば優位性を築こうと躍起になる。人間社会は、自分の役割を守る利害関係という異常な熱意に支配されるかのように映る。分業体制の根底にあるのは、他の知識を拒絶しながら独自の縄張りを形成することなのか?
かつて、人間は自然と戯れることによって、知恵を見出してきた。天文的知恵によって方角を知り、迷信めいたものが心の安らぎを与える。現地人たちが自然に実践していた知恵は、最小コストで知的調和を得る術を心得ていたという。科学が人間に客観的精神を呼び起こしたのも事実である。だが、逆に精神は暗黒の中をさまよい続けるのはなぜか?知識の高度化が、精神病を患わせ、空虚へと向かわせるのはなぜか?客観性を求める科学は、単純な体系にこそ崇高なものを感じる。となれば、単純な構造を持つ微生物から複雑な精神構造を持つ知的生物へと進化する過程は、退化しているのか?原始的社会の方が道義的には優れているのかもしれない。人間はその本性からして野蛮人であり続けるのかもしれない。

5. 種族の存続
本書は、カデュヴェオ族、ボロロ族、ナンビクワラ族、トゥピ=カワイブ族などの原始的社会を考察している。ボロロ族の円形集落では、宣教師たちが村落の形態を放棄させることが、改宗させるのに手っ取り早い方法だったと回想している。また、神話や夢想から現れる習俗は、一種の周期律表のようなもので描けるかもしれないという。
人間社会の体系には似通った様式があるのかもしれない。どの種族においても女性が重要な位置にある。子孫を残すことが種族存続となるから。逆に言えば、女性を支配することが主導権を握ることになろう。日常生活や住居に関することには女性に優先権が与えられ、宗教の奥義は男性だけに許される傾向があるという。子孫を生むという物理的優位性に対して、知的で精神的に支配しようとする本能が働くのだろうか?種族存続という意味では、人々を養わなければならない。だが、貧しく劣悪な生活環境では子供が多いのも問題となる。種族の中には、人口増加を抑制する慣習も見られるらしい。原始的社会は文明社会の未来像を提示しているような気がする。現実に、アフリカをはじめとする発展途上国で人口抑制政策がとられている。
そういえば、多くの民族において、化粧をして着飾る習慣があるのは女性の方であろう。女性には、他族に嫁入りすることから、特別に装飾されるという本能的感覚があるのだろうか?女性は、伝統的に道具として扱われる一方で、部族間の仲裁役のような役割がある。伝統的に我慢強いのは女性の方で、聞き役に徹するような遺伝子が組み込まれているのかもしれない。...などと発言すると、フェミニストから刺されそう。現在では、その現象も逆転しているようだが...
ところで、近親相姦が社会的罪悪となるのは、民族存続と何か関係があるのだろうか?近親の範囲も慣習や世界観によって違いがあるのだろう。まさか、遺伝子学的な知識があるとは思えない。本書は、ナンビクワラ族のおもしろい取り合わせを紹介している。民族学的には、「平行いとこ」「交叉いとこ」という言葉があるらしい。「平行いとこ」とは同性兄弟の子供同士で、「交叉いとこ」とは異性兄弟の子供同士。「平行いとこ」は兄弟や姉妹と同列に扱われ、婚姻は「交叉いとこ」同士で奨励されても、「平行いとこ」同士で禁止される慣習があるという。どちらも血筋レベルでは同じだが、女性は他家に嫁ぐので家系が違うことになる。血が少し離れていて信頼のおける関係となると、「交叉いとこ」という関係がちょうどよいなどと考えるのだろうか?

6. 首長の存在意義
原住民の生態系から、首長の存在意義を考察しているところは興味深い。
「首長の政治力は、共同体の必要から生まれたものではないように思われる。」
一般的には、政治的リーダは、集団の形成に必要という観点から登場したと考えるだろう。だが、本書は、そうではなく、むしろ集団に先立って存在し、集団の形や規模を決定しているという。これは、社会構成の歴史的必然性や発展といった論説への挑戦か?
原始的社会では、権力を握ることを勧めても、それを激しく拒絶することは珍しくないという。権力が熱烈な競争対象になっているのも間違いないようだが、その地位を自慢するというよりは、むしろ任務の重さから逃避する傾向があるという。多数によって支持されなければ、首長自体が存続できない自然の体系があったらしい。特権と同時に頑強な義務が生じることや、権威の運用が難しいことを、自然に認識しているわけか。原始的な社会では、法律が後ろ盾になった権威はないので、自然に民衆の監視機能が働いているのかもしれない。
しかし、権力が蔓延する現代社会では、特権ばかりが強調されるという皮肉な構図がある。大臣になりたがる脂ぎった連中は、神経がいかれているとしか思えない。ニーチェ風に言えば、政治家は余計な人々になりさがる。かつて自然に構築された社会秩序は、いまや法律を頼りにしなければ機能しないということか。民衆が、権力者を監視できない社会は、幼稚な社会と言えるのかもしれない。情報の透明性という意味では、原始的社会の方がはるかに優れた社会体制と言えそうだ。

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