2010-07-04

"タイムマシン" Herbert George Wells 著

「タイムマシン」という言葉が登場したのは、H.G.ウェルズの小説が最初だと言われるそうな。ちなみに、映画と原作はだいぶイメージが違うように思える。映像には明確なメッセージを与える力があるが、文章には読者の感性で勝手に想像を膨らませる力がある。それがいい...
本書はH.G.ウェルズの短編集で、「タイムマシン」、「盗まれた細菌」、「深海潜航」、「新神経促進剤」、「みにくい原始人」、「奇跡を起こせた男」、「くぐり戸」が収録される。H.G.ウェルズといえば、多くの科学者が絶賛するSF小説家で、数学と文学の境界線を曖昧にした作家とでも言おうか、そんな印象がある。「タイムマシン」は科学的な観点からの印象通りの作品であるが、他の作品では知識の広さや感情の豊かさを見せつけやがる。特に「くぐり戸」は、独特な人生観を披露する。ウェルズは、ロンドンの科学師範学校で、物理、化学、生物学、地質学を学び、恩師には進化論者トマス・ヘンリー・ハクスリーがいたという。ハクスリーが学校を去ると、政治や文芸にも興味を持ったそうな。なるほど、それぞれの作品に進化論的味わいがちりばめられる。この作品群で、小説家の見事な多重人格性に魅せられてしまう。

数学は、あらゆる次元を平等に扱う。ただ、実際に幅のない線なんて存在しない。厚みのない平面なんて存在しない。おそらく、縦、横、高さだけで定義できる立方体なんて存在しないだろう。これらは、数学上の抽象概念に過ぎない。数学者は、時間を一つの次元に過ぎないことを心得ている。しかし、人間の認識は時間という次元を特別扱いする。実存を定義しようとすると、どうしても時間の概念を必要とする。人間は、三次元空間の中で、左右を自在に移動することができ、上下を重力に反発しながらもエレベータや航空機といった道具を使って移動できる。だが、時間を前後に移動することはできない。生から死へ流れる一方通行に、一定の間隔を刻むことぐらいしかできない。時間は、次元の中でも異質なのだ。人間は、「三次元 + 時間」という空間認識の中で生きている。おそらく、あらゆる次元を認識できる生命体は、「認識できる次元 + 時間」という概念からは逃れられないのだろう。
しかし、だ!実は、時間を自在に行き来している可能性はないのだろうか?時間の経過に対して、脳の記憶素子も状態遷移するはず。未来に進めば過去の記憶も残るだろうが、過去に戻れば現在までの記憶はすべて失われるだろう。だとすれば、移動していることすら認識できないだけではないのか?時間が戻ることによって消去されるはずの記憶の欠片が、わずかに残ることはあるかもしれない。磁気記憶装置のデータを消去したところで、わずかに磁界の痕跡が残るように。これが予感というやつの正体か?霊感というやつの正体か?実存の観念からすれば、物体の寿命よりも未来に進むことはできないだろう。となれば、物体が存在した時間の区間内であれば、移動できてもよさそうな気がする。人間は、物体の存在を時間の流れの中で、物体の移動や変化の状態を観察しながら認識する。となれば、時間を自在に移動することを認識するということは、時間を遠目から眺めることになり、認識自体の自己矛盾に陥ってしまうのかもしれない。自我の実存にいまいち自信が持てないのも、夢と現実の境界がいまいちはっきりしないのも、時間の流れを遠目から眺める視点が持てないだけのことかもしれない。
そして、アル中ハイマーは一つの帰結に至る。時間を自在に移動できても認識できないのであれば、タイムマシンを作っても意味がないではないかと...白けること言ってごめんなさい!ウェルズさん。

