ポール・ヴァレリーといえば、小説家というより評論作家という印象がある。いつも知性溢れる評論振りに魅了され、おかげでポーの「ユリイカ」やパスカルの「パンセ」にも出会うことができた。彼が評論した作品にはすべて触れてみたい!と願っているのだが、なかなか...
さて、「ムッシュー・テスト」は、ヴァレリーの残したただ一冊の小説集だそうな。ごく短い数篇の小説と断章群とから成り、その一つ「ムッシュー・テストと劇場で」は、小林秀雄訳以来(昭和7年)ずっと「テスト氏との一夜」という訳題がつけられてきたという。ムッシュー(Monsieur)という語はよく敬称に用いられるが、翻訳者清水徹氏によると、この小説では少し違うニュアンスを与えていて、わずかな軽蔑と皮肉、あるいは喜劇的な意味が込められているのだとか。また、テスト(teste)は、tête の古い綴りで、「頭、おつむ」といった意味がある。したがって、「ご立派なオッサン」といった感じであろうか。なるほど、評論作家としての優雅な皮肉振りが顕れている。下手な訳題が小説のイメージを壊すことがある。微妙なニュアンスは読者の感性に委ねた方がいい...
「わたしは文学を疑っていた、詩というずいぶん精密な営みに対してまでそうだった。書くという行為は、つねに、ある種の知性の犠牲を要求する。たとえばだれもが知るように、文学書を読むための諸条件は言語への過度の精密さとは相容れない。知性はえてして日常言語に不可能な完璧と純粋を求めたがる。しかし、精神を緊張させなければ快楽をえられない読者などめったにいるものではない。わたしたちは何やら面白がらせなければ読者の注意を惹きつけられないし、こうした種類の注意は受け身なものだ。」
ヴァレリーは、いきなり物書きとしての虚しさを語り始める。そして、テストという人物像は、彼自身の意志に酔っていた時代に、奇怪な自意識過剰の渦中から生み出されたと語る。学問の威信や魅力の大部分は、若干の約束事から借りてきたもので、青春とは、その約束事がよく分からぬ時期であり、また、よく分かってはならぬ時期であるという。人生には、盲目的に従ったり、逆らったりする時期も必要なのだろう。青春期には自由を奪われ息苦しく感じるもので、いまだ盲目的に逆らう酔っ払いは青春真っ盛りよ。
真理を言葉に求めれば、信念や偶像に対する軽蔑から生じる人間の悪魔性を恨み、やがて自己嫌悪に陥る。人格の可塑性は、情緒の激しい若年期に、社会への反抗という形で深く根付いていく。物書きの資質は、こうした精神活動から育まれるのであろう。ムッシュー・テストとは、ヴァレリーの分身であったか...
「存在する一切をただ自分だけに変形し、自分のまえに何が差し出されようと、それを手術してしまう、そんな精神の持ち主と見える存在に対して。わたしは想いをうかべるのだった。」
これは、哲学する自分自身を外から眺めているような人物の物語。哲学を疑う立場からの哲学論議とでもしておこうか。哲学する自分を観察しながら哲学をやり続けると、やがて思想、信条といったものに興味を失っていくのだろうか。客観性を身に付けるとは、そういうことであろうか...
人間は他人との比較、批判によって、自己の鏡像を見出そうとする。自分には自分の姿が見えないのだから。では、鏡像のない人間、あるいは、鏡像を必要としない人間とは、どういう存在であろうか?重量をまとった霊感のごときものか?まさか、それが悪魔ってやつではあるまいな!なぁーに、心配はいらない。人間の精神空間には、神の棲家も用意されている。なんじの悪魔を隠せ!と言うなら、なんじの神を隠せ!とでも言ってやれ!ただし、家を用意したところで、誰が住み着くかは知らん...
