2010-07-25

"民間防衛" スイス政府 編

本屋を散歩していると、ちょいと風変わりな本を見つけた。編著がスイス政府???
スイス政府が全家庭に一冊ずつ配ったものだそうな。そこには、美しいアルプスの穏やかな農村イメージとは程遠い、スイス国民の自由と平和への執念とも言うべき姿がある。スイス国家の歴史的背景を踏まえれば充分納得できるが、日本人にとっては衝撃的であろう。それは、日本社会でよく見かける非武装思想の平和論とは、真逆な発想だからである。単なるスローガンで空想的平和主義を叫ぶのとは大違いで、民主国家が自由と平和を尊重するには、国民一人一人に勇気と覚悟が必要だと訴えている。国土防衛に専念するあまりに少々過激なところもあるが、決して国粋主義を煽ろうとするものではない。「民間防衛」と名付けてはいるが、国防は言うまでもなく、テロ、自然災害、放射能汚染など、日常生活で瀕するあらゆる危機から身を守るための指針が記される。
「われわれは、脅威に、いま、直面しているわけではありません。この本は危急を告げるものではありません。しかしながら、国民に対して、責任を持つ政府当局の義務は、最悪の事態を予測し、準備することです。軍は、背後の国民の士気がぐらついては頑張ることができません。」
このフレーズは、「十年先の公約を掲げてどうする?」といった、どこぞの先見性のない言い分とは根本的に違う。この書には、国家が存続する意味とは何か?それは、基本的人権という人間の普遍原理を前提とした価値観と言おうか、そういうものを問い掛けているような気がする。このスイス政府の英断には感服せざるを得ない。彼らの独立精神の根源にウィリアム・テル伝説があるのかは知らん。
ちなみに、イギリスの民間防衛研究所の機関紙は、本書を次のように評したという。
「第三次世界大戦が勃発しても生き残る国民はスイスだけであろうし、彼らはまたそれに値する。」

本書を読めば、ぬるま湯の平和論がくすぶる日本社会では、即刻スイスを見習い中立を宣言しろ!などという意見が聞こえてきそうだ。だが、他国の猿真似をしたところで、歴史的な経験から育まれた国民意識と比べるべくもない。それは政府と国民の信頼関係が前提される。つまり、国家をうまく機能させるために「良心の自由の尊重」という基本精神に則っとられる。
対して、日本政府にどれほどの信頼が置けるのか?拉致問題にしても、数万人規模の被害者が存在すれば、さすがに政府も重い腰を上げるかもしれないが、犠牲者が少数ならば基本的人権すら放棄することを認識させられた。おまけに、政府はその国と国交正常化を求める。民主国家が独裁国家を容認できるはずもなかろう。長期間放置してきた結果が今である。この点では、スイス国民は祖先たちに恵まれたと言えるかもしれない。国際的に中立国として認められてきたのは、過去の戦争において中立を維持してきた覚悟への恩賞と言っていい。
はたして、現在の日本国民がその祖先になり得るのか?スイスを見習うのであれば、国家百年計画のビジョンを打ち出す必要があろう。しかし、日本は、どの戦争においても、優勢な方に与するという発想で生きてきた。第二次大戦ではナチスと組んだ。冷戦構造の中でアメリカに依存してきたのは、歴史の流れからすると仕方がない。お陰で経済的に豊かな国になった。日本には、どこかの陣営に所属していないと不安になる性格が伝統的に強いのかもしれない。それが島国だからか?組織でも個人でもその傾向が強い。国家は歴史を背負いながら生きている。理想論だけですぐに方針転換はできない。
本書は、スイス経済が海外貿易と外国人労働者に依存していることを認めている。食糧自給も外国に依存している。国際的緊張が発生すれば、すぐに労働力不足や食糧不足に陥る可能性をを想定している。その上で、突然、国家的緊張が生じたとしても、国民が動じないような方策を具体的に示している。最も訴えているものは、国家の安全保障は国民意識に左右されるということであろう。自由と独立は断じて与えられるものではなく、絶えず守らなければならない権利だという。このあたりの思考の違いが、日本では真の意味での改革は、自力ではできないなどと揶揄されるのだろう。根源的な哲学的思考を疎かにすれば、どんなに巧みな手段を持ち出したところで、まやかしで終わる。基本的人権に対する認識の甘さでは、反省させられる思いである。