「タイムマシン」
タイムマシンを発明したタイム・トラベラーは80万年後の世界を旅する。そこで見た未来人は、地上に住む知力や体力の退化したエロイ族と、光に怯えながら地下に住むモーロック族の二つの種族であった。エロイ族は、ただ美しいだけで役に立たない存在になりさがり、辛うじて地上を独占する。モーロック族は、地下に住み慣れて、日光に絶えられない体質になっている。この二種族には、資本者階級と労働者階級の社会的差異の成れの果てが暗喩されているように映る。富裕層は排他的傾向が強く、教養を高め、貧困層との差別化を図る。利益のために土地を所有しながら独占欲を強める。まさしく経済人と言おうか。そして、この階層だけで分け合う平等を享受する。その一方で、労働者は、劣悪な環境に慣れながらますます地下へ潜り、それなりに幸せに生きる。賃貸料が払えなければ、地上に生きる権利も与えられないわけだ。そこには、地上には持てる者のみが住み、地下には持たざる者が追いやられるという構図がある。エロイ族は、所有独占の果てに安穏で快適な生活が保障されると、生存競争の中で培われる動物的本能が退化する。モーロック族は、地下の劣悪な環境で食糧不足に喘ぎ、人間が人間を食すというあってはならない人類の概念が失われる。そう、モーロック族は、エロイ族を捕食する体質へと変貌したのだ。地上で安穏と暮らしていた人々は、かつて地上から追い出した人々によって脅かされる。遠い未来には、人類の精神が自殺してしまった時代があったというわけか。
習慣と本能が役に立たなくなった時、はじめて動物は知能を動員する。変化も変化の必要もなければ知能は生まれない。また、人間は飢餓に追い込まれれば、理性的本能も簡単に放棄することができる。家族愛や子孫愛は、あらゆる外敵から身を守るためにすべて正当化されよう。生存競争の原理では、活動的で賢い者が生き残るようにできている。だから、社会を均衡させるためには、有能な人間が自己を抑制し、弱者に協力するようなことが必要となる。だが、弱者が強者にいつも保護されることが当たり前になってくると、強者の優位性は失われていき、ついに弱者と強者の立場は逆転する。人類は、一度は生活も財産も完全に保障される社会を構築することができるかもしれない。失業問題や社会問題もほとんど解決され、平穏な社会がもたらされるような。人口が均衡した豊かな社会では、子供を多く生むことは国家への功績どころか罪悪にもなろう。嫉妬や憎しみといった不愉快さをすべて放棄した洗練された精神の行き着く果てとは何か?社会の完全なる調和とは、すべての欲求を放棄することなのか?精神と肉体の均衡がとれれば、勇気や闘争心はかえって邪魔なものになるのかもしれない。芸術的衝動でさえ消滅してしまう。そして、成熟しきった挙句に、下等生物よりもはるかに劣った社会になり下がるのかもしれない。偉大な生物界において、一匹の微生物よりも貢献できる人間など一人もいないというわけか。

「盗まれた細菌」
細菌学者は、ちっぽけなコレラの病原菌で大都市を絶滅させることができるなどと大言壮語する。その話を聞いた男は、世間からつまらないと蔑まれた孤独な人間がどんなものかを思い知らせてやるために、細菌を盗んで自ら飲んでしまう。細菌が社会にばらまかれるのを楽しみにしながら。彼は無政府主義者だったのだ。しかし、細菌学者は、そんなことは知らずに、新種のバクテリアの培養したものを、冗談でコレラ菌と言ってからかっただけだった。そして、実は皮膚病の菌に過ぎないと笑った。

「深海潜航」
ほんまに潜航できるのか懐疑的な海軍中尉と、公平そうな口調で話す部下の二人が、潜水艇をめぐって論議している。まるで飲み屋の座談会のように。そして、泡を立てて潜航する様子を海上から眺めている。時間が経ってもなかなか浮上してこない。悪い想像をしていると、ようやく浮上してきた。搭乗員は大怪我をしていた。彼は奇妙な体験をしたらしく、再び潜りたいと言う。海底に新世界を見つけたというのだ。その体験談では、ガラス窓から擬似人類とも言うべき深海生物が見えたという。奇怪な住人どもが潜水艇の鉄壁を強くたたき、更に、群集によって深海へと引き摺りこまれる。ぼやけた建物が並んでいるように見えるのは、難破した船であろうか?窓越しに奇怪な幽霊の大群。ようやく潜航が止まると、連中は艦艇の前にひれ伏し、祭壇であるかのように跪いた。これが海底都市の姿だという。海底人たちは、地上の人間どもが大気中の奇怪な生物で、海上の神秘的な暗黒から降りて来て、やがて不慮の死を遂げると思っているのか?海底人にしてみれば、難破した船も潜水艇も、海上から降ってきた暗黒のかたまりに見えるだろう。それは、人間が、宇宙から流星のように落ちてくる火のかたまりを眺めるのと同じ感覚なのかもしれない。まるで宇宙人が到来したかのように。彼は海底都市に憑かれて、再び改良した潜水艇で潜航する。だが、二度と戻っては来なかった。海底都市の実証は、もう企てられることもなかろう。