ところで、哲学には「形而上学」という大層な代物がある。形而の上と書いて、形のない、時間や空間までも超越した、超自然的な、理念的な... といったメタ的思考が。対して、形あるもの、時間や空間を含めた物理量で計測できるもの、実形態... といったものを「形而下」と呼ぶ。要するに、人間の普遍性や理性といった精神上でしか説明できないものを高度な学問に位置づけて、他を見下ろすわけだ。
しかしながら、精神が形而の上にあると、どうして言えよう?哲学が自問の原理に支えられる以上、哲学を愛する者は哲学にも疑いを持つことになる。対象は自分自身にも向けられ、自己存在にも疑いを持たずにはいられない。自己否定に陥ってもなお精神が平穏でいられるならば、真理の力は偉大となろう。矛盾の原理こそが究極の暇つぶしとさせ、官能の喜びとさせるであろう。それだけに際どい学問となり、扱いは危険となる。ときには、人間の掟に背き、自我が構築してきた原則を破り、あるいは、自己の人間性や人格までも否定し、自己愛の虚しさを知り、ついに精神を無に帰する。下手すると肉体までも連動させ、取り返しがつかない。メタ的思考も、もうメタメタよ!
精神が偶像となれば、肉体もまた偶像となる。思考の死が肉体の死を招くのかは知らん。精神の持ち主は、常に肉体が自我に弄ばれる宿命を背負う。ここに思考実験の恐ろしさがある。抽象化の原理が自己と他の区別までも呑み込み、自己に対してですら残虐行為に及ぶことがある。そうなると、形而より下等な存在となろう。哲学には、自発的で能動的な精神活動が要求される。真理の道は険しい。それを承知できぬ者は、哲学に近づかぬ方がよい。幸福になりたいだけなら、むしろ宗教の方がうってつけだ。信じるだけで導いてくれるのだから。
そこで、哲学する時は、自我の原子構造をいつでも分解できる準備を整えておきたい。魂は、常になんらかの泥酔状態にあり、自我への陶酔を中性に保てなければ、たちまち危険となる。したがって、哲学するに、アルコール成分は絶対に欠かせない。強烈なアルコール濃度ほど矛盾の緊張をほぐしてくれるものはあるまい。自己に幻滅しても、愉快な独り言が止まらなければ、それでいいではないか。まろやかな香りが孤独を演出すると、そこには、琥珀色に染まったグラスに話しかける自我がいる。ちなみに、ヴァレリーにはフィーヌ・ブルゴーニュがよく合う...
1. 人生の終止符
精神の勝利の瞬間をいくつか数え上げようとすると、くだらない記憶ばかりが蘇る。いくつか読んできた本の内容ですら思い出せない。だから、こんなブログを書いているのかもしれん。思考の履歴を刻むために。良いことばかりが記憶に留まるわけではない。嫌なことを意識して忘れようとしたわけでもない。ただ残ることのできたものが、残っている。そのおかげで、歳をとることにも驚かずに済む。やがて、記憶の蓄積が知性へ昇華させ、死の恐怖を和らげてくれるのだろうか?その恐怖を自然に受け入れられる心境となった時、精神が勝利する瞬間となるのだろうか?それをじっと待ちながら、日々の作業に明け暮れ、自己の年代記を刻み続ける。
しかしながら、どんなに言葉を駆使しても、精神を言い当てるような的確な言葉は見つからない。必死に夢想したところで、自己の理想像を思い浮かべることもできない。思考を重ねれば、自己愛も、自己嫌悪も、その双方で旺盛となる。いつの日か、どちらの自分も受け入れられる時が来るというのか?それが、自分に終止符を打つということなのか?あるいは、単なる諦めの境地であろうか?
「透明な生活を営んでまったくひとめにつかず、孤独に生きて、世のだれよりも先がけて理(ことわり)を知っているひとたちだ。無名に生きながら、彼らはいかなる著名な人物をも二倍に、三倍に、数倍にも偉大にした人物だとわたしに思えた、... 幸運をつかもうと、独自の成果を挙げようと、それを世に示すことなど軽蔑している彼ら。思うに、自分は、そこらへんにあるものとはちがう、などと考えるのは拒んだことだろう...」
思考や行為を完全に自己管理できれば、完全な自由人となれるだろうか?いや、管理できない部分があるから人生は面白い。それを放棄するとは、なんともったいない!気まぐれほど偉大な精神活動はない。そのおかげで、知らない自分を発見することができる。そして、死期もまた突如としてやってくるのだろう。死期までも想定できたら、人生はますますつまらぬものとなりそうだ。生を律する倫理学があるなら、死を基軸に据える哲学があってもいい。精神の危機に対抗するために、死の意義を考え、そこに生の意義を求める。無を基軸とした人生観とでもしておこうか。
しかし、これは賭けだ。人間の能力では到底答えられそうにないのだから。それでもなお賭けに挑むのが、ヴァレリー流倫理学というものであろうか...