スイスは、ヨーロッパの中央に位置し、大国に挟まれながら民族間の侵入や征服を経験してきた国である。永世中立国として200年近くの伝統があるが、そこに至るまでの苦難は日本人には想像し難いものがある。フランス王国からの圧力、神聖ローマ帝国から独立したとはいえハプスブルク家からの圧力、そして第二次大戦では中立を宣言したばかりに強国に封鎖される経験をした。一部の領空権が奪われ、爆撃の経験もした。しかし、あのヒトラーにしてスイス侵攻を断念させた決意は、スイス国民の誇りとして根付いているようだ。彼らは、具体的な危機に直面してから準備するのでは遅すぎるということを経験的に知っているのだろう。「やむにやまれぬ」と言って戦争に突入した国家とは大違いだ。自由と平和を望む者は、その努力を惜しむな!というわけか。
また、中立であるがために、多くの難民が洪水のように押し寄せる可能性を指摘している。人道的見地から宿泊施設や食糧を提供する義務があるが、中には監視を必要とする怪しい輩も紛れ込むだろう。難民を受け入れるには、治安維持のための警察能力が必要であると説く。人間の尊厳を守るには、美しいことばかり言っても実践できないというわけか。人間の徳が善悪の両方に存在することを、尊重しているとも言えよう。
「もしも国民が、自分の国を守るに値しないという気持ちを持っているならば、国民に対して祖国防衛の決意を要求したところで、とても無理なことは明らかである。国防とはまず精神の問題である。」
自由と人権のためでなければ、戦う理由などないというわけか。対して、日本は幸いなことに民族抗争や亡国の歴史的経験がない。せいぜい戦後に占領された時期が一瞬あるぐらいなもの。その意味で、危機感に大きな違いがあるのも当然と言えば、当然である。その分、地震などの自然災害に対する日本人の意識は、世界的にも高いと評価される。スイスでは、自然災害も国防のレベルにまで押し上げられるようだ。

どんな人間でも、目の前に危機が迫らなければ、意識は高められないだろう。常に倒産の危機を背負っている企業では、従業員たちも革新的な精神が欠けることを恐れる。失業の心配がなければ、無駄な予算を計上するのも仕方があるまい。労働組合は相変わらず高度成長期の幻想に憑かれて、派遣労働者や下請け業者を犠牲にしてまで賃上げ要求をする。大企業は、高額な企業年金に固執しながら現役労働者を犠牲にし、経営不振ともなると国の補助金を当てにする。そして、アル中ハイマーは、酒に溺れながらブツブツとグチる毎日を送る。こうしたことは、平和ボケでもなければ、成り立たない論理であろう。日本は自力で平和を勝ち取ったわけではない。だから余計に、アメリカの軍事力を後ろ盾に幻想の平和論で盛り上がるのかもしれない。平和国家であることを自慢しながら、ますます自己イメージを膨らませる。まだしも、冷戦構造では大国による圧力が暗黙の監視役となっていた。だが、現在ではテロがどこで起こるか分からない。核兵器は拡散し、偶発的に核戦争を招く可能性を拡大した。状況は過去にもまして脅威になったと言えよう。たとえ小規模な組織の紛争であっても、大規模な悲劇を招く可能性がある。脅威は戦争だけではない。むしろ経済的な人為的脅威の方が大きいかもしれない。