「新神経促進剤」
無気力な人々を、進歩的な時代のテンポに合わせることができる総合神経興奮剤を発明した教授がいた。催眠剤や鎮静剤や麻酔剤の類いは、精神を麻痺させて中枢エネルギーを増強するか、神経の伝導力を低下させて適宜なエネルギーを増強するかでしかない。だが、教授が作り出したいのは、まさしく副作用もない全身くまなく効く純粋な興奮剤だという。その効き目は何百倍か何千倍か想像もつかない。そこで、教授と聞き手の二人で薬を試すことにした。薬を飲んだ二人が外出すると、落下する物体が止まっているように見え、自転車を忙しそうにこいでいる人が静止しているように見え、男女が向かい合って微笑んでいるのも永遠であるかのように見える。二人は、通常の千倍の時間感覚で物事を感じ取ることができるのだった。二人が普通の感覚で動くと、実際にはあまりにも速いために、空気との摩擦で周囲が燃えてしまう。そこで、ゆっくり行動するように心掛ける。やがて、薬の効き目がなくなった。今度は、テンポの速い社会でストレスを感じないような緩和剤を考える。
新促進剤を使えば仕事は速く片付くだろう。だが、その分仕事が増えるだけのことで精神の満足度は変わらない。また、緩和剤を使ったところで、時間を引き延ばすだけのことで、ストレスが解消されるわけではない。所詮、精神を促進しようが緩和しようが、時間感覚そのものは変わらないではないか。時計が速く回ったり、遅く回ったりするだけのことで、なにも人生が豊かになるわけでもなんでもない。人間は相対的な認識しか持てないのだから。にもかかわらず、懸命に薬の開発に取り組む滑稽な姿がある。

「みにくい原始人」
古い骨を発見したところで、素人から見れば単なる骨だ。だが、考古学者は、博物館に標本を飾って奇妙な名前を付ける。火や石器を使いマンモスに追いまわされた動物を、原始人やホモ・サピエンスなどと呼ぶ。原始人は人間に酷似している過去の動物というだけで人類の祖先ではない。ネアンデルタール人は、人間とは歯の並びも違えば、顔面が大きく額が小さい。脳の大きさは現代人と同じくらいだが、後脳が大きく前脳が小さく構成がまるで違う。となれば、思考方法も違うだろう。記憶力が強く、推理力が弱く、感情が強く、知性が低かったことが推察できる。類人獣の研究が進めば、血のつながりも認められず、人間とは似つかない動物に見えてくる。真の人間種は、南からヨーロッパに入ってきたとされる。そして、ヨーロッパで、真の人間種とネアンデルタールが出会って、互いに争ったのかもしれない。ライオンや熊と戦うように。
人間種とネアンデルタール人の違いは、集団社会を形成したかどうかの違いであろうか。集団化が生存競争の鍵になるのかもしれない。社会形成では女性の存在が大きい。多種族から嫁をもらい、兄弟の殺し合いを仲裁するという調停役にもなる。近親相姦というタブーは本能的に育まれたのだろうか?現代では、遺伝子的に悪影響を与えることが説明できるが、まさか原始時代にそんな知識はないだろう。人間には、集団社会を形成し、掟や自制心を持つ複雑な精神構造がある。奇妙なタブーという制約も慣習から形成される。迷信の役割は、悪事に対する罰として恐れさせる。そこに無条件に成立する秩序がなければ、集団社会は維持できない。非力な人類が生存競争で生き残ってこれたのも、この無条件に従う秩序によるものであろうか。自然界では、集団生活の苦手な種族ほど、生存競争に負けるようにできているのかもしれない。現代でも、集団から外れた感覚の持ち主は社会の害として差別されるのは、生存競争の名残りであろうか?
本作品は、原始人と人類の祖先が戦う様子を空想的に描く...なんとなく文明批判が隠されているような...