「ことはつまり、ゼロからゼロへの移行だ。そして、それが人生なのだ。無意識にして無感覚から、無意識にして無感覚へ。見ることの不可解な移行、なぜならその移行とは、見ないことから見ることへと移ったそのあとで、見ることから見ないことへと移ることなのだから。」
2. 死すべき人間
ヘシオドスの言った「死すべき人間」ってやつは、あらゆる場面で自己愛を見出す能力を持っている。時には自分を偉いと思い、時には自分を愛し、時には厭わしく思い、時には支離滅裂となり... そうしたことが、いかに自己を抹殺していることか。それにも気づかず、権威や名声や地位の殉教者と成り果てる。希望という幻想に魅入られると、絶望という名の希望に憑かれ、ついには人生に疲れる。自我ってやつは精神空間を、下等動物に位置づけるゼロ点と神を位置づける無限大点との間を、恐ろしく敏速に往来してやがる。自己の正体を知らないということが、無と無限の間を瞬時に移動させるのか?まるで株式の変動相場のように。慈しみと憎しみの間を瞬時に往来すれば、いつも両極に吸い寄せられて偏見となる。知性が... 理性が... いったい何を補完してくれるというのか?思想なるもの、信条なるものが馬鹿馬鹿しく見えてくる。これが死すべき人間の本性というなら、そうかもしれん...
「崇高なるものが連中を単純化している。断言してもいい、連中の考えるところは、そろって、しだいに同じことがらのほうへと向かってゆくんだ。やがては危機だか共通の限界だかをまえに、ずらりと等しなみに並ぶことになるのさ。もっともこの場合、法則はそんなに単純じゃないぞ... このわたしにはおかまいなしなんだから、...で ... わたしは現にここにいる。」
3. 意識の産物
「愛すること、憎むことは存在の下位にある。愛すること、憎むこと... それはわたしには偶然のように見える。」
俗人の愛といえば、家族愛、友人愛、隣人愛、恋愛といったものであろう。こうした愛は感受性に囚われる。しかも、憎しみの根源となるのだ。罵り合えば、双方に悪魔を目覚めさせ、空想の中に愛の理想像を描き続ける。憎しみの理想像までも。だから、すぐに現実逃避に走るのか。こんな都合のいい能力は、神ですら及ぶまい。なんでも実現できる神が、空想に縋るはずもない。いや、全能者なら空想をこしらえる能力もあるか。現実世界に、人間なんて不完全なものをこしらえるぐらいだ。まさか!神までもが、現実と空想の区別がつかない?ってことはないだろうなぁ...
すべてが意識の産物だとすれば、現実だろうが、空想だろうが、どっちでもええでねぇかい!ただ、空想だからやり直しができる、なんて特別扱いするから、自我を悲惨へ導く。宇宙にしても記述でしか示せず、紙の上にしか存在しないではないか。無限なんて大した問題じゃなければ、無なんて恐れるに足らん。神(かみ)と紙(かみ)が、同じ音律なのは、偶然ではないのかもしれん。そして、安心して自己を疑い、自己存在を否定することもできるという寸法よ。尚、亭主はかみさんに頭が上がらないものらしい。
道理に幻滅し、成功の確実性に嫌気がさしたら、冒険をしてみることだ。自分の中の所有者をくまなく探してみることだ。完全なんて糞食らえ!人生もまた、意識の産物でしかないのかもしれないのだから...
「わたしは馬鹿者ではない、なぜならば、自分のことを馬鹿者だと思うたびに、わたしは自分を否定しているからだ。自分を殺しているからだ。」
2014-02-16
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