1. 永世中立国の民間防衛意識
永久平和が無条件に保障されるならば、なにも軍事的防衛や民間防衛の意識を高める必要はない。スイスでは、民衆が平和を望めば、それで戦争に備える義務から解放されると感じる人はいないという。他国を侵略しないことはもちろん!他国にも侵略させない!という決意が表れる。国際的に永世中立国と認められているからといって盲人であってはならないという。単に戦争を放棄したり、中立を宣言するだけでは、世界から認められるわけではない。スイス国民の祖先は、18世紀から平等と自由を訴え続けてきたという。しかし、最初から平和愛好国であったわけではなく、征服や侵略の経験もある。封建体制に反発し、連邦を構成する個人の相互尊重を与えることに苦悩してきた。こうした経験が世代間で受け継がれ、ようやく理解されて侵略戦争を放棄するに至ったという。まさしく、国家は世代間の伝統と積み重ねによって建設されるというわけか。民間防衛の意識が高まっていれば、あえて敵国を名指する必要もなければ名指しする理由もないという。
また、民主主義の真価は、絶えず必要な改革を促すことであるということが強調される。健全な民主主義を発展させるためには、建設的な反対派による批判や審査が必要だと指摘している。ここには、すべてのシステムは、欠陥と不完全性に見舞われるという前提がある。なるほど、憲法論議にしても、論理的に完璧な条文なんてあり得ないにもかかわらず、検証を怠る国とは違う。民主主義を実践するための現実的な手段である選挙制度にしても、欠陥の見直しもなされず、何十年も亡霊のようにつきまとう。一党独裁が黒幕を暗躍させ、高級官僚と癒着を深め、巨大官僚体制を築いてしまった。そして今、改革してるんだか、更に悪化してるんだか...
こうした硬直化した状況を作り出したのは、国民の責任と言われているようで頭が痛い。民主主義に対する意識は、百年ぐらいの差を感じる。

2. 自由と寛容の精神
ヨーロッパといえば、どこの国でも宗教戦争の余韻が残る。本書は、宗教や信仰に対する寛容さを強調し、キリスト教上の異説も良心の自由の証拠として大目に見ようと語る。そして、カトリック司教と新教の牧師との関係も良好で、反ユダヤ主義も過去のものとなり、いまや宗教上の闘争はなくなったという。自由主義が宗教に無関心にさせることも認めている。現代的な合理的感覚が、信仰心を弱めたのも事実である。宗教に頼らなくても、隣人愛と公民としての義務は実践できるだろう。ただし、他人に対する良心の自由が侵害された時は、寛容さを享受できないとしている。
近代戦ともなれば、軍事行動だけではなく、心理的に揺さぶりをかけてくる。近年の民族紛争では、世界世論を味方に付けようとする巧みなメディア戦争の色が濃い。どこの国にも売国行為はあるもので、それにジャーナリストや識者たち自身が気づかないことも多い。情報社会では、マスコミの扇動に負けずに自分で考えることの難しさがある。本書は、自ら守る決意を持っていれば、扇動に惑わされることはないと呼びかける。

3. 最悪の事態
危機に備えて、家庭における生活用品や食糧の貯蔵のやり方など、細々と記される。地域防災システムでは、自警団、国防軍の地域防衛隊、避難所の建設といった防災組織が徹底される。第二次大戦では一時的に避難所へ退避すればよかったが、核被害ともなれば長期間避難所で暮らさなければならない。その心得や物資の確保、あるいは防災組織としての地方自治体の役割などが解説される。スイスには、充分に整備された監視警報組織があるという。人口が少ないことも、目が届きやすい利点だ。
本書には、たとえ核攻撃であっても自国で身が守れる!という自信の裏付けのようなものを感じる。原爆に対しては、熱線、火傷、火災、圧力波、放射線などの対処方法までも細々と記される。その救助姿勢には、応急手当が生死を決めることが徹底される。生物兵器や化学兵器への対処、あるいは防災活動の方法などが、すべての避難所建設と同期している。
ただ、そこまで疑い深くなるのはいかがなものかと思わせる箇所もある。スイスが戦場となり、落下傘部隊が随所に降下してくれば、裏切り者が出る可能性まで言及している。
また、国土が占領下に置かれたことまで想定している。レジスタンスの意義まで唱えているところは、少々行き過ぎを感じないわけではない。大戦の中を中立国として生き残ってきた経験がそうさせているのだろう。

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