「奇跡を起こせた男」
とても奇跡の起こせるようには見えない男がいた。むしろ懐疑主義者で奇跡なんて信じない。ひどく議論好きの雄弁家。その男が酒場で奇跡について議論する。そして、奇跡を定義した。
「自然の成り行きに反するでき事で意志の力によって成し遂げられるものだよ。特別な意志の働きなしには起こり得ないものだよ」と...
ところが、「ランプにさか立ちになって、燃えつづけろ!」と男が命令すると、その通りに奇跡が起きた。集中力をきらすとランプが落下して壊れた。すると、店主が怒って店から追い出された。男は、自分の能力が信じられなくて自宅でいろいろと実験をすると、なんでも実現できることに驚く。そして、自分の意志力は、よほど珍しく強力なものに違いないと結論付ける。だが、この能力を使うにしても、用心深く人目を警戒しなければならない。男は奇跡を信じない人間としても知られていたので、「奇跡なんだ!」という言い訳も通用しないから。
そこで、牧師に相談する。牧師の目の前で、なんでも物が変えられることを見せる。これは奇跡か?魔術か?人を地獄へ送ろうと想像すれば、実現できてしまうのだ。牧師は奇跡を起こす男をおだてて教会堂で奇跡を行わせる。二人は奇跡の能力に自信を持って、空想と野望をみるみるうちに膨らます。議事堂地区の酔っ払いどもを片っぱしから正気に戻させ、鉄道交通を改善し、土地を耕し、教区牧師のこぶを取り除いたりと、あらゆる善行に酔いしれる。牧師は、月を指差してヨシュアと呟く。ちなみに、旧約ヨシュア記に、太陽と月に静止せよ!と命令する話があるらしい。男は、月を見上げて少し高過ぎると反論する。牧師は、ならば地球の自転を止めればいいとそそのかす。地球に自転を止めよ!と命令すると、男は猛烈なスピードで空中に飛び出した。服は摩擦熱で焦げ始めた。次に、安全無事に地上におろせ!と命令する。無事に地上へ着いたはいいが、辺りは猛烈な風が天地を吹き荒れる。暴風と雷が鳴り響き、穏やかな月夜はなくなり、町そのものがなくなってしまった。すべての生物や建物はぶつかりあってこなごなになってしまった。気象変動を起こせなどとは命令してないのに。男は、命令の何かが間違っていることは分かるが、それが何かが分からない。やがて、奇跡を起こせる能力自体が災いだったことに気づく。ついに、奇跡よ去れ!すべてを元に戻せ!と命令する。そして、目を開けると、記憶も精神もすべて元に戻り、酒場で奇跡について屁理屈を並べる自分の姿があったとさ。
結局、奇跡が起こせる、あるいはすべての欲望が満たせる能力とは、災いしかもたらさないというオチか。あらゆる物事や事象は、因果関係から成り立っている。くだらない勝手な欲望から奇跡を起こしても、世界の均衡が崩壊するだけというわけか。
また、人間は、欲求が満たされずに、夢を描き続けている瞬間が最も幸せでいられる。天才は、あらゆることに気づく能力があるので、余計な悩みを背負い込むのだろう。となれば、凡人の方がはるかに幸せであろう。そして、酔っ払いは凡庸な幸せを謳歌するのであった。

「くぐり戸」
ある男にくぐり戸が生活に入ってきたのは、幼児の頃からだという。緑のくぐり戸には、白い塀がついていて、真っ赤なツタが紅葉していて美しい。その男は、早熟な少年で素晴らしい頭脳を持ちながら自分の生活を味気ないものだと思っていたようだ。彼は、子供の頃から、そのくぐり戸を開けて入りたいという衝動があったが、その行為をずっと保留してきた。自由に入ることができることは分かっているのに、なぜ?くぐり戸に入ると、勉強に集中できず、父親から叱られるということらしい。くぐり戸にはなんとなく魔法の楽園のような雰囲気が漂う。彼は夢想する癖があったという。
ある日、そのくぐり戸の前で、幼い頃の楽団や楽しい仲間たちとの思い出に耽る。そこへ、本を持った女性が現れた。なんとその本には、男の生きてきた物語が綴られていた。忘れかけていた記憶も蘇る。読みすすめていくと、くぐり戸の前で、ためらいながらたたずむ自分の姿にぶつかる。次のページをめくると、楽しい思い出は何も記載されていなかった。思い出はすべて夢想だったのか?子供の頃、秘密にしていたくぐり戸の話を友人たちに打ち明けたことがあった。すると、友人たちを案内する羽目になる。だが、どうしても、くぐり戸が見つからず、友人たちにからかわれる。それでも、憂鬱を感じながら、ずっと魔法の楽園の夢を見続けている。
男は、勉強に集中して出世のために努力し、たくさんの苦しい仕事をしながら、高名な政治家となった。あれから何度かくぐり戸にぶつかったが、またもや衝動に従わなかった。やがて、男の死が新聞で報じられた。死体は駅近くの深い穴で見つかった。公衆が立ち入るのを防止するために柵で囲まれていたが、木戸口には鍵がかかっていない。男は、その木戸口を入って穴に落ちて死んだのだ。危険な木戸口が、くぐり戸に見えたのだろうか?緑のくぐり戸は、幻だったのか?幻覚が、醜い世の中からの脱出口を提供したのか?これは事故なのか自殺なのか?

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